ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

堤未果・湯浅誠『正社員が没落する-「貧困スパイラル」を止めろ』(角川書店)

2009年05月31日 22時30分20秒 | 
堤未果・湯浅誠『正社員が没落する-「貧困スパイラル」を止めろ』(角川oneテーマ21)を読んだ。
中間層がなくなって、貧困層が増大していく現状を、アメリカ・日本の中にとらえるものとなっている。アメリカでは、「医師」「教師」が貧困そうに転落して行っている現状があること、教育の世界では、貧困の増大が、「落ちこぼれ防止法」などを経由して高校生が戦争に動員されていく姿がある。「落ちこぼれ防止法」の評価は、楽観的な評価過ぎたことを反省している。

まえがき
第1章 没落するアメリカンドリームの主役たち-社会の価値が崩れる
第2章 職の誇りを奪われるホワイトカラー-アメリカの現実
第3章 没落する日本社会の主役たち-労働者の存在が崩れる
第4章 急速に転がり落ちる中間層-日本の現実
第5章 アメリカと日本はすでに並んでいる-拡大する貧困社会
第6章 貧困社会は止められる-無力でない運動
第7章 市場にデモクラシーを取り戻せ-「NO」と言える労働者へ
あとがき

2002年に政府が導入した教育改革「落ちこぼれゼロ法」により教育現場に競争が導入されて以来、退職する教師達が急増し始めた。この法律はアメリカ中の学校における全国一斉学力テストを義務化、生徒達のスコアがそもまま教師達の査定に結びつくシステムを作り上げた。謳い文句は「学力の底上げ」そして「虚位嘘卯が子ども達にもたらすより室の良い教育」だ。(p.22-)

ホワイトカラーの転落。最初はそれまでの自分に「誇り」があるんです。ところが、履歴書から十年前の経歴を消したり、次から次へと条件の悪い仕事を紹介される内に自分を責めるようになっていく。だんだん自信がなくなり、「誇り」を失い、あみらえて時給六ドルや七ドルの販売職について今します。「誇り」がもてない…

人間関係も「溜め」の一つ。家族、学校の知り合い、元の職場の知り合い…貧困者にはそれがない。
問題は、いま、日本社会のあらゆるところで、この「溜め」が急速になくなりつつあることだ。非正規雇用の増大、社会保険費の削減、地域社会の崩壊-しかもそれは「なくなった」のではなく、国や企業が積極的に「削った」「奪った」側面があることも忘れてはならない。日本は急速な滑り台社会となった。

労働とはお金を稼ぐだけのものではない。誇りや社会に役に立っている充実感、他の人とのつながりなど、お金に換算できない付加価値を得るもののはずです。
自己責任の内面化の問題 

「弱者の貧困だけを見ていたのは間違いだった」「国家は、国民を経済的な面だけではなく、健康な心と体で、誇りをもって十分な生活ができるところまで保障しなければならない。にもかかわらず、そこがすでに侵され、壊れていた。そのことに気がつかなかった」
「貧困の問題は貧困の問題だけをみているとわからない」

フランスの若者の運動
「私たちは確かに職は欲しいが、自分たちの労働力は安売りしない」

ようは、「自分に対する誇り」ということ「誇りを持って生活するということ」

エレン・ケイ『子どもの世紀』

2009年05月28日 08時23分55秒 | 
20世紀とはどんな時代であったのか?

1900年に、エレン・ケイが『子どもの世紀』を書いた。彼女は、この20世紀が子どもの世紀になって欲しいとの願いを込め、当時の抑圧的学校を改革しなければならない、同時に、子どもの世紀が開かれるためには、平和でなければならない、国家が軍国主義にとらわれている限り、子どもの世紀は開かれないと訴えている。エレン・ケイ(小野寺信・小野寺百合子『児童の世紀』富山房、1979年、とくに第2部、第2章および第3章。)

エレン・ケイは、子どもの解放・子どもの世紀にするためには、平和でなければならないと考えたが、平和を侵す帝国主義が19世紀後半からはじまり、まさしくそれが跋扈したのが20世紀であり、この2つの長楽のせめぎ合いとして20世紀ぞを捉えることが出来よう。

以上、堀尾輝久『教育を拓く-教育改革の二つの系譜』青木書店、2005年

「人の心はどこまでわかるか」

2009年05月26日 15時52分21秒 | 
河合隼雄の講談社新書「人の心はどこまでわかるか」に手を出してしまった。
人の心がいかにわからないものなのかをわかっているとして、しかし、わかりたいという誘惑にかられる人のこころを惑わす臨床心理家のやり口…。

しかし、奥行きのある心理療法のあり方も語られていて興味深い。

・根本は「そこにいる」ということで、それ以外の何者でもない:ほんとうにつらいとき、悲しいときにはよけいな慰めなどいってもらう必要はなく、一緒にいてもらうだけでいい。ところが、治療者のほうがじっとしていられなくなって、ついよけないな慰めの言葉をかけたりしてしまうのです。これは一緒のごまかしに過ぎません。私は、自分の仕事のことをよく「何もしないことに全力をあげる」と表現します。つまり、doing ではなく、beingが大切だということです。

・薬物療法と心理療法:薬を飲むと、ある意味では楽になりますが、苦しむからこそ治るということろもあって、そこの難しさがあります。患者が苦しむときには、治療者も苦しいわけで、医師や看護婦の苦しみを防ぐために、患者に薬を飲んでもらう場合もあります。たとえば、ほおって置いたら暴れてどうしようない患者さんなら、はやり安定剤などで押さえることも必要になるでしょう。…現実問題をどう読んでいくかが大きな課題となるでしょう。心理療法というものは、本気でやったらとてもしんどいものです。河合自身も50歳の時に危機感を感じたとのこと…

・行動療法の評価:私たちは全体的にいろいろなことを理解しながらやっていこうとするけど、行動療法をやる人は、クライエントの内面はあまり問題にしません。…すごいわかりやすいし、効果も早く出ますから、今アメリカではこの行動療法が非常にさかんです。…「行動療法は表面的だ。われわれは内面の深いことがわかっている」という人もいますが、之もそう簡単にはいえないことです。階段を3段しかのぼれなかった人が、5段までのぼれたというのは、考えてみればすごい変化ですが、そういうことをやっていることによって、その人の内面や心が大きく変わっているかもしれないからです。行動療法をやっている人はそういうことをあまりもんだいにしませねんが、内部ではそういう変化が起こっているかもしれない。…沸かしは、行動療法とわたしたちがやっていることは、ひょっとしたらあまり違わないかもしれないと思うこともありますが、いずれにせよ、症状だけに着目して、それで喜んでいたのではだめで、…(後略)

彼女の名はサビーヌ(映画パンフレット)

2009年05月25日 11時49分08秒 | 映画
「彼女の名はサビーヌ」(映画)のパンフレットを読ませてもらった。
自閉症の妹の過去と現在を姉の監督がドキュメンタリーとして仕上げている。

女優のサンドリーヌ・ボネールによる初の長編監督作品。カンヌ映画祭国際批評家連盟賞受賞。

自らの妹が自閉症でありながら、正確な診断を受けることなく、長期にわたる不適切なケアによって一人の人間が歩んだ悲劇を公にした、心を揺さぶるドキュメンタリーである。

25年の歳月をかけて撮影された映像によって観客は、過去の生き生きとした若かりし頃の妹と、入院期間を経て施設に暮らす現在の彼女の「変化」を容赦なく見せ付けられる。しかしそれと同時に、その「視点」は今も昔も変わることなく愛に満ち溢れた、姉の「眼差し」であり、完成された映画は妹への「抱擁」である。

11人兄弟の七女に生まれたサンドリーヌ・ボネールには一歳違いの妹、サビーヌがいた。陽気で美しく、芸術的才能が豊かなサビーヌは幼い頃から特別なケアを必要としてきた。─彼女は自閉症である。同級生から「バカ・サビーヌ」とからかわれる日々。やがて姉妹兄弟がそれぞれの人生を歩み出す中、一人、母親と暮らす彼女。兄の死をきっかけに彼女の孤立感は増し、不安は家族と自分に対する衝動的な暴力として現れた。

そして自閉症としての適切な診断を受けることなく28歳で精神病院へ。入院は5年に及ぶが、退院時の姿は変わり果てていた。

見てみたい映画である。

三木裕和『人間を大切にする仕事-特別支援教育時代の教師・子ども論』

2009年05月22日 16時34分54秒 | 
三木裕和『人間を大切にする仕事-特別支援教育時代の教師・子ども論』(全障研出版部、2008年)に目を通す。
三木さんは、私と同年齢。子どもの権利に関する感覚と揺るぎない人間的信頼をもっている方である。学生の頃から、その活動を側聞させてもらっているが、障害児教育の仕事でも交わるところが多かった。

修学猶予・免除によって教育を受ける権利が剥奪されていた時代を乗り越えて、教育をうける権利がやっと保障されてきたのに、〈そうした子どもに与えられたのは「僕を理解してくれない先生」なのか?〉という自覚に、鋭く責められ続けられながら、そうした子どどもたちと心を通わす同僚の姿に学び、同じ道を進みたいと願って取り組みをすすめてきた、これまでが描かれている。

希望で導く科学のことも大切な問題提起であり、教師集団として、しかも固有名詞で登場する同僚の存在の意味なども重要である。


ジョエル・ベスト『なぜ賢い人も流行にはまるのか-ファッドの社会心理学』

2009年05月22日 11時16分26秒 | 
ジョエル・ベスト『なぜ賢い人も流行にはまるのか-ファッドの社会心理学(Flavor of the Month: Why Smart people fall for Fad)』(白揚社、2009年)を読んでいる。
「ファッド-一時的な熱狂」を扱ったものである。
「まじめな専門職業人でさえ、短期間しか続かずに終わる熱狂-つまりファッドにとらえられてしまう。医師が、ある時期に特定の診断(病気のファッド)や治療法(治療ファッド)を好む。経営者が、ビジネス慣行を改善する方法(経営ファッド)を採用し、それから放棄する。教育者が教育手法(教育ファッド)を考案し、それから捨てる、などなど…私たちの社会では、大方の重きをおかれる社会制度-医療、科学、ビジネス、教育、刑事司法など-が、制度ファッドと私たちが呼ぶものを経験する。こうした制度ファッド、特にビジネス、教育、医療に現れるものが、この本の主題だ。」

縦断研究に関する本を買う

2009年05月19日 22時30分13秒 | 
発達の縦断研究の方法に関する本を2冊買う。
三宅和夫・高橋恵子編『縦断研究の挑戦-発達研究を理解するために』(金子書房)
西條剛央編『構造構成的発達研究法の理論と実践』(北大路書房)

基礎研究としての縦断研究は、時間と継続する意志が必要とされるので、本格的なものは行われなくなっている。
そのような研究の状況に対して、自分の仕事とも関わって情けない思いをしている。

永井憲一編『子どもの権利条約の研究』(法政大学出版局、1992)

2009年05月18日 21時57分36秒 | 
国際的な人権条約の流れを詳細に示すために、子どもの権利条約について学び直す必要が出てきて、永井憲一編『子どもの権利条約の研究』(法政大学出版局、1992)に目を通す。
いまの障害者権利条約の批准前の状況と同じ状況の中で出版された本。
子どもの権利条約は、「前文」と「第1部」に具体的権利に関する実体規定をまとめている。第1部の内容wqお分類して整理すると以下のようになる(p.15-16)
1.総則
 ① 権利保障の原則(3条=子どもの最善の利益の条を含む)
 ② 条約の適用
2.国際的人格権と市民的自由
 ① 「国際的人格権」(第6条=生命への権利、生存と発達を確保する権利、12条=意見表明権を含む)
 ② 「精神的自由」
 ③ 「人身の自由」
3.こどもとして養育され、保護される権利と社会的経済的及び文化的権利
 ①「親による養育と国の援助」
 ②「健康と医療、生存・発達と社会保障への権利」(23条=障害児の権利、24条=健康と医療への権利、26条=社会保障への権利、27条=生存・発達に必要な生活条件を確保する権利など)
 ③ 「教育と文化に関する権利」(28条=教育に関する権利、31条=休息や余暇、遊び、文化的および芸術的生活に参加する権利)
 ④ 「子どもとして保護される権利」

特徴
1.人間の尊厳という人類の歴史的利編が全体を一貫している。
2.従来は保護する対象として見なされていた子ども権利の享有の主体そして権利行使の主体、つまり人権主体として保障しようとするものである。その上で、しかし子どもは大人とは違う存在であって説く月に穂顔がひるようなものとして、その権利を保障しようとしている(意見表明権=自己に影響を及ぼすすべての事項にてついて自由に見解を表明する権利(→自己決定権と同様な内容))。
3.子どもの権利のととらえ方として、この条約は発達という観点を重視している。その一方、子供の困難な状況を考慮して、子どもが特別な保護が予想される客体として、子どもの現実のニーズに対応しうるようにと多くの保護規定を設けている。
4.子どものケアや発達のために親及び家族(環境)を重視していること。
5.大人のみならず子どもにも、この条約の原則や規定を六知らせることを締約国に義務づけている。

『教育研究のメソドロジー』(東京大学出版会)

2009年05月17日 13時28分07秒 | 
参加観察型の教育研究(卒論・修論)指導のために(研究方法論)、秋田喜代美・恒吉遼子・佐藤学編『教育研究のメソドロジー』(東京大学出版会)をよんでいる。
が、なかなか進まない。第1部はフィールドへの誘いだが、それぞれの経験から書かれたものとなっている。
なかでもおもしろかったのは、恒吉遼子「研究における「わたくし」の領域と異文化の研究」というもの。自身の帰国子女としての経験から、日本の教育についてつぎのように述べている。日本の教育の内側にいるとわからなののだが、しかし、それに気づくといろんな示唆をあたえてくれる。

「父親の仕事の関係で日本に突然帰国すると、今度は、帰国の心構えも、学力的にもなにも準備していなかったなかで小学校高学年に入り、学業の遅れとアイデンティティ・クライシスに見舞われた。自分がおかれた状況に対応するなかで、色々と考えさせられた。日本の教育は系統的な教科の積み上げを行っている。筆記試験が中心の受験体制と言い、個別化された指導のすくなさといい。外から入ってくる人、途中から入ってくる人を想定したシステムではない。どの教科も、習得すべきスキルがかなりあり、段階的に設置され、課題目標を一斉に突破していくことが求められる。体育の逆上がりなどはその端的な例であろう…(中略)…それまで、アメリカの体育で嫌なことをさせられた思い出がない。なぜ、人生において逆上がりができることがそれほど大切なのか、一定時期になるとなぜ、体育の時間は逆上がりばかり練習するのか。全員共通ラインを設定すると、それを突破できいない子どもが目立ち、プレッシャーがかかる。もちろんそこには遅れた子どもを大事にする日本的共同体の支え合いがあるわけであるが、なぜそうまでする必要があるのかが見えないわけである。当初、かなりのことがこの調子で、いわゆる「根性」ものと、集団の圧力を用いるものはすこぶる苦手であった(後略)」(p.55)

教科の系統性を強調してきた立場としては、一考の価値がある経験、そしてまた、defferenciated instructionなども検討してみたいと思う。

香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』(講談社現代新書)

2009年05月16日 12時31分04秒 | 
香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』(講談社現代新書)を読む。
これは、表題は「劣化する日本人」ということではないかと思った。新自由主義の跋扈が劣化を促進しているという指摘はあるが、「なぜ」までは行かないように思える。しかし「劣化する日本人」の現象は良くつかんでいる。

第1章 活字の劣化
第2章 モラルの劣化
第3章 劣化していないものは?
第4章 若者の「生きる力」の劣化
第5章 社会の劣化
第6章 排除型社会での「寛容の劣化」
第7章 劣化はいつから起きたのか
第8章 劣化か、進化か
第9章 劣化を防ぐことはできるか

この「劣化」の概念をつかって、いまの特別支援教育「実践」の特徴を把握することができるかもしれないと思う。

「私」と「あなた」の隔たりと分かちがたさ

2009年05月14日 10時24分49秒 | 
「私」と「あなた」の間に歴然と存在する隔たりを痛感する…「私」と「あなた」は根源的に分かち難い存在であることを思い知る瞬間…このように、私たちは一筋縄ではいかない「心」をもつ存在として生きている。

木下孝司「乳幼児期における自己と「心の理解」の発達」(ナカニシヤ出版)の冒頭の書き出しである。青年期はどうか、成人期はどうかなどなど思いをめぐらせる文章である。