ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

曽野綾子『諦めない女』(中公文庫)

2009年10月31日 00時14分08秒 | 
知的障害児の施設の園長・西蓮寺千香を主人公とした小説。元夫は保守系の衆議院議員であり、離婚をしている主人公が、革新系から立候補する。選挙選の進展を時間軸にして、施設の人間模様や元夫との関係などが展開していく。もともとは、昭和34年10月から昭和35年10月まで『婦人生活』に連載され、1961年12月に中央公論社から刊行されたもの。
知的障害の描き方に時代の制約を強く受ける。知的障害児の施設は「人間の心を失った子どもたちを抱えて、果てしない苦労を背負わされた家族のための施設」と描かれている。知的障害が「精薄」とよばれ、困った・やっかいな存在として語られている。障害者への視線が冷たい。施設の運営にストイックに取り組む主人公の姿は、曽野綾子的「博愛主義」としてのキリスト教的なものが感じられるが、それはあくまでも高いところからしもじもを見るという視点のようにも感じられる。
曽野綾子は、その後、教育など精神世界と関わって政治的な発言を強めていく。夫の三浦朱文は文化庁長官にもなり、学習指導要領などでのタカ派的な発言もあった。曾野綾子の人間観が問われざるを得ない。

年齢の本-53歳

2009年10月29日 23時42分26秒 | 
研究室に埋もれていた『年齢の本』(デズモンド・モリス、平凡社、1985年)を見つけた。
53歳のところを見ると次のように書かれていた。
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53歳という年齢は「男の更年期」である。およそ15%の男が、急激なテストステロンの減少を伴う、本来的な肉体的危機を経験するといわれる。この人たちにはそれとわかる時期があって、性的な精力が減退し、いろいろ気分のすぐれぬ症状を伴ったりする。たとえば、朝の無気力、不眠、一時的なめまい、動悸、さらには昔から女によくある顔面潮紅さえ見られる。けれど、大多数の男には、この特別な年齢の厄事はおこらない。

小杉健治『家族』(双葉社、2009年)を読む

2009年10月25日 23時10分44秒 | 
10月24日、25日 障害児の生活教育全国研究集会(長浜ロイヤルホテル)に参加。
24日、11時に到着の予定だったが、誤って湖西線の新快速に乗ってしまった。
米原を通って、長浜につくものとおもっていたら、近江今津で終点となる。
結局、敦賀行きに乗り、途中で、びわこ線に乗り換えて、長浜についた。

その間、小杉健治の『家族』を読む。はじめは、集中できなかったが、中段以後引き込まれていった。認知症の老女殺人を巡る裁判を中心に、被告の真実が、裁判員の人間模様やその活動によってうかびあがっていく。介護の問題、裁判員制度などなど現代的な課題を提起している。


小松左京自伝

2009年10月16日 14時13分28秒 | 
『小松左京自伝-実存を求めて』(日本経済新聞出版社)を読んでいる。

1931年生まれ。78歳。
戦後直後の学生時代のこと、学生運動や文学談義、そしてその後の台本や脚本がきなどの時代、日本沈没などのSF作家になりゆくまでのこと、万博などのプロデュースも。対照的な純文学者で夭逝の作家高橋和己との交流は興味深い。

この時代に生きた人たちは、スケールが大きい、ほら吹き野郎が多いようだともおもう。

山崎豊子『運命の人』を読み終わる

2009年10月13日 23時47分35秒 | 
広島市立特別支援学校へいった。
のぞみの中で、この間読んでいた『運命の人』の3巻と4巻を読んだ。
最高裁での政治的な判決により奈落の底に…そして東京から九州、そして運命の沖縄に…。

沖縄返還と基地問題を巡って、今日でも問題はもちこされている。
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鳩山首相が普天間移設合意容認を一転否定
10月8日20時15分配信

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題をめぐり、鳩山由紀夫首相は8日、日米両政府の合意に基づくキャンプ・シュワブ沿岸部(同県名護市)への移設容認について「そんなことは一言も申し上げていない」と否定した。その上で「いろいろな可能性を検討している。さまざまな考え方、選択肢の中で国民、県民が理解できる着地点を探していきたい」とも述べ、合意容認になお含みを残した。

 首相官邸で記者団の質問に答えた。首相はかねて県外移設を主張してきたが、7日に「マニフェストは簡単に変えるべきではないが、時間というファクターによって変化する可能性は否定しない」と合意容認を示唆した。

 これを受けて、社民党の重野安正幹事長は8日、平野博文官房長官に対し、「問題を解決できなかったのは県内移設を前提に進めてきた結果だ」と県外移設を強く求めた。

 社民党は11月12日のオバマ米大統領の来日に向け、県内移設撤回を働きかける構え。照屋寛徳企画委員長は記者団に県内移設容認ならば「(連立離脱の)可能性はある」と述べた。

 ただ、政府には、具体的な展望のない県外移設にこだわることで普天間返還が先送りになり、住民の危険が続くことへの懸念も強い。県内移設をカードに加えることで「再交渉には応じない」とする米側を軟化させたいとの思いもある。平野氏は記者会見で「県民負担を軽減することも3党合意だ」と述べ、社民党との温度差をにじませた。

『不毛地帯』を読み終わる

2009年10月04日 22時10分11秒 | 
山崎豊子『不毛地帯』(新潮文庫)を読み終わった。
ドラマ化されるのだが、主演の唐沢寿明では主人公の壱岐のイメージと違うように思う。壱岐のモデルとなった瀬島龍三(1911‐2007)のことを調べてみる。

戦前と戦後の関係を考えてしまう…。中曽根内閣の際には、臨調行革、臨教審などにも関与した。

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シベリア抑留から帰還後、1958年に大手商社の伊藤忠商事に入社する。入社3年目の1961年には業務部長に抜擢され、翌年に取締役業務本部長、半年後に常務となる。その後も、1968年に専務、1972年副社長、1977年副会長と昇進し、1978年には会長に就任した。

帝国陸軍の参謀本部の組織をモデルにした「瀬島機関」と呼ばれる直属の部下を率いて、伊藤忠商事の総合商社化などに辣腕をふるった。

1981年に相談役、1987年に特別顧問に就く。この間、中曽根康弘政権(1982年~1987年)のブレーンとして、第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員などを務め政治の世界でも活躍した。84年に勲一等瑞宝章を受章。他にも亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。2000年、伊藤忠商事特別顧問を退任。