ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

足立区の学力テスト・学校ぐるみの不正と障害のある子ども

2007年07月08日 22時30分10秒 | その他
<学力テスト>障害持つ児童の答案を採点から除外 足立区(毎日新聞2007/7/8より)

 東京都足立区教育委員会は7日、昨年4月に区が独自に実施した学力調査(テスト)で、トップの成績の小学校が、保護者の了解を得ずに情緒障害などのある児童3人の答案を採点対象から除外していた、と発表した。区教委は「保護者に説明せずに不適切だった。申し訳ない」とコメントした。

 区教委によると、学力調査は、小学2年~中学3年生を対象に04年度から区が独自に実施し、各学校ごとの順位を公表している。この学校は、05年度は44位だったが、06年度はトップになった。

 3人はいずれも6年生(当時)で、情緒障害などが見られる。普通学級に在籍しているが、週に何回かは別の学校の特別なクラスに通っていたという。

 3人はテストは受けたものの、「文章を理解する力が通常より難しい」などの理由から、校長の判断で採点対象から除外した。区教委は事前相談や保護者の了解があれば、問題の理解が難しい児童の採点除外を認めているが、この学校はその手続きをしなかった。校長は「怠った」と説明しているという。3人の児童の親のうち2人は校長の説明に納得していない。

 同区では、学校選択制を02年度から実施しており、成績の上位校に入学希望者が集まる傾向にある。この学校は、誤答している児童の机を教師がたたくなどの疑惑も指摘されているといい、区教委は、さらに調べる。区教委は「児童に対する配慮」を理由に、学校名は明らかにしなかった。

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足立区はテストの結果を公表しており、学校予算の傾斜配分や学校選択制をとりいれている。競争原理の導入が、不正の背景にある。また、このような競争原理による学力テストの利用は、障害のある子どもや困難をもつ子どもを学校から「排除」する方向で作用する。また、学力テストなどにおいてどのような「合理的配慮」をすれば、子どものもつ学力を診断できるのかを探求し、学力の状況を診断し、子どもの学力を質の高いものとするという努力をする必要があるが、一斉の学力テストという方法を固定化しては、その努力も生まれない。このような学力テストの運用は、障害児教育の歴史の中で、「特殊学級」に学力テストで得点を取れないような子どもを措置し、本来、障害をもつ子どもを「特殊学級」からも排除したという歴史を思い起こさせるものである。劣等処遇の再現である。

「自閉症論の原点」を読む

2007年07月08日 17時28分40秒 | その他
高岡健『自閉症論の原点-定型発達者との分断線を越える』(雲母書店)を読む。

構成
序章 『アイ・アム・サム』
第1部 自閉症の精神政治学
 第1章 自閉症の「発見」-1930~1960年代の米国
 第2章 自閉症の変容-1960から1990年代の英国
 第3章 自閉症論の現在-1990年代から今日の日本
第2部 自閉症の精神現象学
 第4章 感覚論-自閉症と純粋疎外
 第5章 感情論-自閉症とうつ病
 第6章 関係論-自閉症と世界
終章 自閉症論の原点

概要-精神医学の解体論の流れをくむ主張(自閉症論の歴史と社会的背景の分析はおもしろいが…。なぜ、日本の自閉症論は、英米圏の輸入理論しかないのか、独自の理論形成と施策の体系がなぜできないのか?反精神医学運動による理論的停滞、その後の精神医学の「権威」主義的再生があるのだろう。)

映画『アイ・アム・サム』のストーリーから、自閉症スペクトラムの特徴、相互的対人関係・コミュニケーション・想像力の範囲に関するする3つ組の特徴を示す。

自閉症論の「発見」の前史としての「精神遅滞」者脅威論の動向。その後、社会的に有用と認められる人間の分離として、「精神遅滞」から「自閉症」の分離が遂行される。

脱施設化の時代は、自閉症の再「発見」期であるが、都市部と地方部では対応が分化する。都市部は、中間施設で、都市化を免れた白人地域社会のみ生活が支えられる。アメリカ南部の黒人差別の存在するノースカロライナでTEACCHが生み出されたのは、白人中間層の要求によるものという解釈はなかなかおもしろい。

英国においても、自閉症を精神遅滞から分離する動向をみる。イギリスでは、精神分析学からの離陸、精神病からの区分から、ラターの言語・認知症概説の登場。その背景には、上流-中流階級の興隆があるとする。

その後、新自由主義の中での英米は、サービス・技術・専門産業の時代に生きる中流階級の親たちの要求から、アスペルガー症候群、高機能自閉症の社会内処遇の動き。

日本では、このような英米圏の動向を反映して、自閉症概念の輸入、「動く重症児対策」の形成(重症児施設、自閉症児施設、養護学校義務化)、新自由主義の中での個別的援助の要求が形成される。

その後の論の展開は「人間存在の原点としての自閉症」として「あるがまま」を強調。発達は、なにものかを失う過程であり、発達により人間存在からの原点から離れていくとして、自閉症が原点に回復させるものと主張する。一種のノスタルジアの議論である。

おもちゃ・ちゃめっけ・めっけた

2007年07月05日 23時32分17秒 | 絵本
以前、頭をひねって、文頭・文末をしりとり形式にした小文を書いた。昨日の「おもちゃ論」で配ったもの

おもちゃ・ちゃめっけ・めっけた!

 ある5歳の子ども、小学校3年生の姉のまねをして早口言葉─「となりのかきはよくきゃくくうかきだ」。想像すると恐い話だが、当の本人、してやったりという澄まし顔。これを評して、「支離滅裂」だが、それを聞いたこのちび助は、「しりめくれてる?」。そんなかわいいお尻なら取ってやるとばかりに、どたばたと「しりとり」。表題の「おもちゃ・ちゃめっけ・めっけた」も変形のしりとり。そんな試みは、やんちゃ・むちゃむちゃ・おもちゃ。
 「おもちゃ」を創りはじめて、10年になる。もともと、障害をもつ子どもたちとともに、歌って、踊って、おもちゃも創るという大学の教官をめざしてのこと。でも、まっとうな道からはずれ、大学の先生方や学生さんたちから遊んでいると思われているらしい。そういった世間の風評にめげずに、育児や保育の文化の向上に資するものと屁理屈をこねて、はげまなくっちゃ。
 「ちゃめっけ」が、子どもの世界から薄れているという実感をもっている。保母さんたちに聞くと、人との関係を結ぶ発達の根っこが細くなっているとよくいわれる。実際、少子化社会ということで、ゆとりをもって人との関係を育む仲間を得るのも難しいし、大人の子育ての意識も変化しているようだ。しかし、子どもと大人の関係も、こまっしゃくれた子どもに媚びるような関係であってほしくない。子どものやんちゃな姿に、すかさずニヤリと次のようにいえるような大人になりたい─「めっ!」。
 「めっけた」という発見の喜びは、子どもの胸をワクワクさせる─そんな気持ちにさせるおもちゃを創ってみたい。そもそも、そのような発想は、大人の側に豊かな遊び心がないと生まれてこない。おもちゃの話題を中心にその発想を愉快に語る「おもちゃゆかい」という会を発足させたいと思っている。ちなみに、そんなこんなを詰め込んだ『おもちゃ・コミュニケーション・子どもの発達』(かもがわ出版)をご一読下されば幸いである。



エマニュエルの贈り物(アメリカ)

2007年07月02日 21時45分31秒 | 映画
エマニュエルの贈り物:障害者の未来のために

理不尽な差別とたたかい、人間の平等を取り戻すために全力を集中している一人の青年の勇気と気概を綴ったドキュメンタリー映画の力作。
西アフリカのガーナではポリオワクチンの不足や医療施設の不備などから障害者の数は10人に1人。右足に障害を持って生まれたエマニュエルは、父親にも見捨てられ周囲からも「呪われ者」視され、母の愛の下に成長します。
多くの障害者が人目を忍んで暮らすか、物乞いの道しか生きるすべのない現実にぶつかり、彼は片足だけで漕ぎ、ガーナ横断に挑みます。障害者に対する偏見をなくすために。
この快挙は、自国はむろん世界の人々の賞賛を浴び、自信を深めた彼は提供された義足をつけ、トライアスロンに次々に参加。障害があっても同じ人間であることを行動で示し、活動の幅を拡げていきます。国連事務総長やアメリカの俳優ロビン・ウィリアムズら支援する友人達もふえ、彼の活動を力づけます。
監督はこの活動に共鳴したリサ・スターン。2年余にわたりエマニュエルに寄り添い、前編に抑揚をつけながら陰影に富んだ映像にまとめています。身が引き締まり生気あふれたエマニュエルの、熱情のほとばしりも心地よく伝わります。
車いす不足も含め、障害者の立場から改善すべき案件を率直に提起するエマニュエル。よりよき見た胃のために前向きの姿勢を崩さない彼の活動が大きく実を結ぶよう願わずに入られません。(中村清 映画ライター)
2007年7月2日赤旗