2005年の秋、10月11日のことだった、田中昌人先生に、三島先生と大久保先生とともにお会いしたことがあった。この時のことは、『土割れの刻』(クリエイツかもがわ、2007年)の中に記したので読んでほしい。『土割れの刻』の小文ではふれなかった、田中先生にお会いしたその後日談である。
午前中にお会いして、みなで京都駅地下で食事をとったときのことである。田中先生が、「油っぽいものはちょっと」といって、揚げなすを僕の皿に移しながら、小さな声で「お願いがあるんだ」とささやいた。
「実は、発達の語源と文字について書きたいことがある」-確かに、田中先生は、発達の概念の移入・成立史について、オランダ語をはじめとするヨーロッパの言語を渉猟していたし、ヘボンや西周などの翻訳や中国の文献も収集・分析し系統的に論究していた。
「発達の「發」の字は、木の実がはじける姿を形象化してつくられたもの。発達の「達」の字は、その初期には、「幸」が使われていたのですが、その後「羊」がはいったもともとの文字になっています。「達」の字は「羊」が生まれ落ちて、たちあがるまでを示したものだといわれています。植物と動物の出芽と出生をかたどって「発達」となったと言われています。「「達」について、子羊が包まれていた膜を破ってたちあがるまでは5段階のステップがあるといわれているのですが、それを写真で示したいのです。その写真がほしいのです」
「「土」に「羊」ですから、生まれおちて、土の上に立つということですね」とボソッと言うと、「「土」ではなく、「大」に「羊」なのです。「しんにゅう」で、それが進み出るとということなのです」と田中先生はいさめるような言い方で話されたのだった。
その冬、農学関係の方や理科教育の知り合いに連絡し、ネットの検索などもして資料や写真の収集を行った。一段落したところで、写真や資料などをまとめたものに手紙をそえて田中先生に送った。手紙の中に、「達」の文字について私見を述べてみた。
「「大」「羊」「しんにゅう」で大人の羊から羊が生まれ出てくる姿を形象化したという説明だけでなく、「大」「羊」は、大きな羊になることと単純に思うのです。「羊」「大」で、「美しい」となりますし、中国人によっての「羊」は大きくなって「美味い」ということから「美」の文字がうまれたことも関係するのではないでしょうか」と。
数日後、田中先生から電話をいただいた。「玉村は調べもせずに適当なことを書いてくる」と思ったのだろう、「中国の文献について書いたものを見に来なさい」と、そして「写真はまだ不十分です。北海道で、羊の出産の写真を、取りに行く手配をしたい。家にいつ来れるか?」と性急なお話だった。「お急ぎですね。時間がとれたら、すぐに行かせていただきます」と返事はしたのだったが、果たせなかった。その1か月後、2015年11月19日に田中先生は逝かれたのだった。もっと聞いておくべきだった-残念でならない。
あれから10年。今年は、戦後70年を迎える。田中先生を初めとする先人達にみられるように、戦前・戦中の暗い社会から、戦後の混乱の中に「光」を求めて、教育と福祉、科学と文化、生活への努力がなされてきた。そのような社会の「発生・発展」と「到達」を見定め、新たな出発として、「未」だ「来」ぬが、羊が生まれ立ち上がるような自立的な「未来」へと努力していきたい。
午前中にお会いして、みなで京都駅地下で食事をとったときのことである。田中先生が、「油っぽいものはちょっと」といって、揚げなすを僕の皿に移しながら、小さな声で「お願いがあるんだ」とささやいた。
「実は、発達の語源と文字について書きたいことがある」-確かに、田中先生は、発達の概念の移入・成立史について、オランダ語をはじめとするヨーロッパの言語を渉猟していたし、ヘボンや西周などの翻訳や中国の文献も収集・分析し系統的に論究していた。
「発達の「發」の字は、木の実がはじける姿を形象化してつくられたもの。発達の「達」の字は、その初期には、「幸」が使われていたのですが、その後「羊」がはいったもともとの文字になっています。「達」の字は「羊」が生まれ落ちて、たちあがるまでを示したものだといわれています。植物と動物の出芽と出生をかたどって「発達」となったと言われています。「「達」について、子羊が包まれていた膜を破ってたちあがるまでは5段階のステップがあるといわれているのですが、それを写真で示したいのです。その写真がほしいのです」
「「土」に「羊」ですから、生まれおちて、土の上に立つということですね」とボソッと言うと、「「土」ではなく、「大」に「羊」なのです。「しんにゅう」で、それが進み出るとということなのです」と田中先生はいさめるような言い方で話されたのだった。
その冬、農学関係の方や理科教育の知り合いに連絡し、ネットの検索などもして資料や写真の収集を行った。一段落したところで、写真や資料などをまとめたものに手紙をそえて田中先生に送った。手紙の中に、「達」の文字について私見を述べてみた。
「「大」「羊」「しんにゅう」で大人の羊から羊が生まれ出てくる姿を形象化したという説明だけでなく、「大」「羊」は、大きな羊になることと単純に思うのです。「羊」「大」で、「美しい」となりますし、中国人によっての「羊」は大きくなって「美味い」ということから「美」の文字がうまれたことも関係するのではないでしょうか」と。
数日後、田中先生から電話をいただいた。「玉村は調べもせずに適当なことを書いてくる」と思ったのだろう、「中国の文献について書いたものを見に来なさい」と、そして「写真はまだ不十分です。北海道で、羊の出産の写真を、取りに行く手配をしたい。家にいつ来れるか?」と性急なお話だった。「お急ぎですね。時間がとれたら、すぐに行かせていただきます」と返事はしたのだったが、果たせなかった。その1か月後、2015年11月19日に田中先生は逝かれたのだった。もっと聞いておくべきだった-残念でならない。
あれから10年。今年は、戦後70年を迎える。田中先生を初めとする先人達にみられるように、戦前・戦中の暗い社会から、戦後の混乱の中に「光」を求めて、教育と福祉、科学と文化、生活への努力がなされてきた。そのような社会の「発生・発展」と「到達」を見定め、新たな出発として、「未」だ「来」ぬが、羊が生まれ立ち上がるような自立的な「未来」へと努力していきたい。