ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

粕谷一希『中央公論社と私』文藝春秋、1999年

2014年05月18日 10時22分27秒 | 
1930念生まれ。東大法学部卒業後、中央公論社に入社、「思想の科学」「婦人公論」「中央公論」「歴史と人物」の編集を歴任。1978年退社。

「中央公論」は、もともと西本願寺系の学生による機関誌として発行されたが、明治32年に「中央公論」と改題、総合雑誌となる。
この本は、中央公論社の戦後の発展と没落を当事者の立場から記したもの。
1960年11月に『中央公論』に発表された深沢七郎の小説「風流夢譚」への右翼の抗議活動及び、右翼団体大日本愛国党に所属していた少年による中央公論社社長宅に侵入した殺傷事件が起こる。その後、『思想の科学』の天皇制特集号の廃棄問題などもあり、中央公論社内で言論問題で紛糾、雑誌の編集をめぐって紆余曲折のなかで経営難に陥っていく。その姿を当事者の立場から記したもの。戦後思潮などの著書をもつ。自民党の伊藤昌哉などと交流を持ち、福田恆存などとちかい考え方。

「高坂正堯の若々しさ」
池田内閣時代には政権周辺の人びとと編集部との接触も自然に増え、笹原編集長は、水上勉の身体障害者問題を訴えた「拝啓 池田総理大臣殿」といった企画などを通して黒金泰美官房長官などと交流を深め、私も後に池田首相秘書官の伊藤昌哉と親しくなる機会を得た。p.139

高次脳機能障害リハビリテーション研修会に参加して(2013年7月21日)

2014年05月07日 18時01分19秒 | その他
高次脳機能障害研修会に参加して


 高次脳機能障害の研修会に参加させていただいて、個人的なこと思い起こし、また考えさせられたことから感想を話してみたい。
 私が生まれたのは、1956年-経済企画庁が経済白書で「もはや戦後ではない」と記した年だった。この頃から高度経済成長が進められていった。1960年には、池田勇人首相が「所得倍増計画」を提唱し、そのもとで、太平洋ベルト地帯という工業地帯の形成がなされていた。東京と大阪のちょうど真ん中の静岡に生まれた。1964年には、新幹線の開通と東京オリンピックの開催があった。幼少の頃のきおくは、祖母におぶわれた記憶と祖父と新幹線を見に行った記憶がうっすらとある。
高度経済成長の裏側では、その時代、様々な社会問題が生じてきていた。1955年、西日本一帯では森永ヒ素ミルク中毒事件が起こった。静岡の田舎でヤギの乳で育った私にとっては遠い存在であった。その後も、サリドマイド事件などの薬害、四日市ゼンソクや水俣病などの公害などが継続して起こって行った。私にとっては無縁だと思われたこの高度経済成長ではあるが、しかし、モータリゼーションと交通網の発達、自家用車の普及は私のまわりでも起こってきていた。自分では記憶がないが、3歳か、4歳頃、家の前の道に突然走り出て交通事故にあい、全身が内出血状態となった。母が必死の思いで車のしたに入っていた私を引きずり出したということだったが、幼かった自分にはその記憶はない。当時はまだ舗装もされていない道だったが、急激に車道が整備され、車が普及されて行き、交通戦争はその後激しくなっていく。
 大学に入ったのは、オイルショックの後の1974年で、20歳になったのが1976年1月、その前の月-1975年12月に、国連は「障害者の権利宣言」を採択した。その頃、ようやく社会や障害のある人たちをうっすらとではあるが意識することにもなった。しかし、障害のある人たちに向き合うことになるのは、その後、5年ほどたった1981年の国際障害者年の年を待たなければならなかった。
国際障害者年の25年後、2006年12月国連で採択されたのが障害者権利条約であった。2014年1月20日、日本政府も、この条約を批准した。141ヵ国目の批准であった。すでに世界の多くの国は条約を批准しているので、日本の批准は早くはなかった。しかし、今回の条約の批准は、子どもの権利条約の批准とは異なって、日本障害フォーラムなどの障害者団体の自覚的な取り組みを背景として、障害者基本法の改定、障害者総合支援法と障害者差別解消法の制定など一定の障害者制度改革の手立てを行った後の批准であったことは重要である。
 翻って、国連障害者権利条約は障害の社会的モデルを意識していた。このことは、障害が社会的に発生すること、個人がもつ機能障害と社会的障壁との関係で起こってくること、総合的な権利の実現に対して社会の役割が決定的に大きいことを意味している。振り返って1970年代以降の国連の障害者問題へのアプローチは,戦争や人権侵害、貧困などによって障害が社会的に発生していること、社会の有り様から生まれる障害の発生予防とリハビリテーション、そしてひとしく権利を実現していくことを求めてきたものであった。
「戦争」は、戦後70年になろうとしている日本には無関係なことであろうか?「交通戦争」「企業戦争」「情報戦争」「受験戦争」などのことばを添えれば日本においても現に「戦争」は存在している。子どもの世界でもその被害は顕著である。社会が高度に発達すればするほど、こうした被害は多様になっている。「高次脳機能障害」も、また、「安心」「安全」をないがしろにした社会によって作られ、従って、「安心」「安全」な社会を創ることを問題提起している存在なのであると考える。
私もまた、交通事故に遭っているものの一人として、研修会を通して高次脳機能障害と向き合う良い機会となったことを感謝申し上げたい。

奈良脳外傷友の会・会報『あすか』第16号、2014年4月27日発行、4頁

生きるということを、人に委ねず…

2014年05月05日 09時38分33秒 | 生活教育
「朝ドラ」を楽しみにするようになってしまった-そんな年になったのだとも思うが、それを認めるのもしゃくである。戦前・戦後の歴史を考えるにあたって、その時代を生き抜いてきた女性達の姿がどう描かれているかに興味がそそられるのだといっておきたい。「ゲゲゲの女房」「カーネーション」「梅ちゃん先生」…そして今年度前期にはじまった「花子とアン」である。
 この連続テレビ小説は、「赤毛のアン」を翻訳した村岡花子の半生を、アンと重ね合わせて描くものである。とはいっても、「赤毛のアン」は実は読んだこともないのだが…。
 小作農家に生まれた「はな」は、行商をする新しもの好きの父親に連れられて、良家の子女の学ぶ全寮制女学校に給費生として入学することとなる。甲府の山麓の農村からでてきた「はな」にとっては、学校生活は「テッ! ほんとけ」と目を丸くして驚くことばかり。初めて学ぶ英語にはまったくついて行けない。しかし、落第すると退学が決まっている「はな」にとっては英作文の宿題は崖っぷち。思いあまって外国人教師の切々たる恋文をうつして宿題として提出してしまう。そして、それが、その教師の前で披露されることになるのである。心の傷をおった教師に心からのお詫びを英語で語る「はな」。そしてそれが通じたところから、道が開かれていく。英語三昧の「花子」として成長していくのである。
 女学校の人間模様には、謎と哀愁を漂わせる年上の葉山蓮子さま、対照的な言語矯正係の白鳥かをる子さまなどの寮生活の中での人間模様も興味深い。葉山蓮子さまは、「やっかいばらいでこの寄宿舎にきた」とされているが、その寄宿舎での「はな」との出会いで人間に対する考え方をかえていく兆しがみえる。ちなみに、この寄宿舎の生活では、「謹慎」は「Go to Bed」である。これらの人間模様のナレーションをするのが美輪明宏で、毎回最後にさらりと発する「では、ごきげんよう、さようなら」の一言は次回への期待を何とも高める存在感を持っている。
 「赤毛のアン」は、想像力豊かでお喋り好きな女の子の孤児が引き取られて成長していく物語だと最近知った。お恥ずかしい話であるが、その中に、アンが自分の人生を自分で決める場面での有名なフレーズがあることを教えてもらった。

「あたしがクィーン(学院)を出るときには、自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。いつもさきまで、ずっと見とおせる気がしたの。ところがいま曲り角にきたのよ。曲り角をまがったさきになにがあるのかは、わからない」
 そして、続けて、アンはこういうのである-「でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの…」と。

 先の見えない曲り角に直面して不安は誰しもあるであろう。でも、そこで想像の翼を伸ばして、「いちばんよいもの」「すてきによいところ」を思い、前向きに一歩を踏み出すようになりたい。そのような勇気と力をみなの中で培っていきたい。
 戦争中、村岡花子は、文学者として戦争に協力をしながらも、密かに「赤毛のアン」を翻訳して、苦しい時代を耐えてきた。難しい時代であっても、想像と心の中の希望の光となるものを守っていきたい、そして、自分の運命を人に委ねず、自分たち自身の道を拓いていきたいと思うこの頃である。