ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

「希望」の年を

2009年12月31日 23時59分41秒 | 生活教育
歌には、言葉を越えるものがある。それはなんなんだろう…。それは、歌う人と聴く人の共感という感情のつながりあいということなのかもしれない。

そんな歌の中には「希望」を歌うものが多い。「希望」は、希な望みなのであろうか?

類語を調べてみる。

生存・危険回避などの希望
願い ・ 望み ・ 期待(感) ・ 思惑 ・ 成算(のもてる) ・ (闇の中の)光明 ・ (助かる)見込み ・ 一条の光 ・ 出口(が見える) ・ 未来への息吹 ・ (まだ)脈(はある) ・ 楽観できる ・ 夜明け(は近い) ・ 光(の書) ・ (
~が)頼みの綱 ・ (~に)曙光(を見る) ・ (まだ)幻滅していない

将来像・将来の自分などにかかわる希望
大望 ・ 理想 ・ 念願 ・ 願望 ・ 希求 ・ 大志(を抱く) ・ (わたしの)夢 ・ 志望(校) ・ 青雲の志 ・ 野望 ・ 目標(がなくては生きられない) ・ 将来性のある ・ 有望な ・ 展望(を開く)

書き初めに「希望の年」というのが定番である。新しい年は、希望を、みんなで語り合いながら、共有しあえる年にしていきましょう。

山崎豊子『小説ほど面白いものはない』(新潮社)

2009年12月31日 20時47分19秒 | 
 山崎豊子の小説の組み立て、特に戦後史もの(不毛地帯、沈まぬ太陽、運命の人)に興味があった。前作の『作家の使命 私の戦後』に続いて、読んだ。帯には、「テーマはどう見つける?ストーリーの組み立て方は?」と書いてあるのにも惹かれた。
 対談集なのだが、戦後ものと言うより、大阪もの(浪速のど根性)や大阪弁のところが面白かった。そのほかのところは、目が悪くなったのか、あるいは血圧が高くなるのか集中できない。年をとって、本が読めなくなったのかと少し寂しくなる。
 構成は次の通り。

はじめに
第1章 「人間ドラマ」を書く
 社会小説を生み出す秘密×石川達三
 1年1作主義×荒垣秀雄
 小説に聖域はない×秋元秀雄
 小説ほど面白いものはない×松本清張
第2章 「大阪」にすんで「大阪」を書く
 大阪に生きる×岡部伊都子・水野多津子
 大阪の青春、大阪の魅力×今東光
 のれんの蔭のど根性×菊田一夫
 ええとこばかりの浪速の女×浪花千栄子
第3章 「消えない良心」を書く
 事実は小説よりも奇なり×城山三郎・秋元秀雄・三鬼陽之助・伊藤肇
 死にものぐるいで書く×長谷川一夫
 日系米人の「戦争と平和」×ドウス昌代
 『二つの祖国』は反米的か×三國一郎
 沈まぬ太陽を求めて×羽仁進
『運命の人』沖縄取材記
おわりに
年譜

大阪弁
荒垣:大阪源というものが、面白味がありますね。間が抜けている世杖、ズバリといってのけたり…。
山崎:小説を書いていて、おもしろいことを発見したんです。大阪弁というのはビジネス用語なんですね。恋愛の用語としては困るんです。…「愛してます」というのを「愛してまっせ」というたらアウトです。…(28頁)

山崎:私の場合は故郷の大阪を舞台にした、いわゆる大阪ものを書いている時は、独特のリズムがあるんですね。自分でも不思議です。大阪弁の会話を書いていますと、会話の文章が地分にも入ってきて、独特のリズムがあるんですよ。(54頁)

山崎;浪花さんは、映画にしても、ラジオにしても、もっぱらしゃべる方ばかりですけれど、私の方は、しゃべり言葉も字で表さんなりませんので一苦労です。というのは、しゃべり言葉と違う、いうことですねん。-例えば「そやあらしまへんが」というのは話し言葉ですけど、これを文字で表現する時は「そやあらしまへんでっしゃろ」と書くようにします。でないと、読む人にはわかりにくいんです。それから、それで、というのを大阪弁では「ほで」と過くる発音しますが、これは帆立貝かなんかと間違われるおそれがありますので、「そいで」と書くようにしています。まあ、こういうところがやっかいなところで、大阪弁も文字で表すときには、話し言葉に味の素と塩で味付けして、読みやすいようにと心がけています。(122-123頁)

山崎豊子は、大阪のど根性を強調している。東京のスマートさに比して、その図太さと繊細さをもつ大阪を中心とする関西の文化と言うことも大きい。その中には笑いも含まれるのだが…。

「希望」(高谷清)

2009年12月29日 23時01分56秒 | 生活教育
「特定非営利活動法人(NPO)きらら」の機関誌に高谷清先生が書かれた「希望」についてのエッセイがおくられてきた。「生活教育における希望」ということを考えてみる。

言葉にみる人間のこころ ②
希望
                             谷 清

 びわこ学園に在園しているほとんどの人は身体的に「ねたきり」の状態で、「理解力」も障害をうけている「重症心身障害」といわれる状態にある。しかし人数はごく少ないが、言葉で会話できる人もいる。先日、自分で動けない40代の車椅子の彼を押して散歩した。彼は知的障害も伴っているが、日常のことは理解できるしゆっくりとしゃべることができる。発音は聞きとりにくいが、慣れているので大体はわかる。車椅子を押していると、「じぶんのあしであるきたい」と訴えるように言った。
 一瞬、会話が途切れた。彼の「障害」を考えるとどうしても歩くことができない。私は「そうか、それはそうだね、歩きたいね」というのが精一杯であった。このような会話は他にもある、言葉がほとんど出ない人が「歌手になりたい」と声を絞りだす。まったく動けず「ねたきり」の状態の人が「結婚したい」と打ち明ける。
 語っているのは「希望」である。それらの希望はかなえることは、ほぼ無理である。では、どうしたらよいのだろうか。「希望」は未来に関することであり、「ねがいのぞむこと」である。「希」一字は「少ない、まれ」の意があり、「望」は「遠くを見る」意味である。「まれなことを未来に見ている」のである。
 しかし実現を「望んでいる」のは現在である。未来を望むことが、現在にあるというのが大事なのではないだろうか。その「望み」が実現するかどうかでなく、「希(まれ)」であり、実現できなくても、そのような「望」をもっているということ、そのことを話す人がいること、共感があること、そのことが「現在」を充実させるのではないかと思うのである。実現も大事であるが、その「希望」を語り、共感しあえるということが、今を生きる「希望」なのではないだろうかと、考えながら車椅子を押していた。(理事長)

重松清『十字架』(講談社)を読む

2009年12月29日 09時35分55秒 | 
重松清『十字架』(講談社)を読む

これは、中学生のいじめ自殺によって、背負ってしまったものを抱えながら、その後、青年になるまでを主人公の視点から描いたもの。
中学二年でいじめを苦に自殺した生徒の遺書に、4人の名前が書かれていた。その中で、「親友」として書かれていた主人公、あやまられた女生徒、その二人と自殺をした子どもの家族との関わりを描く。背負った重荷をどう受け止めて生きればよいのか、悩み、迷い、傷つき、別れ辿りながら青年として成長する姿を描く。

いけにえ
見殺し
級友
卒業
告白
別離
あのひと

重松の『疾走』は不幸な青年の物語だったが、それをすこし思い起こさせる。すこし「いやな」作品と思うのは、年をとって、青年の視点を共有できなくなったからなのか?

国際児童文学館の閉館に怒り

2009年12月27日 22時01分58秒 | 絵本
読売新聞より

 大阪府の財政難から橋下徹知事が来年3月末での廃止を決めた府立国際児童文学館(吹田市)が、27日で府立中央図書館(東大阪市)への資料移転準備のため閉館し、25年の歴史に幕を下ろす。約71万点の書籍・資料を収蔵する同館の廃止には、文化人や住民らから「橋下知事の文化軽視だ」として反対運動もあった。府側は「移転で利便性は増す」とするが、利用者からは「なぜ廃止を急ぐのか」との声もなお少なくない。

 1階の閲覧室は26日も、絵本や紙芝居を子どもに読み聞かせる家族連れでにぎわった。家族で訪れた兵庫県加古川市の女性(38)は「素晴らしい施設。本当になくなってしまうんですか」と残念そうに話した。

 宮沢賢治の童話集「注文の多い料理店」の初版本や、長嶋茂雄さんが表紙の「週刊少年サンデー」の創刊号など貴重な収蔵品も多く、吹田市の主婦(66)も「全国に誇れる施設だったのに」と惜しんだ。

 解雇される運営財団の職員約10人の再就職先や廃止後の建物をどうするかなども決まっておらず、向川幹雄館長は今も、「性急に廃止する必要はない。橋下知事は方針を凍結するべきだ」と訴えている。

 同館は児童文学研究家の鳥越信さん(80)が寄贈した約12万点の資料を基に1984年設立。開館直後は年10万人以上いた利用者が、最近は5、6万人に減り、橋下知事は「運営努力が足りない」と2008年6月に廃止を決めた。鳥越さんらは寄贈資料の返還を求め、民事訴訟で争っている。

重松清『星をつくった男★阿久悠と、その時代』(講談社)を読む

2009年12月16日 08時31分13秒 | 
重松清『星をつくった男★阿久悠と、その時代』(講談社)を読んだ。

戦後歌謡史に輝く阿久悠の生涯と仕事を描いたもの。歌詞としての「言葉」を紡ぐ阿久悠を、「言葉」を物語に織り込んでいく重松がとらえる、二重の意味で「言葉」が重みをもったものとなっている。このような「言葉」の力を再確認する必要があるが、しかし、今という時代はそれを押しつぶしていくことも強く感じる。
阿久悠の思想はどうなのかは問わないにしても、ある人物の仕事の捉えながら、その時代の呼吸をも感じさせる、一つの戦後史の描き方ではないかと思う。そんな仕事をしてみたい。

プロローグ 32年目の津軽海峡・冬景色
第1章 黒塗り少年の履歴書
第2章 「阿久悠」の誕生
第3章 遅れてきた作詞家
第4章 時代を叩け
第5章 少女たちのサクセス
第6章 魔球はハリケーン
第7章 「父」なき世代
第8章 やせがまん
第9章 八月の光
プロローグ そして歌は星になった


窪島務『現代学校と人格発達-教育の危機か、教育学の危機か』(地歴社、1996年)

2009年12月15日 16時35分31秒 | 
 窪島務『現代学校と人格発達-教育の危機か、教育学の危機か』(地歴社、1996年)を読む。
 ずいぶん前に、関係の論文は読んだのだが、始めから終わりまで通読した。もう、10年以上も前に出された本だが、じゅうぶん今日的にも通用する教育学を論じたものである。とはいえ、この10年以上の間、教育学は本当にすさんだものとなってしまった。本格的な教育学書は見いだされない状況は、「教育学の危機」である。
 目次は次の通り。特に、第5章の「発達と学習の主体としての人格」が興味深かった。
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まえがき
序章
 1.子どもの発達の危機から学校と教育への危機へ
 2.学校の「転換」へ
第1章 子ども観と教育的関係
 はじめに
 1.子ども論の諸相
 2.教育的関係論の重要性と陥穽
第2章 学習の「転換」論のゆくえ
 はじめに
 1.教育内容論の諸相
 2.教育課程論の前提
 3.竹内常一氏の「学習の転換」論
 4.子どもの「一人前像」と教育目標
第3章 すべての子どもの学習権を保障するために
 はじめに
 1.「特別なニーズ教育」
 2.太田堯氏の「養護学校=差別」論
 3.学習権の保障と履修主義
第4章 人間的協同の場・快適な労働の場としての学校
 はじめに
 1.教育における市民的社会的原理
 2.教師の生きがいと健康保障
第5章 発達と学習の主体としての人格
 はじめに
 1.発達への懐疑
 2.発達とはなにか
 3.発達の主体としての人格
 4.人間的知性の発達
 5.現代的人権としての発達への権利

補論 登校拒否と「依存-自立」関係の発達