新しい年度が始まって、4月が終わろうとしている。
東日本大震災による大規模被害に対して、被災者のみなさんに心からのお見舞いを申し上げるとともに、生活と教育の復旧復興を願うものである。
阪神大震災の後、復興過程での調査に加わり、少しばかりお手伝いさせていただいた。その後、求められて「自然災害と危機管理」の一文をかかせていただいた(『養護学校における危機管理マニュアル』明治図書、2004年)。かつての一文を掲載し、批判や示唆をお願いするものである。
--------------------------------------------------------------
自然災害と危機管理
広い意味での災害が、広く障害の発生の基礎となっていることは、国際的にも共通の認識となってきた。例えば、国連「障害者に関する世界行動計画」(1982)においては、「多くの障害は、栄養失調、環境汚染、不衛生、不適切な産前・産後の処置、水が媒介となる様々な病気、そしてあらゆる種類の事故への対策を講ずることによって予防することができるはずである」(B-4)と指摘され、「荒廃と破局、貧困、飢え、苦難、病気、そして障害者の大量発生をもたらす戦争を防止すること」(B-5)が強調されている。障害の発生を防止するという点においても、災害への対策や戦争による荒廃、窮乏を回避する措置が講じられなければならない。
自然災害として最大の被害をもたらした関東大震災から80年を経、第二次世界大戦による荒廃から半世紀が経過した。これまでの歴史の中で、災害や荒廃と直面し、その中で障害児教育・福祉への問題提起がなされ、真価そのまた試されるという経験がなかったわけではない。そのような経験を振り返りながら、今日における自然災害に対応する危機管理について考えてみたい。
1.災害と危機管理への問題提起-戦前・戦後直後における歴史点描
一般に災害は、暴風雨、地震、洪水などの自然によるものをいうが、その性質、規模、範囲、被害の程度などの違いがあり、一律に検討することはできない。また、そのような自然災害と障害児・者の遭遇、その克服の経験について、これまでの歴史的な経験を本格的に整理したものはない。危機に直面し、それを克服するために、障害児・者の新たな社会的施設やネットワークという価値が創造されるという側面もある。災害下における障害児・者の危機的限界状況の特徴とその克服・復興のプロセス自身は、障害児教育や障害者福祉の到達を反映しているという意味で、社会的歴史的な性格をもっている。しかし、災害という危機的状況と障害児者の交叉の中で問題提起され、また、その時期の歴史的な到達点を示すものや歴史的な教訓を汲み上げることができるものは点在している。
その最初のものとして、死者およそ1万人となった関東大震災(1923年)において東京の特別学級に在籍していた児童の多くが亡くなった事実に対する、心理学者城戸幡太郎の鋭い問題提起をあげることができる。すなわち、城戸は、「震災の特殊学級にゐた大多数は他の児童の大多数が生存し得たにも係らず其の危機から彼等自身の生命さへ救う方法を見いだすことができなかった」とし、大地震という機会に「人間の本能や知能が如何に働くかを研究して人類のために一つの記録をも遺し得なかった日本人の学問的能力」を問題にしたのである1)。
また、関東大震災という大規模な災害ではなく、局地的一時的な災害では、戦前においても特別学級の存在とその担任が危機の回避という点では大きな役割を果たした事例もある2)。学校関係者の死者も出した大型台風「室戸台風」は、1934年9月、四国の室戸岬から上陸し、近畿一帯を襲ったが、朝の登校から始業の時間に京都の学校を直撃している。このときの経験を、京都市の特別学級担任田中寿賀雄は、「精神薄弱児を引率して危難を逃れるまで」と題した記録に遺していた。次の一節は、避難の際の情景である。
何分暴風は増し、ものすごい音とうなりと瓦の落ちる音で子供は私の身体にへばりついて動きません。といって、私が先頭に立って走っては弱い子供を置き去りにしなければなりません。平生よく走る子供がこんな時にはさっぱり歩きませんので、私が列の中央になり前を見、後を見、児童を叱ったり励ましたりして、万難を排して目的の雨天体操場へ避難することが出来ました。全児童を連れて階段を滑る様にして降りたときの事、一名も残らず安全であったことを喜ぶと共に、思い出しますと夢の如く、ゾツとします。途中の教室の子供は全部避難してゐましたので安心しました。両雨天体操場へついてすぐに人員点呼をしてふりかへって二階の私の教室を見たときには屋根は全部吹き飛ばされ、天井は墜落し、見るもあはれな状態となっていました。
近くで励ましてくれる担任の存在が心の支えとなって「特別学級」としてまとまって危機回避が行われた姿からは、危機的限界状況にあって「特別学級」の存在が大きな役割を果たしたと言えるであろう。
以上のような戦前の自然災害下での障害児死亡からの問題提起や危機回避の経験以外にも広く危機的状況という点でいえば戦災なども視野に入れることができる。戦災と自然災害とは、その原因や性質、またその克服をになう社会のシステムの状況との関係で、同列にすることはできないが、しかし、障害児・者をはじめとして生存や生活上の危機の存在、社会的な放置や孤立など危機的限界状況が存在・継続するという側面は同一である。糸賀一雄は、第二次世界大戦の敗戦に直面し、戦災と荒廃の社会の課題を省察するところに、福祉の仕事の出発点をおいた4)。すなわち、戦災の中で荒廃した社会に放置された戦災孤児と知的障害児という当面する児童問題を取り上げて、その子ども達をともに収容教育する、新たな施設として近江学園を創設した。糸賀の活動は、戦災とその荒廃の中で模索され、新たな価値として戦後知的障害児の施設が設立されたことを示している。あわせて、近江学園は、戦災からの障害児の生活の復興を下支えしつつ、後に障害児福祉の新たな試みを行う拠点となったことも重要である。新たな試みは、戦後復興の中で福祉の精神という点でも、実践的にもその原動力が蓄積されたといえるのである。
2.阪神・淡路大震災と障害児・者の経験
戦後の科学技術の発展によって、自然災害の予知は格段に精度をあげ、防災は非常に広くかつシステム的に行われるようになった。その結果、台風や洪水などの風水害といった自然災害の予防措置がとられるようになり、自然災害といって無理な開発による土砂崩れ不用意な対応などをのぞいて、回避することができるようになってきた。しかしなお、予知ができず突発的で大規模な自然災害が残っている。その重大な経験が、阪神・淡路大震災であった。この大震災は、障害児・者にとって過酷で危機的状況をもたらしたものであったが、震災時の障害児の経験教訓が引き出される必要がある。
(1)初期対応
阪神・淡路大震災は早朝発生した。この場合でも、障害児の生活との関係では、たとえば学校の寄宿舎での被災なども想定できるが、多くの場合は在宅時での被災となった。学校との関係では、初期対応という点では、避難行動など迅速な安全の確保、安否・被害状況の確認、応急的対応について、いくつかの場合に分けて、以下のような対応の項目が示されている4)。
①登下校中の対応:スクールバスの被害点検、避難所の選定、児童生徒の健康状態の確認、応急処置、学校・家庭・医療機関との連絡、自力通学生への対応、児童の引き取りの確認、付近住民への協力要請など。
②在校中の対応:児童生徒への指示、児童生徒の安否確認、火災などの二次災害の防止、教室からの避難、校舎・教室の被害状況の確認、校舎からの避難、医療機関・保護者との連絡、ライフラインの確保、教育委員会との連絡、学校対策本部の設置など。
③在宅時の対応:教職員の集合、児童生徒の安否確認、校舎の・教室の被害状況の確認、教育委員会への連絡、情報収集など。
次に、初期対応として重要なのは、避難所の確保と二次的危機の回避である。しかしながら、阪神・淡路大震災の経験では、障害児者とその家族は近接の一般的な避難所への避難を躊躇したという体験が随所で語られている。一般的な避難所では障害者の特別なニーズが配慮されず、逆に重荷とされたり、周囲への気遣い、新しい状況で適応できない中でパニックなどの行動など、ストレスの多い状況におかれることが予想されるためである。そのために専用の避難システムの確立がもとめられる。障害児教育諸学校は、障害児者のための様々な設備が設けられており、また、教職員も障害児のケアーに熟達していることから、障害児者専用避難施設とすることが提言されているが5)、そうなるためには養護学校の適正地域配置など課題も多い。
(2)ストレスマネジメント
阪神・淡路大震災が、障害児者およびその家族におよぼした影響はきわめて深刻であった。初期対応と生活復興へのプロセスにおいて同様に危機管理として重要視されるのが、心のケアも含めたストレスマネジメントであろう。障害児者は、そもそもふだんから抱えている問題が存在すること、危機的状況を認識することにも困難を抱えること、そして生活環境の急変、さまざまなストレスの増大などにより、日常生活上の困難が支えきれないほどに増大し、二次的な問題も生じることになる。神戸大学医学部小児科の手引きは、災害下における障害児の生活上の危機と家族のストレスを次のように整理している6)。
①災害下の障害児の状況と危機
障害児にとって、災害という危機的状況下において、次のような特徴がみられる。
1)環境の変化に敏感なところから、生活環境の急変に対し、情緒不安定になったりパニックを起こしやすい
2)幼稚園・保育所または通園施設、さらに地域での遊び場など、エネルギー発散の場が失われるためストレスが増大する
3)紙おむつの不足、食事の問題(ふだんと違った食事を受けつけない)など、生活上の困難が増す、
4)常に医療的ケアを必要とするような虚弱な子どもの場合、環境の急変で体調を崩すことが多
③親のストレス
障害児をもつ親は、ふだんから多くのストレスを抱えているが、災害下では、さらに次のような困難が加わる。
1)疎開または避難所生活では、子どもがまわりに迷惑をかけることで気をつかい、落ちつくことができない。場合によっては、生活の場が転々とすることもある
2)自宅であっても、子どものパニック、夜泣きなどにより家族が眠れない、近所にも気をつかうなどの問題が生じる
3)自宅の再建、家族の入院、親戚・近隣への援助などの急務があっても、障害のある子どもを連れていては十分には動けない
4)母親自身が怪我・病気の場合でも、障害をもつ子どもの世話は慣れない人には難しい場合が多い
5)てんかん、喘息、心臓病など病気をもつ子どもの場合、医療機関の閉鎖、通院困難などにより、緊急時の対応が不安になる
6)日常介護における負担の増大(排泄・食事の世話、パニックへの対応など)
7)兄弟関係、家族関係への配慮
阪神・淡路大震災においては、大規模なボランティアの協力があり、通常上の被災者への初期対応と生活の安定への重要な教訓となった。しかし、障害児者の場合、ボランティアの支えも重要であるが、先に述べたようなストレス状況に対して、初期対応においては、危機的状況下で、生活物資のみならず、医療的ニーズに対応する医薬品などの緊急の物資提供から始まって、養護学校教師などの障害児教育の専門家や当事者を支えられる情報ネットワークや人的ネットワークによる状況の安定化などが求められる。さらに、生活の建て直しの中でも手厚く継続して支援できる体制が求められる。
(3)生活と教育の復興・再建のプロセス
復興の過程は長く、大震災の傷跡は未だにその跡を残している。復興・再建のプロセスが長丁場になることを念頭において、継続的な支援が計画化される必要があろう。また、そのためにも障害児者の福祉・医療・教育などの様々な地域の資源を組み合わせて活用される、安定した生活への復興の糧とされなければなければならない。その際、行政による援助や教育、福祉などの公的な機関の役割の重要性が基本におかれなければ、継続した復興・再建は先細りになってしまう。
学校教育においては、家庭や生活の場とも連携をとりながら、障害児の生活基盤の状況に配慮しつつ、学校の再開、ひとりの落ちこぼしもないような子どもへの目配り、ストレスによる行動上の問題や生活上の問題への対応、子どもに即した指導の展開、授業の再開などの手順をとっていくことになる。誰もが経験したことのない学校と子どもの状況に直面し、ケースバイケースで取り組みをすすめ、手探りで問題を解決していくことになる。ここにおいて、教職員集団の集団的で専門的な判断が試されることになる。危機的限界状況の克服過程では、教職員集団の信頼と日常的な自主的な判断、民主主義的な行動が最も真価を発揮すると言えよう。
3.障害児学校における危機管理と日常的学校づくりの課題
阪神・淡路大震災を経験した障害児者、その家族と関係者は、多くの記録、調査結果、提言を残しており、それ自体が重要な教訓を示している。今日、南海大地震や東海大地震の予知など震災を防止する努力がなされていることに照らしても、阪神・淡路大震災の教訓は生かされなければならない。
震災の経験は、障害児学校における日常的な防災教育の追求、緊急時に備えての準備の必要性、また、災害時における重層的な支援のネットワークの重要性といった危機管理の観点を示している。しかし、そればかりではなく、「学校が、単なる建造物ではなく、そこに学ぶ子どもたちにとって内実のある教育保障の場になっているかどうか、今回の震災によって問われることになった」と指摘されるように、障害児教育のあり方にも重い問題提起があった7)。
養護学校をはじめとする障害児学校の震災での対応上のおける問題点として、・児童生徒と保護者の安否確認が時間と労力を要したこと、・学校再会までに多くの日数を要したこと、・知的障害児の避難所となり得なかったことが具体的に指摘されている。このような具体的な問題点の指摘は、養護学校が先に述べたように障害児の重要な社会的資源となっており、震災への対応において障害児者専用避難施設となる潜在的可能性をいささかも否定するものでない。むしろ、問題提起は、「障害児諸学校を子どもの生活する世界に近接させる施策」の重要性を強調するものであった。障害児学校を、適正規模に分散配置し、すべての子どもの顔や息づかいなどの状況が日常的に把握でき、寄宿舎を配置し、生活上のニーズにも対応できるようにする施策が望まれる。さらに地域の障害児学級や通常学級などの教育機関、福祉や医療機関ともネットワークでつながる地域の拠点・センターとしての役割を果たせるようにすることである。このような障害児教育施策の充実、そして日常的な学校づくりと教育実践の充実こそが、防災の基礎となり、危機的限界状況を克服する危機管理の力量ともなるといえよう。
注
1)城戸幡太郎「児童に於ける特殊な智能の構造」『心理学研究』第1巻第1輯、1926年(なお本引用は、全障研兵庫「阪神・淡路大震災障害者実態調査」委員会編『あの人の声が聞こえる-阪神大震災と障害者』全国障害者問題研究会出版部より重引)。
2)玉村公二彦「戦前京都市における「特別学級」の成立・展開とその実態─京都市立養正尋常高等小学校「特別学級」を中心に─」『奈良教育大学紀要』第49巻第1号。
3)糸賀一雄『この子らを世の光に』柏樹社、1965年。
4)神戸市立盲・養護学校校長会、神戸市教育委員会指導第2課『神戸市立盲・養護学校地震対応マニュアル』1997年。
5)高田哲「養護学校地震対応マニュアルの作成」『平成8年厚生省心身障害研究 保健・医療・福祉にかかわる社会資源の有効活用に関する研究』、1996年、p.177。
6)神戸大学医学部小児科「災害時における家族支援の手引き-乳幼児をもつ家族を支えるために」、1998年。
7)津田充幸「震災に学ぶ障害児教育のあり方」『特定研究「兵庫県南部地震に関する総合研究 1995年度研究報告』、1996年、pp.73-76)、同「震災に学ぶ障害児教育制度の改革」『特定研究「兵庫県南部地震に関する総合研究 平成8年度年度報告書』、1997年、pp.203-206)参照。
東日本大震災による大規模被害に対して、被災者のみなさんに心からのお見舞いを申し上げるとともに、生活と教育の復旧復興を願うものである。
阪神大震災の後、復興過程での調査に加わり、少しばかりお手伝いさせていただいた。その後、求められて「自然災害と危機管理」の一文をかかせていただいた(『養護学校における危機管理マニュアル』明治図書、2004年)。かつての一文を掲載し、批判や示唆をお願いするものである。
--------------------------------------------------------------
自然災害と危機管理
広い意味での災害が、広く障害の発生の基礎となっていることは、国際的にも共通の認識となってきた。例えば、国連「障害者に関する世界行動計画」(1982)においては、「多くの障害は、栄養失調、環境汚染、不衛生、不適切な産前・産後の処置、水が媒介となる様々な病気、そしてあらゆる種類の事故への対策を講ずることによって予防することができるはずである」(B-4)と指摘され、「荒廃と破局、貧困、飢え、苦難、病気、そして障害者の大量発生をもたらす戦争を防止すること」(B-5)が強調されている。障害の発生を防止するという点においても、災害への対策や戦争による荒廃、窮乏を回避する措置が講じられなければならない。
自然災害として最大の被害をもたらした関東大震災から80年を経、第二次世界大戦による荒廃から半世紀が経過した。これまでの歴史の中で、災害や荒廃と直面し、その中で障害児教育・福祉への問題提起がなされ、真価そのまた試されるという経験がなかったわけではない。そのような経験を振り返りながら、今日における自然災害に対応する危機管理について考えてみたい。
1.災害と危機管理への問題提起-戦前・戦後直後における歴史点描
一般に災害は、暴風雨、地震、洪水などの自然によるものをいうが、その性質、規模、範囲、被害の程度などの違いがあり、一律に検討することはできない。また、そのような自然災害と障害児・者の遭遇、その克服の経験について、これまでの歴史的な経験を本格的に整理したものはない。危機に直面し、それを克服するために、障害児・者の新たな社会的施設やネットワークという価値が創造されるという側面もある。災害下における障害児・者の危機的限界状況の特徴とその克服・復興のプロセス自身は、障害児教育や障害者福祉の到達を反映しているという意味で、社会的歴史的な性格をもっている。しかし、災害という危機的状況と障害児者の交叉の中で問題提起され、また、その時期の歴史的な到達点を示すものや歴史的な教訓を汲み上げることができるものは点在している。
その最初のものとして、死者およそ1万人となった関東大震災(1923年)において東京の特別学級に在籍していた児童の多くが亡くなった事実に対する、心理学者城戸幡太郎の鋭い問題提起をあげることができる。すなわち、城戸は、「震災の特殊学級にゐた大多数は他の児童の大多数が生存し得たにも係らず其の危機から彼等自身の生命さへ救う方法を見いだすことができなかった」とし、大地震という機会に「人間の本能や知能が如何に働くかを研究して人類のために一つの記録をも遺し得なかった日本人の学問的能力」を問題にしたのである1)。
また、関東大震災という大規模な災害ではなく、局地的一時的な災害では、戦前においても特別学級の存在とその担任が危機の回避という点では大きな役割を果たした事例もある2)。学校関係者の死者も出した大型台風「室戸台風」は、1934年9月、四国の室戸岬から上陸し、近畿一帯を襲ったが、朝の登校から始業の時間に京都の学校を直撃している。このときの経験を、京都市の特別学級担任田中寿賀雄は、「精神薄弱児を引率して危難を逃れるまで」と題した記録に遺していた。次の一節は、避難の際の情景である。
何分暴風は増し、ものすごい音とうなりと瓦の落ちる音で子供は私の身体にへばりついて動きません。といって、私が先頭に立って走っては弱い子供を置き去りにしなければなりません。平生よく走る子供がこんな時にはさっぱり歩きませんので、私が列の中央になり前を見、後を見、児童を叱ったり励ましたりして、万難を排して目的の雨天体操場へ避難することが出来ました。全児童を連れて階段を滑る様にして降りたときの事、一名も残らず安全であったことを喜ぶと共に、思い出しますと夢の如く、ゾツとします。途中の教室の子供は全部避難してゐましたので安心しました。両雨天体操場へついてすぐに人員点呼をしてふりかへって二階の私の教室を見たときには屋根は全部吹き飛ばされ、天井は墜落し、見るもあはれな状態となっていました。
近くで励ましてくれる担任の存在が心の支えとなって「特別学級」としてまとまって危機回避が行われた姿からは、危機的限界状況にあって「特別学級」の存在が大きな役割を果たしたと言えるであろう。
以上のような戦前の自然災害下での障害児死亡からの問題提起や危機回避の経験以外にも広く危機的状況という点でいえば戦災なども視野に入れることができる。戦災と自然災害とは、その原因や性質、またその克服をになう社会のシステムの状況との関係で、同列にすることはできないが、しかし、障害児・者をはじめとして生存や生活上の危機の存在、社会的な放置や孤立など危機的限界状況が存在・継続するという側面は同一である。糸賀一雄は、第二次世界大戦の敗戦に直面し、戦災と荒廃の社会の課題を省察するところに、福祉の仕事の出発点をおいた4)。すなわち、戦災の中で荒廃した社会に放置された戦災孤児と知的障害児という当面する児童問題を取り上げて、その子ども達をともに収容教育する、新たな施設として近江学園を創設した。糸賀の活動は、戦災とその荒廃の中で模索され、新たな価値として戦後知的障害児の施設が設立されたことを示している。あわせて、近江学園は、戦災からの障害児の生活の復興を下支えしつつ、後に障害児福祉の新たな試みを行う拠点となったことも重要である。新たな試みは、戦後復興の中で福祉の精神という点でも、実践的にもその原動力が蓄積されたといえるのである。
2.阪神・淡路大震災と障害児・者の経験
戦後の科学技術の発展によって、自然災害の予知は格段に精度をあげ、防災は非常に広くかつシステム的に行われるようになった。その結果、台風や洪水などの風水害といった自然災害の予防措置がとられるようになり、自然災害といって無理な開発による土砂崩れ不用意な対応などをのぞいて、回避することができるようになってきた。しかしなお、予知ができず突発的で大規模な自然災害が残っている。その重大な経験が、阪神・淡路大震災であった。この大震災は、障害児・者にとって過酷で危機的状況をもたらしたものであったが、震災時の障害児の経験教訓が引き出される必要がある。
(1)初期対応
阪神・淡路大震災は早朝発生した。この場合でも、障害児の生活との関係では、たとえば学校の寄宿舎での被災なども想定できるが、多くの場合は在宅時での被災となった。学校との関係では、初期対応という点では、避難行動など迅速な安全の確保、安否・被害状況の確認、応急的対応について、いくつかの場合に分けて、以下のような対応の項目が示されている4)。
①登下校中の対応:スクールバスの被害点検、避難所の選定、児童生徒の健康状態の確認、応急処置、学校・家庭・医療機関との連絡、自力通学生への対応、児童の引き取りの確認、付近住民への協力要請など。
②在校中の対応:児童生徒への指示、児童生徒の安否確認、火災などの二次災害の防止、教室からの避難、校舎・教室の被害状況の確認、校舎からの避難、医療機関・保護者との連絡、ライフラインの確保、教育委員会との連絡、学校対策本部の設置など。
③在宅時の対応:教職員の集合、児童生徒の安否確認、校舎の・教室の被害状況の確認、教育委員会への連絡、情報収集など。
次に、初期対応として重要なのは、避難所の確保と二次的危機の回避である。しかしながら、阪神・淡路大震災の経験では、障害児者とその家族は近接の一般的な避難所への避難を躊躇したという体験が随所で語られている。一般的な避難所では障害者の特別なニーズが配慮されず、逆に重荷とされたり、周囲への気遣い、新しい状況で適応できない中でパニックなどの行動など、ストレスの多い状況におかれることが予想されるためである。そのために専用の避難システムの確立がもとめられる。障害児教育諸学校は、障害児者のための様々な設備が設けられており、また、教職員も障害児のケアーに熟達していることから、障害児者専用避難施設とすることが提言されているが5)、そうなるためには養護学校の適正地域配置など課題も多い。
(2)ストレスマネジメント
阪神・淡路大震災が、障害児者およびその家族におよぼした影響はきわめて深刻であった。初期対応と生活復興へのプロセスにおいて同様に危機管理として重要視されるのが、心のケアも含めたストレスマネジメントであろう。障害児者は、そもそもふだんから抱えている問題が存在すること、危機的状況を認識することにも困難を抱えること、そして生活環境の急変、さまざまなストレスの増大などにより、日常生活上の困難が支えきれないほどに増大し、二次的な問題も生じることになる。神戸大学医学部小児科の手引きは、災害下における障害児の生活上の危機と家族のストレスを次のように整理している6)。
①災害下の障害児の状況と危機
障害児にとって、災害という危機的状況下において、次のような特徴がみられる。
1)環境の変化に敏感なところから、生活環境の急変に対し、情緒不安定になったりパニックを起こしやすい
2)幼稚園・保育所または通園施設、さらに地域での遊び場など、エネルギー発散の場が失われるためストレスが増大する
3)紙おむつの不足、食事の問題(ふだんと違った食事を受けつけない)など、生活上の困難が増す、
4)常に医療的ケアを必要とするような虚弱な子どもの場合、環境の急変で体調を崩すことが多
③親のストレス
障害児をもつ親は、ふだんから多くのストレスを抱えているが、災害下では、さらに次のような困難が加わる。
1)疎開または避難所生活では、子どもがまわりに迷惑をかけることで気をつかい、落ちつくことができない。場合によっては、生活の場が転々とすることもある
2)自宅であっても、子どものパニック、夜泣きなどにより家族が眠れない、近所にも気をつかうなどの問題が生じる
3)自宅の再建、家族の入院、親戚・近隣への援助などの急務があっても、障害のある子どもを連れていては十分には動けない
4)母親自身が怪我・病気の場合でも、障害をもつ子どもの世話は慣れない人には難しい場合が多い
5)てんかん、喘息、心臓病など病気をもつ子どもの場合、医療機関の閉鎖、通院困難などにより、緊急時の対応が不安になる
6)日常介護における負担の増大(排泄・食事の世話、パニックへの対応など)
7)兄弟関係、家族関係への配慮
阪神・淡路大震災においては、大規模なボランティアの協力があり、通常上の被災者への初期対応と生活の安定への重要な教訓となった。しかし、障害児者の場合、ボランティアの支えも重要であるが、先に述べたようなストレス状況に対して、初期対応においては、危機的状況下で、生活物資のみならず、医療的ニーズに対応する医薬品などの緊急の物資提供から始まって、養護学校教師などの障害児教育の専門家や当事者を支えられる情報ネットワークや人的ネットワークによる状況の安定化などが求められる。さらに、生活の建て直しの中でも手厚く継続して支援できる体制が求められる。
(3)生活と教育の復興・再建のプロセス
復興の過程は長く、大震災の傷跡は未だにその跡を残している。復興・再建のプロセスが長丁場になることを念頭において、継続的な支援が計画化される必要があろう。また、そのためにも障害児者の福祉・医療・教育などの様々な地域の資源を組み合わせて活用される、安定した生活への復興の糧とされなければなければならない。その際、行政による援助や教育、福祉などの公的な機関の役割の重要性が基本におかれなければ、継続した復興・再建は先細りになってしまう。
学校教育においては、家庭や生活の場とも連携をとりながら、障害児の生活基盤の状況に配慮しつつ、学校の再開、ひとりの落ちこぼしもないような子どもへの目配り、ストレスによる行動上の問題や生活上の問題への対応、子どもに即した指導の展開、授業の再開などの手順をとっていくことになる。誰もが経験したことのない学校と子どもの状況に直面し、ケースバイケースで取り組みをすすめ、手探りで問題を解決していくことになる。ここにおいて、教職員集団の集団的で専門的な判断が試されることになる。危機的限界状況の克服過程では、教職員集団の信頼と日常的な自主的な判断、民主主義的な行動が最も真価を発揮すると言えよう。
3.障害児学校における危機管理と日常的学校づくりの課題
阪神・淡路大震災を経験した障害児者、その家族と関係者は、多くの記録、調査結果、提言を残しており、それ自体が重要な教訓を示している。今日、南海大地震や東海大地震の予知など震災を防止する努力がなされていることに照らしても、阪神・淡路大震災の教訓は生かされなければならない。
震災の経験は、障害児学校における日常的な防災教育の追求、緊急時に備えての準備の必要性、また、災害時における重層的な支援のネットワークの重要性といった危機管理の観点を示している。しかし、そればかりではなく、「学校が、単なる建造物ではなく、そこに学ぶ子どもたちにとって内実のある教育保障の場になっているかどうか、今回の震災によって問われることになった」と指摘されるように、障害児教育のあり方にも重い問題提起があった7)。
養護学校をはじめとする障害児学校の震災での対応上のおける問題点として、・児童生徒と保護者の安否確認が時間と労力を要したこと、・学校再会までに多くの日数を要したこと、・知的障害児の避難所となり得なかったことが具体的に指摘されている。このような具体的な問題点の指摘は、養護学校が先に述べたように障害児の重要な社会的資源となっており、震災への対応において障害児者専用避難施設となる潜在的可能性をいささかも否定するものでない。むしろ、問題提起は、「障害児諸学校を子どもの生活する世界に近接させる施策」の重要性を強調するものであった。障害児学校を、適正規模に分散配置し、すべての子どもの顔や息づかいなどの状況が日常的に把握でき、寄宿舎を配置し、生活上のニーズにも対応できるようにする施策が望まれる。さらに地域の障害児学級や通常学級などの教育機関、福祉や医療機関ともネットワークでつながる地域の拠点・センターとしての役割を果たせるようにすることである。このような障害児教育施策の充実、そして日常的な学校づくりと教育実践の充実こそが、防災の基礎となり、危機的限界状況を克服する危機管理の力量ともなるといえよう。
注
1)城戸幡太郎「児童に於ける特殊な智能の構造」『心理学研究』第1巻第1輯、1926年(なお本引用は、全障研兵庫「阪神・淡路大震災障害者実態調査」委員会編『あの人の声が聞こえる-阪神大震災と障害者』全国障害者問題研究会出版部より重引)。
2)玉村公二彦「戦前京都市における「特別学級」の成立・展開とその実態─京都市立養正尋常高等小学校「特別学級」を中心に─」『奈良教育大学紀要』第49巻第1号。
3)糸賀一雄『この子らを世の光に』柏樹社、1965年。
4)神戸市立盲・養護学校校長会、神戸市教育委員会指導第2課『神戸市立盲・養護学校地震対応マニュアル』1997年。
5)高田哲「養護学校地震対応マニュアルの作成」『平成8年厚生省心身障害研究 保健・医療・福祉にかかわる社会資源の有効活用に関する研究』、1996年、p.177。
6)神戸大学医学部小児科「災害時における家族支援の手引き-乳幼児をもつ家族を支えるために」、1998年。
7)津田充幸「震災に学ぶ障害児教育のあり方」『特定研究「兵庫県南部地震に関する総合研究 1995年度研究報告』、1996年、pp.73-76)、同「震災に学ぶ障害児教育制度の改革」『特定研究「兵庫県南部地震に関する総合研究 平成8年度年度報告書』、1997年、pp.203-206)参照。