ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

奮闘努力の甲斐もなく♪ 今日も涙の陽が落ちる♪ (体験的障害児教育その1)

2020年01月30日 14時25分54秒 | その他
「男はつらいよ」の第一作は、1969年8月公開。主人公は「フーテンの寅さん」こと車寅次郎、マドンナに恋をするのだが、トホホの結末。第一作は妹さくらの結婚の話でもある。50周年を記念して、BS-NHKで第1作がお正月に放送されていた。それに見入ってしまった。
結婚式の場面。さくらの夫となる博、神妙にすわって黙っている博の父親。博の父親は研究者で大学の教師をしており、博とは過去にすれ違いがあり、コミュニケーションのなかった父子の間には微妙な緊張が流れている。博の父親のあいさつが予定されている。寅は、さくらの親族代表として、その後に一言あいさつをするという設定である。
博の父親の挨拶がはじまった・・。寅は、横目でにらんでいる。ところが、父親から出てきた言葉は、「親らしいことをしてこなかった」という後悔の念。
「えっ! どうなるの!」と気持ちが持って行かれたところで、「ピーンポーン」と玄関チャイムがなった。娘の旦那が、新年のあいさつにきたのだった。こんないいところで、やってきやがる-「たいしたもんだよ 蛙の小便 見上げたもんだよ 屋根屋のふんどし」である。
昨年末に公開された「男はつらいよ50 おかえり寅さん」を、正月明けにようやく見に行くことができた。これまで、特別編も入れて49作がつくられていた。1988年頃までは盆と暮れ・正月の2回、映画館を賑わせた。ぼくが楽しんでみたのは、中学校から高等学校の頃だろうか、町の映画館にいった記憶がある。やがて、マンネリ化がいわれ、大学生になったこともあり、見なくなった。ぼくは大学には10数年いたが、寅さんのようにフラフラしていて、フラフラしている寅さんを見ると自分の行く末が案じられると感じていたのかもしれない。寅さんの甥の満夫の恋愛話の頃は、もう奈良教育大学にきていたが、それも見ていない。「おかえり寅さん」は、満夫のその後を描いている。1996年に寅さん役の渥美清が死去し、寅さんはいないが、回想の中で登場してくるのは、旧知の若かりし頃の寅さん。もう50年もたつのか。耳から離れないのは、「男はつらいよ」の主題歌である。

奮闘努力の 甲斐もなく
今日も涙の
今日も涙の 陽が落ちる
陽が落ちる

 「奮闘努力の甲斐もなく」とは、これまでの自分自身のことを振り返って感じることでもある。
1988年4月に奈良の大学に赴任して、31年間お世話になった。2019年3月、定年を2年前倒しさせていただき、奈良の大学を辞職した。教育職員免許法が改正され、2019年度より、教員養成のカリキュラムがかわるというタイミングで京都の大学へ行くことになった。
ずっと、奈良の大学に馴染んできたので、60歳を過ぎての異動は、厳しいものがあった。それも、「歴史と伝統」があるらしい京都の大学、「いけず」文化の伝統のおかげかも。おもわず、上野千鶴子の「おんな嫌い」と井上の「京都嫌い」を買って読んでみる。あらたな場所への着任をきっかけに、奈良への思いが強くなったりもした。後悔というか、そういう思いと同時に、奈良の大学への着任の際にも、いろいろあったなと思い起こすことも多い。

昨年2019年9月15日、同窓会の主催で、「送る会」を開催して頂いた。こういう会は、どうも苦手なので困った。
こんな時には、どんな顔をしていいのかわからなくなる。F先生は、どうも僕がF先生を嫌っているのではないかと話された。文集に書いてくれた文章には、ぼくがF先生のことを「煙たがっている」と書いてある。そのとおりだった。F先生は、原則の人であり、直球で臆面もなくそれを通して詰めてくる。そういうのって、反論の余地がないので、逃げるしかない。
F先生の伝統を柔らかに引き継いでくれているのがK先生だ。先生から著書の『子どもに文化を 教師にあこがれと自由を』(全障研出版部、2019年)をいただいた。はじめから、「子どもの味方になる」と直球が。続いて、「子どもの〈声〉を聴き、その悲しみをつかむ」と、ド・ストライクが投げられる。カーブとか、チェンジアップとかはないのかと、ぼうぜんと、見逃してしまうのであった。
「悲しみをつかむ」という、僕と同年代の鳥取のMさんやそれをひきうつして本の中に登場させるKさんのようなまねは、僕にはできない。つかんだらどんな感触なんだろう? 「子どもの悲しみ」といったって、「悲しい」「哀しい」いろいろあるし、「わかりたい」と思っても、「わからんじゃん」とおもってしまう。「悲しい」「つらい」のはこっちもおんなじ―「男はつらいよ」というわけだ。まあ、「辛」も一本線を「どっこいしょ」とつければ「幸」になるのだが…。この30年余は、フラフラ、オロオロしたことしかないけれど、あっちに行ったりこっちに来たりといろいろやってきたことを振り返って書いておくのも、若い人たちの参考になるのではないかとおもって、書きはじめることとした。
(たちあがる)


野坂昭如『「終戦日記」を読む』NHK出版、2005年

2020年01月28日 21時36分22秒 | 
敗戦前後の状況を知りたいと思って、図書館から借りてきた野坂昭如『「終戦日記」を読む』を読み終わった。行間が広く、活字が大きいので、逆に頭に入りにくかったが、内容は興味深い者だった。
目次と使われた日記・文献は次の通り。なお、この間の問題意識で国民の戦争意識と敗戦後の動きについて、気になるところだけ、摘記しておくこととした。

まえがき
八月五日、広島
原爆投下とソ連参戦
空襲のさなかで
終戦前夜
八月十五日正午の記憶
遅すぎた神風
混乱の時代のはじまり
もう一つの「八月十五日」
インフレと飢えの中で
あとがき
日記の書き手たち

参考文献
細川浩史・亀井博『広島第一県女一年六組 森脇瑶子の日記』(平和文化、1996年)
山田風太郎『戦中派不滅日記』(講談社文庫、1985年)
高見順『敗戦日記〈新装版〉』(文春文庫、1991年)
大佛次郎『大佛次郎 敗戦日記』(草思社、1995年)
永井荷風『摘録 断腸亭日乗(下)』(岩波文庫、1987年)
渡辺一夫『渡辺一夫 敗戦日記』(博文館新社、1995年)
徳川夢声『夢声戦争日記 抄 敗戦の記』(中公文庫、2001年)
中野重治『敗戦前日記』(中央公論社、1994年)
海野十三『海野十三敗戦日記』(講談社、1971年)
木戸幸一『木戸幸一日記 下巻』(東京大学出版会、1966年)
軍事史学会編『大本営陸軍本部戦争指導版 機密戦争日誌 下』(綿正社、1998年)
岡本望『嵐の青春 神戸大空襲』(文理閣、1993年)
大木操『大木日記 終戦時の帝国議会』(朝日新聞社、1969年)
伊藤整『太平洋戦争日記(三)』(新潮社、1985年)
藤原てい『流れる星は生きている』(中公文庫、1976年)
今井弥吉『満州難民行』築地書館、1980年(川浦一雄「第二部 大陸避難日記」)
安里・大城将保『沖縄戦・ある母の記録』(高文研、1995年)

NHK人間講座2002年8月から9月放送された『「終戦日記」を読む』のテキストをもとに単行本化されたもの。

P.28 (山田風太郎、高見順、大佛次郎などの日記)
いずれも、じかに、敵の目標とされていないせいだろう、日記で読む限り、一月先の命はまず覚束ない自らの運命を嘆き、怯え、せめて九死に一生を求める努力はうかがえない、すべて運命と見なし、戦争を天災に近く受け取っている、このような自体をもたらしめた大本は自分以外にある、文字通りその日だけを凌ぐ、」となると、身近にのみ眼を注ぐ。時は夏の盛り、日本の自然において、秋の実りをもたらしめる、万物猛々しくも盛んな時期、危殆に瀕した国家よりも、自然の力強さ、人間の卑小さに目を向け、一種の諦観に至る。誰も神経症にならない、楽天的ですらある、そしてだれもが、この期に及んで、史を自分に引きつけて考えていない。

P.120
もう一方に、戦争下も敗戦も関わりない臣民がいた。料理飲食業組合、待合業組合、接待業組合、芸妓屋同盟会、貸座敷組合、慰安所連合組合、つまり花柳界、遊郭の経営者。空襲後、もっとも早く、群の湯尾製塩所を受け焼け跡で営業をはじめたのも彼等。そして東京では、八月十七日、その主だった連中が、警視庁に呼び集められ、「国体護持の大精神に則」つた内命を受けている。やって来る占領軍、三日前までの「鬼畜」に対し、「彼我両国民ノ意思ノ疎通ヲ図リ、併テ国民外交ノ円滑ナル発展ニ寄与、世界建設」の目的で、占領軍慰安施設を緊急に造るべく、指令される。


『男はつらいよ50 お帰り寅さん』

2020年01月10日 19時29分58秒 | 映画
「男はつらいよ」の第1回の公開から50年になった。それでつくられたのが「男はつらいよ50 お帰り寅さん」
正月やすみ、京都の八瀬学園にいた知的障害のある戦争孤児たちのことを書いていた。一応のくぎりがついたので、観に行った。帰っていく親や家庭がない孤児や浮浪児たちのエピソードと重なって、おもしろいけれども、「今日も涙の、今日も涙の日が落ちる、日が落ちる・・・」の歌が目にしみた。一日おいて、スーパーで思わず、買ってしまった。