敗戦75年、京都新聞の2020年8月8日に掲載されたこの記事は、戦中、京都師範学校の学生の経験で、名古屋、舞鶴での勤労動員のことを語っている。この記事の方は、おそらく、京都府立与謝の海養護学校づくりを担った青木嗣夫さんと同級の方と思われる。戦争孤児の歴史についてふれた論考を書くに当たって、事前に準備した文章は以下の通り。紙幅の関係で、本にはこのエッセンスだけが記載されているが、草稿の段階のものを揚げておきたい(なお、論考は本庄・平井編『戦争孤児たちの戦後史 西日本編』吉川弘文館に掲載される。8月には刊行されるはず)。
杉本源一より2年下、1928年、与謝生まれの青木嗣夫は、京都師範学校予科に在学中、勤労動員で名古屋の住友の工場で兵器の製造にあたっていた。その間、幾多の空襲や艦載機による機銃掃射、そして大地震の中で生死の境をさまよい、京都に引き上げた。
本科1年の1945年7月には、舞鶴海軍工廠に再動員され、そこで人間魚雷の製造に従事させられた。敗戦直前の7月29日、作業開始まもなくB29の空襲にあった。同郷同級の友が直撃を受ける。荼毘にふしたのは青木ら京都師範の級友たちだった。
敗戦となり、友の白布に包まれた遺骨を胸にした青木は、引き上げる西舞鶴の駅で、空襲で失った友への悲しみとともに、遺骨が「英霊」として遇されないことへの「激しい怒り」を感じていた。青木は、爆死した友の墓で、「君の分まで働く」と誓っていた。
青木もまた、京都師範学校へ復学し、先の「浮浪児援護同志会」(1947年に「京都師範児童援護研究会」と改称)へ参加した。施設を回っての支援や募金活動、あるいは少年保護学生連盟に参加する立命や同志社の学生と一緒に保護活動を行っていった。その時の経験を、青木は次のように述べている 。
「時には、比叡山へ鑑別所に入っている子どもたちを遠足に連れていくこともありました。鑑別所とは非常に厳しい交渉をしながら学生が責任をもって比叡山へ連れていく。…それぞれが何人かずつ責任をもって担当するわけです。担当するわけですがいつどこで、とんで逃げるかわからんという状況なんですね。そういう子どもに対して、「逃げたかったら逃げえや」というふうな、勝手にせえという意味ではなく、どうしても逃げたいなら構わんという対応をした班は一人も逃げなかったわけです。ところが逃げてしまったら困るということで、きちっとしとる班からは逃げてしまう。例えば水汲みにいって、帰りにはそれをほったらかして大津まで駆け下りていって、そして東山トンネルの中で恐喝をして、大阪で捕まるという、そういう時間的にも速いスピードで子どもたちは動いていました。…管理をすると、自分の手から漏れていく。だけど子どもたちを信頼しながら「君たちは、そういうことをするとは思っとらんけど、出たいんなら出てもいい」という対応をすると、そういうことはないということも、この活動で学んだことの一つでもありました。」(青木嗣夫「証言・子どもと共に生きて」1989年7月8日、「青木先生の退職と全快を祝う会」での講演)