「男はつらいよ」の第一作は、1969年8月公開。主人公は「フーテンの寅さん」こと車寅次郎、マドンナに恋をするのだが、トホホの結末。第一作は妹さくらの結婚の話でもある。50周年を記念して、BS-NHKで第1作がお正月に放送されていた。それに見入ってしまった。
結婚式の場面。さくらの夫となる博、神妙にすわって黙っている博の父親。博の父親は研究者で大学の教師をしており、博とは過去にすれ違いがあり、コミュニケーションのなかった父子の間には微妙な緊張が流れている。博の父親のあいさつが予定されている。寅は、さくらの親族代表として、その後に一言あいさつをするという設定である。
博の父親の挨拶がはじまった・・。寅は、横目でにらんでいる。ところが、父親から出てきた言葉は、「親らしいことをしてこなかった」という後悔の念。
「えっ! どうなるの!」と気持ちが持って行かれたところで、「ピーンポーン」と玄関チャイムがなった。娘の旦那が、新年のあいさつにきたのだった。こんないいところで、やってきやがる-「たいしたもんだよ 蛙の小便 見上げたもんだよ 屋根屋のふんどし」である。
昨年末に公開された「男はつらいよ50 おかえり寅さん」を、正月明けにようやく見に行くことができた。これまで、特別編も入れて49作がつくられていた。1988年頃までは盆と暮れ・正月の2回、映画館を賑わせた。ぼくが楽しんでみたのは、中学校から高等学校の頃だろうか、町の映画館にいった記憶がある。やがて、マンネリ化がいわれ、大学生になったこともあり、見なくなった。ぼくは大学には10数年いたが、寅さんのようにフラフラしていて、フラフラしている寅さんを見ると自分の行く末が案じられると感じていたのかもしれない。寅さんの甥の満夫の恋愛話の頃は、もう奈良教育大学にきていたが、それも見ていない。「おかえり寅さん」は、満夫のその後を描いている。1996年に寅さん役の渥美清が死去し、寅さんはいないが、回想の中で登場してくるのは、旧知の若かりし頃の寅さん。もう50年もたつのか。耳から離れないのは、「男はつらいよ」の主題歌である。
奮闘努力の 甲斐もなく
今日も涙の
今日も涙の 陽が落ちる
陽が落ちる
「奮闘努力の甲斐もなく」とは、これまでの自分自身のことを振り返って感じることでもある。
1988年4月に奈良の大学に赴任して、31年間お世話になった。2019年3月、定年を2年前倒しさせていただき、奈良の大学を辞職した。教育職員免許法が改正され、2019年度より、教員養成のカリキュラムがかわるというタイミングで京都の大学へ行くことになった。
ずっと、奈良の大学に馴染んできたので、60歳を過ぎての異動は、厳しいものがあった。それも、「歴史と伝統」があるらしい京都の大学、「いけず」文化の伝統のおかげかも。おもわず、上野千鶴子の「おんな嫌い」と井上の「京都嫌い」を買って読んでみる。あらたな場所への着任をきっかけに、奈良への思いが強くなったりもした。後悔というか、そういう思いと同時に、奈良の大学への着任の際にも、いろいろあったなと思い起こすことも多い。
昨年2019年9月15日、同窓会の主催で、「送る会」を開催して頂いた。こういう会は、どうも苦手なので困った。
こんな時には、どんな顔をしていいのかわからなくなる。F先生は、どうも僕がF先生を嫌っているのではないかと話された。文集に書いてくれた文章には、ぼくがF先生のことを「煙たがっている」と書いてある。そのとおりだった。F先生は、原則の人であり、直球で臆面もなくそれを通して詰めてくる。そういうのって、反論の余地がないので、逃げるしかない。
F先生の伝統を柔らかに引き継いでくれているのがK先生だ。先生から著書の『子どもに文化を 教師にあこがれと自由を』(全障研出版部、2019年)をいただいた。はじめから、「子どもの味方になる」と直球が。続いて、「子どもの〈声〉を聴き、その悲しみをつかむ」と、ド・ストライクが投げられる。カーブとか、チェンジアップとかはないのかと、ぼうぜんと、見逃してしまうのであった。
「悲しみをつかむ」という、僕と同年代の鳥取のMさんやそれをひきうつして本の中に登場させるKさんのようなまねは、僕にはできない。つかんだらどんな感触なんだろう? 「子どもの悲しみ」といったって、「悲しい」「哀しい」いろいろあるし、「わかりたい」と思っても、「わからんじゃん」とおもってしまう。「悲しい」「つらい」のはこっちもおんなじ―「男はつらいよ」というわけだ。まあ、「辛」も一本線を「どっこいしょ」とつければ「幸」になるのだが…。この30年余は、フラフラ、オロオロしたことしかないけれど、あっちに行ったりこっちに来たりといろいろやってきたことを振り返って書いておくのも、若い人たちの参考になるのではないかとおもって、書きはじめることとした。
(たちあがる)
結婚式の場面。さくらの夫となる博、神妙にすわって黙っている博の父親。博の父親は研究者で大学の教師をしており、博とは過去にすれ違いがあり、コミュニケーションのなかった父子の間には微妙な緊張が流れている。博の父親のあいさつが予定されている。寅は、さくらの親族代表として、その後に一言あいさつをするという設定である。
博の父親の挨拶がはじまった・・。寅は、横目でにらんでいる。ところが、父親から出てきた言葉は、「親らしいことをしてこなかった」という後悔の念。
「えっ! どうなるの!」と気持ちが持って行かれたところで、「ピーンポーン」と玄関チャイムがなった。娘の旦那が、新年のあいさつにきたのだった。こんないいところで、やってきやがる-「たいしたもんだよ 蛙の小便 見上げたもんだよ 屋根屋のふんどし」である。
昨年末に公開された「男はつらいよ50 おかえり寅さん」を、正月明けにようやく見に行くことができた。これまで、特別編も入れて49作がつくられていた。1988年頃までは盆と暮れ・正月の2回、映画館を賑わせた。ぼくが楽しんでみたのは、中学校から高等学校の頃だろうか、町の映画館にいった記憶がある。やがて、マンネリ化がいわれ、大学生になったこともあり、見なくなった。ぼくは大学には10数年いたが、寅さんのようにフラフラしていて、フラフラしている寅さんを見ると自分の行く末が案じられると感じていたのかもしれない。寅さんの甥の満夫の恋愛話の頃は、もう奈良教育大学にきていたが、それも見ていない。「おかえり寅さん」は、満夫のその後を描いている。1996年に寅さん役の渥美清が死去し、寅さんはいないが、回想の中で登場してくるのは、旧知の若かりし頃の寅さん。もう50年もたつのか。耳から離れないのは、「男はつらいよ」の主題歌である。
奮闘努力の 甲斐もなく
今日も涙の
今日も涙の 陽が落ちる
陽が落ちる
「奮闘努力の甲斐もなく」とは、これまでの自分自身のことを振り返って感じることでもある。
1988年4月に奈良の大学に赴任して、31年間お世話になった。2019年3月、定年を2年前倒しさせていただき、奈良の大学を辞職した。教育職員免許法が改正され、2019年度より、教員養成のカリキュラムがかわるというタイミングで京都の大学へ行くことになった。
ずっと、奈良の大学に馴染んできたので、60歳を過ぎての異動は、厳しいものがあった。それも、「歴史と伝統」があるらしい京都の大学、「いけず」文化の伝統のおかげかも。おもわず、上野千鶴子の「おんな嫌い」と井上の「京都嫌い」を買って読んでみる。あらたな場所への着任をきっかけに、奈良への思いが強くなったりもした。後悔というか、そういう思いと同時に、奈良の大学への着任の際にも、いろいろあったなと思い起こすことも多い。
昨年2019年9月15日、同窓会の主催で、「送る会」を開催して頂いた。こういう会は、どうも苦手なので困った。
こんな時には、どんな顔をしていいのかわからなくなる。F先生は、どうも僕がF先生を嫌っているのではないかと話された。文集に書いてくれた文章には、ぼくがF先生のことを「煙たがっている」と書いてある。そのとおりだった。F先生は、原則の人であり、直球で臆面もなくそれを通して詰めてくる。そういうのって、反論の余地がないので、逃げるしかない。
F先生の伝統を柔らかに引き継いでくれているのがK先生だ。先生から著書の『子どもに文化を 教師にあこがれと自由を』(全障研出版部、2019年)をいただいた。はじめから、「子どもの味方になる」と直球が。続いて、「子どもの〈声〉を聴き、その悲しみをつかむ」と、ド・ストライクが投げられる。カーブとか、チェンジアップとかはないのかと、ぼうぜんと、見逃してしまうのであった。
「悲しみをつかむ」という、僕と同年代の鳥取のMさんやそれをひきうつして本の中に登場させるKさんのようなまねは、僕にはできない。つかんだらどんな感触なんだろう? 「子どもの悲しみ」といったって、「悲しい」「哀しい」いろいろあるし、「わかりたい」と思っても、「わからんじゃん」とおもってしまう。「悲しい」「つらい」のはこっちもおんなじ―「男はつらいよ」というわけだ。まあ、「辛」も一本線を「どっこいしょ」とつければ「幸」になるのだが…。この30年余は、フラフラ、オロオロしたことしかないけれど、あっちに行ったりこっちに来たりといろいろやってきたことを振り返って書いておくのも、若い人たちの参考になるのではないかとおもって、書きはじめることとした。
(たちあがる)