ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

田中昌人監修『近江学園の実践記録 要求で育ちあう子ら 発達保障の芽生え』

2008年02月25日 18時54分31秒 | 
これまで、電車の中で継ぎ足し継ぎ足し読んできた『要求で育ちあう子ら』(大月書店、2007年4月)をようやく読み終えた。
初めは違和感があったのだが、読んで行くにつれおもしろくなっていった。子どもの姿がよく記されているとともに、3次元の子どもたちなども登場し、当時の近江学園の様子を伝えていると思った。どのくらい、編集委員会が、今日的な観点も含めて手を入れたのか明らかでないが、障害の重い子どもから論理操作の段階の子までの生活と生産、そして教育の編成、その中での発達の姿、職員の思いなどが伝わってくる。もう一度、吟味しながら読み直す必要があると思った。全体を通して読んでからまた読むとより子どもの姿がはっきりするのだろう。
目次は以下。

序 今こそ当時の教育実践を
第1章 育ちゆく少年期-1968年度生活第三班実践記録
 第1節 目覚める子どもたち
 第2節 新しい友達を迎えて
 第3節 仲間を大切に
 第4節 明日にむかって
 第5節 実践から学んだこと
第2章 みんな集まれ-1969年度生活第一班実践記録
 第1節 かしの部屋でねたい
 第2節 秋以降、小集団から大集団へ
 第3節 みんな集まれ
「1・2章」のまとめと展開
第3章 結び織る子どもたち-1969年生産班結び織り科実践記録
 第1節 くるくるいこう
 第2節 結び織る子どもたち
 第3節 私たちのめざしたもの
第4章 もうだまってはいられない-子どもの権利、おとなの権利
 第1節 職場に組合を
 第2節 みんなの声
 第3節 教育権保障のとりくみ
 第4節 関連して取り上げること
結語
解説(田中昌人)
年表(田中昌人)
関連資料(田中昌人)

解説が観光の趣旨となり完成されなかったことが本当に残念だ。こまかいが、誤記誤植がちょっとめだつのも気になるが…、最後までやり遂げられなかった田中先生の無念さを表しているようにも思う…「残されたものは、しっかりせいよ」という声かもしれない。




大阪市長殿(貝塚養護学校存続についての意見)

2008年02月25日 11時13分44秒 | 生活教育
平松邦夫大阪市長殿

 特別支援教育の充実と寄宿舎のある貝塚養護学校の存在意義について意見

 NHKなどの貝塚養護学校の報道、平松市長が貝塚養護学校の視察の報道に接して、平松市長の子どもたちを大切にしたいという姿勢に触れた思いがいたします。この機会に、安心して生活する基盤となる寄宿舎があり、その上で学習と自立を促していける教育環境を提供している特別支援学校が、困難を抱える子どもたちにとって求められていることを、特別支援教育の研究とその向上を願う立場の者として意見を述べさせていただきたいと思います
 ご承知のように、本年度より特別支援教育が全面的に実施されました。これまでの養護教育の対象を広げ、通常学校における特別なニーズをもつ子どももその対象とすることになりました。このような中で、特別支援学校は、発達において困難で難しい課題をもった子どもたちの受け皿となり、今後の特別支援教育の発展の中で重要な役割をもつものと想定されています。
 今日、子どもの発達をめぐる問題は、子ども自身のコミュニケーションや対人関係の問題、学力不振の問題、子ども集団の中ではいじめや暴力の問題、「キレる子ども」の問題、そして不登校の問題など非常に複雑化してきています。このような中で、子どもたちが発達のゆがみやもつれが複合化・多様化してきていると指摘されています。従来の養護教育の中での病弱教育の中心は、喘息、腎炎、ネフローゼなど慢性疾患でしたが、しかし、小学校3~4年生から中学生頃におこってくる情緒や思春期的な問題を抱えた子ども-特に心身症として扱われる不登校などの問題を持つ児童・生徒が、小児科や精神科・神経科に通院し、治療を受ける事例が全国的に増え、病弱教育の直面する課題となっています。
 なかでも不登校問題は、通常の教育の中でも大きな問題で、すそ野の広い教育問題となっています。不登校児への対応も、担任教師を中心にクラスづくりの工夫、スクールカウンセラーの派遣による相談室での受けとめや養護教諭による保健室への登校、地域での適応指導教室の設置などが展開されていますが、まだまだ十分でありません。通常の学校や学級での対応では、救いきれない子どもたちが、家庭に放置されているという現状もあります。家庭では、子どもへの対応に苦慮し、家庭の崩壊にもつながりかねない事態もないわけではありません。
 また、近年では、学習障害、注意欠陥/多動性障害等によって、周囲との人間関係がうまく構築されない、学習のつまずきが克服できないと言った状況が進み、不登校に至る事例は少なくありません。広汎性発達障害、アスペルガー障害やADHDなどの発達障害があり、感覚の過敏さなどがあって、通常の学校や学級での集団への不適応を起こすもまれではありません。また、いじめられたり、いじめられていると思いこんだりするなどして、二次障害的にこじれてしまうケースもあります。注意欠陥/多動性障害は、アメリカでは健康障害の範疇に入れられており、薬物治療と行動調整などが慎重に行われる必要があります。また、広汎性発達障害は児童精神科での診断と緊密な連携が求められています。しかし、近年、これらの発達障害のある子どもへの診療できる、医療機関が少なく、診察も3ヶ月待ちとか半年待ちという現状がありますし、通院だけで治療が進むわけでもないという現状があります。さらに、小児科病棟や小児病院などの閉鎖や統廃合が進んでおり、入院を伴う治療の条件が十分利用可能であるわけではありません。
 子どもたちの発達上の困難は、学校での学習や生活ばかりではなく、家庭や地域での生活にも影響を及ぼします。逆に、家庭での養育力が乏しいことによって、状態が悪くなる場合もあります。虐待などの報道は後をたちませんが、その背景には広範囲のニグレクトなどの問題も存在しています。特に軽度発達障害や発達にアンバランスのある場合は、虐待に会いやすく、また、虐待など様々な付随的な問題を抱えている子どもは、学校での不適応や大人への不信を増幅して、通常学級では対応できない場合も無いわけではありません。
 このような発達障害、適応障害や心因反応、摂食障害、心身症、不登校など学齢期・思春期の心と身体をめぐる深刻な問題、そしてその背景にある、養育や教育環境の複雑さや困難の問題は、安心して生活できる場の確保と信頼できる大人や仲間との関係の再構築、そして生活と学習の支援を丁寧に行うことによってしか解決していくことは不可能です。入退院を繰り返さざるを得ない医療の現状、学習の場と医療の場と生活の場がそれぞれ違って混乱することが、かえって子どもたちの回復を妨げる場合もあります。
 学齢期の援助のもとに、思春期の難しい時期を乗り越え、そして自分を探し、自分をつくっていくという発達の道行きを歩むのはあくまでも子ども自身ですが、しかし、その基盤を整えること、その自立への援助を行うことが非常に重要です。このような取り組みは、通常の教育的な枠組みの中では対応しきれない場合が多いものです。必要な場合には、生活と学習の枠組み全体をかえた取り組みも必要となります。そのような取り組みの一環となっているのが、病弱教育養護学校の不登校への取り組みだといえます。
 病弱養護学校の不登校への取り組みの歴史の中で、寄宿舎のある大阪市立貝塚養護学校はその先駆けとなってきました。貝塚養護学校の不登校へのアプローチは、不登校の子どもたちの生活の枠組みを整え、学部での学習と寄宿舎での生活によって、紆余曲折や葛藤はありながらも、仲間の中で、仲間とともに困難を乗り越えていくという点で貴重な実践をつくっています。
 さらに、医療との連携も、大阪市立総合医療センターで検診などで病虚弱としてのチェックを行うと共に、寄宿舎生活を送ることに健康面での支障はないということのチェックも行われていると聞いております。個々の児童生徒に即していえば、貝塚養護学校・寄宿舎への転入以前に様々な医療機関にかかった経験を持っていると聞いています。その主治医からも、医療では見切れない生活の基盤を整えることの重要性を指摘するものも多いと思われます。さらに、貝塚養護学校・寄宿舎に転入以降も、個々の子どもたちにとって必要な医療との連携は十分にとっているとのことです。医療とも連携を採りながら、しかし相対的に独立して安定した生活を過ごし、心の傷を癒しつつ、様々な生活経験と学習をとぎれさせないという教育の場がある意義は重要です。さらに、このような選択肢があることによって、通常の学校での取り組みの下支えにもなり、また、その経験から学ぶことによって、通常の学校がより充実した対応を行う可能性を高めるものとなるともいえます。
 寄宿舎をもった貝塚養護学校は、困難をもった子どもたちに向き合い、不登校、そして行動障害のある子どもたちへの特色あるアプローチを展開してきました。このような教育実践が、今後本格的に実施される特別支援教育の深みを創るものと思われます。このような歴史と教育実践の蓄積をもち、今後の特別支援教育の中でも重要な役割を担う可能性のある学校を、大阪市の財産として、広く国民に開くとともに、より発展させていただきたいと切に望むものです。


2008年2月25日

『新聞記者』を注文する

2008年02月24日 22時09分57秒 | 

新聞の書評で、柴田鉄治・外岡秀峻『新聞記者-疋田桂一郎とその仕事』(朝日新聞社)のことを知った。
「ある事件記事の間違い」という長編レポートについて記されている。同レポートは、75年に東京にある大手銀行支店長が重い心身障害のあるわが子を「餓死させた」として逮捕され、有罪判決を受けた後自殺した事件の報道をめぐる検証。警察調書のウソとその発表をもとに記事を報道した新聞の問題を指摘しているらしい。
さっそく注文した。

米沢富美子『人物で語る物理入門(上)』岩波新書

2008年02月22日 12時39分33秒 | 
以前、「下」を読んでいた米沢富美子の『人物で語る物理入門』の上を電車の中で読んだ。
目次は以下。
第1章 人類と科学とで出会い-アリストテレス、アルキメデス、プトレマイオス
第2章 近代科学の夜明け-コペルニクス、ガリレイ、ケプラー
第3章 月とりんごを統一する法則-アイザック・ニュートン
第4章 光の本質を求めて-クリスティアン・ホイヘンス
第5章 電気と磁気の謎を追う-ジュエームズ・C・マクスウェル
第6章 エネルギーとエントロピー-ルートヴィヒ・ボルツマン
第7章 「時空」への旅-特殊相対性理論-アルバート・アインシュタイン

流し読みなので、物理の理論はわからないが、哲学や心理学などの歴史と重ねるとおもしろいと思う。ニュートンなどが、自分でレンズを作り、それで光学理論を実証したり、宇宙論を展開したりしたこと、光の実験など、それを知覚する心理学の実験に直結する。草創期の実験心理学はそのような物理学などの発達に伴って引っ張り上げられてきたのだろう。また、ルートヴィヒ・ボルツマンの論敵は、哲学者のマッハで、マッハは実証主義的経験批判論を主張し、経験的に検証されない言明は無意味として、原子論を退け、ボルツマンを激しく攻撃した。このマッハ主義は、エンゲルスの自然の弁証法などでも取り上げられていたのでは…(反デューリング論だったか?)
ついでに、『タイム』誌が20世紀のキーワードとして「民主主義」「市民権」「科学・技術」をあげて総括したとの記述があり、考えさせられるものがあった。

藤川洋子『なぜ特別支援教育か-非行を通して見えるもの』

2008年02月16日 21時46分03秒 | 
今日の新聞に、昨日、発表された学習指導要領の改定案についての記事があった。主要教科で、授業が1割増となり、「ゆとり教育路線」の転換が特徴であるとされている。

藤川洋子の『なぜ特別支援教育か』(日本標準、2007年11月)を読んだ。藤川は、元家裁調査官で、2006年よりノートルダム女子大學心理学部教授。この本は、日本標準の教育フォーラムで話したものに加筆して作成された。目次は以下。
1.非行を通してみる発達障害
2.対人関係の発達とは
3.虐待を考える
4.なぜ特別支援教育か
5.特別支援の必要な子どもたち
6.回復から再生へ
7.対応上の留意点
8.社会に望まれること

いくつか頭に残ったところを摘記しておきたい。
「2.対人関係の発達」を発達過程をサリバンに即して記述している。
乳幼児期では、ボウルビィの母性剥奪理論の批判をしたラターの研究が、ナチスによって母親を殺された子どもの追跡的研究だったこと、児童精神医学や心理学の研究の歴史性社会性を考える。

小児期では、「悲しい」「悔しい」「情けない」「うらやましい」「腹立たしい」「いらいらする」といったネガティブな感情に、名前を付けるいことの重要性が指摘されていること。たとえば、「お兄ちゃんに負けて、悔しい」「ああいうことあできるのがうらやましい」「転んでしまった自分が情けない」と感じているのであろう子どもに対して、「悔しいね、だから、がんばろうね」「うらやましいね、だから教えてもらおうか」「情けないと思っているのね、誰かになぐさめてもらいたいね」といった細やかな言葉かけをすることによって、役立つ語彙が増えて、その言葉を手がかりに自分の感情が整理しやすくなる。

児童期の後、「前思春期」(8歳半から10歳の時期)を位置づけている。この「前思春期」に重要性を置いているように思われる。別の所で、「前思春期という時期に、親友と豊かな時間を共有できたかどうか、そこに共感性獲得のカギが隠されている、というのがサリバンの発達論の魅力です」と記している。治療論として言うと、「前思春期のやり直し」という考え方がある。

事例は、PDDの系統のものが多かった。アスペルガーなど。そこでも、「対人関係力」が重視され、それを作る上で小学校時代、なかでも小が高中学年、高学年がとても重要であると指摘されているのである。

対応の所では、「否定の命令文を避ける」というものがあって、胃カメラ体験で「ダメダメ息をとめちゃ」といわれて、パニックになったこと、そのときに「息が吸えますよ」といってもらって、救われたこと。さらに、「ハアハアしていたらダメ」といわれてまたどうしたらよいか解らなくなり、頭が真っ白になったとき、「肩の力、抜いてください。楽にしてください」といわれてやっと落ち着いた経験が語られていて、よくわかった。

その他、法教育の重要性・有効性、そして対人感覚の養成、ルールを作る体験などが指摘されていることも重要さと思う。

施設や第三者の活用として、「子どもは施設とか、全寮制の学校などでしばらく生活させて、その間に親が子どもとの関係を見直したり、子どもとうまくやる技術を弁巨言う知るということが考えられてもよい」と指摘していることも重要である。

小林由美『超・格差社会アメリカの真実』(日経BP、2006年)

2008年02月11日 23時24分15秒 | 
3連休とはいえ、3日間、大学に行った。
1日目、大学院入試と修論の口頭試問
2日目、特別専攻科入試と修論の口頭試問
そして、今日は、全障研奈良支部の学習交流会(午前中講演、午後分科会)

この間、電車の中で読んでいたものが、『超・各社社会アメリカの真実』である。アメリカ在留の経済(というか、経営だが)アナリストが書いた本。富の6割が、全人口の5%の金持ち層に集中しており、国民の3割が貧困家庭というアメリカの社会がどのように形成され、どのような実態となっているのかを示したもの。
はじめに、「(日本で)語られているアメリカ像は一面的であることが多い」「無意識のうちに、日本社会でのルールや常識、日本人のメンタリティを重ね合わせてしまうことが多い。しかし日本とアメリカとでは、日常生活での無意識な考え方や前提条件がかなり違う。メンタリティも違うし、共有している基礎知識やルール、価値観にもかなりの違いがある」ということで、我々のアメリカ観(特に、アメリカの障害児教育論やプログラム、例えば、行動療法などの前提としているもの、その受け止めるメンタリティの違いなどの前提の吟味なしに、プログラムの導入があったり、逆にその批判がある)を再度考え直すことが求められている。ただ、経営学の基礎知識がなかったので、なかなか読みづらいものがあった。
構成は次の通り。

第1章 超・階層社会アメリカの現実
第2章 アメリカの富の偏在はなぜ起きたのか?
第3章 レーガン、クリントン、ブッシュ・ジュニア政権下の富の移動
第4章 アメリカン・ドリームと金権体質の歴史
第5章 アメリカの教育が抱える問題
第6章 アメリカの政策目標作成のメカニズムとグローバリゼーションの関係
第7章 それでもなぜアメリカ社会は「心地よい」のか?
第8章 アメリカ社会の本質とその行方

「自由・平等・民主主義を標榜し、自由競争で活発な市場経済を誇る国アメリカ。でもそこにあるのは封建国家まがいの超・格差社会。それでも人々は明るく元気で、科学やビジネス、技術、スポーツ、芸術など、様々な分野でクリエイティビティが発揮され、そこで生まれたアメリカン・ライフスタイルは依然として世界中に波及し、多くの国でさまざまなアメリカナイズ現象が続いている」
こうした矛盾した二つの側面をどう理解したらよいかを、歴史、富の集中化の社会、政治と金、教育などなどで示してきた。所々に出てくる、アメリカ人のメンタリティの特徴づけがあったところが面白かった。しかし、下層社会アメリカの現実を示すものではないので、アメリカ社会の批判的分析ということではない印象がある。
ついでに、障害者問題との関係で言うと、ADA(障害をもつアメリカ人法)は、飢える自由も含めて強烈な自由を保障するというアメリカ社会において、障害のある人の自由のために必然的に生まれたと同時に、その自由な社会基盤の故に、障害のある人の権利を保障する法的な枠組み・実効性を絶えず掘り崩されているといえるかもしれない。

米沢富美子『複雑さを科学する』(岩波科学ライブラリー)

2008年02月09日 11時09分25秒 | 
以前読んでいた人物で綴った物理学入門がおもしろかったので、その延長で買った本が、『複雑さを科学する』である。物理屋さんは、世界をシンプルな法則として捉えるということだが、社会科学や人文科学はそうはいくまいという思いもあって、「複雑さ」をどう取り扱うかに惹かれたからだ。講座で話したものをまとめたもの、内容は以下の通り。

1.科学における新しい潮流
2.これまでの科学のパラダイム(1)-要素還元の考え方
3.これまでの科学のパラダイム(2)-決定論の安定解への信仰
4.カオスの登場
5.「生き物」の科学
6.生命とは何か
7.サイバネティックスから複雑適合系へ
8.複雑さに挑戦する

ウィナーの『サイバネティックス』がどうも原点のようだ。
たとえば、今日よく使われる「フィードバック」という用語も、この中で、一つのステップで原因が結果を引き起こし、その結果が次のステップの原因に影響を与えて原因を変化させ、それが新しい結果に反映されていくという形のループを構成しているものとして取り上げられていた。このような基本的な概念-「自己組織化」「自己増殖」「フィードバック」「学習する機会」などの現在の複雑系の研究分野での中心的な概念がこの本で説明されているようだ。

複雑系の科学の中でよく言及される「複雑適合系」も重要だ。これは、構成要素間の相互作用によって系全体の性質が決まり、それがまた構成要素間の相互作用に還元されるというもの(これまた、フィードバックであり、自己組織化そのものなのだが)。ついでに、物理学でいう「相転移」にも似ているが、相転移が系全体の様相の変化を引き起こすきっかけが、外部の環境の条件であるのに対して、不奥雑適合系は、系全体の様相を変えていく条件が、系の内部からフィードバックを介して自己組織的に発信される点が、異なるという。

こうした考え方を、授業や学級を対象に当てはめて考えてみるとどういうことになるか?学級づくりのシュミレーションやモデルの解明につながらないか?

林壮一『アメリカ下層教育現場』(光文社新書)

2008年02月08日 10時34分38秒 | 
軽いものばかりを読んでいるが、実はアメリカの重い現実の一端を照射したもの。
林壮一の経歴は、本人のいうところのあまりよくない高校・大学を卒業し(そうでもないと思うが…)、ボクシングのプロになるものの挫折。週刊誌の記者を経て、ノンフィクションライターへ。渡米し、アメリカの大学で学習。スポーツ紙のライターをしつつノンフィクションを手がける。『アメリカ下層教育現場』は、アメリカ在住で、スポーツライターをしつつ、ちょっとしたきっかけでかかわった教育現場での経験を記したもの。

教育現場は、チャーター・スクール(レインシャドウ・コミュニティー・チャーター・ハイスクール)。日本でも、このチャータースクールを作れなどといっている人たちもいるので言葉だけは聞いたことがある人もあるだろう。アメリカで、1992年、はじめて創立され、「荒廃する公立校を避ける親たちの解決策」と評されたが、「今日、チャーター・スクールは一般の公立校より水準が低く、劣等生の集団に過ぎない」と紹介されている。
学校に来ている高校生の家庭は崩壊家庭が一般的で、格差社会の中で底辺層の生徒たちだ。貧困や無気力が生徒を押しつぶしている。「トイレといって、授業放棄」「しゃべり」「トラブル」などなど、その生徒たちに対してメッセージを投げかけつづけた筆者の姿が描かれている。また、筆者にしても、有色人種として差別を受けるという体験も記されている。
終盤に、「ユース・メンターリング」の経験も記されている。要するに、兄貴として小学生とかかわって、支える時間を持つというもの。これにしても、ヒスパニック系の子どもの問題が見えてくる。

アメリカの教育は、すさまじい格差の中にある。今日の新聞に、竹中平蔵が「京大・東大も民営化して云々」という発言をしたようだが、日本もまた、貧困が再生産され、金がなければ成功しない世の中になっていくようだ。それを受けて、学校という社会も、アメリカのようになっていくのだろうか?

杉山登志郎『発達障害の子どもたち』(講談社新書)

2008年02月07日 15時13分06秒 | 
杉山登志郎『発達障害の子どもたち』を読む。症例が豊富で、まとまったよい本だと感じた。章の構成は次の通り。

1.発達障害は治るのか
2.「生まれつきか」「環境か」
3.精神遅滞と境界知能
4.自閉症という文化
5.アスペルガー問題
6.ADHDと学習障害
7.子ども虐待という発達障害
8.発達障害の早期療育
9.どのクラスで学ぶか-特別支援教育を考える
10.薬は必要か

子どもから成人まで見ているという強みがあって、早期診断と早期対応の必要性を症例から例示してくれているが、はじめに親御さんや関係者に見られる「誤った見解」「条件付きでのみ正しい見解」が列記されており、それを解きほぐしながら、発達障害のそれぞれを説明している。なお、杉山氏の「発達障害」の概念は、広く、「境界知能」(これは重要!)、「虐待」などを含むものである。

おもしろいと思ったのは。「知的障害」と「精神遅滞」の概念の違い。「精神遅滞」は、「知的障害」で、社会適応の状態が悪い適応障害が生じた姿だというのである。逆に、「知的障害」でなくても、とはいえ「境界知能」だが、社会不適応状態によって「知的障害」の域にもなるということであろう。
「境界知能」の問題は、教育現場で最大の問題のはずなのに、現場では「発達障害」からはずされていたりする。この問題を正面から取り上げた点は重要。
「自閉症の文化」は、要するに感じ方が違うということで、この論述では文化とまではいえないのではないかと思う。
ケアの方向ということで、虐待では、第一に安心して生活できる場、第二に愛着の形成、第三に子どもの生活・学習支援、第四に、精神療法としている。発達障害へのアプローチで、杉山氏が重視している点は、生活の安定とリズム、心理的安定ができる人間関係、そして子どもに即した援助ということが、土台としてあり、その上に、精神科治療が成り立つとしている点であろう。生活を基礎としている点は、注目に値する。
さらに、児童青年精神医学という観点から、幼児から青年・成人までを扱って、後々まで責任を持ってフォローするという姿勢である。

それでもちょっとあれっと思うところもあったが…よくできた本である。

母べえ(山田洋次監督)

2008年02月03日 19時01分09秒 | 映画
久しぶりに映画に行く。
山田洋次監督で、吉永小百合主演の「母べえ」。
昭和15年~16年頃、思想・言論弾圧の治安維持法のもとで、ドイツ文学者の「父べえ」が逮捕される。その家族の物語。
父・滋が獄中で亡くなる。滋の教え子の山ちゃんも、出征して、南洋で魚雷を受け亡くなる。滋の妹ちゃこちゃんは広島で原爆で亡くなる。「この世は金や」という奈良のおじさん(笑福亭鶴瓶)も、戦後、吉野の山でなくなったという。
母は強し、というか、女性は強い。そして男は弱いという印象をもった。
とはいえ、戦時体制下の傍若無人ぶりを改めて思う。共感の覚えたのは、笑福亭鶴瓶の演じた奈良のおじさん、下品だが、庶民の観点から本当のことをいう、「ほっとする」と母べえも感じている。

改憲の動き、アメリカの戦争への協力、公選法による言論統制や弾圧、教育を中心とした思想教化の動き、そして大学での自由な学問への様々な形での妨害、あるいは自主規制などを思うと、ちょっと大げさに言うと、これからの生き方を考えさせられる映画だった。

『日本病弱教育史』

2008年02月02日 23時29分20秒 | 
池田太郎のことを改めて調べはじめて、この文献を発見した。
古本屋に注文して、今日届いた。
全国病弱虚弱教育研究連盟・病弱教育史研究委員会編『日本病弱教育史』(日本病弱教育史研究会、1990(平成2)年、全755頁)

構成は次のようなもの

第1編 全国通史
 はじめに
 明治時代
 大正時代
 昭和前期時代
 昭和後期時代
 制度史
第2編 各都道府県通史・年表
第3編 資料
編集経緯
あとがき

都道府県のところでは、滋賀県の三津浜学園のこと、大阪では、貝塚養護学校の経緯などが書かれていて興味深い。

今日のきょうされん滋賀支部の講演料の大半をこの本の代金に支払った。