2025年2月14日 万葉文化館にいった。万葉文化館をめぐった。奈良にいたときはこなかった。静かな飛鳥のたたずまい。いにしえの時、工房があったところだという。開催されていた「明日香の匠」展をみた。作家は、元附属幼稚園副園長の烏頭尾忠子先生、夫の烏頭尾精先生が日本画、吹きガラスの高橋直樹さん、陶工は奈良教育大学におられた脇田宗孝さん。
担当は、2019年4月に教育学科教育学専攻の教員として、主に特別支援教育の担当として着任し、はじめて教育学研究ⅠⅡⅢⅣをもち、卒論指導を行った。ちなみに、教育学研究ⅢⅣは、卒論指導のゼミであり、2019年3月にご退職された教育社会学の先生のゼミをうけついだものだった。4回生はぞれぞれの卒業論文の研究計画の設定、教員採用試験、就職活動を経て、9月には教育原理系の合同卒論合宿に望んだ。4回生の1年間の間には、小学校の母校実習が2週間あり、さらに副免を取得するものは、中学校での教育実習も経験することとなった。ようやく、秋も深まる頃に、卒論の執筆にかかり、議論しながら再考、点検・修正などを繰り返して、12月20日の提出に至るということになった。4回生の苦闘の産物である卒業論文は、教育原理系の卒業論文として、1部製本され、教育学専攻の共同演習室に保存されている。
4回生の卒業研究を中心とした教育学研究ⅢⅣと並行して、3回生のゼミをどのように進めるかは、試行錯誤だった。割り当てられていたF校舎2階の演習室は、縦長のがらんとしたところで、どうもやりづらい。文献を読むこともしたが、面白いのかどうかわからない。自分なりに面白いと思って、これまでやってきた研究を紹介しようと、糸賀一雄や田村一二の話をして、その動画を見せた。ある意味、障害児教育や特別支援教育のおおもとをつくった人たちであり、糸賀や田村の未公開のフィルムも使って編集した動画は、自信作だった。白板に映した動画の場面を一生懸命説明して、ふと振り返ると、ゼミ生は爆睡。「糸賀一雄、田村一二ってだれ?」、セピア色のフィルムは「昭和」のこと、いまは「平成がおわって、令和なんだよ」とばかり。60歳も半ばになろうとしているおじさん、いや、おじいさんの世界とは、まったくちがった感性と意識、興味関心をもっているのだろうなと、「断絶」を感じざるを得なかった。
3回生の前期には、附属での2週間実習があり、それぞれ配当の学年・クラスで実地授業も行った。ゼミ生の授業のときには出来るだけ見に行くようにした。教育実習は部分的なものである。6年間を通して小学校での教育活動の全体に実感的にふれ、課題を把握することはその後の課題でもあった。この実習を経た頃から、ゼミもちょっといろんなことをやってみようと思うようになった。近くの支援学校が実習施設として開設している「カフェ」にみんなでいって、ケーキをつまみながらお茶をして、おしゃべりをしたり……。支援学校の正門を入ったところは、戦中馬町空襲の碑があり、女子大学の前身の女学校の寮もその空襲の被害にあったことなども、あわせて話をしてみた。若い3回生達にとって、遠い昔のことではあるが、自分たちの遠い先輩達の受難についてもちょっとは感じるものがあったのではないだろうか。図書館にもみんなでいってみた。特別支援教育関係の本を見たり、おしゃれな共同演習室をみたりして、そこを借りて「発表会やりたいね~」と、発表している姿を想像してみたりした。
後期の3回生のゼミ(教育学研究Ⅱ)は、演習室から研究室に場所を変えてみた。なにもない演習室は、使い勝手が悪かったからだが、机の上には散らかしっぱなしになっている本や書類の山を、毎週、なんとかしないといけないという新たな負荷が加わった。ゼミを始めるのにかたづける少しの時間が必要だったので、「売店でお茶とお菓子を買ってきて」と時間稼ぎをしていた。なんとか無理矢理研究室に詰め込んで、後期のゼミは始まった。後期は、自分で考えたいテーマを設定して、発表することをおこなった。それぞれ発表者がレジュメをつくり、そして発表する。午後のひとときなので、睡魔の誘惑に駆られることもある。でも、それでは、発表者に失礼だということで、「居眠り募金」の貯金箱も作られ、居眠りを発見されると100円をその中にいれるということになった。どんなところでも寝られるという得意技をもった学生さんが、一回発見されて、現在、貯金箱には100円が入っている。みんな、ジュースやお菓子を食べながら、よくしゃべるもんやと感心。2020年になり、新しい年がやってきたので、すこし遠方にも足をのばしたいということで、滋賀の近江学園関係の施設の見学を思い立った。その施設では陶芸をやっていたので、この際、陶芸教室と施設への訪問をくみあわせてみようかと、施設の関係の方々とも相談していた。しかし、陶芸といっても、はじめての体験となるので、準備なしでの施設での実体験となると不安があった。知りあいの陶芸教室のところにもいってみた。とはいえ、ここは清水焼で有名な東山-近くにそんな体験をするところがありますよということで、清水寺の参道沿いの陶芸体験にみんなでいった。めざすは、研究室でお茶する自らのマイカップづくり。2月の初旬だった。その頃は、まだ、観光客で清水あたりは賑わっていたのだった。つくったカップを焼いてくれて研究室に送ってくるのが4月になるといわれて、みんな4月になって、研究室でお茶をしながらゼミをすることを待ち望んだのだった。
ところが、御存知の通り、中国武漢で新型肺炎発生のニュースが流れ、横浜のクルーズ船・ダイヤモンドプリンセス号での感染の広がりが報道され、船内隔離が日々テレビで映された。その後、あれよあれよと深刻な事態が広まっていった。中国はもとより、韓国、そしてイタリア、スペインなどヨーロッパでこの新型肺炎は大流行し、アメリカ、そして日本にもということになった。2月の終わりには、突然、政府の学校の休校要請があり、混乱に拍車がかけられることとなった。3月に予定されていた、卒業式はいろいろあったすえ、中止となり、卒業生は皆と晴れ着の袴で交流すること無く、涙をのんで卒業していった。4月には、政府が緊急事態宣言を出し、「自粛」が要請され、卒業式に続いて入学式も中止、大学は閉鎖されるということになった。
新型コロナウィルスの猛威はすさまじく、新年度への決意や思いは、桜の花びらと共に誰に見られるともなくはらはらと散っていった。何処で感染するかわからない不安の中で、輝かしいとされるゴールデンの週はすぎた。大学は、4月からゴールデンの前後まで、遠隔教育の準備を進め、ようやく慣れないリモート授業(遠隔講義)の体制を整え、5月の連休明けより、遠隔講義が行われていった。教育学研究Ⅲは、はじめはLINEのグループ通話で遊んだりして、自粛の中で交流し、その後、毎週Zoomで近況報告とブックトークをやっている。2020年は、いろんなことが起こったし、今後も起こっていくだろう。なにせ、本番の卒論が残っている。
それでも、それぞれみんなが自分の体験や経験をもとに問題意識を精選し、テーマを設定して、討議しあい、自分なりに文献を検討し、まとめ、論究したことは貴重なものである。ゼミでの発表とは異なるテーマで論集に寄稿したものもいるし、発表をより深めてものもある、「ゆらぎ」や「未熟」があってもよいだろう。そんな若かりし頃、大学の時代に考えたこと、それをみんなの意見をよせあって、自分なりに整理したことは、これからの人生にとっても大切な思い出になるのではないかと思われる。若かりし日のこと、あの頃のことということで、この論集がそのような思い出を引き出すものとなれば幸いである。
3番目の孫の誕生から1週間を経た、2020年6月6日 (3回生論集に寄せて)
文学部の国文の学生さんということで、文学の中の障害者像などを交えて話をしている。自分としては、それはそれで面白いと思って、自己満足しているようなところがある。
しかし、文学部国文の学生さんというのは、文学少女というステレオタイプな思い込みがあるのではないかと、思い始めている。
おじさんの「思い込み」「思い違い」で、すれ違っているのかもしれない。
「しあわせ」と「学校」
本シンポジュームのテーマで想起したのは山田洋次監督の映画『学校』。この『学校』シリーズは、それぞれ、不就学、障害、シングル、そして不登校など、夜間中学校、養護学校(特別支援学校)、専門学校、思春期の旅の場で織りなされる物語。シリーズ最初の夜間中学校をテーマとした『学校』が上映されたのは、1993年、すでに25年余を経ています。「本当の教育とはなにか」を考えさせるこのシリーズを貫くテーマは、1993年に公開された最初の『学校』の中に明確に示されています。夜間中学校が舞台となったこの映画、登場する夜間中学校の生徒達も、不登校、非行、勤労青年、不就学、在日など様々な事情をもった人たち。この学校での学びが描かれつつ、後半に続いていきます。後半には田中邦衛ふんする猪田幸雄(イノさん)さんの生涯をめぐるホームルームとなっていきます。イノさんの思い出を語り合いながら、「イノさんは幸せだったんだろうか?」と、自分のこれまでと重ね合わせた問いがなされ、そして、「幸福」とは何かを問うこととなっていきます。これだけ直裁に「しあわせ」を提起した学校での姿が印象的でした。
「希望」と「教育」
映画「学校」シリーズで学校に集う人たちは、それぞれの背景や思い(「ニーズ」ともいいかえてもいいかもしれない)をもっていました。ある意味、子どもも含めたそれぞれの背景や思いは、「希望」とも言い換えてもいいかもしれません。「希望」は、「希(まれ)」な「望(のぞみ)」でもあります。その望みを受け止める仕組みがないとそれこそ反対のものとなってしまいます。それぞれの人たちの希望やニーズを受けとめる教師や仲間、そして学校の姿が必要です。様々な子どもたちと接してきたという特別支援教育の立場から、困難を背負ってきた子どもたちの教育や学校への希望や願いが、新たな学校や教育への発想を切り拓き、学校教育そのものを変えてきたということを共有したいと思います。
「自由」と「発達」
子どもの権利条約が採択されて30周年、批准されて25周年です。2019年国連子どもの権利委員会最終所見では、少子高齢化社会のなかで、子どもの総合的な施策がないことが指摘されています。また、子どもたちをめぐって、貧困の存在も看過できません。子どもたち、わたしたちも含めたすべての人たちの発達(Development:開発とも訳される)が育まれる社会となっていく必要があります(国連では、Right to Development、そしてEducation for Sustainable Development, 今日ではSDG’Sなどとして課題視されています)。
「発達」の「発」は植物の実がはじける姿からつくられ、「達」は羊が生まれる姿から形象化された文字といわれています。「学校」の主役だったイノさんの名前は「幸雄」。一時期、「発達」の「達」の文字に「幸」という文字をかえて使われた時もあったようです(「幸せになる」という意味)。「幸」の文字は、手を縛られた姿から解放されるという象形文字。
「自由」を獲得し、人間として自由になっていくこと、ともに自由になり、そしてともに社会の形成者として発達していくこと、その姿を学校づくりとして行っていこうということを考えてみたい。学びと教育は、私たち、一人ひとりが、「夢と希望」をもち「幸せ」を追究して、自由になるという発達の権利を実質化するものとしてあります。このような観点から、現在の学校と教育をあらたな仕組みとして再創造することが私たちの課題となると思われます。
100号記念の放送大学機関誌に200字程度で書けと言われた。200字ではとてもかけない。推敲したりして、ふたつつくってみた。
■自分自身の課題と重ねて書いたものが、以下のもの。
戦後も続いた就学猶予・免除制度の下で、障害のある人たちは学校教育から疎外されてきた。その人たちに、教育や学びの場の意味を考えさせられた。さらに成人教育等の中で学びを取り戻していくという教育学の課題も視野に入るようになってきた。放送大学での仕事は、このような自分自身の課題とも重なるものがある。高等学校の進学率が90%を越えたのが1974年のこと(ちなみに、大学進学率が50%を越えるのが2009年)。放送大学に来られた人たちの経歴や動機は様々であるのだろう。大学でのフレッシュな学生とは違った、人生の重みがかかった方々のこれまでの経験や学びの意欲に魅せられるという実感がある。成人期やシニアの時期に学ぶこと・学びなおすこと、学びの中で人との出会いやつながりをもち豊かさを蓄えていくことの意味は重い。
■自分自身の課題と切り離した文章が以下のもの。
高等学校の進学率が90%を越えたのが1974年のこと(ちなみに、大学進学率が50%を越えるのが2009年)。放送大学に来られた人たちの動機や経歴は様々であろう。大学でのフレッシュな学生とは違った、人生の重みがかかった方々のこれまでの経験や学びの意欲に魅せられるという実感がある。すべての人が、これまでの学びを振り返り、さらに学び直しをするという時代になってきたともいえる。その学び直しの経験が蓄積され、記録されていくなら、国民的な財産となっていくものと思う。成人期やシニアの時期に学ぶこと・学びなおすこと、学びの中で人との出会いやつながりをもち、豊かさを蓄えていくことの意味は重い。
「歴史は繰り返される」-それは、歴史の事実の忘却もしくは歴史の教訓が継承されないからなのか、それとも、人間の記憶の奥底に沈殿していた歴史的事実が、日々の日常感 から生まれる人間のある部分に直接結びつき生起されるからなのか。
神奈川県相模原市で起こった津久井やまゆり園事件は、障害のある人のことを「税金の無駄」と揶揄し、「障害があって家族や周囲も不幸であり、その不幸を減らすため」として殺人を正当化した加害者によって、一九人の知的障害者が殺害され、二七人が負傷するという未曾有の殺人事件であった。二〇一六年七月二六日未明のことであった。障害のある人と関係者にとっての悪夢の日から二年たった。加害者のとった行動は、極端なものであることは間違いないが、しかしその極端といわれる行動を支える広い土壌がることも事実だろう。「不幸しか生まない」「生きるに値しない命」という優生思想の視線は、子ども、障害のある人たち、高齢者などにも及んでいる。
一九六〇年、北杜夫は「夜と霧の隅で」を『新潮』(五月号)に発表した。この小説は、第二次世界大戦末期のナチスの障害者に対する「断種」「安楽死」政策の下にあった精神病院の医師たちの姿を描いたものである。「夜と霧」は、もともと、一九四一年に出されたヒトラーの命令で、政治活動家やレジスタンスの擁護者で、ナチの体制にとって危険視されたものを強制収容し、拷問や強制労働の末、病気の放置や虐殺を行っていった政策につけられた名称であった。「夜と霧」のことばは、一九四六年、精神科医フランクルによって、自身の強制収容所での体験をもとに書かれた作品の邦訳につけられた書名としてよく知られているものであり、また、一九五五年、アラン・レネによって製作されたホロコーストを告発したドキュメンタリー映画の題名ともなった。
北杜夫は、「夜と霧」政策から、「生きる価値がない命」とされた精神障害者や知的障害者への「安楽死」計画(T4計画)を経て、ユダヤ人のホロコーストへと続く歴史過程の下でのドイツの精神病院の精神科医たちによる「ささやかな抵抗」を記した。そこでは、障害者の「不治」の宣告が「死」に直結することから、「不治」の烙印を回避するよう、絶望的で無謀な治療の選択も行われる姿があり、また、入院していた日本人医師・留学の高島の思いや不安と妄想、そしてその寛解へ向かう姿を交えて、ユダヤ妻の「自殺」を認識することによる彼の自殺という絶望的な結末が描かれる。ナチのホロコーストに至る「狂気」という「夜と霧」のなかでの、患者の妄想や想念を巻き込んでゆく「狂気」の渦が描かれている。一九六〇年代の初頭、「夜と霧」に象徴される歴史の暗部は、北杜夫によって照射され、その作品は文学としても芥川賞を受賞する。『夜と霧の隅で』は、他の作品を加えて、一九六〇年六月に単行本で刊行され、一九六三年七月には、新潮文庫の一冊に加わった。文庫版の解説に、『死霊』の作者埴谷雄高は「ドイツがおかれたごとき戦争の極限状態だけでなく、人生の平穏な日々においても提出され得べきところの謂わばいまなお去りやらぬ人類の悪夢」と指摘し、「『民族と戦闘に益のない人間』-この基準は時と所に応じて、何処までも果てしなく拡大解釈できるところのものなのである」と、独特のいいまわしで警鐘をならしていた。
津久井やまゆり園事件に端的にみられる発想は、新自由主義の中で勝ち抜く「強い個人」像のもと、競争原理と自己責任論のなかで絶えず生み出されている。その背景には、社会全体が、この事件に象徴される反知性主義や短絡的な発想を生み出すような、不寛容で生きづらい社会となっていることもある。歴史上では、あるときには「安楽死」として、あるときには「優生手術」として、あるときには「生産性」ということばに変えて、絶えず合理化されている。それは、歴史の事実の改竄・意図的修正、歴史的到達としての人権の思想の放置と忘却によって支えられている。
この研究誌には、「史料と論究」という言葉をそえた。史料は文書史料のみならず、証言や語り、映像や音声なども含めていきたい。障害のある人たちの成長や発達の証、声なき声とその声の代弁をした障害のある人たちを支える人たちの記録など、消えゆく姿を記録にとどめるべく、ひろく「史料」を求めたい。さらに、障害のある人たちの生きた証とそれを支えるということが歴史上においてどのようなことだったのか、負の遺産も含めて、その歴史を考え続ける、主体的な営みとして「論究」とした。「夜と霧」のなかに社会をおくということは、為政者によって意図的に行われている営為なのかもしれない。だとしたら、「夜と霧」のなかにあったものをひろいだし、提示し、それを歴史の文脈に位置づけ、常に考え続けていくことためらってはならないのではないかとの思いをこめたものである。

黒柳徹子の「アフガニスタン報告」(2001年の原稿)を学生に読んでもらって、レポートを作ってもらった。何を使ってもいいよ、調べてもいいよということで、オープンな感想をもとめた。同時に、中学生に、この文章を教材に、授業を構想してごらんという課題を出した。
みんな一生懸命やってくれれていた。そのうちに、ある学生さんが「ここにでてくるタリバンが検索禁止になっている」とお話ししてくれた。2001年、この文章が雑誌社に渡った直後、9.11同時多発テロがニューヨークの貿易センタービルで起こった。この文章の最後に記載されているが、その後、「テロとの戦い」に突入していくのが国際情勢だった。
その中で、タリバンやら、イスラム国やらに、入っていく若者の問題も問題視されてきた。「検索禁止」というのも、ある意味ガードがかけられたことの一環であろうが、いろいろ考えさせられる。若者よ、この社会での平和の価値を再確認しつつ、広い視野と教養をもってほしい。
11月19日(日)から26日(日)まで。今年で、Final!


今年度は、憲法・教育基本法のもと、学校教育法が公布・施行されて70周年目を迎えます。6-4-3-4制の新しい学制が発足し、敗戦後のあらたな学校づくりがはじまり、70年を経たことになります。附属学校も、特に、中学校は新制中学校としてはじまってから、今日、創立70周年を迎えることになります。奈良教育大学の附属中学校も、本年、創立70周年記念事業をおこなったところですが、そのはじまりは、1947年4月、奈良師範学校附属中学校として創立されたものでした。この70年にわたる附属学校園の歩みは、戦後教育の歩みそのものであり、多くの試みの蓄積であったといえます。附属の幼稚園、小学校、中学校、高等学校、特別支援学校、また、中等学校など、それぞれの附属学校が個性を輝かせて、子どもたちとともに歩み、保護者とともに協力し合い、そして、地域にねざし、そして全国にも教育のあり方を発信してきた歴史でもありました。そして、附属の豊かな人間形成の環境と教育にはぐくまれ、巣立っていった多くの子どもたちが、多く仲間とともに社会を形成してきたことを誇りとしているものです。
しかしながら、社会の変化は大きく、少子高齢化の加速する中で、子どもたちや家庭をめぐる状況、そして学校教育をめぐる環境も大きく変化をしてきています。すでに、新しい学習指導要領の告示があり、教育内容・方法なども大きく変化する予兆をみせています。このような中で、附属学校園が追求してきた教育の課題への挑戦も、新しい教育課程のもとで探求することになろうかと思います。あわせて、大学の附属学校ということで、法人化された国立大学のおかれた状況も厳しさをましています。昨年(2016年度)より、第3期中期目標計画の期間が開始され、同時に2016年9月から「国立教員養成大学・学部、大学院、附属学校の改革に関する有識者会議」が発足しました。その審議の中では、附属学校の役割なども議論され、教育学部・教員養成大学のあり方が問われています。大学と一体となった附属学校園の役割も新たな局面を迎えるものと思われます。
附属学校と大学は、人を育てる知恵と経験、科学と学問、そして教育の蓄積をもっています。附属学校を介して、大学とも連なり、学びをすすめ、それぞれの附属が特色と個性を発揮しあうことが期待されています。附属学校園は、子どもたちと教員、そしてPTAの皆様方のご理解ご協力なしには成り立ち得ません。それぞれの附属学校園とPTAとが、附属ならではの創意工夫をおこなうことはもとより、情報交換を密にして、切磋琢磨しあっていきましょう。みなさんの英知をあつめていただき、その創意と取り組みを近畿附属学校連盟と近畿附属学校園PTA連合会に集約していただき、ともによりよい附属学校園にしていく努力をお願いする次第です。
1966(昭和41)年4月、奈良教育大学に養護学校教員養成課程が設置された。養護学校教員養成課程の設置から本格的に障害児教育の教員養成が開始され、50年を経たこととなる。
教員養成系大学・学部における、養護学校教員養成課程に設置は、1960年度、東京学芸大学・広島大学に最初に設置され、1962年度に静岡大学、1963年度、京都学芸大学・大阪学芸大学、熊本大学、1964年度、金沢大学・山梨大学・愛知教育大学・高知大学、1995年度、弘前大学、山形大学、千葉大学、福井大学、岐阜大学、鳥取大学、岡山大学、香川大学と続いた。こうして、1966年度に、茨城大学、三重大学、神戸大学、島根大学、山口大学、徳島大学、福岡教育大学と並んで、奈良教育大学に設置されることとなったものである。最終的に、全都道府県に養護学校教員養成課程が設置されたのは、1973年度の鹿児島大学での設置を待たなければならない。すでに、50周年を経た大学での年史等が出されたことは寡聞にしてきかないので、すこしばかり、設置された時代に遡って障害児教育の教員養成について振り返って書いておくことは無駄なことではあるまい。
戦後教育の再出発は、1947年の教育基本法・学校教育法の公布によって開始される。6-3-3-4制の学校体系とし、そのうち、小学校と中学校の9年間を義務教育制度とした。盲学校、聾学校の義務制実施は、1年遅れた1948年度より、学年進行によって行われたが、養護学校の義務制の実施は、見送られることとなった。教員養成は、科学と教育を結ぶものとして、大学における教員養成のシステムが取られ、戦前教員養成を担ってきた師範学校は、組織再編されて新制大学に統合されることとなった。奈良師範学校は、奈良学芸大学として、1947年に出発することとなった。
戦後障害児教育の教育と研究、そして教員養成については、東京盲学校師範部、東京聾学校師範部から国立盲教育学校、国立聾教育学校を経て、1951年、東京教育大学教育学部の特設教員養成部の盲教育部及び聾教育部となり、あわせて同じ年に設置された東京教育大学教育学部特殊教育学科とともにはじまる。1953年には、広島大学教育学部に盲学校教員養成課程、東京学芸大学に聾学校教員養成課程が設置され、盲学校、聾学校の教員養成が開始されることとなった。しかし、養護学校については、教員養成どころかその設置が遅々として進まず、ようやく1956年6月、公立養護学校整備特別措置法が公布され、その設置と教員雇用に国庫補助が適用されることとなった。
1959年には中央教育審議会が「特殊教育の振興について」の答申を出し、特に知的障害者(当時のことばでは「精神薄弱者」)や肢体不自由者の教育が諸外国に比べ著しく遅れていることを指摘するとともに、これらの教育を担当する教員の養成をはかる必要のあることを指摘した。それをうけて、主として現職教員を対象とする臨時の養護学校教員養成課程を5大学(北海道学芸大学、東京学芸大学、京都学芸大学、広島大学教育学部、熊本大学教育学部)に設置した。この臨時養成課程は、知的障害教育を対象として、各大学とも1年コース(定員20名)と半年コース(各期定員20名)というものであった。研修旅行などでお世話になった京都府立与謝の海養護学校の開校と学校づくりを担ってこられた故青木嗣夫先生も、京都学芸大学臨時養護学校教員養成課程が設置された1960年の後期半年コースで学んでいた。
1960年代、先に見たように養護学校教員の養成課程の本格的な開設となり、それと並行して、教育課程ということでも、1963年4月にはじめての養護学校学習指導要領(小・中学校部精神薄弱教育編、小学部肢体不自由教育編及び小学部病弱教育編)が通達された(中学部肢体不自由教育編及び中学部病弱教育編は、1964年3月に通達)。
養護学校設置への国庫補助、教員養成や学習指導要領の整備の基礎は整えられたが、養護学校の設置はそのままでは進展し得ない。全国の都道府県での養護学校の設置の進展は、養護学校に関する義務制が未施行であったため、進む状況ではなかった。文部省は、中央教育審議会答申に基づいて、肢体不自由養護学校設置と知的障害特殊学級の計画設置を重点的に推進することとし、肢体不自由養護学校については、1960年度を初年度とする5カ年計画で、1964年までに未設置県の解消を図るものとし、知的障害学級については1969年度を初年度とする5カ年計画を作成した。しかし、その計画はそのとおりには進まず、その後修正され、肢体不自由養護学校の未設置研の改称は、1969年度を待たなければならなかった。奈良県では、1966年に、現在の奈良県立明日香養護学校(当時、奈良県立養護学校)が設置された。知的障害の養護学校については、1970年代にはいり、1971年に奈良県立西の京養護学校(現在の奈良県立東養護学校、西養護学校の母体となった学校)の開校を見ることとなった。
ところで、国立大学では、1958年、東京教育大学教育学部附属養護学校(肢体不自由)、1960年、東京学芸大学附属養護学校(精神薄弱)が設置されていくが、多くの大学附属では特殊学級の設置がなされていった。ちなみに、1963年4月、本学附属小学校、1965年4月、附属中学校に、それぞれ「特殊学級」が設置され、すでに50周年を経ている。附属小学校・中学校の学級設置におくれて、1966年度に養護学校教員養成課程が設置されたこととなる。この半世紀の間に、障害のある子どもたちをめぐる状況も大きく変化した。
当時の養護学校教員養成課程の開設当時の「特殊教育」の科目は、「異常児」を冠されて「異常児心理」「異常児教育」などの科目で開講される場合が大方だったが、本学では、「障害児」の名称を掲げて、心理分野を柳川光章先生、教育分野を津曲裕次先生が担当となって、教室・研究室名を「障害児学」を冠するものとされた。田辺正友先生が着任されるとともに、津曲先生の転出で着任した大久保哲夫先生、また学内措置で医学分野に藤井伸先生が着任され、「障害児学研究室」の発展の基礎を培われた。当時としては、「障害」への着眼とその支援を総合的に行おうとする意欲的な用語使用と思われる。
「特殊教育」の用語から、「障害児教育学」「障害児心理学」障害児医学」「障害児福祉学」などの学問分野を総合して「障害児学」とされたものと受けとめられる。「特殊教育」の用語は、いくた議論の末、2007年に「特別支援教育」に移行し、今日にいたる。奈良教育大学養護学校教員養成課程や大学院での養成のシステムも大学改革と障害児教育の発展の中でいくたびか改組されることとなったことは別の論考と年史・年表によって確認してほしい。
学部、臨時養成課程、特別専攻科、大学院教育学研究科など、これまで、本学の障害児教育・特別支援教育の学びと研究の中で、多くの方々が実に真摯にともに学び、ともに成長し合ってきた。障害児学研究室を構成してきたすべての方々とともに、その実りの多い日々の記憶をこれからも糧として、障害のある子どもたちの未来を切りひらく努力とそのために研鑽に励むことを誓い合いたい。
『障害児学研究室50年の歩み』2016年9月
本年度から、新設された特別支援教育コースで、インクルーシブ教育原論、特別支援教育の教育課程論などを担当することになりました。1988年に着任して、学部・大学院修士課程を担当してきました。本学に、特別支援教育関係の養成課程ができてから今年で50周年になります。特別支援の担当の中では、一番古いのですが、今年からは新たなチャレンジとなります。
振り返って思い起こすのは、着任当時のことです。「障害児教育は若い学問分野だから、障害のある子どもの教育に関わるには、何でもできなければならない」と上司にいわれました。ようするに「何でもやれ!」ということで、「何でも屋」となったわけです。関連する福祉や外国の法制、発達診断、教育相談、授業研究などなど、いろいろやってきました。しかし、本来の専門は、近代児童問題史研究で、それだけはこの大学で深めることができなかったといわざるを得ません。
そろそろゴールも見えてきたところですので、教職大学院での新たな挑戦とともに、いまいちど、深めきれなかった歴史研究に戻ってやり残したことを埋めたいと思っています。奈良・京都・滋賀などの障害児教育を担った人たちの交流や連携に思いを馳せながら、戦時の野方達の創られた実践が記録されているフィルムや映像・音声、実践資料を掘り起こし、そのデジタル化を通して実践遺産の蓄積を行っています。現代的な機器とレトロな機器を使いながら、過去の子どもと教師の姿に、皆さんも触れてみませんか。
(ニューズレター)
子どものからだに注目がなされて、久しいが、「疲れた」という子どもが、また最近増えているともいわれている。遊びに熱中して疲れるということではない。子どもたちはなんとなく疲れたというのである。一方で、子どもたちが活動で、集中が持続せずに、「そわそわ」してしまう傾向の子どもが増えていること、その一方、逆に「よい子型」というように活動に抑制的な子どもも増えているという(『子どものからだと心白書2015』など)。こうした、子どもたちに見られる二極化現象は、からだと心全体を使って、楽しんで、熱中して行う活動の中での発達が阻害されている現象とみられる。「よい塩梅」「よい加減」のところへの着地がうまくいっていないようだ。それができる場と仲間と活動を意図的に創造していくことが求められている。
子どもの世界には、無駄と寄り道、回り道が必要であり、不便さの中に、想像やからだの力が蓄えら、それは一生の宝となる。そんなことを実感したのが、5年ほど前から大野松雄さんという、80歳半ばを過ぎた方の歩みの聞き取りの中でのことである。大野松雄さんは、そのドキュメンタリー映画『アトムの足音が聞こえる』でもとりあげられているが、その筋では伝説の音響デザイナーと評されてもいる。日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」の音響効果を担い、はずみながら吸い付くような足音、サーチライトの音、ロケットの発射音などなどの音を創り出した。それらの音は、後のアニメ界の音響の源流となり、宇宙戦艦大和の音響は大野さんの影響を色濃く受けているといわれている。その大野松雄さんは、戦前の制約が非常に大きかった生活から、敗戦後、自由になったときにすぐにアルプス登山をしたこと、剱岳のイメージがあって、旧制富山高校に入学したこと、剱岳に登ると、太平洋側の富士山も見え、日本はこんなに狭いのかと思ったことなどをきかせてくれた。その後、音楽の世界に入っていくのだが、とにかく足と好奇心、そして、驚異的な集中力と工夫で新しいものを創りあげていった。その創造の基礎が子どもから青年期にかけてのからだとこころにあったことは確かで、80歳半ばを過ぎても、歩き、読み、そして話をし、コンピューターを操作して音や映像を創作している。
ところで、本園の園歌ができたのは、1978年3月の幼稚園創設50周年の時である。園歌「あしたもね」の歌詞の中に織り込まれているわたしたちの園の子どもたちは、はずんで、はずんで、はじける奈良の子であり、手と手をつないでいるぴちぴちとした地球の子であり、そして、ホップ ステップ ジャンプのとってもかしこい宇宙の子でもある。奈良・地球・宇宙の子どもは、「鉄腕アトム」を思い起こさせる。本園の子ども像のなかに、鉄腕アトムの音が響いているというのはいいすぎだろうか。実は、ひそかに、本書で紹介されている「レッツ・ゴー!わくわくUP!ランド」の歌と振り付けに、大野松雄さんの鉄腕アトムなどで使われた音響をいれさせていただきたいとお願いした。それで園長版の体操と音楽を創りたいと思っている。
そんな楽しい妄想を起こさせていただくきっかけをつくっていただき、本園の先生方に貴重な機会をあたえていただいた文部科学省スポーツ・青少年局、この事業と本園のこれまでの「からだ力」の研究に御助言・御協力いただいた関係の方々には深く御礼申し上げたい。本園の子どもたち、保護者のみなさんの御協力に感謝するとともに、なによりも子どもの発達に心をくだき、その成長を喜び合う本園の先生方の姿に敬意を表したい。
これまで積み上げてきた実践と研究を踏まえて、今後の実践と研究の段階へと発展させたいと願っている。みなさまの、今後の一層の本園への御指導ご鞭撻をお願いする次第である。



よく知られている鴨長明の『方丈記』の冒頭である。年報のはじめにを書くにあたって、ふと頭に浮かんだのがこの一節である。
歴史の流れの中で、この2015年度という年はどう評価されるのだろうか。まだその流れの中にあって、そこに「浮かぶうたかた」としては、客観的にとらえがたいというのが正直なところである。少なくとも、大学については、ある意味で、総括が求められる画期となる年度ではないかと感じるところである。
国立大学が国立大学法人に移り、第1期の6年を経て、第2期が2015年度で終了する。第2期中期目標計画の最終年度が今年度である。国立大学法人法の成立の際には、大学の自主性が高まり、より自由闊達に研究や教育ができるという一部の言説があった。当初からその幻想への批判は大きなものがあったが、その批判以上に大学の教育研究環境は大変な事態に至った。運営費交付金は、この12年間で年間1%ずつ削減されるのであるから、たとえて言えば、100人の教員が1年間に1人ずつへっていく、本学でもすでに10名以上の教員が減ったと考えたらわかりやすいだろう。事実、わたしたちの教室も、田辺先生が退職されて以後、障害児心理学のポストは補充されていない。事務も、附属も、学部・大学院もである。経常的な経費は削減されるのだが、教育や研究を維持しようとすると、競争的資金の獲得をしいられ、自由どころかさらなる書類の山と格闘しなければならないし、また、競争的資金の規制の中で自由度を失ってしまうことが強められた。とんでもなく大変になった-それが、実感である。
第三期中期計画目標が文科省に出される6月頃、文科省から次のような通知文書がだされた。
「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」
この一文を普通に読めば、教育学部や文系学部・大学院全体の廃止や転換を文科省が求めたように受け止められても仕方ない。そもそも、この12年間でそれを強いられ、日干しにされてきたのであった。文科省の正直なところに沿うように考えを及ぼすと、大学という高等教育機関のみならず、国民すべての「知」や「教養」そのものが干上がってしまうのではないか-いよいよ「ゆく河の流れ」は絶えてしまうのではないかと危惧せざるを得ない。
一昨年、「ミッションの再定義」なるものを文科省は、大学に要請してきた。教育大学・教育学部は、「教員採用○%」を掲げる経営体となれということだった。その背景には、教員の大量退職を迎えて(これは一時のことなのだが)、これまで国立大学が担ってきた小学校教員養成に対して私学経営陣が生き残りをかけて参入したということがある。それに伴って「教員養成の質保障」ということが強調されてきた。しかし、「質保障」といっても、文科省の事務官にその質的な評価を行うことが出来る訳でもない。畢竟、それは形式的でトンチンカンなものとなってしまう。15回分の講義のシラバスの重箱の底をつつくような文言いじり、そしてそれに対応する業績の記入の要請など…。そのような点検をしている時間と労力、そしてそれにつきあわされている大学側の時間と労力を、もっと建設的なものにつかうならば、この国の未来も輝くのにとついついため息をついてしまう。「質保障」という名の規制の強化でもあるのである。そもそも、戦後教員養成の出発において、「大学における教員養成」が掲げられたのは、教員養成を閉じたものではなく、学問・科学と教育を結んでいくという方向性があった。前提としていた大学における「知」の基盤に根づき、さらに、教員は、生活という台地から栄養をとりながら成長していくという成長モデルをもっていた。しかし、免許更新制にせよ、教員養成の質保障にせよ、その基盤となる科学と生活とは切り離されたものとなってしまう。大学や人間への信頼や寛容というものを旨とする教員養成論は水脈を絶たれてしまっているかのようである。これまで、課程認定の作業をしてきたものとして、この間の教員養成認可の文科行政は信じられないことばかり…それだけ、高等教育と教育の世界の「劣化」が進んでいるのであろうか。
市場経済至上主義の「強者」の声高なものいいの前に、平家物語の冒頭を思い起こさざるを得ない。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」
わが国が障害者権利条約を批准して、2016年2月には2年を経た。障害者権利条約は、第35条で、締約国に批准して2年目に国連障害者権利委員会に報告をすることを課している。その政府報告案がだされている。障害者権利条約を批准するための障害者基本法の改正と障害者差別解消法の成立に基づいて、この4月から、合理的配慮の提供も含めた障害者差別への公的な対応がなされることとなった。障害のある人達の権利が実現され、それが障害のない人達の権利をより豊かなものとしていくような共生社会を創造してゆけるような主体の形成(学校教育を含めて)が求められている。それが、高等教育の場での課題ともなろう。障害のある人達の教育をもっぱら考えあってきた、わたしたちの教室がその蓄積を生かして大いに発信していくことが求められている。
子どもたちと教育の現場の状況は厳しい。いじめや不登校、発達障害を抱える子どもたちの課題、障害や貧困・生活上の課題を持つ子どもをめぐって、取り組まなければならない課題は山積している。歴史的な課題の前に、私たちの蓄積してきたものは何かを再度確認する必要があるだろう。
すでに、昨年度、附属小学校特別支援学級(19クラス)の50周年の記念行事があった。今年度は、附属中学校特別支援学級(5組)の創立50周年を祝う会が開かれた。いよいよ、来年度には養護学校教員養成課程が設置されて50周年になる。『20年史』『30年史』に学びながら、『50年史』として、学部改組、大学院の改組、特別専攻科の設置、センター設置などさまざまなことがあったことも記録に残しておく必要がある。来年度早々の宿題として残しておきたい。
4年前に学部改組がなされて、本学は教員養成一本となった。2015年度はその完成年度となった。今回卒業する卒業生は、その第1号である。また、特別支援教育特別専攻科は、今年度で閉じることとなる。この経過については、昨年度の年報に詳しいので繰り返さないが、特別専攻科最後の修了生となる。新たに、来年度より、教職大学院に特別支援教育のコースが設置されると共に、修士課程の学校教育専攻教育臨床・特別支援専修も改組され、人間発達専攻発達教育臨床専修の中に特別支援教育の内容が継承されることとなる。特別支援教育研究センターは、3年ごとの特別経費を得て、3度目のプロジェクトの締めの年度となった。これまでの9年間にわたる、特別経費のプロジェクトお疲れ様でした。
50周年を迎える来年度の新たな出発に対して、課題の大きさにたじろぎを感じないかといえば嘘になる。不安は禁じ得ない、しかし、「ゆく河の流れは絶えない」ことを信じて、みなさんとともに歩んでいきたい。卒業生・修了生のみなさんの前途に期待しつつ、これまでの縁のあった先生方、学生・院生、卒業生の皆さんの健康を祈念すると共に、今後のご指導、ご鞭撻をお願いする次第である。
NHKスペシャル アニメドキュメント「あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~」(2015年8月11日)が放映された。
概要をNHKのホームページでは次のように記している。
「目の前で幼なじみが撃たれ、倒れた。ぼくは彼を見捨てて前進し、戦闘を続けた。あの時、ぼくの心は異常だった・・・」(当時16才)
沖縄北部の山岳地帯で米軍と戦った少年兵がいる。戦後70年経った今、30人余りの元少年兵が戦争の秘められた事実を語り始めた。証言や未公開の資料から、少年たちは、陸軍中野学校の将校たちからゲリラ戦の訓練を受け、凄惨な戦闘を繰り広げていたことが分かった。さらに、「本土決戦」に向け、全国各地で少年たちによるゲリラ部隊が計画され、訓練が進められていたことも明らかとなった。彼らが、どのように身も心もゲリラ兵に変容させられていったのか。証言をもとに、少年たちの戦闘体験をアニメにして、幅広い世代に伝える。また、日本やアメリカで新たに発掘された資料を分析。「一億総特攻」に向けて、子どもが戦争に利用されていった知られざる歴史を伝える。
戦後、障害児教育の発足についての証言をする方から、次のような[沖縄戦]沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言記事のことを伺った。
「これは戦闘部隊ではございません、敗残兵が入り込んでいることも関係しておりますけれども、もともとは、ここに特務教員と島の人々は言っておりますが、これは第三遊撃隊から派遣された、いわゆる残置諜報員のやったことであります*2。当時、菊地義夫という陸軍少尉が伊平屋島におりまして、馬場という軍曹が伊是名島におりますが、この二人が共同して、国民学校の教員という名目で島に入り込んでいるわけですね。この人達が沖縄風の名前に変えて、例えば菊地少尉は宮城太郎という沖縄風の名前に変えて島に潜り込んでいて、厳しい住民監視をしながら、不時着した米兵も虐殺をすると、行商人の、本部出身の人ですけれども、これもスパイ容疑で虐殺をすると、奄美出身の少年の言動がスパイとみなされて虐殺をされております。こういうことをやりながら、菊地少尉は戦後、斉藤義夫というふうに名前を変えまして、なんと沖縄が復帰した一九七二年に、琉球大学の教育学部の教授として沖縄に赴任をしてきていると。で、「沖縄は私の第二の故郷だ」などと言っているわけですけれども、自分の、島で行った行動について全く反省がないというふうに私共は思っております。」
東京学芸大学、琉球大学、筑波大学などの戦後特殊教育施策の中での役割も含めて、ここに登場する方について戦後特殊教育の展開過程の中で役割を確かめたいと思っている。
副園長は、「お忙しいのならいいですよ」と優しくいうだけだ。絶対に来てもらわないと困ると思っていても、やさしく笑顔でそういうのである。とはいえ、この園長なんとしても来てくれるという確信があるようなので、「無理そう」というような状況では、困った顔をして「無理そうですか」といえば、尻軽な園長はやはりなんとしてでもすっ飛んでくると思っているようだ。この5年間の間に、ずいぶん手なずけられたものだ。
とはいえ、寄る年波、どうも昨年の秋あたりから身体にがたがきているみたいである。秋野サツマイモ掘り後気に、子どもたちの「園長先生手伝って~」の黄色い声に、調子に乗って、スコップで土をほりおこしすぎたのがたたったみたいである。右の膝の調子がずいぶん悪くなったのである。膝を痛めると、歩くもその膝をかばって、越にもくるし、腰がぁ張ると肩こりが激しくなる。ついには、反対側に膝にも来るという悪循環となった。痛めてから週に1回ずつ整体にかよることとなった。良くなったと思って、少しサボると必ず腰が痛んだり、首が痛んだりする。
足・膝、腰、肩・首ばかりではない。実家に帰った際酒を飲んで寝ていると、姪の連れ合いがいびきの音に目を覚まし、そこで、呼吸も止まっていることを発見。いつも眠気がとれずに、しゃきっとせずにいるという感覚もあり、呼吸器外来に行くと、やはり無呼吸との診断。これまた、毎夜、呼吸の補助のCPAPをつけて寝るはめに。
寄る年波には勝てない。人の名前を覚えることは以前から苦手だったが、ますますひどくなってきた。覚えられないばかりではなく、漢字が浮かんでこなかったり、言葉が出てこなかったり、挙げ句の果てには、トイレの水を出しっ放しにしていたりと、頭の方もたいがいのところまできている。
振り返ってみると、来年の一月に還暦を迎える。歴史を環るというのは、一二支で、五回目のめぐりということとなる。今年、戦後70年。経済企画庁が「もはや戦後ではない」と経済白書に書いたときからすぐ60年目となる。教師や公務員の退職の年が来ている。あと5年、これまで先延ばしにしてきたことを整理・確認しながら、やらなければならないことを片付け、やりたいことをやらなければならない時になっている。
少しずつ、肩の荷を下ろしかけているが、みなさんの御協力をお願いする次第である。