ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

『発達障害の子どもの「ユニークさ」を伸ばすテクノロジー』

2008年03月30日 23時11分42秒 | 
中村賢龍『発達障害の子どもの「ユニークさ」を伸ばすテクノロジー』(中央法規、2007年)

第1章 テクノロジーを利用する新しい教育
1.困難を抱える子どもたち
2.求められている新しい学校
3.合理的配慮があれば
4.発達障害の子どものテクノロジー利用に対する不安
第2章 さまざまな苦手をカバーするテクノロジー
1.注意集中を助ける技術
2.理解を助ける技術
3.記憶を助ける技術
4.思考の整理を助ける技術
5.書くことをた助ける技術
7.計算を助ける技術
8.コミュニケーションを助ける技術
おわりに ユニークな才能を引き出す教育へ

アメリカの大学の合理的配慮の紹介あり、学校へのテクノロジーの導入の意義、思考を助けるマインドマップなどの紹介は有効かも…。

硬直した学校の問題が大きい。これについて、例えば、学習指導要領などで留意事項として柔軟な導入を記述しても良いのに。そんなことよりも、「君が代を歌わせる」ことに執心しているのが文部科学省の立場である。

堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』を読む

2008年03月08日 00時45分17秒 | 
堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』(岩波新書、2008年)を読んだ。

衝撃だった。新自由主義のもと、教育、医療などの暮らしを支えるシステムが縮小され、貧困が広がり、そのもとで、自発的に戦争にかり出されていくシステムが作られていた。その戦争でさえ、民営化され、ビジネスとなっているのだ。貧困に陥った国民の目線で見ると、そこには自由も選択肢もなく、とどまるもゆくも地獄となっている姿がある。

まず、はじめに貧困の広がりと肥満児童の問題が取り上げられ、心をわしづかみにされた。太っているものの実感として、やはり心の貧しさも含めた貧困が身体に表れていると言うことだろう。教育でも、「落ちこぼれ防止法(No Child Left Behind Act)によって、高等学校の生徒の個人情報が軍に合法的に渡され、それが軍隊のリクルートに使われるということも考えさせられるものがあった。
新自由主義の席巻、アメリカナイズされた教育や世界観の広まり(特別支援教育の分野でも)、その行き着く先はどのようなものか。

「「個人情報」を握る国と「民営化された戦争ビジネス」に着手する企業との間で、人間は情報として売り買いされ、「安い労働力」として消費される商品になる。戦死しても名前が出ず数字にすらならない、この顔のない人間達の「仕入れ先」は社会保障削減政策により拡大した貧困層、二極化した社会の下層部だ。たとえ一国内でアレ地球全体でアレ、格差は拡大すればするほど戦争ビジネスを活性化させ、そこから出る利益を増大してくれる」

目次は以下。

プロローグ
第1章 貧困が産みだす肥満国民
第2章 民営化による国内難民と自由化による経済難民
第3章 一度の病気で貧困層に転落する人々
第4章 出口をふさがれる若者たち
第5章 世界中のワーキングプアが支える「民営化された戦争」
エピローグ

ぜひ読んでみてほしい。

小国喜弘『戦後教育のなかの〈国民〉-乱反射するナショナリズム』を読む

2008年03月01日 23時56分02秒 | 
小国喜弘『戦後教育のなかの〈国民〉-乱反射するナショナリズム』(吉川弘文館、2007年9月)を読みおわった。スマートだとは思うが、納得がいかない。
目次は次の通り。

はじめに
第1章 もう一つの教育基本法-教師達の戦後責任とナショナリズム
第2章 国民内部の一体性-加藤文三「石間をわるしぶき」
第3章 国民史の起源と連続-月輪古墳発掘運動
第4章 国民的記録の揺らぎ-本多公栄「ぼくらの太平洋戦争」
第5章 反復される記憶-地理的統合とポスト植民地主義
第6章 「国民」を創造する送致としての学校教育
おとがき

本書についてのコメントは、日本教育史往来にもあったが、そのコメントは良く本質を突いているような気がする(要するに、「国民国家論」という今日の視点から、戦後の教育の歴史と実践を後から批判的に検討するというもの)。筆者のstandpointが、歴史の主体や現実に遭遇してそれを解決しようとするものに即して思考するということではなく、そこからはなれて、「傍観者」的な目で見ているように思えるのである。しかし、それはそれで重要であるとも思う。主観的な語りが幅をきかしたり、ファナティックな歴史教育論(藤岡信勝やつくる会の教科書など)が出現している中で、このような冷徹な実践分析と教育論は必要かもしれない。