ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

加藤典洋『オレの東大物語 1966-1972』集英社、2020年9月

2020年12月31日 22時23分53秒 | 

戦後史を検討する作業をしはじめている。戦後政治史とともに思想史分野では、高等教育や青年、いわゆる若者の戦後史を捉えようとするなかで、書評でであった本、ちょうど、東大ついての本が2冊ほど紹介されていたものの中の1つ。加藤典洋についてはよく知らないが、奈良女子大学の小路田泰直が編者になって、議論した本があったことを思いだして、買ってみた。

加藤が病朱で書き、亡くなって後に出版された本である。いわゆる青春時代の回想もの。1948年生まれ、戦後ベビーブーム世代で、ちょうど1968年の前後に大学にいて、大学闘争・全共闘の世代、中途半端な位置にいたことを思いつつ、引っかかったものをかかえて、戦後の政治や文化に対して批判的視座をもってきた。その原点となるのが「東大はクソだ!」という感覚をえたときのことを書いているもの。

東大闘争の記録や回想は当事者の手によって様々まとめられているかと思う。1968年前後の時代をどう捉えるのかは、『夜明け前の子どもたち』などのドキュメンタリー映画の背景となっている。

共感するところは、中途半端にしていることの価値というか、割り切れないものを抱き続けることが原動力に成ると言うことかもしれないと思った。

解説で、瀬尾育生が、加藤の「ビオス(生活)」と「ゾーエー(生存)」について書いていることに触れて、いくつかを指摘している。「生存」と「生活」、「ただ生きている(剥き出しの生)」と「言葉(意味を)を生きる」というふたつの生、古代ギリシャでは分離されて概念化されていたのが、いつのまにか「生(ライフ)」という一つの言葉となったこと、その歴史を思想として提起していったのが、加藤だと言うことになる。この問題には、いつも悩まされるのだ。

2020年も終わろうとしているのだが、「ただ読んでいる」のと「意味を読み取っている」ということの違いということについても、気づかされた。『オレの東大物語』はだだ読んでいた・・・ただ読んでいるものは多いが、今日、今年図書館で借りて読んで、このブログでも紹介した『脳男Ⅱ』を自宅で発見して、「もう読んでいた」のだなと思って、ただ読んでいたことを思い知らされた。「ただ生きている」とはいえ、そのことの重大性を再度思ってみるが、強がり、へりくつだという自分がいる。

 


逢坂剛『鏡影劇場』新潮社、2020年9月

2020年12月30日 11時41分31秒 | 

新聞の書評かなにかでみて、図書館で予約したら届いたので、読んでみた。

古文書の解読作業と同時に、現代の人間模様が鏡影像のように進展する。それが、入れ子状になっていて、並行していくが、それもまた、作者の包み紙に入れられているという手の込んだ、ビブリオもの。ドイツ浪漫派のホフマン(知らんけど、判事で音楽家で小説家)の身上報告書を素材に、その解説があり、その翻訳と解説をする人とそれを読む人たちの物語。

フィヒテのドイツ国民につぐ、ゲーテ・・・・カスパル・ハウザーの話も出てきた(これはどうでもいいことだけど・・)

フォイエルバッハというドイツの法学者がカスパー・ハウザーのことを書いたようだ。「カスパル・ハウザーはホフマンの死後数年たって、どこからどもなくニュルンベルクに現れた、謎の若者だ。」/ほとんど話せず、出自もはっきりしないため、いかさま師なのか沙詐欺師なのか、それとも精神疾患の患者なのかと、議論が沸騰した。/あるいは、どこか高貴の家に生まれながら、事情があって捨てられた子供ではないか、などとさまざまな説が飛び交った。/その時間に関わったのが、確かフォイエルバッハだった、と記憶する。(p.493)

新潮社のHPでは次のような・・・。図書館から受け取った時には、結末袋綴じは開かれていて、ちょっと舌打ちしてしまった。

マドリードの古本屋で手に入れた古楽譜の裏には、十九世紀の文豪ホフマンの行動が事細かに綴られていた。筆者不明の報告書の解読を進めるうちに、現代の日本にまで繋がる奇妙な因縁が浮かび上がる。二重三重の仕掛けが読者を迷宮に誘う、これは逢坂版『薔薇の名前』か? 渾身の大作一五〇〇枚、結末部分は袋綴じ仕様!


岡田尊司『自閉症スペクトラム症』幻冬舎文庫、2020年

2020年12月03日 22時52分39秒 | 

岡田尊司『自閉症スペクトラム症』をよんだ。

おもしろかったのは、「自閉症の歴史」(pp.33-37)

ASDの診断概念の原型はオーストリアのウィーンでのこと。医師ゲオルク・フランクルと心理学者のアンニ・ヴァイスが検討していったのがこの原型。1938年、ナチスのオーストリア侵攻による政権掌握により、この治療教育診療所が変質。フランクルとヴァイスの二人はユダヤ人であったため、アメリカに逃れる。彼らを支援したのが、オーストリア出身で先にアメリカに渡ったレオ・カナー、その研究が小児自閉症論文として、1943年に発表されたのだった。フランクルとヴァイスがウィーンを去った後、その診療所で頭角を現したのが、ハンス・アスペルガーで、1938年の講演で「自閉的精神病質」の概念を提唱。フランクとヴァイスが心理社会的要因を強調したのに対して、何地本で心理社会的要因に蓋をして遺伝的要因を強調したのがアスペルガーということになる。

もう一点、治療に関しての岡田の見解。主体性を重視するもの(第8章 回復例が教えてくれるもの)。これは、カウフマン夫妻の子どもへの取り組み(ちょっと?もあるけど)。