ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

工芸・ならの会

2010年10月31日 21時39分23秒 | その他
大学に行くついでに、工芸・ならの会の作品展をのぞいた(国際奈良学セミナーハウス 旧世尊院)。
ずいぶんご無沙汰の方々とお会いできた。この10年、いろいろあったようだが、しかし、元気な顔をみることができた。繊細な仕事と作品に接することができて嬉しかった。

吹きガラス
木象嵌
工芸
陶器
染織
写真
などなど

「ストレスが」といっていたら、
「染織は骨折りやけど、吹きガラスでもやってみたら」とのこと、「不憫というガラスビンを吹いてつくみたい・・・」

ならの会ブログ




5月のアーカイブ作業のこと

2010年10月30日 12時29分58秒 | その他
台風で奈良の小中一貫教育に関する研究会が中止になったので、すこしゆっくりすることができた。家で積み上げてあった資料を整理せよとの命令を受けて、重い腰をあげている。2010年6月に発行された『人間発達研究所通信』VOL.26(1)がでてきた。その中に、5月の連休にした田中昌人先生のアーカイブ制作集中作業に関する記事があった。栗本葉子(おおつ福祉会)さんが「田中昌人先生の「みかん箱」」という文章をよせている。次のような一節がある。

「30年前、京都大学の院生だったTさんが、田中昌人先生のゼミではじめて「障害児教育なるものに」ふれることができたのは、京都府城陽市、白梅病院(正式には、南京都病院重症心身障害児病棟(しらうめ病棟))の病棟内教育の見学・研修だったそうです。そのときの報告資料やTさんが直筆の「青やき」ができたのです。田中先生がこの資料を捨てずにきちんと保管していたということに感激され、Tさん本人でさえ忘れていた当時の思い出があふれるようによみがえってきたようでした。作業の参加者の中に、当時の白梅の実践と深く関わっていたUさんがおられたこともあり、一気に話がタイムスリップ、3日の午後はさながらに「ミニ学習会」のようになりました。ベッドに寝かされ、ベッドの柵の中にしか自由のなかった子ども達の教育権保障と集団、発達保障をかちとるために、さまざまな要求、運動や集会で訴えられたこと、「田中先生からそうした現場のナマの声や子どもの姿から学ぶことの大切さを教えてもらった」との言葉にとても大切なことが含まれていると感じました。本当に歴史の重みを胸に刻むひとときでした」

田中先生が、しらうめ病棟の子ども達の発達診断にいったとき、重症の子ども達に接して、「この子ども達は歯がきれいですね。看護婦さんやみなさんが大切にしてくれていることがわかります」とおっしゃられていたと、そのことを記憶し、回想してくれた当時の担当の先生の言葉が印象的でした。

石原慎太郎は何を考えたのか??

2010年10月28日 23時06分47秒 | 
この間、電車通勤。本が読めるから…。今日は、京都駅で、「夜明け前の子どもたち」の音声や編集を担当した方とお会いしてから、大学にいく。
今日から大学祭だが、大学院生の修論ゼミをする。ほっておけば、何も進んでいないし、怒りたくはないが…。頭が沸騰する事も多し。
帰り電車で、本を読みながら、仕事のことを考えてボーッとしてしまって、電車を降りて家まで帰ると、もっていたバックがない…。再度、駅まで戻って、結局、京都駅で見つかり、京都駅まで取りに行った。時間の無駄をしてしまった。というか「ボケ」が進んだのか…。

昨日、石原慎太郎の『再生』を読んだ。
盲ろう障害の福島智さんをモデルとしたもので、新聞の書評欄に紹介が小さく出ていたので購入した。
石原慎太郎って?と何気なく買ったのだが、よく考えてみると「あの」強面の東京都知事石原慎太郎だった。東京都立大学をつぶして、首都大学東京にかえてしまったその都知事が、福島氏を受け入れた東京都立大学のことやそこでの彼の様子を書いている。
文体も、「です、ます」体であるが、時々体言止めや「だ」というような文末が混じっていて、違和感がある。
もともとは「文学界」に出されたもの…。
なぜ、石原慎太郎が、福島智なのか?
自分にない強さに惹かれるのか?
わからないのが悔しいからなのか?
嫉妬なのか?

石原の名前をおいておいても、生井久美子『ゆびさきの宇宙』の方が読みごたえがあるし、面白かった。


岡田尊司『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)

2010年10月27日 22時58分49秒 | 
岡田尊司『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)を読んだ。コンパクトによくまとまった本となっている。著者は、ペンネームで推理小説なども書いているようだ。
この中で環境的要因の関与についての言及が興味深いものがあった。
遺伝的な要因があるとしても、その発現を左右するもの、一つには、胎児期での環境的な影響(中枢神経系の成長への物質的な影響をおよぼす男性ホルモン・環境ホルモンなどなど)、今ひとつは心理的社会的要因(家族の関心や世話、社会的な刺激、家庭内のストレス、不安や離別経験などなど)も指摘される。障害なのか環境なのかがよく問題になるが、その相互関係のありようが検討の課題となる。これは、「氏か育ちか」といった古くから議論になっているものの、今日的な展開の一つではないかなと思う。

構成は以下の通り。
はじめに
第1章 アスペルガー症候群とはどんあんものか
 1.ハンス・アスペルガーが出会った子ども達
 2.ケースは語る
第2章 アスペルガー症候群の症状はどのようなものか
 1.社会性の障害
 2.コミュニケーションの障害
 3.反復的行動と狭い意味-一つのことんい囚われ続ける
 4.その他の特性や伴いやすい問題とは
第3章 アスペルガー症候群を診断する
 1.いかに診断するのか
 2.併用される検査とは
 3.診断に際して注意すること
第4章 アスペルガー症候群の脳で何が起きているのか
第5章 アスペルガー症候群が増えている原因は何か
第6章 アスペルガー症候群と7つのパーソナリティ・タイプ
第7章 アスペルガー症候群とうまく付き合う
 1.枠組みをしっかり作り、ルールをはっきり示す
 2.過敏性に配慮する
 3.本人の特性を活かす
 4.弱い部分を上手にフォローする
 5.トラブルを力に変える
第8章 学校や家庭で、学力と自立能力を伸ばすには
 1.日常生活の問題にどう対処するか
 2.勉強好きにするコツ
 3.安心して学校生活を送らせるにはどうすればよいか?
第9章 進路や職業、恋愛でどのように特性を活かせるのか
 1.アスペルガー症候群の強みとなる特性とは
 2.アスペルガー症候群の人に会った友情、恋愛、家庭生活
第10章 アスペルガー症候群を改善する
おわりに-適切な理解と支えが、可能性を広げる

森永ヒ素ミルク中毒事件での証言

2010年10月26日 16時20分36秒 | その他
今日は、幼稚園の芋掘りだった。雨もふらずによかったのだが、今日から突然寒くなった。とはいえ、子どもたちが大きなお芋を掘りあげて、見てみてとかざしている姿はほほえましい限り…。日頃の運動不足もあり、スコップをつかったりしての筋肉痛も…。1回生のゼミの担当が先週で終わったので、少しは時間ができた。いろいろ本を見たりできている(本当は、研究費の申請の文書を書かないといけないのだが…)。

兵庫に行ったことにふれて堀木訴訟のことを書いた。コメントしていただいたように、同時期になされた田中昌人先生の森永ヒ素ミルク中毒事件に関する法廷証言にふれずにはおれない(堀木訴訟での証言より2年後、1974年3月19日)。京都府森永ミルク中毒追跡調査委員会の臨床心理検診の責任者として、法廷での証言である。この証言は、検診当時、15~16歳の被災者に対して13歳前後の重要な発達の質的転換期をどのように乗り越えていっているのかを中心に心理学の立場からその被災の実態や因果関係を明らかにすることを課題としたものだった。9~10歳の発達の質的転換期、そして14歳頃の転換期について、今日に至るまでどのような研究の成果と到達点、そして課題があるのかは一度考えてみる必要がある事柄だが、今はふれない。

堀木訴訟の際と同じく田中昌人先生の証言の最後がどのようなものであったのかだけ、森永ミルク中毒被害者弁護団編『森永ミルク中毒事件と裁判』(ミネルヴァ書房、1975年)より紹介しておきたい(pp.321-333)。

田中 (前略)公害被害者の問題に対して、臨床心理学の基礎としての発達心理学が、医学、疫学と協力して初めてとりくむことができました。その結果は、本件被災者は集団特性として、森永ミルク中毒症候群という名称で呼ばれなければならないような問題を持っていると言うこと、それは生理学的には中枢神経系の症状・障害を中核症状としてもっている状態であり、社会的には放置されてきたことによって社会的にその解決を要請している問題を中身に持っているという症候群であるわけです。そして、それは現在、青年期前期の人格発達の上で行き届いた手だてを必要としている。そういう発達要求を示していることが、はっきりいたしました。この人たちに、この恒久救済対策案に示されいるような対策というものが1日も早く、そして、現在家庭の負担でなされているようなことが一人の漏れもなく、すべての人たちに対してしっかりとなされている(く)ように、対策がとられていかなければならないと思います。岡山のほうで、病気がちでとても仲間と一緒にお互いの悩みを出し合うことができなかった人が、ようやく青年期をして自覚をもつようになり、お互いの悩みをほんとうに共通のものにしていき、支え合ってしっかり生き抜いていこうと、私たちは被災を受けて障害をもっているけれども人格の尊厳の上では立派な人間として成長していこうと、障害をもっている人たちが新しい人間としての生き方を実現しつつあります。こののところを社会が、それぞれの責任においてしっかり支えていく必要があると思います。現在の被災青年にとって何よりも必要なのは科学的な真実に裏づけられた正義であります。これが被災者を今後強く育てていく精神的な栄養となることを申しあげておきたいと思います。

森永ヒ素ミルク中毒事件と田中先生の関係については、京都大学から近江学園にうつる直前に事件が起こり、そして、1970年に京都大学に戻ったときから心理学の社会的責任を果たすべくこの問題に取り組んだものである。1969年に、「14年目の訪問」が公衆衛生学会において報告され(このことについてもいつかふれたい)、社会的にも大きく取りあげられ、その救済がもとめられたものであった。

この事件については、この大学に導いてくれた先生達の森永ヒ素ミルク中毒事件への関わりもあり、教室の財産として大切にしていきたいとも思う。被災者と同じ学年として育ってきたものとして、自分自身の歴史を振り返ることにもつながるということもあり、なぜかためらいを持っていたが、田中先生の証言記録なども含めて取り組む時期になっているのかなと感じている。

希望としての笑い-橋敏夫「井上ひさし 希望としての笑い」

2010年10月23日 23時22分02秒 | 
橋敏夫『井上ひさし 希望としての笑い』(角川SSC新書)も、長崎に行った時に新幹線の中で読んだもの。
「希望」について、近年、話題にのぼる。
寄宿舎の研究会で、希望学プロジェクトの玄田さんの「希望」についての講演で、「絶望の反対は?」と問われて、ある音楽アーティストは「ユーモア」と答えたという話を聞いた。それは1年半も前になってしまったか? なにか煙に巻かれたような講演だった。
『希望としての笑い』の構成は次の通り

はじめに 希望としての笑い-井上ひさしが求めたもの
第1章 同時代と共振し、同時代を一歩踏み出す(格闘)
 暴力と憎しみの連鎖を、愉しく断つ
 父の時代の絶望をひきうけこえる
第2章 言語遊戯者への騒乱へ、転倒へ、覚醒へ(誕生)
 周辺からの出発
 だれもが小さな火花になる
 笑うならとことん、命がけで
第3章 言葉から集団、国家までを視野にいれる(世界)
 すべての人の目と手で解決できる
 悪しき「座」を捨て自分ひとりになる
 大きな物語をひっくりかえす
第4章 フツーの人の戦後史と、これからのたたかい方(主体)
 きらめく星座はこの地上にある
 死者は生き続けなければならぬ
 自分が主語で、過去に学び未来に生かす
第5章 世界をゆさぶり、笑いをもたらす表現のたえまなき模索(表現)
 作者達の「思い残し切符」を読者に手渡す
 笑う生活の方へ
おわりに-ふたたび希望としての笑い-井上ひさしから引き継ぐ
井上ひさし略年譜
井上ひさし著書単行本目録(抄録)
あとがき

いろいろメモしたいところがあるが、時間がないのでまたの機会に
でも、一点だけ…

この本の後書きは次の日にちと言葉でしめくくられている。
2010年8月9日
ナガサキ原爆投下65年目の暑い朝、井上ひさしの家から山ふたつへだてた鎌倉極楽寺の蝉しぐれにうたれつつ 橋敏夫
ヘンなところで、長崎つながりが…ヒロシマで生者と死者の4日間のドラマ『父と暮らせば』もヒロシマ・ナガサキの戦後史を意識した作品

富永國比古『太宰治ADHD(注意欠陥・多動性障害)説―医師の読み解く「100年の謎」』

2010年10月22日 12時16分18秒 | 
もうずいぶん前になるが…長崎行きの新幹線の中で、富永國比古『太宰治ADHD(注意欠陥・多動性障害)説―医師の読み解く「100年の謎」』を読んだ。

太宰治の直弟子・菊田義孝より文学の手ほどきを受け、太宰研究を続けてきた医師が著者。
「発達障害に気づかない大人たち 」(祥伝社新書)の著者星野仁彦とも共同で臨床をしているとのこと。資料を渉猟し、作品を読み込み、人物像を探れば探るほど、「ADHD(注意欠陥・多動性障害)およびアスペルガー障害としての太宰治」が浮かび上がると評されているが、おもしろくない。アスペルガー、発達障害に何でも結びつけるのはどうかと思う。
精神科医で、小説を書く人もいたり、文章が上手だなと思う人もいるが、どうも?という本も多い。はやっていれば何でも書かせるという出版社の姿勢も問題かな。

長崎その後-「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣)

2010年10月20日 17時36分40秒 | 
「原爆を見た聞こえない人々」にまつわる手記をお送りくださり、ありがとうございました。感謝の意をメール返信でと思っていますが、それができないので、ブログ上に書き込みをしています。
無礼をお許しください。

「ドンが聞こえなかった人々」「沈黙のヒロシマ」(文理閣)は、外国の障害児教育の研究者への研究資料としてもっていくことがあります。写真、日本語、英語でそれぞれに表現されていることと、日本の障害のある人たちの生活があること、音のない人たちの表現を通して、なによりも戦争と平和のことを考えさせられるからです。これまで、写真家をパートナーにしているオーストラリア・グリフィス大学の研究者、アメリカ・シラキュース大学の研究者に手渡しています。
「原爆を見た聞こえない人々」として、ろうの被爆者の「声」を残していただき本当に嬉しいです。当事者たちの願いも踏まえていろんな苦労があった推察しています。その苦労をいろんな形で残していただき、後に続くものに示してほしいと思います。この手記をよみながら、襟を正して、歴史に向き合いたいと思いました。
ただ、残念なことに、「原爆を見た聞こえない人々」から学ぶ4話 最終話が文字化けして読めないところがありました。是非、その部分も含めて読ませてただければと思います。
裏方に徹している姿にいつも頭が下がる思いですが、これまでのことをまとめて語って残してほしい-それは自分だけのことではなく、歴史的な証言として障害のある人たちの代弁でもあるのではないかと思います。少し出しゃばりましたが、お許しください。