ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

人のつながりとぬくもりへの希求-「はなれ瞽女おりん」

2011年10月30日 22時57分45秒 | 映画
高橋竹山の映画「竹山ひとり旅」と同じ年(1977年)に公開された視覚障害の女性を描いた映画が「はなれ瞽女おりん」である。同じ盲とはいえ、男性と女性の生き方の対比で考えさせられる。
同時に、「おりん」の成長、富山の薬売りにつれられて瞽女の親方に仕込まれ、「座」の中で成長していくところ、男に犯され「座」から「落とされ」」、「はなれ瞽女」として旅する姿、そして、平太郎とともにする旅の中で心穏やかな生活をとりもどすところ、再度、離ればなれ絵になり孤独ではあるが平太郎と会うという目標のある一人旅、しかし、平太郎を失い、荒れて流れていく姿と辿ってみると、旅景色の中でのおりんの心象風景が様々に表現されているところも興味深い。
障害と共に、女性の歴史をも考えさせられる。そして、この原作が、水上勉だということも…。この水上の「重症心身障害児」への無策の指摘をつぎにつなげたい。

---------------------------------------------------- 
 全盲の高橋竹山は、津軽三味線で大地の響きを奏でたが、盲の女性も瞽女(ごぜ)として、三味線を奏で、歌や語り物をして旅をしていた。なかでも新潟を中心として日本海の荒波と雪の中を門付けして歩く集団があった。その集団からはずれた「はなれ瞽女」の姿を描いたのが、篠田正浩が監督した映画 『はなれ瞽女おりん』(1977年)である。岩下志麻が「おりん」役で主演し、音楽は武満徹が担当した。「はなれ瞽女」とは、異性との交わりを禁ずるという瞽女の戒律を破ったために、「座」から「落とされ」、一人で三味線を弾き門付をしなければならなかった女旅芸人のことをいう。「竹山ひとり旅」と「はなれ瞽女おりん」は、男と女という点も含めて、「陽」と「陰」として対比な存在として示したという評価があるが、しかし、両者は、社会に翻弄される障害者のおかれた深く悲しい姿を描くとともに、同時に人間的なたくましさや人間として大切なものを見せてくれる。
 「はなれ瞽女おりん」-時代は、第一次世界大戦が終わり、ロシア革命への干渉としてシベリア出兵をおこない、軍備と軍隊の強化がなされ、国民生活で米騒動がおこるという戦争と貧困がすすみつつある大正中期。「おりん」は若狭の片田舎に生まれ、三歳で全盲になり、六歳のときに越後・高田の瞽女屋敷に引き取られ芸を仕込まれ成長する。瞽女の集団は「座」を組み、瞽女宿をめざして三味線を弾き、旅でであう村々で瞽女唄といわれる説教節に似た語り物などを唄ってまわる。「おりん」の語りと歌は、ほがらかな明るさを持っている。それがあだとなって、ある村祭りの夜、若い衆に手込めにされ、掟に従い一人で流浪するはなれ瞽女となった。
 もともと「瞽女」とは「盲御前」という敬称に由来することばだといわれている。越前の冬景色の中を盲女一人歩く姿は美しく神秘的ですらある。その一方、酒宴での語りや村人とのやりとりには明るさがある。「おりん」と旅の連れとなる男は、故原田芳雄演ずる岩淵平太郎である。平太郎は、シベリア出兵を拒否した脱走兵であり、下駄職人として行商するなかで、「おりん」を「妹」として大切にしていく。平太郎とおりんの二人旅の生活は、おりんに心の安らぎをもたらし、愛情を育んでいく。しかし、それもつかの間のこと。警察と軍におわれる平太郎、そして離ればなれの末に再開するのだが、二人は警察の手に落ちる。愛する男のためには口も割らない姿は凛々しくもある。
ところで、「おりん」の原作は水上勉の中編小説である。この物語は、水上勉の視覚障害のあった祖母のこと、そして子どもの頃の原体験をもとに編まれたものであった。水上は、全集のあとがきに次のように記している。

「『はなれ警女おりん』は、私の祖母の想い出を、越後高田にのこる警女屋敷の人々に重ねて一篇の物語としたものである。日本海辺に生まれ育った人なら一度は目にしている盲目の女旅芸人をいう。私の祖母も全盲だったし、よく村の阿弥陀堂に来て宿泊してゆく盲目の物貰いの姿は少年時に目撃した。(略)この堂の横に恵林地蔵がある。古老の話だと、りんという盲目の女が三味線をもって堂に来て住まうようになり、村の粗暴な男たちに弄ぱれて子をうんだという。りんはその後、堂を住居にして村の女たちに三味線を教えたが、一日、寒い日に堂内で死亡した。子はその後どこかへ姿を消した。恵林地蔵は、その盲目の母親の霊を村人が弔ったものである。」(『水上勉全集』9、1977年、中央公論新社)

 水上勉は、「私の勝手な空想とはいえ、所在も明らかにせず死んだ盲女への鎮魂歌である。こういう人たちを野の聖というのではないか」ともいっている。水上文学は暗に越前の冬景色を背景にして貧しく悲しく時にはやりきれなくなる人生を独特の語り口で書いている。水上の障害のある人たちへの水上のまなざしは、水上の次女が二分脊椎の障害があったことによっても強められたと思われる。1963年には「重症身体障害者を収容する島田療育園に、政府が、たったの2割しか補助を行っていないことに激怒した」ことを契機に、『中央公論』に「拝啓池田総理大臣殿」をかいた。そこでは、「療育園に、これまで助成した金は、2年間にわたってたったの1千万円でした。36年度に4百万円、翌年に6百万円でした。しかも、これは研究費というめいもくです。私が本年1年におさめる税金の1千百万円よりも少ないのです」と、重症心身障害児施設をはじめとする社会福祉の遅れ指摘し、社会的に世論を喚起した。また、障害のある人たちを描いた『くるま椅子の歌』(1967年)などの作品を残していくこととなる。

 

「こぶしの会」10周年一言メッセージ

2011年10月19日 11時43分22秒 | その他
 「こぶしの会」10周年おめでとうございます。
 振り返れば、「こぶしの会」の前進となる「障害者が働く作業所を作る会」が発足したのが、1988年2月。わたしは、その2ヶ月後に、教育大学に赴任してきたことになります。かすが・のぞみお両作業所を少しばかり覗いたこともありました。
 2002年に「コミュニティワークこッから」が開所され、活動が本格化されていきます。喫茶でお茶をいただいたり、音楽の先生を紹介したり、大学を活動の場の一端にしてもらったりといろいろなおつきあいができるようになってきました。そのおつきあいの一つが、「こッから」の恒例となった年賀状コンクールの審査委員長を2~3年させていただいたことです。仲間のみなさん、賞と賞品がでるということで奮闘、なかなかの力作揃いでした。いつも悩まされたのですが、「おもしろいで賞」「かわいいで賞」などの審査員特別賞などもつくらせていただきました。賞の常連は、小山さんだったと記憶しています。その力が、自立支援法違憲訴訟のクリアフォルダーを飾った絵にもなって全国に広がりました。
 奈良における、障害のある人たちの発達保障の基盤となる生活と労働のなかみを創っていく上で、「こぶしの会」の果たすべき役割は大きいと思います。これからのますますの発展を祈念いたします。

基調報告で踏み込まなかったこと

2011年10月17日 23時02分56秒 | 生活教育
基調報告では紙面の関係上踏み込んでいなかったこと-それは、1969年に全寮制として成立した滋賀県立養護学校(後の八幡養護学校、今の野洲養護学校)が、障害の重い子どもたちを「入学不適格」として、「学校に行きたい」といっていた子どもたちを放置してきたことだった。このことは、いまも滋賀県教育委員会に引き継がれ、野洲養護学校とその寄宿舎にも暗い影をおとしているということである。

田中昌人『発達保障への道 ③発達をめぐる二つの道』より

 吉田厚信くんは、1952年6月27日生まれでした。1960年代のまんなかにあたる1965年4月27日に、13歳で脳性小児まひと診断された彼は、滋賀県にあるびわこ学園に入園しました。児童福祉法の改正によりびわこ学園が重症心身障害児施設となった1967年に、わたしたちは重症心身障害児療育記録映画『夜明け前の子どもたち』の撮影のために約1年間びわこ学園でとりくみましたが、その12月に指導者集団は吉田厚信くんが第二びわこ学園で言語障害とたたかいながら、数時間かかって、次のように言っていることを聞き出したのです。
「ぼくは、学校へいきたいのだけれど、ここでは、その夢はかなえられそうにもありません。ぼくはずっとがまんしてきたけれど、これ以上もうがまんできません。このさい、ぼくの考えている最終手段は、兄さんと相談のうえ、ここをでていって、オムツをしてでも、兄さんの車で学校に送り迎えをしてもらうか、ここで一生くらすかどっちか一つの道を選ぶ結果になりました。だから兄さんと相談のうえ、オムツをしてでも、学校へ行くつもりです。たとえ学校で、息苦しくなっても、それは、ぼくが望んでいったのですからしかたがありません。」
 しかし結局、びわこ学園にいても兄さんの所へ行っても、学校では「教育の対象ではない」といってうけとめてもらえなかったのです。吉田厚信くんの胸には生きぬく決意がさらに強固なものとなっていきました。良く1968年8月3日、彼にとって人生最後の夏には、つぎのように言っています。
「ぼくのかたうでだった今市くんが7月29日に亡くなった。ぼくとしては悲しいけれど、これからぼくたちみんなで頑張らなければ今市くんの”死”が無駄になる。今市くんの死を無駄にはしない。今市くんも最後の最後まで協力してくれたのだから、後に残ったぼくたちがこれからしっかり肩をくんでゆかなければだめだ。せっかくの今市くんの夢も自分ではできなくなった。だから今市くんにかわってぼくがやりとげることを約束する。やるぞ! 今市! 見ていてくれ。きっとやりとげてみせる。-今市くんは映画班の指揮を一回も実行せずに死んでしまった。病気が全快したら今市くんのかわりにぼくが映画班を指揮する。もしぼくが今市くんのようになったら、あとは熊浦くん、明光くん、生石くん頼む。これはましかのばあい。冗談じゃない。16、7で死んではたまらん。今市くんも同じことをいっていた。だけど死んでしまった。だがおれは生き抜くぞ。今市くんとの約束があるから、ちょっとしたことでは死ねん。それにぼくにも夢がある。大きくなったらお医者さんになりたい。-」
 このあと4、5日たった9月18日-この日はびわこ学園の創設者の主要な一人であった糸賀一雄氏が前日「施設における人間関係」の講義中に倒れられ、心筋梗塞と脳血栓で亡くなられた日でもある-に吉田厚信くんは「意識不明」になりました。「意識不明」でも「おれは生きぬくぞ。今市くんとの約束がある」との一念が暗闇のたたかいを支えたのでしょうか。それは-じつに-123日間続きました。1969年1月8日に享年16歳で息をひきとるまで。
 1960年代後半になった日本で、義務教育就学率99.9%の外に、こんなにも、死と闘いながら望んでも、義務教育から「教育の対象ではない」として拒否されていた子どもたちがいたのです。病気とたたかいつつ医者になろうと、そして友だちのやりのこした分まで生きぬこうとしていた子どもたちがおり、それをうけとめない制度が、「教育における差別の実態は実はないのであります」という裏に「実は」あったことを忘れてはなりません。

 滋賀県野洲町の第二びわこ学園では、吉田厚信くんの亡くなった年1969年4月に、ハトAグループ(全国障害者問題研究会近畿ブロック編『みんなの願いを実現するために』1968年参照)が地元の野洲東小学校へ1日入学を実現させました。1日入学を終えて話し合いを重ねてきた子どもたちのなかには「勉強したい」「友だちが欲しい」「学校へ行きたい」の願いがたかまってきました。びわこ学園は野洲町や滋賀県教育委員会に通学を働きかけましたが「小学校には医者がいないから」と断られました。1972年3月には、近くにできた肢体不自由児のための滋賀県立近江八幡養護学校に入学願書を出しました。書きことばをもつまでになり、教科書も使え、当時の常識でも就学確実といわれた5人が「面接試験」を受けました。あらかじめ養護学校とも打ち合わせをし、この子たちなら大丈夫だといわれていた子たちばかりでした。ところが、予定日になっても入学通知が届きません。県教委に聞くと「保留中」との返事。その後「入学不適格」という一片の通知状が郵送されてきました。子どもたちは話し合いで「あんな1日だけで見てさ、なにかを決められるてことは、なんか頭にきちゃうよ。やりきれないわ」と発言しています。1973年には36名が入学を申請しましたが、養護学校から、全員「入学不適格と判定されました」との通知がきただけでした。県教委は、「体が学校教育に耐えられないだろう。国でも審議中でその結論が出ていない」というのでした。1974年には16名を3つのグループにわけ、それぞれどのような教育が必要かがわかるようにして、びわこ学園から介助をつけてもよいとまでいって申請しました。養護学校からは、「現体制ではひきうけられないが、貴園児を対象にして実験学校指定を受けたので、双方が運営協議会をつくって調査研究をはじめたい」といってきました。びわこ学園から申し入れをうけて5年たってこの状況でした。自民党支配下の地方自治体の教育行政では、放置しておいたのではこの子どもたちをうけとめる教育条件は決してつくられないのだということを痛切に知らされつづけたのでした。

 吉田厚信くんたちの生き方は、決して一部の「安楽死」論者の言うような「価値のない生き方」ではありません。わたしたちの生き方の中に消し去ることのできない生き方を残しています。差別をしてくる側にはわからないのかもしれませんが、差別を許さぬたたかいをすすめていく側にとっては、生き抜くことは絶対に守らなければいけないのだということを教えてくれる生き方をしています。人々の生き方を共同の財産にできる生き方が支えあうところに、価値のある生き方が実現していくのです。

寄宿舎教育研究会30周年記念集会・基調報告(2011年10月9日)

2011年10月11日 11時48分55秒 | 生活教育
「現代寄宿舎論-今、大切にする生活教育とは?」

「障害児の生活教育全国研究集会」は、第30回を数えることになりました。地球温暖化と気象の変動、地殻の変動と地震の多発など、私たちの生活の土台となっている自然環境自体が揺らいでいるという不安の中、社会環境においても新自由主義的な再編成がすすみ、いっそう脆弱な社会となっています。子どもや青年の発達、そして学校教育の揺らぎや危機も大きいものがあります。そのような中で、生活教育を担い、かつ地域づくりを進めておられる方々に敬意を表すと共に、今集会にご多忙の中、参加されたみなさんに心より感謝申し上げます。

1.寄宿舎教育研究会の発足と生活教育-「第30回障害児の生活教育全国研究集会」のテーマによせて
 2007年12月、今から足かけ5年前の「第26回生活教育全国集会」において基調報告をさせていただきました。その時は、1940年に出された留岡清男の「生活教育論」ふれながら、行政によって分断された子ども観の指摘を受けとめ、子どもをまるごと捉えるものとしての生活教育の性格づける試みを行いました。その後、研究会では、子どもの育ちと暮らし、格差社会と貧困の問題、困難な中での希望のあり様などを、生活教育の実践をもとに議論してきましたが、一貫した問題意識としてもっていたのは「生活教育」を掲げていることの意味ということでした。
 振り返ってみれば、1980年から寄宿舎教育研究会は開始され、1981年11月に「寄宿舎教育100周年記念集会」を開催し、本格的に歩みをはじめたものでした。その当時から、「子どもたちの生活を大切にし、寄宿舎教育実践の理論化をめざす」として、「生活教育」を掲げて探求をしてきました。1981年8月には『障害児の生活教育研究』が創刊され、世に出されています。「発刊にあたって」には、次のように当時の寄宿舎教育論の構築への意気込みが述べられています。

「いま、再び寄宿舎の存亡が問われている。養護学校の義務制実施は心ある障害児教育関係者達の目を教育内容や教育方法の問題にむけさせたが、そこには自学不就学の問題を解決するのに必要不可欠な生活拠点づくりの課題がほとんど含まれていない。義務制実施に向けての行政指導は養護学校の新増設に一定の意欲は示したが、そこには寄宿舎の持つ教育的価値への着眼はなかった。こうして、養護学校が増え学部教育の内実の検討はすすみはじめたが、障害児学校の寄宿舎併置率は急速に低下し、あまつさえ寄宿舎規模の縮小論さえ現れてきた。「寄宿舎の歴史的使命は終わった」というのである。はたしてそうなのであろうかと、私たちは反問せざるをえない。障害児の生活を守り発達を保障する実践の課題を思うとき、このような寄宿舎問題の動向をなんとするかということがぬきさしならぬ形で問われている」

 かつて、「寄宿舎はあったが、寄宿舎教育はなかった」といわれる時代から、生活指導を中心とした「寄宿舎教育の創造」を、そして、盲・聾学校寄宿舎が中心となって「権利」を闘いとってきた時代から、養護学校教育の義務制実施を経て、障害児の生活と教育への新たな段階を築く集団的な決意としてこの研究会は生まれたものでした。寄宿舎教育研究会結成後の30回余りにわたる研究集会や合宿研究会のなかで、寄宿舎の舎生減や縮小論、そして統廃合という荒波の前に打ちのめされることもありましたが、すべての子どもたちの生活と教育を願って実践は続けられてきたことを確認しあってきました。あえていえば、「生活教育」は、「すべての子どもにひとしく教育を保障する学校」として不可分なものとして、寄宿舎教育の実践的な総括から発信されたものといえます。この意味で、適応主義的「生活単元学習」(生活中心教育)やカリキュラムの構成原理をあらわす「生活教育」の概念とは区別され、発達の土壌となる生活台へのたゆまぬリアリズムの視点から、学校教育、ひいては教育全体の基礎概念となるべきものとして位置づけられるといえます。このことの一つの到達点は、新たな1000年を迎え、21世紀への提言として出された『提言2000』に集約的にみることができます。
 寄宿舎教育研究会の刻んできた30年余にわたる歴史、そして、その一つの集約点となった『提言2000』から10年余を経た、いま、特別支援教育の再編成の中で寄宿舎の位置づけをめぐって、再度、「生活教育」を掲げた時代の「反問」を繰り返さざるを得ません。このことが、今回の研究集会の「現代寄宿舎論 -今、大切にする生活教育とは?」というテーマの設定に直結するものです。

2.災害と生活・暮らしの危機-生活の復旧と復興と地域・街づくり
 「なによりも子どもたちの生活を大切に」という寄宿舎教育研究会規約に掲げた目的の観点から、ますはじめに、この間の東日本大震災での被災をはじめとする生活や暮らしの危機に触れなければなりません。2011年6月5日の研究会運営委員会において、がれき撤去のボランティアとしての報告にあたって、荒涼とした光景を思い浮かべ、ことばを出せずにおられた寄宿舎指導員のことを思い出します。東日本大震災と福島原発事故に際して、再度、地域での居住権(安心して住み続ける権利)が問われています。
 東日本大震災から、半年が早くも過ぎています。3月11日に起こった三陸沖の地震によって、建物は揺さぶられ、倒壊し、その直後に起こった大津波の巨大なエネルギーは、何十もの街を飲み込み、破壊していきました。福島では、地震と津波によって最悪の原子力発電所の事故が引き起こされ、放射能汚染の広がりのなか広大な地域で避難を迫られました。東日本大震災と原発事故のすさまじさは、生活・暮らしを根こそぎ奪っていったことでしたが、その事態の前に、ただただ、わたしたちは呆然としながら東北の人々の無事を祈るしかありませんでした。震災に直面した直後、東北・関東の特別支援学校と寄宿舎の状況は、たとえば、壊滅的な状況になった宮城の沿岸では、卒業生など連絡がとれず、安否確認、福島のろう学校寄宿舎は原発事故の避難所となり、東京や神奈川では寄宿舎は帰宅困難者の対応センターとなり、帰宅困難な舎生の安全を確保する努力がなされました。津波被災地は、がれきの移動や道路の修復はようやく見通しがついてきたようですが、原発事故はまだ収束せず、影響は長期間にわたることは確実です。
寄宿舎のみならず、生活の基盤を失って仮設住宅に移動したり、転居せざるを得なかったり、また、移動すらできないという事態も無いわけではありません。震災被害からの避難や安否の確認の段階から、避難所での生活と支援、避難所へ行けない障害児者の状況、被災者支援の組織、放射能被害からの避難生活、そして生活の復旧や復興への努力、希望としての学校や寄宿舎の持つ役割・無事や安全をともに確認しあうこと、自分たちだけで生きているわけではないことの再確認などの意味を、この間の取り組みは私たちに教えています。小・中・高等学校にも寄宿舎のある学校の構想の必要という声も報道のなかではなされていました。
震災に続いて、本年7月、9月には大型台風が襲来しました。和歌山、奈良などの被害は大きく、地盤の不安定や大雨での増水、土砂ダムの決壊などが心配されています。奈良県には盲学校とろう学校に寄宿舎がありますが、それ以外に、高等学校の寄宿舎として、十津川高等学校に寄宿舎があり、奈良県立高等学校総合寄宿舎(畝傍寮・かぐやま寮)が存在しています。前者は、今日では十津川高等学校がひろく発達障害のある生徒も含めてその受け皿となっているという実態もあります。十津川高校は土砂崩れの危険があり、避難をしている状況があり、その後、10月に入って2日間、登校が可能な生徒に対してスクーリングを行い、登校することが困難な生徒に対しては、郵送による課題提出の措置がなされています。台風に毎年襲われる沖縄では、特別支援学校の寄宿舎設置などどのような安全と安心の確保がなされているのでしょうか?
自然災害による生活の危機と見なされているものであっても、実は、高度成長によってもたらされた国土開発、産業やエネルギー開発の結果としてもたらされているものでもあるのではないでしょうか。さらに、この30年間、顕著になった地域のつながりや地域の力量の低下、都市と地方の格差、新自由主義的な人間関係が多様な形で生活問題を形成しているのではないでしょうか。「気になることは、仙台市若林区や石巻市門脇町のような比較的新しい住宅地のことだ。浜辺近く、明るくオシャレな暮らしが営まれていた街は、今行くと、復興の兆しすらなく、死んだように静まりかえっている」と指摘されていることは、ある意味で象徴的なものかもしれません。生活の復旧・復興に直面して、生活の不安、生活の漂流から、希望と生活の根を張るエネルギーへと転換させる社会的な支えが必要です。その際、なによりも大切にしたいものが、家族・仲間・地域を再生していくこと、ねる・たべる・だす・つながる・育む、生命の再生産としての生活とその場としての地域を見直すことではないでしょうか。障害のある子ども・青年、そして家族を含めた大切な〈時間〉〈空間〉〈仲間〉を取り戻す社会的な支援の拠点とネットワークづくりが重要な課題となっていると思います。

3.「健康で文化的な生活」を求めた「生活教育」の原点を見つめて-「すべての子ども・青年にひとしくゆたかな教育を保障する学校づくり」
 先に養護学校教育の義務制実施が、「生活教育」への発展を必然的に求めるものとなったのではないかということを示唆しました。戦後の障害児教育は障害種別ごとに制度を整えてきたといえますが、養護学校は、知的障害、肢体不自由、病弱をカバーするものとして制度設計されたものの、その設置は立ち遅れたことは周知のところです。就学猶予・免除を許さず、すべての子どもにひとしく教育を保障することをめざして、権利としての障害児教育の主張と運動によって、ようやく1979年養護学校教育の義務制は実施されました。
 振り返ってみると、障害のある子どもと親にとって生活と結びついた教育への要求の声を聞くのは1960年代でした。どんな障害の重い子どもにも生活を保障しようと福祉施設の努力の中で、重症心身障害児の問題が社会問題化し、社会がそれを受けとめる試みとして、重症心身障害児施設がつくられました。島田療育園、びわこ学園などがそれにあたります。そこでは、治療と教育の内容を込めて「療育」の試みがはじめられていきます。びわこ学園の療育の試みを記録した記録映画「夜明け前の子どもたち」(1968年公開)には、1967年当時の子どもたちの声と訴えがエンディングに位置づけられています。その中心になったのが、第2びわこ学園東病棟ハトAグループの吉田厚信君でした。厚信君を中心に、新聞‘はなたれ’が刊行され、他の施設との交流、友だちづくり、学校への要望があつめられました。1967年当時、厚信君は次のように語っていました。

「ぼくは、学校へいきたいのだけれど、ここでは、その夢はかなえられそうにもありません。ぼくはずっとがまんしてきたけれど、これ以上もうがまんできません。このさい、ぼくの考えている最終手段は、兄さんと相談のうえ、ここをでていって、オムツをしてでも、兄さんの車で学校に送り迎えをしてもらうか、ここで一生くらすかどっちか一つの道を選ぶ結果になりました。だから兄さんと相談のうえ、オムツをしてでも、学校へ行くつもりです。」

この吉田厚信君の夢は実現されることなく、1969年1月に16歳でこの世を去ることになりました。「教育への権利」を問題にし始めました。そして1969年4月22日ハトAグループの野洲東小学校への一日入学が実現し、1969年に滋賀県立養護学校(後の滋賀県立八幡養護学校)が設立されると、1970年代には県立養護学校との交流や合同学習へ、そして分校の設置に発展していくことになりました。滋賀県で初めて設置された滋賀県立養護学校は、当初、全寮制として出発したが、その後、通学する児童も含めて肢体不自由児の生活教育の蓄積がなされました。八幡養護学校は、その後、野洲養護学校に継承されることになりますが、八日市養護学校の寄宿舎での生活教育も含めてその歴史的総括が求められるところです。
 「オムツをしてでも、学校へ」という吉田厚信君の思いは、「夜明け前の子どもたちの」映画と共に、京都北部の「すべての子どもにひとしく教育を保障する」学校づくりの運動に重ね合わされて、実現されていきます。1970年4月京都府立与謝の海養護学校の入学式のようすを、この運動をになった青木嗣夫は「“おむつ”をしての入学式」と見出しをつけ表題にしています(「ねたままの子どもにも教育を-障害児の権利を守るとりでづくりの運動」『未来をきりひらく障害児教育』鳩の森書房、1970年12月)。すでに、与謝の海養護学校づくりの運動の中で、寄宿舎について次のような構想の要望が出されていました。

「寄宿舎を教育的に位置づけ、入舎児の発達に適合し、発達を保障するために、社会生活と密接な関連を持ちつつ生活ができるよう、学校と分離し、少なくとも岩滝町内と、旧宮津町内に設置されたい。なお、入舎児の属する集団の均一化からくる発達保障上の弱点を克服するため、地域に設置された寄宿舎には地域におけるチビッコ広場的施設を併設し、その広場を通して、発達に必要な複数集団措定の地域の子どもとの交流を保障されたい、また、寄宿舎を中心として、卒業生の青年の家、障害児センターの役割をもたせ、障害者の結集の場としての役割を果たせるようにされたい。さらに、養護学校が府下の障害児教育センターの役割を果たすため、府下各地の特別学級の児童・生徒・教師・父母の合宿訓練ができるようなスペースを確保されたい。」

 京都府立与謝の海養護学校の寄宿舎の設置は、実際は、学校と一体して設置されることになりましたし、はじめは「通学のための下宿屋」との評価もありましたが、しかし、障害の重い子たちを受け入れつつ集団づくりを発展させ、地域にねざしながら仲間づくりを進めていくものとして寄宿舎教育を発展させていくことになりました。与謝の海養護学校のその後の実践やその後設置されていく学校と地域との関係の整理も課題となっています。
権利の総合保障として、教育のみならず、労働や医療・福祉にも及ぶものとして人間の発達の権利を求める普遍的な国民の権利思想に支えられた養護学校教育は、憲法のいう自由権とともに社会権をひとしく実現することを求め、養護学校教育の内実にも反映されていったといえます。とくに教育権・労働権・生存権に対応させて、教育内容、集団や日課の編成も考えられていたとも言えます。こうして権利の総合保障を掲げる学校づくりという観点から具体化したものが、広い意味での教科教育、労働教育、そして生活教育であり、そして子どもを大切にし、実生活での生活の力量をつけ、社会の主人公としていく教育を求めたものであったといえるのではないかと思います。集団についても、教育集団、労働集団、生活集団などの質の異なった複数の集団の保障とともに、障害と発達に視点を当てつつ、1日、1週間、そして学期や1年間といった単位での時間・空間・仲間を織り込んだ生活の教育的組織化の必要も提起されたといえると思います。その意味では、「生活教育」は、「健康で文化的な人間らしい生活」を保障し、将来の幸福追求につなげるという意味をもっているということを再確認したいと思います。

4.障害者制度改革の中の寄宿舎-「通学困難」の制約を越えて、寄宿舎教育の実践を
 今日、国際的な障害者の権利の実現を求める動きが、障害者権利条約の採択という形で結実しています。障害のある子ども・青年の同年代の人たちと同等の権利の実現が国際的にも求められておいり、障害のある子ども・青年の権利の実現が、いっそう同年代の人たちの権利を確実なものとしていくような先導的積極的なものとなる必要があります。現在、障がい者制度改革推進会議の審議が進められ、障害者基本法の改正があり、障害者自立支援法の廃止に伴う総合福祉法の骨格が示されてきました。
障がい者制度改革推進会議において、特別支援学校と寄宿舎についても議論の遡上にあがっています。すなわち、第5回障がい者制度改革推進会議(2010年3月19日)に向けて、次のような教育に関する論点設定がなされました。

「学校教育法80条は、普通学校の場合と異なり、都道府県が「特別支援学校を設置しなければならない」と設置を義務づけており、さらに、同法78条は、特別支援学校には「寄宿舎を設けなければならない」と規定している。
1、これらの規定は、居住する市町村から離れて就学せざるえない事態を予定するものであるが、障害者の権利条約第24条第2項(b)「障害者が、他の者との平等として、自己の生活する地域社会において、障害者を包容し、質が高く、かつ、無償の初等教育を享受することができること及び中等教育を享受することができること(政府仮訳)」という規定に違反すると考えるか、否か。
2、また、親からの分離を禁止する障害者の権利条約第23条4項「締約国は、児童がその父母の意思に反してその父母から分離されないことを確保する。」に違反すると考えるか、否か。」

 これらに対して障害のある子どもたちの現状を踏まえずに、機械的な議論がある一方、「とくに寄宿舎教育については、その教育的機能と福祉的機能を十分に配慮すべきである」との意見も出されています。障害者権利条約との関係での特別支援教育のあり方の検討は、中央教育審議会内に組織された「特別支援教育の在り方に関する特別委員会」において議論されていますが、特別支援学校の寄宿舎についての議論は十分ではありません。
 一方、障がい者制度改革推進会議総合福祉部会「障害者総合福祉法の骨格に関する総合福祉部会の提言-新法の制定を目指して-」(2011年8月30日)では、障害児の項目に学校教育法関係として「寄宿舎」について次のような提言がなされています。

Ⅲ-2 障害児
2.学校教育法関係
【表題】寄宿舎
【結論】
○特別支援学校の寄宿舎の本来の目的は通学を保障することにあり、自宅のある地域社会から分離されないよう運用されるべきである。寄宿舎の実態を調査し、地域社会への移行に向けた方策を検討する必要がある。
【説明】
 寄宿舎は本来広域学区である特別支援学校への通学保障のために設置されたものであるため、学校が休みになる土・日や長期休暇は家庭に戻るように、運用されるべきである。寄宿舎については、小舎制に再編することや、ファミリーホーム等から通学できるようにすることも含め、今後の在り方を検討すべきである。手話等の習得には一定の集団形成が必要であるという指摘があることから、寄宿舎の在り方を検討する際にはこの点を考慮する必要がある。

 総合福祉部会の骨格案は、そもそも総合福祉法のたたき台としての役割を果たすものであり、その意味では、寄宿舎の役割については「通学保障」限定論として消極的な印象を免れません。今日、教育行政は通学困難を理由として寄宿舎への入舎を限定する傾向をつよめています。しかし、今日、家庭や学校の環境など人間関係・社会的関係に根ざしつつ、意欲や感情など人格形成と深く結びつき、発達の質的転換期にそのもつれやきしみが、多くの子ども・青年に生じています。リストラ、単身赴任など家庭の養育基盤や生活の基盤が揺らぐ事態も少なくありません。また、機械的な学校での対応、学級崩壊などへの対応での多忙化と管理主義の横行、つまずきの日常的発生や学力形成の困難、思春期における将来的な進路の見通しの困難なども指摘することができます。発達障害の子どもたちも含め、病因論や心理学的な検討のみならず、家庭と学校の生活を整え、さらにそこでの手応えのある能力と人格の発達をなしとげていけるよう、学童期、思春期青年期の発達と教育という角度から総合的な検討と実践が求められています。発達障害をも含み込んだ特別支援教育は、本来そういった生活の基盤を持った学校を父母や子ども・青年から期待されていたにもかかわらず、行財政改革の中でその拠点をなくす方向を強めています。
都道府県や文部科学省は、これまで寄宿舎の役割を通学機能のみに限定して解釈してきましたが、それを改め、自己の生活する地域社会において、特別支援学校も含めた質の高い教育の場を保障し、その中で学習と自立を育む土台をととのえる役割を担うものとして寄宿舎を位置づける必要があると考えます。そして、同時に、障害のある人たちの生活に即した人格形成と自己権利擁護の力量を育むものとして寄宿舎をより積極的に位置づける必要があると考えます(なお、聴覚障害、視覚障害の特別支援学校については別途検討が必要でとなっているかもしれません)。地域の社会資源としての寄宿舎は、障害のある子どもたちや青年社会参加の拠点となるとともに、地域の子どもや青年との共同学習の場となりつつ、すべての子どもと青年にとっての「健康で文化的な生活」を保障するモデルとしての機能を果たすものとなるよう寄宿舎教育の実践すすめるとともに、その条件整備を求める必要があるのではないでしょうか。
 この生活教育研究集会では、寄宿舎のある学校が、問題が重層化する子どもたちの学校教育の砦として、その手探りの実践を行い、そのモデルを示してきたことを評価し、その遺産の上に、新たな寄宿舎教育論と生活教育論の発展を期するものとしたいと考えます。これまでの寄宿舎教育実践の歴史を踏まえ、寄宿舎をめぐる厳しい情勢に抗して、苦しい中でも自分たちの頭で考えていこう、身の丈にあった研究会としていこう、そのことによって、自らを鍛えるものとしていこうではありませんか。