小幡欣治『評伝 菊田一夫』を読み終わった。
少年菊田はどん底生活、台湾に連れて行かれたり、売り飛ばされたり、その貧困な生活をくぐって、奉公人の生活で、宝塚をみにいくような女性に初恋とあこがれ。
そおから、芝居の脚本、作家として這い上がっていく。はじめは、「アチャラかもの」から。戦中は、「戦意高揚もの」まで。
敗戦後、「戦犯文士」の自意識から、ラジオドラマ、演劇などを手がける。気になるところを、摘記しておく。すぐ忘れてしまうので。
戦後のラジオの時代 p.160-161
「食うために、菊田一夫はラジオを書き始めたが、それでもこの時期『東京哀詩』と『堕胎医』という舞台劇を発表して、賃貸した演劇界に戦争惨禍の現代劇として一石を投じた功績は忘れられてはならないだろう。前者は、戦後間もないガード下が舞台で、戦災孤児、夜の女、やくざ者など、底辺に生きる人間たちの姿が生々しく描かれている。戦後風景の糸コマを切り取ったドラマとして菊田は冷めた目で書いている。わずかに最後の景で、浮浪児たちが夢の中で死んだ父母に出会ったり、楽しい食事をしたりする場面に、菊田一夫のリリシズムが胸を熱くさせる。」「後者は・・・戦地から帰ってきた若い医師が、夫から性病を移され妊婦に診察を頼まれる。後略」
p.163
「多忙をきわめていた菊田一夫に、NHKから呼び出しがかかったのは、昭和22年の春だった。/出かけていくと、4回にあるCIE(民間情報教育局)ラジオ課のオフィスに連れて行かれて、放送班長のH・ハギンズ少佐から戦災浮浪児救済のドラマを書けと言われた」。これを契機にかかれたのが『鐘の鳴る丘』。放送は、昭和22年7月22日にはじまった。
「菊田一夫はこの貴各区を聞いたとき、放送時間は別にして、自分以外に浮浪児救済のドラマを×作家はいないと、みじめだった幼年期を重ね合わせてた。さらにまた、「戦意高揚劇」をいっぱい書いて、浮浪児たちの親や兄たちを線条へ送り出し、戦死させてしまった古都への反省もあった。『鐘の鳴る丘』を書くことは、戦犯作家菊田一夫の贖罪でもあった。」(165-166)
東宝時代と芸術座 ここでの宮城まり子を扱った作品も興味深い。
『まり子自叙伝』(菊田一夫)。自叙伝とあるように、当時「ガード下の靴磨き」やごく芥子はいらんかね」などを詩って人気のあった宮城まり子の半生記を舞台化したものである。どさ回りの売れない芸人まり子が、苦労の末に世に出る成功譚で、・・・これが当たって、三ヶ月のロングランとなり、彼女は女優として認められた。」
その他、八千草薫の出ていた芝居についても記述がある。
菊田の「敗戦日記」が、昭和39年8月号「オール読物」に公表された。その部分が、引用されている(「戦犯文士」の項、p.136~)
敗戦の詔書の発表の前日8月14日
情報局より℡。至急来いとのこと。/午後3時、情報局s氏の許へ行く。/「終戦が決定し巻いた。今夜7時のニュースに詔勅が出る筈です。出れば直ちに帝都には限界令が布かれるでしょう。・・・」(p.140)
「八月六日の日記である。
広島に原爆。園井恵子被爆。
とある。
たしかに、この日原爆が投下された。だが、政府(大本営)が翌日発表した名称は「新型爆弾」であって、原子爆弾という名前が一般に流布するようになるのは十三日頃からである(『夢声戦争日記』昭和二十年下)。山田風太郎の『戦中派不戦日記』(講談社文庫
では、十一日。「敵が今回広島に使用せる爆弾を指せるなり。原子爆弾なりと伝えらる。ウラニュームを応用せるものか」
まして原爆(傍点あり)という呼び方が使われるようになるのは、もっとあとである。
また、園井恵子被爆の報が徳川夢声の耳に入ったのは、八月二十日である(『夢声戦争日記』)。後略
つまり菊田一夫の『敗戦日記』というのは、日記の形式取ってはいるが、メモなどを元にして、あとから書かれたものあと判る。」
(146-147)
要するに、「原子爆弾」という呼び方は、八月十一日には識者の耳に入り、十三日頃には一般に流布するようになっていたのである。
だから、八月十五日には、「詔勅」には「新ニ残虐ナル爆弾」と書かれ、「新爆弾」と新聞報道がなされたのだが、「新爆弾」「新型爆弾」は、この時には「原子爆弾」という名称が流布されていた。
翻って、田村一二の敗戦の日の記録「石山学園日誌」に「原子爆弾」と記されていたのは、当然あり得ることだということがわかる。それにしても、徳川夢声やその他様々な人たちの公開されている日記での記述をよく調べておかないといけないと痛感。
そのDVDがでた。さっそく、借りてきた学生さんがいて、続けてはみれなかったので、前半と後半とを分けてみた。
いろいろ面白い発見があったが、「アラジンの魔法のランプ」は3つの願いをかなえようというもの!
かつて、レオ・カナーが子どもの問診につかったのも「3つの願い」。これは、田中昌人先生によって現在まで受け継がれているのだが、そうか「3つの願い」なのだなと・・・・。
このことについても、ちょっと広げて書いてみたいことである。
はじめに書かれている部分には共感を覚える。福祉実践における方向性を見失う傾向、外部の批判とその裏腹の自己の実践の正当化、実践的考察の強調と反省的態度・・・「糸賀の発言には分厚く蓄積された本来の意味における教養の裏打ちがあり、社会の中において自らがなし得ることに対する問いかけがある」などなど。
木村の「国民」論と「国民教育」論については、教育学的に考えてみる必要がある(「国民学校」の評価にかかわる)。とはいえ、木村から糸賀への論及は、どうも抽象度がたかいところをすくい取ってつなげているような印象があり、どうも落ちてこない。
木村における「実践」性と糸賀における「実践」性について、もうすこし何をみていたのか、「国民」として、差別や貧困、障害へのまなざしを具体的に確かめたいと思う。
田村が糸賀を評して、「笑顔がよいが、おちのないしゃべりはなんとかならないのか」とかなんとか書いていた。抽象度をたかめた哲学的な議論は時として、迷宮におちいっていくのが「おち」だ。自戒しなければ!
糸賀一雄没50周年。その源流をたどると木村素衛、そしていわゆる「京都学派」にいく。そんな関係で、「京都学派」について、よんでいる。(中略)東大の井上哲次郎との関係で、自ら考えることを追求した西田・田辺たちの京都帝国大学の哲学科。その広がりの中で、いろいろな人たちの開かれた学びができあがっていく姿をとらえている。東大のケーベルの弟子、波多野精一の哲学史・宗教哲学では、糸賀が最後の卒業生となった人その晩年が「波多野精一「バラの情熱、白百合の清楚」」。糸賀が代用教員時代に慕った木村素衛は、「木村素衛の「玉砕」」として西田の亡くなった後の死を書いている。「数理哲学はいきな学問」(木村)「教育学はやぼな学問」(高坂)「いや、俗な学問さ」(木村)と・・・。俗のなかにずっぽりとつかりながら、教育学の構築を行おうとしたのだが。
この木村と高坂のやりとり、「いき」と「やぼ」について、九鬼周造の『「いき」の構造』(1930年、岩波書店)からとってきているやりとりであることに気づかされた。
九鬼は、「いき」とはなにかを、垢抜けて(洗練)、張りのある(緊張)、色っぽさ(媚態)と定義し、幾何学的に概念関係を図示している。すなわち、「いき」と「野暮」に対角線に描き、もう一つの対角線に「甘味」と「渋味」を描き、その四角形を、「上品」と「下品」、「派手」と「地味」の四角形を対応させる、四角柱をつくって説明している。
これを紹介しているのが、中央公論社の編集者で評論家となった粕谷一希「九鬼周造」『粕谷一希随想集Ⅱ 歴史散策』(藤原書店、2014年)である。『「いき」の構造』自体を上梓したことの九鬼にとっての意味を想っていることも興味深い。九鬼は「江戸っ子」ではあったが、西田幾多郎によって京都帝國大學文学部哲学科に招聘されることになる。
こうした九鬼の「いき」と「野暮」の対比的な概念を前提としての木村と高坂のやりとりなのだが、しかし、木村は教育学を「俗」と表現し、「いき」「野暮」と次元の違いを指摘した。考えてみると、「いき」「野暮」は理論の成熟度を示すのかもしれないが、教育学は「俗」としてみると、それは実践性の次元を指しているのかもしれない。しかし「俗」の反対語は「僧」「雅」とかだが・・・。
統合失調症に関連するのか、トラウマの遺伝(?)ということか、戦争を引きずって、3代に「発現」する少女と彼岸花。それが何を物語っているのか?
ミステリーなのか、ホラーなのか?推理小説なのか、歴史小説なのか?
もとものは、戦争、満蒙開拓義勇軍や満州の聞き取りをベースにできた小説なのだろう。
NHK出版が出すという所も、その意味ではうなずける。
2019年11月1日から
1944年にあった東海沖地震、そして、それが戦中で隠蔽され、それを予知した人たちが逆に弾圧されたということ。これが、西村京太郎は書きたかったのだろう。それには、西村の戦中の体験(十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」集英社新書)との関係もある。この地震のことは、NHKで取り上げられたことがあるし、また、『戦争に隠された「震度7」: 1944東南海地震・1945三河地震』という本もある。
名古屋の中島飛行機の工場の話もでてくるが、そこには京都師範学校の学生たちが学徒動員で働いており、この地震と空襲で帰ってきたということもあるようだ。青木嗣夫先生の戦中時代の回想を再度、確認しておきたい。