「ヤンキー君と白杖ガール」第二巻がとどいたので、さっそくよんだ。第一巻の出会いのほうもおもしろかったが、第二巻はそれぞれの「事情」が語られていく。ヤンキー君とともにやってきたハチ子が視覚障害のユキコさんに八つ当たり、それでユキコさんも「ヤンキー君」のことを「ちゅき」といってしまうこと。「ヤンキー君」のこれまで、貧しい中を育ってきたこと、そして、顔に傷をつけられることとそれをしてしまったシシオの事情など。
「ヤンキー君と白杖ガール」第二巻がとどいたので、さっそくよんだ。第一巻の出会いのほうもおもしろかったが、第二巻はそれぞれの「事情」が語られていく。ヤンキー君とともにやってきたハチ子が視覚障害のユキコさんに八つ当たり、それでユキコさんも「ヤンキー君」のことを「ちゅき」といってしまうこと。「ヤンキー君」のこれまで、貧しい中を育ってきたこと、そして、顔に傷をつけられることとそれをしてしまったシシオの事情など。
奈良県教育研究所の教育フォーラムに参加した際、著者の講演を遅れてみた(レイノルズさんは生駒に住んでるんやて)。プレゼンについて、考えさせられることが多かったし、インパクトも大きかった。はじめから聞いておけばよかったと後悔もした。
それで、そこで紹介されていた本を買ってみたら(ガー・レイノルズ『世界最高のプレゼン教室』日経BP社)、これまた面白かった。これは、講演のDVDが集録されていて、本の内容と同じような流れ。考えてみると、90分くらいの講演を整理して、読みやすくして、写真やスライドのビジュアル面も構成の中に入れれば、読みやすい、わかりやすい本になるのだと思う。中心的な考え方は「ストーリーテリング」!!ーこれは重要!!。
ぼくらは、そのような読者にやさしく、プレゼンターになったつもりで、本も書かないといけないと思った。
目次は以下
イントロダクション/なぜストーリーが必要か(ストーリーの「パワー」と知る/ストーリープレゼンとは何か(ストーリーの「構造」を知る/ストーリープレゼンの作り方(ストーリープレゼンをつくる手順を学ぶ)/ビジュアル(スライドをビジュアルで表現する)/話し方(効果的な話し方を知る)/質疑応答(全部で140ページ弱)
岩波明『天才と発達障害』を読んだ。
マインドワンダリングの話があって、それが面白かった(現在行っている課題や活動から注意がそれて、無関係な事項についての思考が生起する現象)。目次は次の通り。
はじめに 天才と狂気/第一章 独創と多動のADHD/第二章 「空気が読めない」ASDの天才たち/第三章 創造の謎と「トリックスター」/第四章 うちに愛された才能/第五章 統合失調症の創造と破壊/第六章 誰が才能を殺すのか/参考文献
講義との関係では、『トットちゃん』(p.47-,p.222)。
ビィトゲンシュタインがオーストラリア人で失読症だったとのこと、アスペルガーとの関係はないのかと思ったりして・・・?
「希望」について、語る。それは、「希(まれ)」な「望(のぞみ)」。その反対語は「絶望」。「絶」の文字は「糸」と「色」。なぜ、「絶」なのか? その成り立ち、いわれは?
古橋信孝『ミステリーで読む戦後史』をようやく読了した。もともとは、水上勉の『海の牙』が水俣病を取り上げていることから、戦後史の中のミステリー、ミステリーの中の戦後社会問題について、概括的に記述したものとして読み始めた。しかし、この著者も、推理小説のあらすじを描くのがやっかいで放り投げそうになったということを著者も、あとがきで書いているように、この本、小説の概要を示しながら医術がなされているのだから、面白味がない。すじがわからないのであり、わかったら、逆にミステリー自身を読まなくなってしまうのだから、アポリアと言えばアポリア。目次は次の通り
序章 ミステリーとは何か/第一章 戦後社会を書く-1950年代まで/第二章 戦後社会が個人に強いたもの-1960年代/第三章 高度成長した社会の矛盾-1970年代/第四章 新たな世代の価値観と家族の再生-1980年代/第五章 時代に取り残された個人-1990年代/第六章 グローバルな社会、そして問われる歴史-2000年代/第七章 世界はどこに向かうのか-2010年代/終章 ミステリーが語る戦後社会/「戦後社会史&ミステリー史」年表
終章がまとめ、1968年が転換期として『氷菓』がとりあげられて、戦後ミステリーの語る歴史が概括される(pp.171-177)。なお、脊椎カリエスの仁木悦子、松本清張の『或る「小倉日記」伝』(p.72)、水上勉『海の牙』(公害告発:pp.75-77)、小杉健治『絆』(繋ぎとめる家族の絆:p.148)などが、障害関係のもの。
伊勢真一監督の新作映画『えんとこの歌 ねたきり歌人・遠藤滋』完成 京都新聞 2019年6月14日づけ
戸井十月『植木等伝 「わかっちゃいるけど、やめられない!」』が興味深い!これは、2007年に小学館より刊行されたものの文庫化されたもの。植木等の父親についての植木の著書のことについては、大学院生時代に生協の書評誌にかいたことがあった。今回は、植木等そのもののである。植木の役柄やその笑いについて、スマートさを巡って大阪と東京の違いを考えたり、高度成長の時代と反権力、それに対する現在の権力にいたる笑い(笑業)・権力にこびる笑い(阿倍首相と吉本の関係など)を思ったり、いろいろ考えるところがあった。それにしても、おおらかな役柄を実はまじめな植木等が演ずるというところがおもしろい。
目次
プロローグ:お呼びでない/第一章:めんどうみたョ(昭和元年~昭和20年)/第二章:だまって俺について来い(昭和20年~昭和32年)/第三章:コツコツやる奴ぁ、ご苦労さん(昭和32年~昭和38年)/第四章:そのつちなんちかな~るだろう(昭和38年~平成19年)/外伝 稲垣二郎かく語りき・谷啓かく語りき・小松正夫かく語りき/エピローグ こりゃシャクだった/解説(津野海太郎)/関連年表
ちょっとやみつきになりそう。青島幸男『わかっちゃいるけど・・・シャボン玉の頃』(文春文庫)や大林信彦『植木等と藤山寛美』(新潮社)などもよんでみたい
保坂正康『続昭和の怪物 七つの謎』をようやく読み終わった。これは、昨年、福岡教育大に集中で行っていたときに読んだものの続編。途中で、新書本が行方不明になり、図書館で借りたが、その日に車の中から購入したものが発見されたという逸話も付け加わった(人生の3分の1は捜し物をしている人間だから)。
内容(目次)は次の通り
三島由紀夫は「自裁死」で何を訴えたのか/近衛文麿はなぜGHQに切り捨てられたか/「農本主義者」橘孝三郎はなぜ5・15事件に参加したか/野村吉三郎は「真珠湾騙し討ち」の犯人だったのか/田中角栄は「自覚せざる社会主義者」だったのか/伊藤昌也哉はなぜ「角栄嫌い」だったのか/後藤田正晴は「護憲に何を託したか」/あとがき
最後の、角栄・伊藤(大平)・後藤田のあたりが興味深かった。
「しあわせ」と「学校」
本シンポジュームのテーマで想起したのは山田洋次監督の映画『学校』。この『学校』シリーズは、それぞれ、不就学、障害、シングル、そして不登校など、夜間中学校、養護学校(特別支援学校)、専門学校、思春期の旅の場で織りなされる物語。シリーズ最初の夜間中学校をテーマとした『学校』が上映されたのは、1993年、すでに25年余を経ています。「本当の教育とはなにか」を考えさせるこのシリーズを貫くテーマは、1993年に公開された最初の『学校』の中に明確に示されています。夜間中学校が舞台となったこの映画、登場する夜間中学校の生徒達も、不登校、非行、勤労青年、不就学、在日など様々な事情をもった人たち。この学校での学びが描かれつつ、後半に続いていきます。後半には田中邦衛ふんする猪田幸雄(イノさん)さんの生涯をめぐるホームルームとなっていきます。イノさんの思い出を語り合いながら、「イノさんは幸せだったんだろうか?」と、自分のこれまでと重ね合わせた問いがなされ、そして、「幸福」とは何かを問うこととなっていきます。これだけ直裁に「しあわせ」を提起した学校での姿が印象的でした。
「希望」と「教育」
映画「学校」シリーズで学校に集う人たちは、それぞれの背景や思い(「ニーズ」ともいいかえてもいいかもしれない)をもっていました。ある意味、子どもも含めたそれぞれの背景や思いは、「希望」とも言い換えてもいいかもしれません。「希望」は、「希(まれ)」な「望(のぞみ)」でもあります。その望みを受け止める仕組みがないとそれこそ反対のものとなってしまいます。それぞれの人たちの希望やニーズを受けとめる教師や仲間、そして学校の姿が必要です。様々な子どもたちと接してきたという特別支援教育の立場から、困難を背負ってきた子どもたちの教育や学校への希望や願いが、新たな学校や教育への発想を切り拓き、学校教育そのものを変えてきたということを共有したいと思います。
「自由」と「発達」
子どもの権利条約が採択されて30周年、批准されて25周年です。2019年国連子どもの権利委員会最終所見では、少子高齢化社会のなかで、子どもの総合的な施策がないことが指摘されています。また、子どもたちをめぐって、貧困の存在も看過できません。子どもたち、わたしたちも含めたすべての人たちの発達(Development:開発とも訳される)が育まれる社会となっていく必要があります(国連では、Right to Development、そしてEducation for Sustainable Development, 今日ではSDG’Sなどとして課題視されています)。
「発達」の「発」は植物の実がはじける姿からつくられ、「達」は羊が生まれる姿から形象化された文字といわれています。「学校」の主役だったイノさんの名前は「幸雄」。一時期、「発達」の「達」の文字に「幸」という文字をかえて使われた時もあったようです(「幸せになる」という意味)。「幸」の文字は、手を縛られた姿から解放されるという象形文字。
「自由」を獲得し、人間として自由になっていくこと、ともに自由になり、そしてともに社会の形成者として発達していくこと、その姿を学校づくりとして行っていこうということを考えてみたい。学びと教育は、私たち、一人ひとりが、「夢と希望」をもち「幸せ」を追究して、自由になるという発達の権利を実質化するものとしてあります。このような観点から、現在の学校と教育をあらたな仕組みとして再創造することが私たちの課題となると思われます。