高橋竹山の映画「竹山ひとり旅」と同じ年(1977年)に公開された視覚障害の女性を描いた映画が「はなれ瞽女おりん」である。同じ盲とはいえ、男性と女性の生き方の対比で考えさせられる。
同時に、「おりん」の成長、富山の薬売りにつれられて瞽女の親方に仕込まれ、「座」の中で成長していくところ、男に犯され「座」から「落とされ」」、「はなれ瞽女」として旅する姿、そして、平太郎とともにする旅の中で心穏やかな生活をとりもどすところ、再度、離ればなれ絵になり孤独ではあるが平太郎と会うという目標のある一人旅、しかし、平太郎を失い、荒れて流れていく姿と辿ってみると、旅景色の中でのおりんの心象風景が様々に表現されているところも興味深い。
障害と共に、女性の歴史をも考えさせられる。そして、この原作が、水上勉だということも…。この水上の「重症心身障害児」への無策の指摘をつぎにつなげたい。
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全盲の高橋竹山は、津軽三味線で大地の響きを奏でたが、盲の女性も瞽女(ごぜ)として、三味線を奏で、歌や語り物をして旅をしていた。なかでも新潟を中心として日本海の荒波と雪の中を門付けして歩く集団があった。その集団からはずれた「はなれ瞽女」の姿を描いたのが、篠田正浩が監督した映画 『はなれ瞽女おりん』(1977年)である。岩下志麻が「おりん」役で主演し、音楽は武満徹が担当した。「はなれ瞽女」とは、異性との交わりを禁ずるという瞽女の戒律を破ったために、「座」から「落とされ」、一人で三味線を弾き門付をしなければならなかった女旅芸人のことをいう。「竹山ひとり旅」と「はなれ瞽女おりん」は、男と女という点も含めて、「陽」と「陰」として対比な存在として示したという評価があるが、しかし、両者は、社会に翻弄される障害者のおかれた深く悲しい姿を描くとともに、同時に人間的なたくましさや人間として大切なものを見せてくれる。
「はなれ瞽女おりん」-時代は、第一次世界大戦が終わり、ロシア革命への干渉としてシベリア出兵をおこない、軍備と軍隊の強化がなされ、国民生活で米騒動がおこるという戦争と貧困がすすみつつある大正中期。「おりん」は若狭の片田舎に生まれ、三歳で全盲になり、六歳のときに越後・高田の瞽女屋敷に引き取られ芸を仕込まれ成長する。瞽女の集団は「座」を組み、瞽女宿をめざして三味線を弾き、旅でであう村々で瞽女唄といわれる説教節に似た語り物などを唄ってまわる。「おりん」の語りと歌は、ほがらかな明るさを持っている。それがあだとなって、ある村祭りの夜、若い衆に手込めにされ、掟に従い一人で流浪するはなれ瞽女となった。
もともと「瞽女」とは「盲御前」という敬称に由来することばだといわれている。越前の冬景色の中を盲女一人歩く姿は美しく神秘的ですらある。その一方、酒宴での語りや村人とのやりとりには明るさがある。「おりん」と旅の連れとなる男は、故原田芳雄演ずる岩淵平太郎である。平太郎は、シベリア出兵を拒否した脱走兵であり、下駄職人として行商するなかで、「おりん」を「妹」として大切にしていく。平太郎とおりんの二人旅の生活は、おりんに心の安らぎをもたらし、愛情を育んでいく。しかし、それもつかの間のこと。警察と軍におわれる平太郎、そして離ればなれの末に再開するのだが、二人は警察の手に落ちる。愛する男のためには口も割らない姿は凛々しくもある。
ところで、「おりん」の原作は水上勉の中編小説である。この物語は、水上勉の視覚障害のあった祖母のこと、そして子どもの頃の原体験をもとに編まれたものであった。水上は、全集のあとがきに次のように記している。
「『はなれ警女おりん』は、私の祖母の想い出を、越後高田にのこる警女屋敷の人々に重ねて一篇の物語としたものである。日本海辺に生まれ育った人なら一度は目にしている盲目の女旅芸人をいう。私の祖母も全盲だったし、よく村の阿弥陀堂に来て宿泊してゆく盲目の物貰いの姿は少年時に目撃した。(略)この堂の横に恵林地蔵がある。古老の話だと、りんという盲目の女が三味線をもって堂に来て住まうようになり、村の粗暴な男たちに弄ぱれて子をうんだという。りんはその後、堂を住居にして村の女たちに三味線を教えたが、一日、寒い日に堂内で死亡した。子はその後どこかへ姿を消した。恵林地蔵は、その盲目の母親の霊を村人が弔ったものである。」(『水上勉全集』9、1977年、中央公論新社)
水上勉は、「私の勝手な空想とはいえ、所在も明らかにせず死んだ盲女への鎮魂歌である。こういう人たちを野の聖というのではないか」ともいっている。水上文学は暗に越前の冬景色を背景にして貧しく悲しく時にはやりきれなくなる人生を独特の語り口で書いている。水上の障害のある人たちへの水上のまなざしは、水上の次女が二分脊椎の障害があったことによっても強められたと思われる。1963年には「重症身体障害者を収容する島田療育園に、政府が、たったの2割しか補助を行っていないことに激怒した」ことを契機に、『中央公論』に「拝啓池田総理大臣殿」をかいた。そこでは、「療育園に、これまで助成した金は、2年間にわたってたったの1千万円でした。36年度に4百万円、翌年に6百万円でした。しかも、これは研究費というめいもくです。私が本年1年におさめる税金の1千百万円よりも少ないのです」と、重症心身障害児施設をはじめとする社会福祉の遅れ指摘し、社会的に世論を喚起した。また、障害のある人たちを描いた『くるま椅子の歌』(1967年)などの作品を残していくこととなる。
同時に、「おりん」の成長、富山の薬売りにつれられて瞽女の親方に仕込まれ、「座」の中で成長していくところ、男に犯され「座」から「落とされ」」、「はなれ瞽女」として旅する姿、そして、平太郎とともにする旅の中で心穏やかな生活をとりもどすところ、再度、離ればなれ絵になり孤独ではあるが平太郎と会うという目標のある一人旅、しかし、平太郎を失い、荒れて流れていく姿と辿ってみると、旅景色の中でのおりんの心象風景が様々に表現されているところも興味深い。
障害と共に、女性の歴史をも考えさせられる。そして、この原作が、水上勉だということも…。この水上の「重症心身障害児」への無策の指摘をつぎにつなげたい。
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全盲の高橋竹山は、津軽三味線で大地の響きを奏でたが、盲の女性も瞽女(ごぜ)として、三味線を奏で、歌や語り物をして旅をしていた。なかでも新潟を中心として日本海の荒波と雪の中を門付けして歩く集団があった。その集団からはずれた「はなれ瞽女」の姿を描いたのが、篠田正浩が監督した映画 『はなれ瞽女おりん』(1977年)である。岩下志麻が「おりん」役で主演し、音楽は武満徹が担当した。「はなれ瞽女」とは、異性との交わりを禁ずるという瞽女の戒律を破ったために、「座」から「落とされ」、一人で三味線を弾き門付をしなければならなかった女旅芸人のことをいう。「竹山ひとり旅」と「はなれ瞽女おりん」は、男と女という点も含めて、「陽」と「陰」として対比な存在として示したという評価があるが、しかし、両者は、社会に翻弄される障害者のおかれた深く悲しい姿を描くとともに、同時に人間的なたくましさや人間として大切なものを見せてくれる。
「はなれ瞽女おりん」-時代は、第一次世界大戦が終わり、ロシア革命への干渉としてシベリア出兵をおこない、軍備と軍隊の強化がなされ、国民生活で米騒動がおこるという戦争と貧困がすすみつつある大正中期。「おりん」は若狭の片田舎に生まれ、三歳で全盲になり、六歳のときに越後・高田の瞽女屋敷に引き取られ芸を仕込まれ成長する。瞽女の集団は「座」を組み、瞽女宿をめざして三味線を弾き、旅でであう村々で瞽女唄といわれる説教節に似た語り物などを唄ってまわる。「おりん」の語りと歌は、ほがらかな明るさを持っている。それがあだとなって、ある村祭りの夜、若い衆に手込めにされ、掟に従い一人で流浪するはなれ瞽女となった。
もともと「瞽女」とは「盲御前」という敬称に由来することばだといわれている。越前の冬景色の中を盲女一人歩く姿は美しく神秘的ですらある。その一方、酒宴での語りや村人とのやりとりには明るさがある。「おりん」と旅の連れとなる男は、故原田芳雄演ずる岩淵平太郎である。平太郎は、シベリア出兵を拒否した脱走兵であり、下駄職人として行商するなかで、「おりん」を「妹」として大切にしていく。平太郎とおりんの二人旅の生活は、おりんに心の安らぎをもたらし、愛情を育んでいく。しかし、それもつかの間のこと。警察と軍におわれる平太郎、そして離ればなれの末に再開するのだが、二人は警察の手に落ちる。愛する男のためには口も割らない姿は凛々しくもある。
ところで、「おりん」の原作は水上勉の中編小説である。この物語は、水上勉の視覚障害のあった祖母のこと、そして子どもの頃の原体験をもとに編まれたものであった。水上は、全集のあとがきに次のように記している。
「『はなれ警女おりん』は、私の祖母の想い出を、越後高田にのこる警女屋敷の人々に重ねて一篇の物語としたものである。日本海辺に生まれ育った人なら一度は目にしている盲目の女旅芸人をいう。私の祖母も全盲だったし、よく村の阿弥陀堂に来て宿泊してゆく盲目の物貰いの姿は少年時に目撃した。(略)この堂の横に恵林地蔵がある。古老の話だと、りんという盲目の女が三味線をもって堂に来て住まうようになり、村の粗暴な男たちに弄ぱれて子をうんだという。りんはその後、堂を住居にして村の女たちに三味線を教えたが、一日、寒い日に堂内で死亡した。子はその後どこかへ姿を消した。恵林地蔵は、その盲目の母親の霊を村人が弔ったものである。」(『水上勉全集』9、1977年、中央公論新社)
水上勉は、「私の勝手な空想とはいえ、所在も明らかにせず死んだ盲女への鎮魂歌である。こういう人たちを野の聖というのではないか」ともいっている。水上文学は暗に越前の冬景色を背景にして貧しく悲しく時にはやりきれなくなる人生を独特の語り口で書いている。水上の障害のある人たちへの水上のまなざしは、水上の次女が二分脊椎の障害があったことによっても強められたと思われる。1963年には「重症身体障害者を収容する島田療育園に、政府が、たったの2割しか補助を行っていないことに激怒した」ことを契機に、『中央公論』に「拝啓池田総理大臣殿」をかいた。そこでは、「療育園に、これまで助成した金は、2年間にわたってたったの1千万円でした。36年度に4百万円、翌年に6百万円でした。しかも、これは研究費というめいもくです。私が本年1年におさめる税金の1千百万円よりも少ないのです」と、重症心身障害児施設をはじめとする社会福祉の遅れ指摘し、社会的に世論を喚起した。また、障害のある人たちを描いた『くるま椅子の歌』(1967年)などの作品を残していくこととなる。