ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

高橋竹山の津軽三味線-荒涼とした大地に立って

2011年09月27日 10時46分57秒 | 映画
青森で日本特殊教育学会に参加してきた。太宰の通った旧制弘前高校が母体となった弘前大学で開催されたものだった。そこで、高橋竹山についての講演を聞いた。東京にて人間の弱さを赤裸々に文学とした太宰の生き方とは対比的な、生き方をみる思いがした。太宰の書いた「津軽」も読んでみたいし、新籐兼人の「竹山ひとり旅」もみてみたいと思った。帰ってきて、kさんと話しながら、竹山について次のような文章を一緒につくった。
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2010年は、津軽三味線とともに力強く生きた高橋竹山の生誕100年に当たる年だった。盲者一人、荒涼とした津軽の吹雪の中を、三味線を弾いて糊口をしのぐ日々の風景は、今回の三陸をおそった津波の果ての荒涼とした廃墟にたたずむ姿とかさなるものがある。
ニューヨークや渋谷ジャンジャンをはじめとするコンサートでの高橋竹山の弾く三味線のはげしく優しい音は、若者たちの心を揺さぶり、三味線のイメージ大きく変えた。しかし、その人生は決して平坦なものではなかった。
竹山がコンサートで「中じょんがら」を弾く前、竹山の語りは一段と高揚するかのようにみえたという。「中じょんがら」は、じょんがら節の中説を独奏用に竹山が編曲したもの。中節そのものは七年から十年ころにかけて、旧節から変化していった歌で、旧節に比べてリズムが骨太で明快になり、力強い中に深い哀愁がこもっていた。竹山の演奏は、自身のやりきれない怒りが相まって、強烈に聴衆の心を揺さぶる迫力があった。この曲を弾いて門付けをして歩いた昭和十年前後は、世の中が戦争一色となり、「おめえ、何が面白くて三味線弾いているんだ。ばがだもんだ」と、徹底的にいじめられた思いが鮮烈に焼きついているからだ。彼の弾く三味線から、目が見えないことで差別されてきた数々のくやしさ、戦争中の苦しみが音を超えて、伝わってくるのである。
竹山はよく語っていた。「何が苦しいたって戦争の時ほど苦しい時はなかった。門付けは仕事だし苦しいと思ったことはない。貧乏でも何とでもない。物が買えないだけで我慢すればいいんだから。戦争は人間を狂わせてしまう。兵隊は偉くて、年寄りや目の見えないものは穀つぶし扱いだった。弱いものをいじめて、ひきょうなもんだ。別におれが戦争してくれって頼んだわけじゃない。腹の中でそう思っていた。巡査や地区の見回りをするような、ちょっとした権力を持った人間にいびられた。三味線もっているだけで『非国民』とののしられ、ぶんなぐられた」
雪深い青森の地に、1910年、2男2の末子として生まれ、麻疹をこじらせ半失明、目のことでいじめられ、小学校も数日でやめてしまう。しかし、三味線と唄に出会ったことで、彼の人生を大きく変えていく。北海道、岩手、秋田、青森と門付けをし、お金がない時は、飴を売ったり、大道芸をして暮らす青年期。貧しさゆえに、一度の離婚を経験したのもこの時期であった。戦争中には三味線の演奏の機会もなく、生活は決して楽ではなかった。ものは配給制で、唄もはやらない。それでも慰問に参加したり、唄会の伴奏をしたりして食いつないでいく。
一度は三味線で食べていくことをあきらめ、33歳にして盲唖学校に入学し寄宿舎で学び、マッサージ師としてやっていく決断をしたこともあった。戦後進駐軍での演奏、民衆や労働者の民謡ブームに乗って、演奏の機会が増えていく。演奏活動はもちろんのこと編曲や「リンゴ節」をはじめとする新民謡の作曲と普及に尽力をした。彼の三味線は野の果てから、きこえてくる彼の生き様であり、大地の叫びとなった。
青年期の高橋竹山の姿は、新藤兼人の「竹山ひとり旅」(1977年、近代映画協会)にも描かれている。「竹山のたくましさは人生のどん底を覗き見たものの強さだった」と新籐は後に書いている。東日本大震災が東北を襲い、1日も早い復興を日本中の人が願っている。竹山の立った東北の大地が持つ力強さ、かれが弾いた大地の声が、人々の魂を揺さぶり、一人ひとりが立ち上がっていくことを願ってやまない。

松林拓司『魂の音色 評伝高橋竹山』(東奥日報社、2000年)

 

霧の団六『あほやけど、ノリオ』(中央法規、2004年)

2011年09月18日 22時10分40秒 | 
霧の団六『あほやけど、ノリオ』(中央法規、2004年)を読んだ。
著者は、1958年生まれで、神戸大学教育学部に在籍した落語家。2歳上の兄が、ダウン症。兄のノリオは、1956年生まれで、同年生まれ。
同じ時代を生きてきたともいえるが、同時代史ということかもしれない。
ノリオの就学をめぐって、次のような文章があった。
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幼稚園に行かない子はたくさんいたので、ノリオもそのうちの一人、で、すんでいた。
問題は小学校である。義務教育である。ここで間違ってはいけないのは、国がすべての子どもに、ぐむ、として、教育を受けさせる、のではなく、もし、そうなれば、私立小学校の教育内容に制限が加えられる可能性がある。だから、のではなく、国民がすべての、自分の子どもに責任をもって、義務、として、教育を受けさせなさい、と、いうことなのである。
親は小学校に面接に行った。
「無理ですね」
居住区内にある、特殊学級、養護学校。
「家で大事にしてあげてください」「もう、しとるがな」
遠いところにある、幼児の通園施設。
「心臓が悪い子は預かれない、何かあったら困るから」
これでは、国民の義務を果たせない。
どないせいっちゅうねん、と、区役所へ行くと、「就学猶予願い」を出すように勧められた。
「別に、願うてへんがな、何でやねん」
と、情けなく、忸怩たる思いで、願ってもない、「願い」を書かされた。
これで、教育委員会としては、拒否したわけではなく、向こうから願ってきたのだから、と、大義名分も立つ。
やがて、就学猶予の通知が来た。あんたは、大変だから、家でゆっくり養生してください、と、いうようなことが書いてあるらしい。
母は、感じのyめないわたしに、「あほは学校にくるな、やて」とわかりやすく教えてくれた。

いろいろな経過で、このノリオ君。三田谷治療教育院内に設置されていた私立小学校(「翠が丘小学校」だったか???)に、2年遅れで学校に行けることになった。その後、6年の時に、神戸に市立の養護学校ができて、そこにいくことになった。
三田谷治療教育院には、大学院生の時に、史料の整理にいったことがあったので、そのときの記憶がよみがえってきた。

しかし、阪神大震災を経て、50も過ぎるころからのノリオの姿はいろいろ考えさせられる。

目次
はじめに
第1章 兄貴はダウン症
第2章 兄弟は「こんなもんだ」と思う
第3章 落語家への道
第4章 兄貴との「普通の関係」
第5章 こんなやつ、おってもええ
おわりに

1冊のノート

2011年09月08日 22時57分06秒 | 生活教育
おかだみちと志「子どもの目 おとなの胸-子どもの詩は告発する」(『未来をきりひらく障害児教育』)

おかだは、この原稿を書き終わった時のことを、この文章の最後に付け加えている。

 私がこの原稿「子どもの目 おとなの胸」のペンをおいたあとで、青木先生から一冊のノートを見せてもらいました。エンジ色をした、そのうすっぺらなノートには、息子であり、兄であるひとりの障害児をめぐって、あつい祈りを込める母親と人間の愛を知り尽くした少年の対話が、すみとおった文字で書きつけられていました。私がどうしても、もう一節だけ書きたささずにはいられないほど、それは感動的な記録だったのです。
 おかあさんの名前は山本民子さん、少年のそれを山本篤くんといいます。
 私は読み終わった深夜の書斎で、改めて「盲・ちえおくれ」のこどもたちといっしょに、これからの人生を歩きつづけよう、と心に決めました。私はまた、日本のすばらしいおかあさんたちと障害児や、そうでないすべての子どもたちに学び、連帯し、私たちの日本を、みんなのために「ほんとうに生まれてきてよかった国」にしなければいけないのだとも、つよくいいきかせてみました。
…(後略)…

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