ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

映画『復讐するは我にあり』

2020年06月17日 23時29分47秒 | 映画
『復讐するは我にあり』をちらみしてしまった。

5人を殺害した西口彰事件を題材にした佐木隆三の長編小説。1979年に映画化。

タイトルの「復讐するは我にあり」は、新約聖書(ローマ人への手紙・第12章第19節)に出てくる「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり」という言葉の一部。こういう男がいたことを題材に、佐木は主人公を肯定も否定もしない気持ちを込めてタイトルに引用したという実録小説。

 昭和38年のこと、人びとがたった一人の男に恐怖する。榎津巌(えのきづ いわお)である。。キリスト教カトリック信者で「千に一つしか本当のことは言わない」と豪語する詐欺師。女性や老人を含む5人の人間を殺した連続殺人犯。延べ12万人に及ぶ警察の捜査網をかいくぐり、78日間もの間逃亡。昭和39年に熊本で逮捕され、43歳で処刑。映画ではこの稀代の犯罪者の犯行の軌跡と人間像に迫る。主人公の榎津を演ずるのが、緒形拳。倍賞美津子や小川真由美、そして根津の父親の三國連太郎が好演。

「光」の裏側にある「闇」、キリスト教ではどのように考えるのか。「悪人正機」にも及ぶところが・・・。

なかにし礼『我が人生に悔いなしー時代の証言者として』河出書房新社.2019.6.

2020年06月16日 10時31分53秒 | 
なかにし礼『我が人生に悔いなしー時代の証言者として』 を読んだ。題名は作詞家とは思えない陳腐さ、とはいえ、読んでみると、癌末期の石原裕次郎に作詞したもの、この歌をうたって昭和の大スター石原裕次郎は死んでいったのだから、作者としては思い入れのある言葉だったのだろう。とはいえ、読んだぼく自身は、昨年亡くなった藤井進先生の聞き取りをしていたときに、これまで歩んでこられた道の骨子を書かれていて、そこに「我が人生に悔いなし」と書かれていたこととを思い浮かんで、別の思い入れがこの標題にはあったのだった。阿久悠の文章や阿久悠についての重松清の評伝を読んでいたので、なかにし礼も小説をかいているし、作詞家なので、期待してよんだのだが、、、。骨子は以下。

第1章・時代の証言者として
満州での出生、引き揚げ、大学進学と挫折、 シャンソン 訳詩から作詩家への道、小説家として、『長崎ぶらぶら節』(直木賞)
第2章二十歳のころ
お茶の水界隈
出発前夜
霊感力
あとがき

二、三の興味深いところ
1)1990年代三木稔との交友関係 平成に入っての創作オペラ、音楽は三木稔。「ワカヒメ 」「静と義経」の創作など。
2)なかにしは『天皇と日本国憲法 反戦と帝王のための文化論』(河出文庫)を著しているいること。満州と引き上げ、凄惨な戦後体験がそれを書かせているのだろう。読んでないけど・・・。
3)第2章は、どうも観念的であたまにはいってこない。20歳が分岐点という説らしいのだが、、とはいえ、「霊感力」のところでは、「20歳で天啓を受ける」との説で、パウロ・コエーリョ『アルケミスト(錬金術)』(山川ら訳・角川文庫)にそって、話をしている。「光」がキーワードで、enlightenment(啓発)、光をあてて目覚めさせる行為、というところで、キリスト教や糸賀一雄のことをふと思った。糸賀は、この子らが放つ「異質の光」をとらえることを語っている(高谷『異質の光』大月書店)。なかにしは「見逃すか見逃さないかが運命の分かれ道」と書いている。これを「霊感力」ということでまとめることには異を唱えたいが、なにか通じるものがある。

助走の頃-学びはじめる前

2020年06月13日 08時38分48秒 | その他
生まれたのは、1956年。この年、経済企画庁は、「もはや戦後ではない」といったという。現代史上では、政治的には55年体制がつくられ、そして、この頃から高度経済成長が進められていく。小学校から高校時代までは、高度経済成長の時代、科学技術の時代だった。
1960年前半に東海道新幹線がとおった。おじいちゃんといっしょに遠くに走る新幹線を見た覚えがある。そして、東京オリンピック。1970年には大阪で万国博覧会があった。「人類の進歩と調和」をテーマとして、「コンニチハ、コンニチハ、世界の国から」の歌が街では陽気に聞こえてきた。中学校の修学旅行は、万博に来た。中学の頃、戦後日本の復興を象徴したノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹の自伝「旅人」などを読んでみた。高等学校では、学生で芥川賞を受賞した大江健三郎の初期の小説を読んでみたりもした-「見るまえに跳べ」「遅れてきた青年」などだった。
高校は理数科にいった。3年間同じクラスだった。当然、理科系の大学に進んだ。自由な大学だったので、時間はたっぷりあった。何をしていたのだろうか。講義に出たという記憶は殆どない。下宿にこもって、高橋克己の「我が解体」など観念的な小説を読んでいたが、そのうち、「次郎物語」「戦争と人間」「人間の条件」などの成長小説をよく読んでいた。また、歴史推理小説では、松本清張なども社会派、それから、復員もので横溝正史なども次から次へと読んでいたようだ。社会発展の法則とか歴史の必然だとかいうよりも、その人その人がどのように生きたかを想像したかった。これは、迷いの時代、悩みの時代の反映に他ならない。だから、いまでも評伝の類いには手が出てしまう。どんな人生をあゆんだのか、どんな思いでいたのか。本意でないことをやらされたり、あるときには煮え湯を飲まされたりと・・・・。

八ッ橋問題-八橋検校説の行方?

2020年06月11日 09時30分43秒 | その他
老舗「八ッ橋」“創業年に根拠なし”裁判 訴え退ける 京都地裁
2020年6月10日 NHKの報道


 聖護院八ッ橋を中心とした八ッ橋起源の歴史を講義でも紹介してきたのだが、あらためて、諸説があることを認識した。
八ッ橋がいつ誕生し、いつ八橋と呼ばれるようになったのかは不明である。箏曲の祖・八橋検校を偲び箏の形を模したことに由来するとする説や、『伊勢物語』第九段「かきつばた」の舞台「三河国八橋」にちなむとする説などがあるという。

 聖護院八ツ橋総本店をはじめとするいくつかの企業では、江戸中期にあたる1689年(元禄2年)に、聖護院の森の黒谷(金戒光明寺)参道の茶店にて供されたのが八ッ橋の起源とする説を唱えて宣伝にも用いているが、八ッ橋が同時代に作られていたとする文献はない。京銘菓八ッ橋工業協同組合は「根拠のない話」として1689年(元禄2年)という年代を表記することを中止するよう求めていたが、この井筒八つ橋の訴えは退けられている。だからといって、江戸の時期に八橋検校にちなんでつくられていたかどうかはわからない(2020年6月10日)。

『さっちゃんのまほうのて』のたばたせいいちさん逝去

2020年06月11日 09時22分03秒 | 絵本
 「おしいれのぼうけん」などで知られる、絵本作家の田畑精一(たばた・せいいち)さんが2020年6月7日、老衰のため亡くなった。89歳だった。葬儀は近親者で営み、後日お別れの会を開く。
 31年大阪生まれ。京都大学中退後、人形劇に打ち込み、その後、古田足日(たるひ)さんと出会い、子どもの本の仕事を始めた。保育園の取材をもとに古田さんと共作した「おしいれのぼうけん」(74年)は、累計発行部数が230万部のロングセラーに。そのほか、先天性四肢欠損の障害がある少女を主人公にした「さっちゃんのまほうのて」、「ダンプえんちょうやっつけた」などの作品がある。
 松谷みよ子さんらと「子どもの本・九条の会」の代表団の一員となり、日中韓の絵本作家による平和絵本シリーズの呼びかけ人になるなど、反戦活動にも力を注いだ。
(朝日新聞電子版、一部改変)


平田勝『未完の時代 1960年度の記録』花伝社、2020年4月

2020年06月09日 09時56分52秒 | 
平田勝『未完の時代 1960年度の記録』をよんだ。1960年代の東大闘争の裏面史というか、その下支えをした記録であり、平田の活動記録・個人史である。全共闘と対峙して全寮連や全学連の再建をすすめてきた記録である。いま、全共闘VS三島由紀夫などのドキュメンタリーが上映されているが、華々しい画になる運動とは、べつの地平の存在を示唆している。

1.上京と安保-1960年
2.東大駒場-1961年~1964年
3.東大本郷-1965年~1968年
4.東大紛争-1968年~1969年
5.新日和見主義事件-1969年~1972年
あとがき