ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

旧優生保護法最高裁勝利判決 報告会・学習会

2024年10月21日 12時04分26秒 | その他

京都・八幡作業所を運営する鳩ヶ峰福祉会・後援会の主催で優生保護法裁判の学習会が開催される。実は、台風で延期されていたもの。この台風、迷走台風で、予報は直撃のはずが、ウロウロ他のところにいってしまい、結局、その日は曇りでもし開催しても支障なくできた状況。実は、そのとき、この学習会に参加しようと思って、八幡の松花堂庭園・美術館にいったのだが、台風で延期の張り紙があり、シーンとしていたのだった。後援会の係の方が出てきて、必ずやりますからとのこと。

2024年11月3日 14:00~16:30 松花堂庭園・美術館(講習室)

ゲストスピーカー

兵庫訴訟原告 鈴木由美氏

兵庫弁護団弁護士 細田梨恵氏

この際、優生保護法の歴史を本格的に学んでみたい。優生保護法の成立に際して、大きな役割を果たした太田典礼、産婦人科医で、戦前は京大近くの無産診療所に関わり、戦前産児制限運動に関与。太田リングの開発者でもある。戦後は優生保護法の提案者となり、その後は、安楽死協会などへ向かっていった。


美しい春画ー北斎・歌麿、交歓の競艶(細見美術館)

2024年10月15日 10時50分50秒 | その他

13日(日曜日)に細見美術館の「美しい春画」展にいってきた。ロームシアター京都の西にある。平安神宮あたりは混雑、車は平安神宮当たりまでは入れないようになっていた。その手前に、細見美術館はある。

「春画と日本人」の映画をみて、チラシをみると、前期と後期にわかれている。前期に滑り込んだが、係の方に聞いてみると、前期の展示の3分の1くらいが後期にかわるということだった。版画・版本以外に、肉筆春画もあり、葛飾北斎、喜多川歌麿の作品も展示されている。ユーモアがあり、「笑い絵」ともよばれ、江戸時代には大名から庶民まで、男女対等に楽しまれたといわれている。江戸時代は、性に関しておおらかな時代だった。講演会もあったようだが、見逃していた。展示は、上方春画の世界、北斎・歌麿の競艶、魅惑の浮世絵春画で構成されている。同じものでも、絵巻物など展示期間によって絵巻のちがったところが展示されるようだ。後期も、行こうと思う。そのときまで、展示されものが掲載されている本はお楽しみにしておこうと思う。


戦中の京都師範学校で青木嗣夫先生とともにしたであろう学徒動員の記録

2020年08月09日 00時09分05秒 | その他


 敗戦75年、京都新聞の2020年8月8日に掲載されたこの記事は、戦中、京都師範学校の学生の経験で、名古屋、舞鶴での勤労動員のことを語っている。この記事の方は、おそらく、京都府立与謝の海養護学校づくりを担った青木嗣夫さんと同級の方と思われる。戦争孤児の歴史についてふれた論考を書くに当たって、事前に準備した文章は以下の通り。紙幅の関係で、本にはこのエッセンスだけが記載されているが、草稿の段階のものを揚げておきたい(なお、論考は本庄・平井編『戦争孤児たちの戦後史 西日本編』吉川弘文館に掲載される。8月には刊行されるはず)。

 杉本源一より2年下、1928年、与謝生まれの青木嗣夫は、京都師範学校予科に在学中、勤労動員で名古屋の住友の工場で兵器の製造にあたっていた。その間、幾多の空襲や艦載機による機銃掃射、そして大地震の中で生死の境をさまよい、京都に引き上げた。
 本科1年の1945年7月には、舞鶴海軍工廠に再動員され、そこで人間魚雷の製造に従事させられた。敗戦直前の7月29日、作業開始まもなくB29の空襲にあった。同郷同級の友が直撃を受ける。荼毘にふしたのは青木ら京都師範の級友たちだった。
 敗戦となり、友の白布に包まれた遺骨を胸にした青木は、引き上げる西舞鶴の駅で、空襲で失った友への悲しみとともに、遺骨が「英霊」として遇されないことへの「激しい怒り」を感じていた。青木は、爆死した友の墓で、「君の分まで働く」と誓っていた。
 青木もまた、京都師範学校へ復学し、先の「浮浪児援護同志会」(1947年に「京都師範児童援護研究会」と改称)へ参加した。施設を回っての支援や募金活動、あるいは少年保護学生連盟に参加する立命や同志社の学生と一緒に保護活動を行っていった。その時の経験を、青木は次のように述べている 。

「時には、比叡山へ鑑別所に入っている子どもたちを遠足に連れていくこともありました。鑑別所とは非常に厳しい交渉をしながら学生が責任をもって比叡山へ連れていく。…それぞれが何人かずつ責任をもって担当するわけです。担当するわけですがいつどこで、とんで逃げるかわからんという状況なんですね。そういう子どもに対して、「逃げたかったら逃げえや」というふうな、勝手にせえという意味ではなく、どうしても逃げたいなら構わんという対応をした班は一人も逃げなかったわけです。ところが逃げてしまったら困るということで、きちっとしとる班からは逃げてしまう。例えば水汲みにいって、帰りにはそれをほったらかして大津まで駆け下りていって、そして東山トンネルの中で恐喝をして、大阪で捕まるという、そういう時間的にも速いスピードで子どもたちは動いていました。…管理をすると、自分の手から漏れていく。だけど子どもたちを信頼しながら「君たちは、そういうことをするとは思っとらんけど、出たいんなら出てもいい」という対応をすると、そういうことはないということも、この活動で学んだことの一つでもありました。」(青木嗣夫「証言・子どもと共に生きて」1989年7月8日、「青木先生の退職と全快を祝う会」での講演)

助走の頃-学びはじめる前

2020年06月13日 08時38分48秒 | その他
生まれたのは、1956年。この年、経済企画庁は、「もはや戦後ではない」といったという。現代史上では、政治的には55年体制がつくられ、そして、この頃から高度経済成長が進められていく。小学校から高校時代までは、高度経済成長の時代、科学技術の時代だった。
1960年前半に東海道新幹線がとおった。おじいちゃんといっしょに遠くに走る新幹線を見た覚えがある。そして、東京オリンピック。1970年には大阪で万国博覧会があった。「人類の進歩と調和」をテーマとして、「コンニチハ、コンニチハ、世界の国から」の歌が街では陽気に聞こえてきた。中学校の修学旅行は、万博に来た。中学の頃、戦後日本の復興を象徴したノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹の自伝「旅人」などを読んでみた。高等学校では、学生で芥川賞を受賞した大江健三郎の初期の小説を読んでみたりもした-「見るまえに跳べ」「遅れてきた青年」などだった。
高校は理数科にいった。3年間同じクラスだった。当然、理科系の大学に進んだ。自由な大学だったので、時間はたっぷりあった。何をしていたのだろうか。講義に出たという記憶は殆どない。下宿にこもって、高橋克己の「我が解体」など観念的な小説を読んでいたが、そのうち、「次郎物語」「戦争と人間」「人間の条件」などの成長小説をよく読んでいた。また、歴史推理小説では、松本清張なども社会派、それから、復員もので横溝正史なども次から次へと読んでいたようだ。社会発展の法則とか歴史の必然だとかいうよりも、その人その人がどのように生きたかを想像したかった。これは、迷いの時代、悩みの時代の反映に他ならない。だから、いまでも評伝の類いには手が出てしまう。どんな人生をあゆんだのか、どんな思いでいたのか。本意でないことをやらされたり、あるときには煮え湯を飲まされたりと・・・・。

八ッ橋問題-八橋検校説の行方?

2020年06月11日 09時30分43秒 | その他
老舗「八ッ橋」“創業年に根拠なし”裁判 訴え退ける 京都地裁
2020年6月10日 NHKの報道


 聖護院八ッ橋を中心とした八ッ橋起源の歴史を講義でも紹介してきたのだが、あらためて、諸説があることを認識した。
八ッ橋がいつ誕生し、いつ八橋と呼ばれるようになったのかは不明である。箏曲の祖・八橋検校を偲び箏の形を模したことに由来するとする説や、『伊勢物語』第九段「かきつばた」の舞台「三河国八橋」にちなむとする説などがあるという。

 聖護院八ツ橋総本店をはじめとするいくつかの企業では、江戸中期にあたる1689年(元禄2年)に、聖護院の森の黒谷(金戒光明寺)参道の茶店にて供されたのが八ッ橋の起源とする説を唱えて宣伝にも用いているが、八ッ橋が同時代に作られていたとする文献はない。京銘菓八ッ橋工業協同組合は「根拠のない話」として1689年(元禄2年)という年代を表記することを中止するよう求めていたが、この井筒八つ橋の訴えは退けられている。だからといって、江戸の時期に八橋検校にちなんでつくられていたかどうかはわからない(2020年6月10日)。

はじめての大学(着任当時の思い出―「遊んでいること」の価値)

2020年04月23日 17時47分55秒 | その他
以下は、なにかの機会に書いたもの・・・はじめて就職した頃の思い出である。なにに書いたものだろうか???
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N教育大学には、1988年4月に助手として着任した。はじめての職場で、見るもの、聞くものとても新鮮だった。

学校教育の世界には違和感があり、はじめの学部時代まで避けてきたのだが、子どもの世界の面白さに、教育学部への学士入学から大学院教育学研究科へすすんだ。回り道をしての教育の世界へおそるおそる戸をたたいた。養護学校教育の義務制実施や国連の国際障害者年をへて、ようやくや障害児教育の世界に入ることになった。すべてが手探りで、現場をウロウロしていた。怖いもの知らずで、障害児教育の歴史や教育実践、子どもの発達のフィールドにいっていた。はいまわる経験主義とはこのことをいうのであろう。系統的な学習や研究の蓄積のないまま、年齢だけ重ねた。そんなウロウロの中で、N大学に拾っていただいたのだった。

着任してから、教室と付属の障害児学級の交流会があり、先生方と退職したY先生を交えての歓迎会を兼ねた交流会が行われた。附属小学校の運動場東の土手、桜並木の下で花見を兼ねての恒例の交流会だった。
着任当初はなにもかも珍しく、時間を忘れてウロウロしていた。すでに、花見は始まる時間を過ぎ、Y先生の機嫌は徐々に思わしくない方向に行っていたようだ。放送で呼び出すということになったらしく、ぶらぶらしていると大学の放送がかすかに聞こえる。その放送で、呼び出されていたのだった。もといた大学では、ハンドマイクでのアジテーションならよく聞くこともあったが、放送での呼び出しなど考えられなかった―「N教育大学には全学の放送設備があり、呼び出しもされるのだ!」と、ひどく驚いた。遅れていった交流会ではボロカスだった。Y先生、附属中学校のF先生からはこっぴどく叱られた。O先生、Oi先生、T先生はなんてことはないという調子で、お酒を交わしていた。よく、お酒をのむ教室だった。

教室のみならず、大学全体が面白かった。教員養成系の教育学部はミニ総合学部で、各教室にはそれぞれの専門家がいた。新館1号棟の2階の研究室の前の先生が、理科化学のM先生だったが、いつも研究室を開け放してウロウロしているとよく叱られた。よく遊びに行っていた研究室は、家庭科教育のT先生の研究室。ここは、コーヒーとお菓子があって喫茶店のように入り浸っていた。おもちゃをつくるといって、技術科木工のK先生がご病気だったので金工のY先生に機械の使い方も教えていただいた。よく、木工室の糸鋸をつかわせていただいた。また、つれあいの実家が広島だったことから、放射線物理学をやっていたN先生にも、原爆瓦の収集をお願いされ、義父の手を煩わせてたくさん持って行った。自然環境教育センターができてからは、生活科のキャンプにも駆り出され、M先生に渓流でアマゴとりを教えてもらったのも楽しい思い出である。大塔寮の山が、豪雨で土砂崩れが起こり、使えないのは残念でたまらない。
現場にも行って、子どもたちや先生方とも知り合いとなった。また、奈良まち界隈でもうろうろして、芸術家をはじめとしていろいろな方たちと知り合いともなった。はためから見れば、ウロウロとして、遊んでばかりのように思われる。

考えてみると、遊び・リクリエーションとは、re+creationで再創造するということである。ブレーキにあそびがなければ事故になるのである。「役に立つ」か「役に立たない」かだけで価値を判断するような、知性に対する敬愛のない社会になりつつある。大学も、遊びのない、「役に立つ」ことを強いる場になっているように感じている。ここは一度、半世紀の歩みを振り返りつつ、「のんき・こんき・げんき」で過ごしていきたい。
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『障害児学教室50年史』だったようだ。

ポーズと放言 新型コロナウィウスをめぐって

2020年02月28日 18時56分30秒 | その他
新型コロナウィルスの感染対策の基本方針が出たが、その危機感のなさに批判殺到。政府は、イベント中止の要請をしたと思ったら、「思いつき」で、突然の小・中・高等学校・特別支援学校の休校の要請を行った。「政府の責任」を言いながら、「政治決断」のいい格好しいをしつつ、「設置者」の都道府県や市町村への丸投げが実際のところ。
2月末から3月にかけての緊急事態なので、様々なところで波紋や影響を受けている。イベントの中止などの返金やキャンセル料がどうなるかなどなど・・・。とはいえ、その波紋は、ぼくらのところにも「深刻で大きな(麻生談:つまんない)」ひしひしと財布を脅かしている。立命館大学や同志社大学では取りやめるという報道があったところだが、ぼくらの大学では、規模を縮小して卒業式はやるということとなったようだ(その後、学長から中止の文書が回ってきた)。とはいえ、それで終わるわけではなく、頭の痛い問題・悩みをもたらしている。恒例の卒業パーティのことだ。僕なんかは新参者だから、これまでの経過をしらないが、しかし、卒業生にとって卒業式とパーティは人生の一場面を彩る大イベントであるらしい。卒業式の貸衣装も、お色直しをすることも含めて予約をしているし、教員の出し物やゼミごとでの紹介やらいろんなプログラムが計画されていた。実際、ぼくらも「パプリカ」の踊りの練習や歌の練習などやってきたのだった。
このパーティをどうするかが大問題。問題はホテルのキャンセル料のことだ。キャンセル料を80%とふっかけられているらしい、だから、延期してやるとか、同窓会として来年度末くらいにやるとかいろいろな意見が行き交っている。学生さんたちの思いもあるし・・・。そんなこんなでいろいろ考えていたときに、ある市の会議で弁護士さんと一緒になった。ちょうどよかったと思って聞いてみた。
「80%はちょっとぼられてますね」といわれ、「通常のことではないのでホテル側と交渉でしょうね」という。学生と教員が例年のように企画しているので、大学がそれをカバーする筋合いでもないということ、キャンセル料は誰が払うかということになるのか???
ふと、その弁護士さんがいった-「桜を見る会の場合は、ホテルと参加者一人ひとりとの契約だと安倍首相はいっていましたよね。それだったら、ホテルが一人ひとりにキャンセル料を請求してもらうということになるのですかね」と。ついでにいうと、安倍首相が「休校を要請」したときに、「政府の責任で万全に」といっているので、このキャンセル料もホテルには政府に請求してもらおう。
麻生財務大臣は、学童保育での対応の財政負担の質問に対して「つまんない」と放言をはいたとのこと。財布を握っているにもかかわらず、「つまんない」といって、「政府の責任」の大見得はどうなった。「まるでウソだらけやなぁ」と弁護士さん。

ホテルとの交渉の結果、キャンセル料は取らないということになったとのこと。返金の手続きのときにでも、学生さんの貸衣装のキャンセルなどどうなったか聞いてみたい。2月29日、説明の記者会見をした安倍首相は「私の責任で」といったが、学生さんたちは、もう信じないだろう。


奮闘努力の甲斐もなく♪ 今日も涙の陽が落ちる♪ (体験的障害児教育その1)

2020年01月30日 14時25分54秒 | その他
「男はつらいよ」の第一作は、1969年8月公開。主人公は「フーテンの寅さん」こと車寅次郎、マドンナに恋をするのだが、トホホの結末。第一作は妹さくらの結婚の話でもある。50周年を記念して、BS-NHKで第1作がお正月に放送されていた。それに見入ってしまった。
結婚式の場面。さくらの夫となる博、神妙にすわって黙っている博の父親。博の父親は研究者で大学の教師をしており、博とは過去にすれ違いがあり、コミュニケーションのなかった父子の間には微妙な緊張が流れている。博の父親のあいさつが予定されている。寅は、さくらの親族代表として、その後に一言あいさつをするという設定である。
博の父親の挨拶がはじまった・・。寅は、横目でにらんでいる。ところが、父親から出てきた言葉は、「親らしいことをしてこなかった」という後悔の念。
「えっ! どうなるの!」と気持ちが持って行かれたところで、「ピーンポーン」と玄関チャイムがなった。娘の旦那が、新年のあいさつにきたのだった。こんないいところで、やってきやがる-「たいしたもんだよ 蛙の小便 見上げたもんだよ 屋根屋のふんどし」である。
昨年末に公開された「男はつらいよ50 おかえり寅さん」を、正月明けにようやく見に行くことができた。これまで、特別編も入れて49作がつくられていた。1988年頃までは盆と暮れ・正月の2回、映画館を賑わせた。ぼくが楽しんでみたのは、中学校から高等学校の頃だろうか、町の映画館にいった記憶がある。やがて、マンネリ化がいわれ、大学生になったこともあり、見なくなった。ぼくは大学には10数年いたが、寅さんのようにフラフラしていて、フラフラしている寅さんを見ると自分の行く末が案じられると感じていたのかもしれない。寅さんの甥の満夫の恋愛話の頃は、もう奈良教育大学にきていたが、それも見ていない。「おかえり寅さん」は、満夫のその後を描いている。1996年に寅さん役の渥美清が死去し、寅さんはいないが、回想の中で登場してくるのは、旧知の若かりし頃の寅さん。もう50年もたつのか。耳から離れないのは、「男はつらいよ」の主題歌である。

奮闘努力の 甲斐もなく
今日も涙の
今日も涙の 陽が落ちる
陽が落ちる

 「奮闘努力の甲斐もなく」とは、これまでの自分自身のことを振り返って感じることでもある。
1988年4月に奈良の大学に赴任して、31年間お世話になった。2019年3月、定年を2年前倒しさせていただき、奈良の大学を辞職した。教育職員免許法が改正され、2019年度より、教員養成のカリキュラムがかわるというタイミングで京都の大学へ行くことになった。
ずっと、奈良の大学に馴染んできたので、60歳を過ぎての異動は、厳しいものがあった。それも、「歴史と伝統」があるらしい京都の大学、「いけず」文化の伝統のおかげかも。おもわず、上野千鶴子の「おんな嫌い」と井上の「京都嫌い」を買って読んでみる。あらたな場所への着任をきっかけに、奈良への思いが強くなったりもした。後悔というか、そういう思いと同時に、奈良の大学への着任の際にも、いろいろあったなと思い起こすことも多い。

昨年2019年9月15日、同窓会の主催で、「送る会」を開催して頂いた。こういう会は、どうも苦手なので困った。
こんな時には、どんな顔をしていいのかわからなくなる。F先生は、どうも僕がF先生を嫌っているのではないかと話された。文集に書いてくれた文章には、ぼくがF先生のことを「煙たがっている」と書いてある。そのとおりだった。F先生は、原則の人であり、直球で臆面もなくそれを通して詰めてくる。そういうのって、反論の余地がないので、逃げるしかない。
F先生の伝統を柔らかに引き継いでくれているのがK先生だ。先生から著書の『子どもに文化を 教師にあこがれと自由を』(全障研出版部、2019年)をいただいた。はじめから、「子どもの味方になる」と直球が。続いて、「子どもの〈声〉を聴き、その悲しみをつかむ」と、ド・ストライクが投げられる。カーブとか、チェンジアップとかはないのかと、ぼうぜんと、見逃してしまうのであった。
「悲しみをつかむ」という、僕と同年代の鳥取のMさんやそれをひきうつして本の中に登場させるKさんのようなまねは、僕にはできない。つかんだらどんな感触なんだろう? 「子どもの悲しみ」といったって、「悲しい」「哀しい」いろいろあるし、「わかりたい」と思っても、「わからんじゃん」とおもってしまう。「悲しい」「つらい」のはこっちもおんなじ―「男はつらいよ」というわけだ。まあ、「辛」も一本線を「どっこいしょ」とつければ「幸」になるのだが…。この30年余は、フラフラ、オロオロしたことしかないけれど、あっちに行ったりこっちに来たりといろいろやってきたことを振り返って書いておくのも、若い人たちの参考になるのではないかとおもって、書きはじめることとした。
(たちあがる)