ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

年忘れ…

2006年12月31日 14時39分45秒 | その他
 最後に残った連絡などをメールでしながら、いろいろ考えました…思い起こせば、今年もいろいろありました。

 夏休みまでは、全障研大会と概算要求で大変。それが終わって、権利条約特別委員会へ。12月13日には障害者権利条約が国連総会で採択されました。生活教育の分野では、沖縄の研究集会の後、いろんな事が起こり…。それと平行して、特別支援学校免許の課程認定で、全国的に大変な状況となりました。年末には、センターの設置の件などがありました。来年度からは、特別支援教育の全面実施です。年々、仕事は厳しくなり、発達につながらない「葛藤」ばかりで、「年忘れ」で忘れたいことも多々ありました。

 来年は、よいことがありますように!みなさんもよいお年を…

絵本と障害

2006年12月30日 17時26分59秒 | 絵本
 午前中、ゆっくりしていると、三学出版のNさんから電話。

 Nさんと会って、お茶を飲みながら、来年のことを語る。「障害者権利条約」「インクルーシブ教育」などなど…いろいろやりたいことはあるけれど、とりあえず、やって楽しいことをということで「絵本の中の障害-障害理解の絵本・ブックトーク(仮)」を相談する。ブックリストを兼用するようなもので、さらっと読めるように、ちいさめの本にする(400字×100枚くらい)。…そんな事を話し合った。
 冬休みに、構想をねって、ブログ上で書きためていくという方式で、来年度半ばにはまとめ上げたい。このブログのカテゴリーに「絵本」の項を付け加えた。できたら、シリーズで出したい。1月末くらいにもう一度会うこととなる。

 帰宅してから、年賀状書き。昨日までの疲れで、頭が重い。宛先の人を思いながら、一言添えるので疲れる。夕方、ようやく一段落。年々、仕事が遅くなる。

和歌山で1泊

2006年12月27日 21時33分06秒 | その他
集中講義の後、和歌山滞在。
和歌の浦を見下ろせる旅館で1泊。温泉にはいってちょっとゆっくりする。
今年は本当にいろいろあったことを思い、ビールを一杯
朝風呂をあび、チェックアウトの時間までゴロゴロ。

ただ、ちょっとショックだったこともあった…来年の目標はダイエット!
和歌の浦の朝日に誓う!

午後、帰宅。車の運転で疲れて、寝てしまう…。

クリスマスイブというのに…

2006年12月24日 22時25分12秒 | その他
クリスマスイブというのに、1日缶詰の会議。
7時半に家を出、喫茶店でモーニングを食べ、9時半前に到着。
そこから、昼食を挟んで、5時半まで、いろんな層の方の報告を聞く。それなりに面白かったが、内職で卒論の点検(2人分を読む)。
会議で、B先生とあう。いろんな話をする。
会議の後、外へ出るともう暗くなっている。大学へよってとりあえずのものを研究室から持って帰る。

寄宿舎研究会の今後

2006年12月23日 23時56分19秒 | 生活教育
午後から、近江八幡で寄宿舎教育研究会常任委員会。

京都駅からのJRは、大津で人身事故のため遅れていた。早めに出ていたので、影響はなかった。近江八幡で昼食をかきこんで、婦人会館へ(ちょっと分かりにくい所でした)。

和室に、机と椅子のちぐはぐなセッティングで、1時半過ぎから会議が始まる。
1.沖縄集会(生活教育研究集会)の総括-プレ集会との比較で、若手の人たちの成長が報告され、プレ集会の存在の重要性が浮かび上がった。沖縄の、若手の指導員の層が新鮮。しかし、受け継ぐべきものは多くあるものの、それを誰に、どのように伝えるのかは不明なことが寂しい。
2.この間の寄宿舎を取り巻く状況(滋賀の心中事件、貝塚養護学校の学校指定の取り消し問題など)。和歌山の養護学校の統合による寄宿舎の廃舎問題については報告がなかったです。議論で気になったのは、「責任」とか「姿勢」という言い方。機能主義や分担主義への戒めではあるが、しかし無限に努力を強いるような内にこもるような語感がする。
3.春合宿の持ち方-テーマをめぐって、「特別支援教育と寄宿舎」の関係のとらえ方。特別支援学校の中での寄宿舎の位置づけの問題。

 特別支援教育は、障害児の生活現実を視野に入れていないし、寄宿舎の役割を位置づけていないのは、当たり前のことである…官僚の作文なのだから…と思う。そういった作文をしながら、既存の枠組みを変えて、どのように予算をとってくるかが官僚の考えるところである。構造改革はその既存の枠組みを「ぶっこわす」として国民の歓声をあびたのである。新自由主義の席巻の中で、もともと弱かった「福祉国家」論は後退し、教育、医療、社会福祉・社会保障の土台が沈んでいく。そこをみないと、個々の事象の羅列になる。


岩波新書に『ものいわぬ農民』というものがあったことを思い出した。大多数の「ものいわぬ者」の「沈黙」の意味を考えたい。「物言う納税者」というが、しかし、その代表が村上ファンドの代表者のようなものだったりする。しょうもないことを「物言う」人もいる-それで本質が曖昧になったりする。

年賀状コンクール

2006年12月19日 22時26分26秒 | その他
今日は

ゆっくり目に大学へ。
4コマ目が1回生の基礎ゼミ。はじまる前に、レジュメをつくっておいた。
はじまる前に、頼まれていた通所授産施設の年賀状コンクールの作品の選定をする。最優秀賞1、優秀賞3、がんばったで賞2、審査委員長特別賞2を、1回生といっしょに選んだ。「可愛いで賞」とか、いろんなコメントを付けてもらった。1回生は14人だが、10人くらいがいろんなことをいいながら選定してくれた。遠巻きの人は、よく見れないので、そうなった。ゼミは、10人までが良いということなのだろうか。今度、この学生さんたちを、その授産施設に連れて行きたいと思っている。14人はちょっと多いか…。
1回生のゼミは、『障害児と教育』の第1章の続き(活動と子どもの発達/活動と障害の制約)から、第2章「障害児をどう捉えるか」まで進む。あとは、各章を2~3人に分担してもらって、年明けのゼミで発表の段取りをとる。

審査委員長特別賞の賞品を特別専攻科の学生さんに買ってきてもらった。明日、通園施設の見学の帰りによって、おいてこようと思う。

夜は会議

ドクさんの結婚

2006年12月17日 21時25分31秒 | その他
朝早く電話で起こされて、その後、寝てしまい、午後も、髪を切りに行って、その後、寝てしまう。一日、寝ている。

昨日から、ベトナムの結合双生児の一人、ベトさんの結婚の報道があった。もう、25歳になったという、分離手術からもう18年がたった。思い起こせば、ベトちゃんドクちゃんのことは、当時滋賀大学の藤本文朗先生が、在外研究先にベトナムを選び、そこで2人にあったことがきっかけとなって、日本との交流が行われたのだった。藤本先生は、2人の主治医だったファン博士から、2人にあった車いすをと要請され、日本に帰国。その足で、福井の脊椎損傷で寝たきりになっていたエンジニアに設計を依頼。車いすを送る運動を、「ベトちゃんドクちゃんの発達を願い会」を組織して、開始した。事務局長の役割を、福井の車いす司書をやっていた河原さんが担った。その後、藤本先生たちは何度もベトナムに行ったし、ベトちゃんが急性脳症を患ったときの日本への移送と治療の下支えをした。藤本先生は、滋賀大学を退官したが、いまでもベトナムとの交流をしているようだし、また、その後をついでいる先生方もおられる。

藤本先生になぜ「ベトナム」と問うたことがあった。やはり、ベトナム戦争のことが引っかかってのことで、郷愁にも似た気持ちもあるといわれたことを思い出す。ベトナムが解放されたのが、僕が大学の2回生の時、1975年-この年、国連では「障害者の権利宣言」が出された画期的な年だ。今年の8月、国連の第8回障害者権利条約特別委員会の傍聴に行ったとき、ニーヨーク国連本部の手前の広場で、ベトナムへ従軍した韓国兵士で枯れ葉剤の被害を被った人たちがアメリカへの抗議行動の集会をしていた。

戦争と障害の発生をベトナムは訴えている。ドクさんもインタビューの中で平和を強調していた。枯れ葉剤など化学兵器の問題など、今後も考えていきたい。

※枯れ葉剤
ベトナム戦争中の1961年から71年、米軍が解放勢力が隠れる森林をなくすとして、猛毒ダイオキシンが含まれた「枯れ葉剤」7600万リットルをベトナムに散布。ダイオキシンは、発ガン、先天性障害、身体機能障害の原因物質とされ、散布地域では障害を持った子どもが多数生まれている。ベトナム人300万人以上が影響を受け、土中や水中に残留したダイオキシンにより、今も影響が続いている。

教育の困難

2006年12月14日 22時32分24秒 | 生活教育
大学の仕事をK先生におねがいして、寄宿舎研の方々と滋賀の近江八幡にいった。主催者は、「調査」といっていたが、「ただただ話を聞く」というつもりだった。「事件は会議室で起こっているんじゃない」というセリフがあったことを思い起こした。
今日は「生活」と「社会」の関係を考えた…教育基本法の改悪案が与党の多数で特別委員会を通過し、明日の会期末には成立するといわれている…重ねて、「社会」と「国家」の関係を考え続けることになろう。滋賀から家に帰って、頭が疲れて、身体が寒くて、布団をかぶって寝た。

おにつかるみ『さとこ先生のホームルーム』(新日本出版社)を読む。毎日新聞京都版に連載された短編を集めたもの。筆者は、京都府の小学校障害児学級のベテラン講師という。
仲間にいえない秘密をもつ子ども、虐待の中で育った障害のある子、ダウン症の子、卒業生で劣悪な環境で働かされている子、アスペルガー症候群の子、不登校の子、義父との関係、学級崩壊の中の教師などなど、教育のドキュメント、実践記録エピソードの短編集とでもいえようか。それぞれ、短編の中で、現代的な教育問題が描かれるが、明日が見える設定となっているところに、「希望が湧く」。しかし、現実はそううまくはいかない。
「教育小説」という言葉をつかったのは、歴史学者家永三郎だった。その系譜にはいる。障害児学級の講師経験が長いのか、障害のある子どもたちがたくさん登場するところが興味深い。

ニューヨーク時間の2006年12月13日10時50分、第61回国連総会にて障害者権利条約が満場一致で採択された。今日の新聞に、小さくその記事が掲載されていた。

障害者権利条約採択へ(国連広報センタープレスリリース)

2006年12月13日 22時46分28秒 | その他
第61回の国連総会では、今頃(ニューヨーク時間で午前10時から12時頃)、障害者権利条約が採択される手続きが取られていることだろう。東京にある国際連合広報センターからプレスリリース(翻訳)が出されている。

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障害者の権利に関する画期的な条約、12月13日に採択へ(国際連合広報センター)

 全世界の障害者およそ6億5,000万人の権利を保障する条約案は12月13日、国連総会に提出、採択される運びとなりました。
 この条約の採択により、21世紀初の重要な人権条約が成立します。総会での採択後、条約は192の加盟国による批准と実施に委ねられることになります。条約は20カ国が批准した時点で発効します。
 4年にわたる総会委員会での交渉の末、各国は8月25日、この画期的な条約案に合意しました。コフィー・アナン国連事務総長は「全世界で障害を抱える6億5,000万の人々にとって、歴史的な成果」だとして、条約案への合意を歓迎しました。
 人権活動家は、この条約によってついに、各国が障害を持つ人々を社会の片隅に追いやることができなくなると期待しています。条約を批准する政府には、明確に定められた権利を有する法の対象として、障害を持つ人々を取り扱う法的な義務が生じます。
 50カ条からなる条約案は、国際人権法の空白を埋めるものとして、障害を持つ人々の権利を詳しく規定しています。具体的には、市民的・政治的権利、アクセスの確保、参加と受け入れ、教育を受ける権利、保健の権利、労働の権利、雇用の権利、社会保障などが盛り込まれています。さらに重要な点として、条約案は、障害を持つ人々が平等な地位を手に入れるためには、社会の態度を変えることが必要だとの認識を示しています。条約の案文は http://www.un.org/esa/socdev/enable/ <http://www.un.org/esa/socdev/enable/>でご覧になれます。
 この新条約の支持者たちは、障害を持つ人々が建前としては健常者と同じ権利を与えられていながら、雇用、教育、保健医療、法律上の権利行使など、本質的に生活のあらゆる側面で差別を受けているのが実情だとしています。にもかかわらず、障害者は社会で数限りない貢献を果たしています。コミュニティに完全に溶け込めれば、さらに大きな貢献が可能となることでしょう。
 条約案の作成には、全世界の障害者の権利擁護者が重要な役割を果たしました。その中には政府代表団のほか、各国の人権機関や障害者団体の代表も含まれています。
条約は各国が負担できない措置を義務づけるものではありませんが、障害を持つ人々の交通手段、教育、雇用、余暇活動へのアクセスを改善できる措置の導入に向け、段階的な取り組みを続けることは要求しています。
 条約を批准する国々は、障害者の権利を改善するための法律を制定したり、その他の措置を導入したりすることだけでなく、障害を持つ人々を差別する立法措置や慣行、慣習を廃止することにも同意します。現在のところ、障害者の問題に取り組む立法措置を導入している国々は、45カ国にすぎません。条約は3月30日から署名、批准できるようになります。
 総会はこの条約に加えて、通報に関する18カ条の選択議定書も採択する予定です。この議定書により、個人や団体は国内的な救済手段が尽くされた場合、障害者の権利委員会(Committee on the Rights of Persons with Disabilities)に申し立てを行えるようになります。
 独立の専門家からなるこの委員会は、条約発効後に設置され、条約義務の履行に関する進捗状況の定期的な報告を締約国から受けることになります。

トミーの夕陽

2006年12月11日 21時56分52秒 | 映画
昨日、関西学院大学の行き帰り、約5時間。電車の中で…

…別府悦子さんの『ちょっと気になる子どもの理解、援助、保育』(ちいさいなかま社、06年7月)を読む。『ちいさいなかま』に連載されたものをまとめたもの。子どもの状況と関わり手の心情がよく描かれていて、読みやすいものだった。別府さんは、情感にうったえるような記述がうまい。保育者に読まれる本となると思う。

読みかけでほってあった、鶴島緋沙子『トミーの夕陽』(つげ書房新社、1997年4月)を読む。山田洋次監督の「学校III」の原作となったもの。自閉症の青年の視点からの、「カーサン」との生活を綴った短編が中心。最後の1編だけが肢体障害の女性のものがたり。最後の1編はそれなりにいいのだが、本の統一性を考えると、自閉症のトミーの視点からのもので統一した方が良かったのではないかと思う。著者は、この本を山田監督におくり、そのことを通して、映画「学校III」となったという。「学校III」は、専門学校とそこに学ぶ女性を描いた作品だが、『トミーの夕陽』の中にはその学校の設定はない。専門学校と結びつけて、大竹しのぶ演ずるカーサンとトミーとのエピソードを絡めるところは、短編を一つの物語とする映画のストーリーのオリジナルなところ。映画の最後には、短編「トミーの夕陽」の乳ガンでの手術にのぞむ「カーサン」の葛藤を配置している(この部分は、書き下ろしであり、この作品のタイトルにもなっている)。いろんな思い錯綜して、映画の大竹しのぶの演技にこころを絞られる思いがする。

作者と自閉症の息子さんについてはいろいろなエピソードがあるようだ。この本の中には、自閉症児とその母親の真実が反映していると思われる。いつかそのことを考えてみたい。

口述審査(関西学院大学にて)

2006年12月10日 18時51分04秒 | その他


関西学院大学での臨床発達心理士の口述審査のため、9時半に電車で出発。11時半に到着。面接は、以下のような設問で20分程度。
「臨床」をどのように考え、取り組んできたのか?
WISC-IIIとWISC-IVの違い-日本の文化がどのように発達や心理に関与するか?(WISC-IVはまだ日本で標準化されていないので、インターナショナルスタンダードの性格があるといわれても…)
外国と日本の教育システムや子どもの発達支援システムの違い-特に、リテラシーの獲得に関連して
臨床発達心理士の養成について-臨床実習の確保とフィールド
なぜ、「おもちゃ」に注目したのか?
などなど、おもしろく話ができたと思う。

面接は人や経歴によっていろいろのようだ。前日に面接を受けていた人から以下のようなメールをもらっていたので、構えていた。
「かなりシビアでした。最初は、受験動機について聞かれました。次に今までしてきた仕事の内容についての質問でした。そして、提出した論文の中味について、かなり深く突っ込んだ質問が続きました。約20分で終了です。凹んでしまって、クタクタになって帰路につきました。しんどかったです。」
面接を受ける側としては、やはり緊張する。あまり、臨床も研究もやっていないので、あれこれ弁解を考えていて、気疲れした。

関西学院大学内の、教会では結婚式があげられていた。ドレスを着た子どもたちが走り回っていた。

帰ったら、4時だった。1日とんでしまった。面接は、関東と関西の2会場なので、遠くの人はこの資格をとるための口述審査を受けるだけで大変だろうと思う。


1日幼稚園の保育見学と研修

2006年12月06日 22時19分02秒 | その他
1日、大和郡山のH幼稚園の保育見学(午前)と研修(午後)。
以前、「幼児教育セミナー」で話をした時、「どこでもいきます」と安売りをしたことがあだになった。今年度の早くからつかまってしまった。
今日1日つきあった。軽度の発達障害の疑いのある子どもや自閉症の子どもさんの保育場面を見せてもらった。いろいろ悩みは多いようだが、先生の数が少ない中で、幼児期の重要な時期での手だてをとっている姿に接することができたように思われる。研修は、事例の検討。応援していきたいものだ

大学に一端もどり実務の後、美術コレクターの方のお宅に久しぶりにおじゃました。元気な姿とバイタリティーあふれる話がうれしかった

筆子その愛

2006年12月05日 22時31分50秒 | 映画
今日も寒い。
戦争と障害者についての紹介を書いて、その後、基礎ゼミ。今日で発表は終わり。次回から、「障害児と教育」(岩波新書)をみんなで読む計画。キノコ好きの学生さんにブログを見せたら、嬉しがっていた。B型の専攻科の学生さんにも、B型のキノコ学生さんを紹介する。ついでに、先週全盲の子どもの実践を報告してくれた現職の先生もB型だった。B型だからということではないが、どうもB型の人たちに振り回される人生となっているような気がする

夜、地域の障害者協議会の役員会。3月初めに、国連・障害者権利条約の関係で学習会をするはめになった。ちなみに、ニューヨークの国連本部で、第8回権利条約特別委員会が、今日開催される(時差が12時間くらいあるので、今、はじまったところじゃなかろうか)。その会議で、障害者権利条約案が正式な案として総会へ提出されるものとなる。

会議で、「筆子その愛」の上映運動も紹介される。石井筆子は、石井亮一の妻で滝乃川学園を支えた人としては知っていたが、その人生は波乱にとんでいるようだ。「筆子その愛」の物語は次のようなもの(公式サイトより引用)。「鹿鳴館の華から、障害児教育・福祉の先駆者へ」の歩みを描いている。「障害のある人が戦場に行った時代」を考え、それ以前の障害児教育の草創期の時代に思いをはせた日となった。

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(1861年筆子は長崎県の藩士の娘として生まれる)
長崎・大村の隠れキリシタン弾圧のさなか、海岸で遊んでいた幼き筆子は、血を流しながら連行されてゆくキリシタン達を目の当たりにし、幼い心を痛める。
 
 成人後、海外留学を経験し三カ国語を自由に話せるようになった筆子は、「鹿鳴館の華」と呼ばれた才媛であった。 華族女学校で教鞭をとり、後の貞明皇后もその教え子となっていた。 また、筆子は父と叔父の勧めで、大村藩家老の子息・小鹿島果と結婚。親友の津田梅子らと共に女性の自立教育にも動き出し、当時の女性達の中でも、ひときわ輝いている存在であった。

 しかし、そんな筆子に試練が襲いかかる。授かった長女が知的障害を持ち、次女は生後十ヶ月で亡くなり、三女は結核性脳膜炎、続いて夫・果も結核で亡くなるなど相次ぐ苦難が襲ったのだ。どん底に突き落とされる筆子……。
 
 そこに一脈の光がさしたのは、孤女学院を運営していた石井亮一との出会いであった。筆子は亮一との出会いを通して、自分が本当に進むべき道を見出す。それは険しい茨の道であった。しかし筆子は天から指し示された道と信じ、様々な困難と闘いつつも、亮一と共に日本初の知的障害者の施設・滝乃川学園の運営に乗り出していく……。

谷川俊太郎の『いちねんせい』

2006年12月04日 21時18分16秒 | 絵本
今日は寒い-けれども日が照っているので、日中は大丈夫

土曜日につくったパワーポイントを渡し、午後からの講義レジュメを印刷。図書館で、資料をコピー(新井英靖・渡辺健治「病気による長期欠席児の教育的対応に関する研究-寄宿舎併設養護学校児童生徒の実態と特別な教育的対応について-」『東京学芸大学紀要』第1部門、51、2000年)。

 2コマ目は、「障害児の発達と学習」の講義-3回目「障害児と文化」の関連から「教育実践を創る」ことへ
 谷川俊太郎・詩、和田誠・絵『いちねんせい』は、新しく1年生になる子供たちに手渡す絵本。軽妙なテンポの谷川の詩に、とっつきやすい和田のイラストがマッチしている。その1ページ目は、「あ」と題されて、「せんせいが こくばんに【あ】とかいた…」と「あ」について書かれている。次が、それをうけて「あたし しってる あたしの あと あなたの あは おんなじ あなのよ」と続く。そうやって前の詩と絵とつながって、続いていく。その5ページ目に、「あたらしい こ」という詩と絵がでてくる。「あったことのないこに あった…あったことのないこにあった そのこはいつも くるまいすに のってる あったことのないこと わたし もうすぐ ともだち」-もうすぐ友達になろうとする女の子は車いすにのった足の不自由な子だった。
 谷川俊太郎は、初めての友達になぜ車いすの子をもってきたのだろうか…?
 その一つの解答は、波瀬満子の「あたしのあ あなたのあ-障害児の言語指導」(名前・題名は不確か、ご容赦あれ。ちなみに太郎次郎社より刊行)の中にあるようにおもわれえる。その中に、「『あ』の詩から『ふゥのうた』まで」という項があり、江戸川養護学校で「ことば遊び」の実践を行い、そのビデオをみながら、谷川俊太郎が「もっと有効な詩が書けるんじゃないか、かいてみたい」といって、創った詩「あ」が掲載されている。そういえば、『いちねんせい』の始まりも「あ」であった。そうなると、谷川俊太郎は、『いちねんせい』を創作するときに、この肢体不自由養護学校での子どもたちの姿があったのではないだろうか。そう考えると、詩人谷川俊太郎と障害のある子どもたちのとの出会いが、新たな創作を生み、それをすべての子どもたちに分かち伝えたいと新たな文化を創っていったということが推察される。
 その他、組み木作家の小黒三郎の障害のある子との出会いと実践なども興味深い。
 障害のある子どもたちとの出会いをもとに、新たな文化が創られる。その創造の場を、障害児教育を担う教師が下支え、演出し、コーディネートしている。そのことが貴重だし、本物の文化が分かり、子どもを理解することができる教師がとっても大切であると思う…。

 そんな思いで講義をしていたのだが、とはいえ、学生さんたちはそんな話はどうでもいいのかな? わかって

 12時10分前に講義は終わり、またまた、1時間かけてK教育大学へ。途中のコンビニでおにぎりを買って、車を走らせながら、食べる。よくないよね。
 概論では、『夜明け前の子どもたち』の前半をみる。監督だった柳澤寿男が「療育との出会い」という項目も含めた講演をしていて、その文章をレジュメに載せておいた。しかし、1968年の作品で、今の学生さんには「異世界」を見るような感覚で、遠いものと感じさせてしまっているのかも知れない。戦後障害児教育の歴史を整理してみたいのだが、学生さんたちはそんな必要を感じていないのかもしれない。
 特別専攻科と大学院の合同授業は、修了論文のことを話し、その後、アスペルガーの小学校生活についての文章を読む。

 疲れたので、からふね屋のケーキセットで疲れを癒す。月曜日は大変だが、「発達と学習」はあと1回だ。来週もう1回

命の学校-貝塚養護学校・寄宿舎-の存続を求める緊急アピール

2006年12月03日 23時14分57秒 | 生活教育
命の学校-貝塚養護学校・寄宿舎-の存続を求める緊急アピール

 大阪市教育委員会は、11月7日に大阪市立貝塚養護学校の就学に係る学校指定について、2007年4月1日から停止(転入学できなくなる)することを発表しました。突然の発表に、子ども・保護者・教職員・関係者は、驚愕と怒りと不安の中に放り込まれています。
 私たちの貝塚養護学校・寄宿舎は、多くの子どもたちの健康、こころと命を救ってきた学校です。学校に行きたくても行けないこどもたち、つらい、死にたいと悩んでいる子どもたちがどれほどいるでしょうか。命は大切、自殺なんてやめて!そう思う親たちがどれほどいるでしょうか。貝塚養護学校なら助かる、助けてあげられる…。今、一番必要な学校をどうしてなくすのですか!
 最初は、養護学校と言う名前に後ずさりしてました。寄宿舎に入ることも、驚きでした。しかし、子どもたちは、貝塚にやってきて、心を開いていきました。ともに人生を語り合える友達に出逢うことができました。信じることができる先生と出会いました。貝塚養護学校・寄宿舎は、子どもたちの笑顔を再び呼び戻せる場所です。病気の子ども、こころを病んだ子ども、いじめられた子どもの、こころも体も癒し再生させてくれる学校です。
 悩んでいる子どもたち、親たちはたくさんいます。その人たちのほとんどが貝塚養護学校を知らないのです。貝塚養護学校は、必要がないのではなく、残念ながら存在を知られていないのです。大阪市は、学校指定の停止ではなく、子どもたちのためにその存在を広くアピールすることをこそ行うべきです。
 子どもたちは、卒業後も貝塚養護学校に行きます。生きるために、ちからをもらうために。貝塚養護学校・寄宿舎は、大切な場所です。子どもたちの、こころの居場所をなくすのはやめてください。大阪市教育委員会の皆さん、私たちの、子どもたちの、心の、命の声が聞こえますか?どうか、もういちど考えてください。何が一番大切かを。
 今日、私たち、卒業生・保護者・保護者OB・教職員・教職員OBは、海図か養護学校とのつながりをお持ちの方、教育研究者、医師、弁護士などの皆さんのご支援を得て、「貝塚養護学校の子どもと教育を守る会」を結成し、こころと命の学校、貝塚養護学校・寄宿舎の存続発展のために、一人ひとりの力を結集し総力をあげて活動を進めていくことを表明するものです。
                      2006年12月3日
             「貝塚養護学校の子どもと教育を守る会」結成総会