2013年、国会では、障害者権利条約の批准の審議がなされた。11月19日衆議院本会議において全会派の賛成で承認されるとともに、参議院に送られ、12月4日には参議院本会議で承認された。年を越えて、2014年1月20日、国連に批准書を寄託し、この日が国際的に日本政府の障害者権利条約批准の日となった。ついで、2月19日、この条約は、日本の国内においても発効することとなった。
振り返ってみれば、2006年、国連総会において障害者権利条約が採択され、その後、署名が開放され、2007年9月28日に日本政府は署名し、批准の意志を明確にした。その後、批准国が一定の数になり、2008年5月3日に障害者権利条約は国際的に発効し、国連に障害者権利委員会が設置されることとなった。2009年3月、当時の麻生内閣は、日本はすでに条約を批准すべき要件が備わっているとして、国会での批准承認を行おうとした。しかし、障害者自立支援法違憲訴訟が全国的に広がり、障害者制度改革なしに権利条約を批准することに対して、障害者団体から強い批判をあびることとなった。
2009年9月の政権交代による民主党政権の誕生によって、「障がい者制度改革推進本部」が組織され、そのもとで組織された障害者制度改革推進会議によって、2010年1月より障害者権利条約批准に対応する障害者法制度の整備の検討が行われていくこととなった。この障害者権利条約の批准に向けて、障害者基本法の改正、障害者総合支援法そして障害者差別解消法の成立など法制度の改善が進められてきたが、教育分野では、2007年度より開始された特別支援教育のあり方が検討され、中央教育審議会において、2012年7月、「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)」が出され、就学指導の在り方、基礎的環境整備と合理的配慮等を内容とするインクルーシブ教育の構築と特別支援教育の推進が実施されることとなっている。
2013年度は、障害者権利条約の批准という障害者施策の今後にとっても新たなスタートとなる年度であったことを確認したい。
大学においては、いろんなことが起こってきた1年でもあった。大学は、学部改組2年目となり、三大学連携のもとでの次世代教員養成センターの設置があり、文部科学省からミッションの再定義をもとめられるとともに、大学院の改組を視野に置いた教員養成の高度化について議論が進められた。多忙を極め、おおよそ教育と研究のできるような状況でもないことが続いている。
附属学校といえば、今年度で、附属小学校の特別支援学級の設置から50周年となっている。2014年3月30日にはその記念の行事が予定されている。
個人的なことで恐縮であるが、この場を借りてこの1年のことについて記させていただきたい。振り返ってみれば、本学への着任は、1988年4月であり、それからすでに26年目が過ぎることになった。次の年には、昭和から平成へと年号が変わった。昭和が終わり、平成になって、四半世紀を経たということになる。今年度、近親のものが亡くなったこともあり、2014年1月、2月は現実感に欠けた生活をおくり、しばしば過去のことについて思いにふけることが多かった。これまでお世話になった方たちが、鬼籍にはいられていく報に接することが多くなってきた。そろそろこれまで先延ばしにしてきたことをやっておかなければならないとの思いは強くなる一方である。
京都府立与謝の海支援学校の学校づくりを担った故青木嗣夫先生は、同年齢の頃、「号泣」と題して次のような文章を書かれている(青木嗣夫『未来をひらく教育と福祉』文理閣、1997年)。
「私たちの教師としての生活に、一人の人間としての生き様の中に、消すことのできない、いや、決して消してはならない‘宝’として持ち続けてきたもの、それは‘花もつぼみの若桜’として、名古屋から舞鶴への学徒動員の中で見てきた戦争であり、人間の生と死であり、生き様であった。工場で働き、空襲にあい、寄宿舎を焼失し、親友の死に出会い.この手でまるで魚でも焼くかのごとく長い鉄棒で親友を荼毘にふした悲しくもきびしかった経験。一七歳の少年が経験した事実であった。
同じ村の出身「起須君」を失った私は、毎年お盆が来ると墓前に立ち、「君の分も仕事する。ぼくは二人分せんなん」と年に一度ではあったが決意をし続けてきた。近年は、「果たして二人分の仕事が出来たろうか」と自省しつつ、名古屋、舞鶴の経験を持ち、戦後そのものを生きてきた教師として、「一体何を後輩に伝えるべきか」を考えさせられている」
これまで、「すべての子どもにひとしく教育を」として障害児教育を創りあげてきた人たちから学びつつ、自分自身の消してはならない「宝」はなになのかを確認しあいながら、歩んでいきたい。卒業生・修了生のみなさんの未来を期待し、これまでの縁のあった先生方、学生・院生、卒業生の皆さんの健康を祈念すると共に、今後のご指導、ご鞭撻をお願いする次第である。
振り返ってみれば、2006年、国連総会において障害者権利条約が採択され、その後、署名が開放され、2007年9月28日に日本政府は署名し、批准の意志を明確にした。その後、批准国が一定の数になり、2008年5月3日に障害者権利条約は国際的に発効し、国連に障害者権利委員会が設置されることとなった。2009年3月、当時の麻生内閣は、日本はすでに条約を批准すべき要件が備わっているとして、国会での批准承認を行おうとした。しかし、障害者自立支援法違憲訴訟が全国的に広がり、障害者制度改革なしに権利条約を批准することに対して、障害者団体から強い批判をあびることとなった。
2009年9月の政権交代による民主党政権の誕生によって、「障がい者制度改革推進本部」が組織され、そのもとで組織された障害者制度改革推進会議によって、2010年1月より障害者権利条約批准に対応する障害者法制度の整備の検討が行われていくこととなった。この障害者権利条約の批准に向けて、障害者基本法の改正、障害者総合支援法そして障害者差別解消法の成立など法制度の改善が進められてきたが、教育分野では、2007年度より開始された特別支援教育のあり方が検討され、中央教育審議会において、2012年7月、「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)」が出され、就学指導の在り方、基礎的環境整備と合理的配慮等を内容とするインクルーシブ教育の構築と特別支援教育の推進が実施されることとなっている。
2013年度は、障害者権利条約の批准という障害者施策の今後にとっても新たなスタートとなる年度であったことを確認したい。
大学においては、いろんなことが起こってきた1年でもあった。大学は、学部改組2年目となり、三大学連携のもとでの次世代教員養成センターの設置があり、文部科学省からミッションの再定義をもとめられるとともに、大学院の改組を視野に置いた教員養成の高度化について議論が進められた。多忙を極め、おおよそ教育と研究のできるような状況でもないことが続いている。
附属学校といえば、今年度で、附属小学校の特別支援学級の設置から50周年となっている。2014年3月30日にはその記念の行事が予定されている。
個人的なことで恐縮であるが、この場を借りてこの1年のことについて記させていただきたい。振り返ってみれば、本学への着任は、1988年4月であり、それからすでに26年目が過ぎることになった。次の年には、昭和から平成へと年号が変わった。昭和が終わり、平成になって、四半世紀を経たということになる。今年度、近親のものが亡くなったこともあり、2014年1月、2月は現実感に欠けた生活をおくり、しばしば過去のことについて思いにふけることが多かった。これまでお世話になった方たちが、鬼籍にはいられていく報に接することが多くなってきた。そろそろこれまで先延ばしにしてきたことをやっておかなければならないとの思いは強くなる一方である。
京都府立与謝の海支援学校の学校づくりを担った故青木嗣夫先生は、同年齢の頃、「号泣」と題して次のような文章を書かれている(青木嗣夫『未来をひらく教育と福祉』文理閣、1997年)。
「私たちの教師としての生活に、一人の人間としての生き様の中に、消すことのできない、いや、決して消してはならない‘宝’として持ち続けてきたもの、それは‘花もつぼみの若桜’として、名古屋から舞鶴への学徒動員の中で見てきた戦争であり、人間の生と死であり、生き様であった。工場で働き、空襲にあい、寄宿舎を焼失し、親友の死に出会い.この手でまるで魚でも焼くかのごとく長い鉄棒で親友を荼毘にふした悲しくもきびしかった経験。一七歳の少年が経験した事実であった。
同じ村の出身「起須君」を失った私は、毎年お盆が来ると墓前に立ち、「君の分も仕事する。ぼくは二人分せんなん」と年に一度ではあったが決意をし続けてきた。近年は、「果たして二人分の仕事が出来たろうか」と自省しつつ、名古屋、舞鶴の経験を持ち、戦後そのものを生きてきた教師として、「一体何を後輩に伝えるべきか」を考えさせられている」
これまで、「すべての子どもにひとしく教育を」として障害児教育を創りあげてきた人たちから学びつつ、自分自身の消してはならない「宝」はなになのかを確認しあいながら、歩んでいきたい。卒業生・修了生のみなさんの未来を期待し、これまでの縁のあった先生方、学生・院生、卒業生の皆さんの健康を祈念すると共に、今後のご指導、ご鞭撻をお願いする次第である。
心して仕事します。またご指導ください。