ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

安田徳太郎と山下徳治-『ゾルゲをたすけた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち』(青土社、2020年)

2020年07月29日 14時18分13秒 | 
安田三代記の『ゾルゲをたすけた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち』(青土社、2020年)をようやく読み終わった。はじめは、どうなることやらと思ったが、第二次世界大戦前後の京都や東京での諸々が書かれて、おわりの方では面白くなってきた(時々、話がそれるので読みづらいが)。いろんな人がでてくる。気になっている人では、太田典礼(武雄 安田徳太郎の親友、京都の天野橋立の出身、旧制三高で安田の1年下、九州帝国大学医学部をでて京大病院で産婦人科を専攻、p.237-238)、また最近日本国憲法の制定の際の重要な人物となった鈴木義男(当時、弁護士で、ゾルゲ事件でつかまった安田徳太郎の弁護人となるが、あまりしっかりした弁護をしなかった。それがよかったのかどうなのか、尾崎秀実との対比で考えさせられる.p.265-267)などがいる。しかし、教育史としては、やはり山下徳治と安田徳太郎のところが興味深い。その部分だけ、備忘録として記しておきたい。

 昭和5年9月26日、秋田雨雀と山下徳治がプロレタリア科学研究所関西支部記念講演会に出席するために、京都に来た。秋田曰く「山下君は篤実な人で、たえず学問の話をしている」と。安田家だけに泊まり、徳太郎と話をする。そこで徳太郎は、上京の決心をすることになる。山下の家の近く、東京府豊多摩軍中野町に手頃な借家をみつけた。山下がみつけてくれた日本橋の優生病院に勤めた(昭和5年10月7日)。
 ここに出ている山下徳治は、明治25年に鹿児島に生まれた鹿児島師範学校を大正8年(1919)年に卒業し、,同士の西田小学校に勤めたが、同郷の先輩小原国芳にその才能を認められて、小原が主事をしていた成城小学校に招かれた。ところが、生徒の母親とスキャンダルを起こして、成城小学校にいられなくなり、大正11年その母子を連れてドイツのマールブルク大学のパウロ・ナトルプ教授のもとに留学し、ペスタロッチを研究した。ナトルプは新カント派の哲学者であったが、社会主義に対する関心を隠さなかった。それで山下は時代にソビエトの教育に関心をもつようになり、昭和2年ソビエトの教育の視察に行った。帰国後は自由学園に移り、再びソビエトの教育の視察に行き、その結果をもとにして、「新興教育」を唱えた。それは、唯物史観による教育があった。ここに山下が秋田、徳太郎と結びつく接点があった。
 山下をスカウトした小原は、広島高等師範を経て、京都帝国大学文学部で教育哲学を学び、大正8年に東京牛込にあった成城小学校の主事になった。しかし彼は、明治時代には軍関係の学校への予備門として非常に有名だった成城学校がこの時代には落ちぶれているのを慨嘆して、その再生を企て、当時原野であった東京吹田多摩郡・・の土地に、小田原急行電鉄の線路が敷かれ、やがて小田原まで延伸されることを見越して40万坪の土地を買い、将来小学校、中学校、旧制高等学校とつらなる成城学園をつくることを計画し、整然たる区画整理をした。それで駅名だけでなく。やがてこの周辺一体は町名までも成城になり、後に東京の高級住宅のひとつとなった。後に小原は玉川学園を作り、戦後玉川大学学長になった。つまり、小原先生は教育哲学者であり、スカウトの名人であり、ディベロッパーである稀有の人物だった。(pp.141-142)

ある時の夏私達は、先に述べた山下徳治さん夫婦に招かれて、千葉県の飯岡にいったことがある。山下徳治さんの夫妻が夏のバンガローを借りたのだろう。・・・山下さんの家の朝食は、ドイツにいたせいか、パンにバターにベーコン、コーヒーであって、私達の家では普通の、ご飯に味噌汁とか、関西風のお茶漬けとかと違うので、うらやましかった記憶がある。云々 P.180



にっぽん泥棒物語

2020年07月25日 23時16分56秒 | 映画
「にっぽん泥棒物語」は、松川事件の際の証人となった泥棒の証言から製作されることとなったもの(山本薩夫監督)。松川事件の法廷でこの証言を聞いたというはなしを大野松雄さんから伺った。大野さんは、松川事件の警察の偽りの筋書きにそって動いてみて、とうていそのとおりにはできないことを実体験として感じたという。松川事件の映画の音響もになった若かりし日の大野さんの体験である。大野さんは、2020年6月に90歳ではあるが、記憶鮮明で元気である。
京都民報の竹内守のメモリーズオブ・キネマより。



安田一郎『ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち』青土社、2020年

2020年07月04日 21時59分43秒 | 
いろいろあっての安田徳太郎。学生時代から探ってみたい人だった。医者だが、山本宣治とは親戚関係。京都大学医学部で無産診療所運動と関わる。何度も検挙されながらも、小林多喜二の拷問死体を検分し、ゾルゲ事件で有罪判決を受けた。エロスの芸術を論じたり、また、フロイトの紹介者でもあった。
安田一郎『ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち』をよんでいる。実は、著者の安田一郎は安田徳太郎の息子、その原稿を受け継いだのが編者安田宏であり、一郎の息子という。これは三代の安田家のはじまりの話でもある。
それをよんでいるのだが、あまりまとまって読ませると言う本ではないので、少々難渋している。ところどころに面白いことが書いてあるので、備忘録としてつけておく。

p.84-85 明治天皇崩御
京都府立第二中学校時代の安田徳太郎の日記
「9月26日(木)夕方六時より月見の宴会。昨年のような豆餅に月がこうこうと照らし、その光でスキヤキと昔の野営のことも思い出される。終わりに、校長は無礼なる谷本博士は、おまえたちがなぐっても、殺しても、我が輩は退学させないと。なぐれ」。これは、京都帝大の谷本という教授博士が、乃木将軍の殉死は売名行為だと論表したことにたいして、京都府立二中の校長が憤慨して、「殺してしまえ」とか「殴りに行け」と月見の宴のときに、生徒を先導したことを指す。日記のその先をみても、この件については、何も書いていないので、殺しに行ったり、殴りに行ったりした生徒はいなかったようである。云々」

これは、京都帝国大学文学部の教育学の初代教授・谷本富のことである。この谷本、京都帝国大学の総長に沢柳がくると、なっとらんということで、「罷免」されてしまう。これは、京都大学の教育学の「悲劇(喜劇)」のはじまり、これは沢柳事件として有名だが。

ずっとあと、安田徳太郎は、山下徳治(成城で教壇にたちつつ、プロレタリア教育運動を担う)が京大をやめたときに、東京にくるように誘ったとある(山下の京都時代?ではあるが)。