ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

京都戦争孤児追悼法要ならびに戦争孤児の方の証言&紙芝居お披露目会(2018年7月21日)

2018年07月22日 22時26分36秒 | 生活教育

7月21日(土曜日)「京都戦争孤児追悼法要ならびに戦争孤児の方の証言&紙芝居お披露目会」という長い名前の敗戦と戦後の出発を巡る会が、下京区の仏光寺大善院であった。戦争孤児の収容施設伏見寮の指導員だった佐々木元禧さんが、伏見寮で亡くなった子どもの遺骨・遺髪を大善院に預けたが、その事実が発掘されて「せんそうこじぞう」となり、毎年、追悼が行われてきたのだった。

八瀬学園の指導員・教員だった棚橋さんの聞き取りでご一緒した本庄先生のお誘いで参加した。ことしは、「障害をもった戦争孤児たちのこと」ということで、本庄さんがお話しされ、棚橋先生が話すという段取りだったが、棚橋先生が遅れられたので、前座で少ししゃべった。いろいろ盛りだくさんの会だったが、佐々木住職やその奥さんとも話ができてよかった。同時に、1969年に福岡教育大学の合唱団が歌った、八瀬学園から桃山学園にいって卒園して、働きながらも結核で亡くなった女性のことについて、そして歌がどのようにつくられ、その輪が広がったのかについて、少しわかった。そうした「はかない命」を忘れてはならない。

京都新聞2018年7月22日朝刊

 


それぞれのライフヒストリー

2015年06月24日 12時50分41秒 | 生活教育
 今年は戦後70年-今年のNHKの「シリーズ戦後70年」の第1回は「障害者はどう生きてきたか」だった。その後、高齢者、戦争孤児、精神障害やハンセン病のあゆみを放映している。1945年を起点とした戦後を担ってきた人たちの声や姿を集約するようなライフヒストリーは、わたしたちの生活や仕事と地続きとなっている実感がある。
 それとは別に、この春いろいろ思うところがあって五木寛之の「親鸞」「蓮如」を読んだ。朝廷と寺院、新興勢力の武士などのうごめき、飢饉・天災が人びとの上にふりかかってくる中世の社会、だれしも「救い」を求めるその時代を受けとめて生き抜いた姿が小説や戯曲・評伝として描かれている。仏教などとは無縁と思っていたが、おもしろく読めたことは自分自身意外なことであった。「救済」「自我」「煩悩」…「他力」や「悪人正機」などいつもとはちがった方向から光が当てられるような気がした。「本願寺」と「浄土真宗」はとてつもなく大きな寺院になり、教団になってしまったが、しかし、仏教用語の「本願」の由来は別にして、その言葉は、私たち世俗のものにとって「本当の願い」を体現した言葉であり、よくつかう「ねがい」なのである。障害や差別、貧困などの人びとの姿を正視しつつも、その願いを実現しようとして、一人ではどうにも出来ない自分を自覚し、それを正当に悩み抜く姿を、「本願」という言葉の中にみたい。「ぶれない」ことは悩まないことではない。現実との違和感、保身や煩悩、諦念を含めてオロオロしながらの右往左往、堂々巡りの考えと議論-その中で、そのような情けない姿を認めあいながら、本当の願いにたちかえることが大切なのかもしれない。五木寛之の「親鸞」「蓮如」を読みながらそんなことを思った。
 五木寛之は、現在83歳。50歳に入るところでいったん作家としての筆をおき、京都に居を構え、仏教史を学んだという。同じく、51歳で仏門に帰依した瀬戸内寂聴は、90歳を越えているが、最近の発言にははっとさせられるものがある。歴史のなかの様々な生活と人生、そして願いと望みを、もともと作家だったこの人達は、現代のことばとして作りかえている。このような人達のライフヒストリーも興味深い。病気、障害、貧困、差別、戦争は人間の誕生と社会発展の中で人間がその克服を願いつつ、それを背負ってきたものである。それらを乗りこえる生活と仕事の営みを、過去を振り返り、現在をみつめなおし、未来への願いと希望を紡ぐ作業に位置づけていきたいものである。

兄弟の育ちゆき

2014年09月13日 09時39分17秒 | 生活教育


『兄弟の育ちゆき』
障害のあるきょうだいをどう受けとめ、ともに家族として生きてゆくかーこのことは長らく障害児教育の課題となってきたし、今も、未来も引きつづく課題である。

あり様のひとつ、しかし、貴重なひとつ

障害のあるきょうだいとの関係で、今を悩む人にも読んでほしいものです。

私自身、2013年12月に兄を亡くしたのだが、きょうだいというかけがえのない存在を再度思わせられることも多い。

『兄弟の育ちゆき』によせて

2014年07月24日 14時02分30秒 | 生活教育
7月に入り、暑い日々が続きますが、みなさまにはいかがお過ごしでしょうか。いつもお世話になっています。

このたび、元京都府立与謝の海養護学校保護者の山本民子さんの記録をまとめる作業のお手伝いをさせていただく機会を得ました。就学猶予をした後、宮津小学校の青木嗣夫先生の「特別学級」で学び、与謝の海養護学校の開校に伴って与謝の海養護学校に入学することとなった子どもさんの記録とともに、その兄を弟たちがどのように受けとめていったのかという発達の記録でもあります。このたび、『兄弟の育ちゆき』として製本がなされましたので、皆様や学生さん、また、障害のあるきょうだいをお持ちの方に読んでいただき、ご意見をいただければと思い、謹呈させていただきます。戦後障害児教育と福祉の実践や運動の研究の一環として、歴史の中に忘れ去られようとしているものをなんとか記録にとどめたいと思い、いろんな形で世の中に残していきたいという思いでもあります。
 この記録と出会ったのは、2011年11月のことでした。与謝の海養護学校づくりの先頭に立った青木嗣夫先生、大阪で重複の教育を担って児童詩を発表していた岡田道智先生、近江学園時代から与謝の海養護学校づくりに着目し、京都大学に赴任してからも深く関与していた田中昌人先生などが、この記録に目を通し、それを「すべての子どもにひとしく教育を」という言葉の内実として受けとめ、広めていったことを知りました。
 山本民子さんは、青木先生がお亡くなり、その後、この記録を田中昌人先生に託したということでした。しかし、田中先生もお亡くなりになり、年月がたってしまいました。非力にもかかわらず、解説を書かせていただいたものとして、この記録の意味をくみ取ることははじまったばかりとの思いです。丹後ちりめんの白をバックにして、夏の宿題の水彩を配した巻紙に、深い赤の表紙は、もともとの記録がなされた『赤いノート』を再現したものと、編集にあたった方は仰っています。編集にあたった方の思いがなければこの本は出来なかったものと思っています。それぞれ、思いが強いものですが、是非お目通しいただければと思います。
 1冊を大学の図書館に入れていただき、もう1冊を研究室においていただければと思っています。重複して受けとられた場合は、是非、ご活用下さればと存じます。お手数をおかけしますが、よろしくおねがいいたします。

生きるということを、人に委ねず…

2014年05月05日 09時38分33秒 | 生活教育
「朝ドラ」を楽しみにするようになってしまった-そんな年になったのだとも思うが、それを認めるのもしゃくである。戦前・戦後の歴史を考えるにあたって、その時代を生き抜いてきた女性達の姿がどう描かれているかに興味がそそられるのだといっておきたい。「ゲゲゲの女房」「カーネーション」「梅ちゃん先生」…そして今年度前期にはじまった「花子とアン」である。
 この連続テレビ小説は、「赤毛のアン」を翻訳した村岡花子の半生を、アンと重ね合わせて描くものである。とはいっても、「赤毛のアン」は実は読んだこともないのだが…。
 小作農家に生まれた「はな」は、行商をする新しもの好きの父親に連れられて、良家の子女の学ぶ全寮制女学校に給費生として入学することとなる。甲府の山麓の農村からでてきた「はな」にとっては、学校生活は「テッ! ほんとけ」と目を丸くして驚くことばかり。初めて学ぶ英語にはまったくついて行けない。しかし、落第すると退学が決まっている「はな」にとっては英作文の宿題は崖っぷち。思いあまって外国人教師の切々たる恋文をうつして宿題として提出してしまう。そして、それが、その教師の前で披露されることになるのである。心の傷をおった教師に心からのお詫びを英語で語る「はな」。そしてそれが通じたところから、道が開かれていく。英語三昧の「花子」として成長していくのである。
 女学校の人間模様には、謎と哀愁を漂わせる年上の葉山蓮子さま、対照的な言語矯正係の白鳥かをる子さまなどの寮生活の中での人間模様も興味深い。葉山蓮子さまは、「やっかいばらいでこの寄宿舎にきた」とされているが、その寄宿舎での「はな」との出会いで人間に対する考え方をかえていく兆しがみえる。ちなみに、この寄宿舎の生活では、「謹慎」は「Go to Bed」である。これらの人間模様のナレーションをするのが美輪明宏で、毎回最後にさらりと発する「では、ごきげんよう、さようなら」の一言は次回への期待を何とも高める存在感を持っている。
 「赤毛のアン」は、想像力豊かでお喋り好きな女の子の孤児が引き取られて成長していく物語だと最近知った。お恥ずかしい話であるが、その中に、アンが自分の人生を自分で決める場面での有名なフレーズがあることを教えてもらった。

「あたしがクィーン(学院)を出るときには、自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。いつもさきまで、ずっと見とおせる気がしたの。ところがいま曲り角にきたのよ。曲り角をまがったさきになにがあるのかは、わからない」
 そして、続けて、アンはこういうのである-「でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの…」と。

 先の見えない曲り角に直面して不安は誰しもあるであろう。でも、そこで想像の翼を伸ばして、「いちばんよいもの」「すてきによいところ」を思い、前向きに一歩を踏み出すようになりたい。そのような勇気と力をみなの中で培っていきたい。
 戦争中、村岡花子は、文学者として戦争に協力をしながらも、密かに「赤毛のアン」を翻訳して、苦しい時代を耐えてきた。難しい時代であっても、想像と心の中の希望の光となるものを守っていきたい、そして、自分の運命を人に委ねず、自分たち自身の道を拓いていきたいと思うこの頃である。

基調報告で踏み込まなかったこと

2011年10月17日 23時02分56秒 | 生活教育
基調報告では紙面の関係上踏み込んでいなかったこと-それは、1969年に全寮制として成立した滋賀県立養護学校(後の八幡養護学校、今の野洲養護学校)が、障害の重い子どもたちを「入学不適格」として、「学校に行きたい」といっていた子どもたちを放置してきたことだった。このことは、いまも滋賀県教育委員会に引き継がれ、野洲養護学校とその寄宿舎にも暗い影をおとしているということである。

田中昌人『発達保障への道 ③発達をめぐる二つの道』より

 吉田厚信くんは、1952年6月27日生まれでした。1960年代のまんなかにあたる1965年4月27日に、13歳で脳性小児まひと診断された彼は、滋賀県にあるびわこ学園に入園しました。児童福祉法の改正によりびわこ学園が重症心身障害児施設となった1967年に、わたしたちは重症心身障害児療育記録映画『夜明け前の子どもたち』の撮影のために約1年間びわこ学園でとりくみましたが、その12月に指導者集団は吉田厚信くんが第二びわこ学園で言語障害とたたかいながら、数時間かかって、次のように言っていることを聞き出したのです。
「ぼくは、学校へいきたいのだけれど、ここでは、その夢はかなえられそうにもありません。ぼくはずっとがまんしてきたけれど、これ以上もうがまんできません。このさい、ぼくの考えている最終手段は、兄さんと相談のうえ、ここをでていって、オムツをしてでも、兄さんの車で学校に送り迎えをしてもらうか、ここで一生くらすかどっちか一つの道を選ぶ結果になりました。だから兄さんと相談のうえ、オムツをしてでも、学校へ行くつもりです。たとえ学校で、息苦しくなっても、それは、ぼくが望んでいったのですからしかたがありません。」
 しかし結局、びわこ学園にいても兄さんの所へ行っても、学校では「教育の対象ではない」といってうけとめてもらえなかったのです。吉田厚信くんの胸には生きぬく決意がさらに強固なものとなっていきました。良く1968年8月3日、彼にとって人生最後の夏には、つぎのように言っています。
「ぼくのかたうでだった今市くんが7月29日に亡くなった。ぼくとしては悲しいけれど、これからぼくたちみんなで頑張らなければ今市くんの”死”が無駄になる。今市くんの死を無駄にはしない。今市くんも最後の最後まで協力してくれたのだから、後に残ったぼくたちがこれからしっかり肩をくんでゆかなければだめだ。せっかくの今市くんの夢も自分ではできなくなった。だから今市くんにかわってぼくがやりとげることを約束する。やるぞ! 今市! 見ていてくれ。きっとやりとげてみせる。-今市くんは映画班の指揮を一回も実行せずに死んでしまった。病気が全快したら今市くんのかわりにぼくが映画班を指揮する。もしぼくが今市くんのようになったら、あとは熊浦くん、明光くん、生石くん頼む。これはましかのばあい。冗談じゃない。16、7で死んではたまらん。今市くんも同じことをいっていた。だけど死んでしまった。だがおれは生き抜くぞ。今市くんとの約束があるから、ちょっとしたことでは死ねん。それにぼくにも夢がある。大きくなったらお医者さんになりたい。-」
 このあと4、5日たった9月18日-この日はびわこ学園の創設者の主要な一人であった糸賀一雄氏が前日「施設における人間関係」の講義中に倒れられ、心筋梗塞と脳血栓で亡くなられた日でもある-に吉田厚信くんは「意識不明」になりました。「意識不明」でも「おれは生きぬくぞ。今市くんとの約束がある」との一念が暗闇のたたかいを支えたのでしょうか。それは-じつに-123日間続きました。1969年1月8日に享年16歳で息をひきとるまで。
 1960年代後半になった日本で、義務教育就学率99.9%の外に、こんなにも、死と闘いながら望んでも、義務教育から「教育の対象ではない」として拒否されていた子どもたちがいたのです。病気とたたかいつつ医者になろうと、そして友だちのやりのこした分まで生きぬこうとしていた子どもたちがおり、それをうけとめない制度が、「教育における差別の実態は実はないのであります」という裏に「実は」あったことを忘れてはなりません。

 滋賀県野洲町の第二びわこ学園では、吉田厚信くんの亡くなった年1969年4月に、ハトAグループ(全国障害者問題研究会近畿ブロック編『みんなの願いを実現するために』1968年参照)が地元の野洲東小学校へ1日入学を実現させました。1日入学を終えて話し合いを重ねてきた子どもたちのなかには「勉強したい」「友だちが欲しい」「学校へ行きたい」の願いがたかまってきました。びわこ学園は野洲町や滋賀県教育委員会に通学を働きかけましたが「小学校には医者がいないから」と断られました。1972年3月には、近くにできた肢体不自由児のための滋賀県立近江八幡養護学校に入学願書を出しました。書きことばをもつまでになり、教科書も使え、当時の常識でも就学確実といわれた5人が「面接試験」を受けました。あらかじめ養護学校とも打ち合わせをし、この子たちなら大丈夫だといわれていた子たちばかりでした。ところが、予定日になっても入学通知が届きません。県教委に聞くと「保留中」との返事。その後「入学不適格」という一片の通知状が郵送されてきました。子どもたちは話し合いで「あんな1日だけで見てさ、なにかを決められるてことは、なんか頭にきちゃうよ。やりきれないわ」と発言しています。1973年には36名が入学を申請しましたが、養護学校から、全員「入学不適格と判定されました」との通知がきただけでした。県教委は、「体が学校教育に耐えられないだろう。国でも審議中でその結論が出ていない」というのでした。1974年には16名を3つのグループにわけ、それぞれどのような教育が必要かがわかるようにして、びわこ学園から介助をつけてもよいとまでいって申請しました。養護学校からは、「現体制ではひきうけられないが、貴園児を対象にして実験学校指定を受けたので、双方が運営協議会をつくって調査研究をはじめたい」といってきました。びわこ学園から申し入れをうけて5年たってこの状況でした。自民党支配下の地方自治体の教育行政では、放置しておいたのではこの子どもたちをうけとめる教育条件は決してつくられないのだということを痛切に知らされつづけたのでした。

 吉田厚信くんたちの生き方は、決して一部の「安楽死」論者の言うような「価値のない生き方」ではありません。わたしたちの生き方の中に消し去ることのできない生き方を残しています。差別をしてくる側にはわからないのかもしれませんが、差別を許さぬたたかいをすすめていく側にとっては、生き抜くことは絶対に守らなければいけないのだということを教えてくれる生き方をしています。人々の生き方を共同の財産にできる生き方が支えあうところに、価値のある生き方が実現していくのです。

寄宿舎教育研究会30周年記念集会・基調報告(2011年10月9日)

2011年10月11日 11時48分55秒 | 生活教育
「現代寄宿舎論-今、大切にする生活教育とは?」

「障害児の生活教育全国研究集会」は、第30回を数えることになりました。地球温暖化と気象の変動、地殻の変動と地震の多発など、私たちの生活の土台となっている自然環境自体が揺らいでいるという不安の中、社会環境においても新自由主義的な再編成がすすみ、いっそう脆弱な社会となっています。子どもや青年の発達、そして学校教育の揺らぎや危機も大きいものがあります。そのような中で、生活教育を担い、かつ地域づくりを進めておられる方々に敬意を表すと共に、今集会にご多忙の中、参加されたみなさんに心より感謝申し上げます。

1.寄宿舎教育研究会の発足と生活教育-「第30回障害児の生活教育全国研究集会」のテーマによせて
 2007年12月、今から足かけ5年前の「第26回生活教育全国集会」において基調報告をさせていただきました。その時は、1940年に出された留岡清男の「生活教育論」ふれながら、行政によって分断された子ども観の指摘を受けとめ、子どもをまるごと捉えるものとしての生活教育の性格づける試みを行いました。その後、研究会では、子どもの育ちと暮らし、格差社会と貧困の問題、困難な中での希望のあり様などを、生活教育の実践をもとに議論してきましたが、一貫した問題意識としてもっていたのは「生活教育」を掲げていることの意味ということでした。
 振り返ってみれば、1980年から寄宿舎教育研究会は開始され、1981年11月に「寄宿舎教育100周年記念集会」を開催し、本格的に歩みをはじめたものでした。その当時から、「子どもたちの生活を大切にし、寄宿舎教育実践の理論化をめざす」として、「生活教育」を掲げて探求をしてきました。1981年8月には『障害児の生活教育研究』が創刊され、世に出されています。「発刊にあたって」には、次のように当時の寄宿舎教育論の構築への意気込みが述べられています。

「いま、再び寄宿舎の存亡が問われている。養護学校の義務制実施は心ある障害児教育関係者達の目を教育内容や教育方法の問題にむけさせたが、そこには自学不就学の問題を解決するのに必要不可欠な生活拠点づくりの課題がほとんど含まれていない。義務制実施に向けての行政指導は養護学校の新増設に一定の意欲は示したが、そこには寄宿舎の持つ教育的価値への着眼はなかった。こうして、養護学校が増え学部教育の内実の検討はすすみはじめたが、障害児学校の寄宿舎併置率は急速に低下し、あまつさえ寄宿舎規模の縮小論さえ現れてきた。「寄宿舎の歴史的使命は終わった」というのである。はたしてそうなのであろうかと、私たちは反問せざるをえない。障害児の生活を守り発達を保障する実践の課題を思うとき、このような寄宿舎問題の動向をなんとするかということがぬきさしならぬ形で問われている」

 かつて、「寄宿舎はあったが、寄宿舎教育はなかった」といわれる時代から、生活指導を中心とした「寄宿舎教育の創造」を、そして、盲・聾学校寄宿舎が中心となって「権利」を闘いとってきた時代から、養護学校教育の義務制実施を経て、障害児の生活と教育への新たな段階を築く集団的な決意としてこの研究会は生まれたものでした。寄宿舎教育研究会結成後の30回余りにわたる研究集会や合宿研究会のなかで、寄宿舎の舎生減や縮小論、そして統廃合という荒波の前に打ちのめされることもありましたが、すべての子どもたちの生活と教育を願って実践は続けられてきたことを確認しあってきました。あえていえば、「生活教育」は、「すべての子どもにひとしく教育を保障する学校」として不可分なものとして、寄宿舎教育の実践的な総括から発信されたものといえます。この意味で、適応主義的「生活単元学習」(生活中心教育)やカリキュラムの構成原理をあらわす「生活教育」の概念とは区別され、発達の土壌となる生活台へのたゆまぬリアリズムの視点から、学校教育、ひいては教育全体の基礎概念となるべきものとして位置づけられるといえます。このことの一つの到達点は、新たな1000年を迎え、21世紀への提言として出された『提言2000』に集約的にみることができます。
 寄宿舎教育研究会の刻んできた30年余にわたる歴史、そして、その一つの集約点となった『提言2000』から10年余を経た、いま、特別支援教育の再編成の中で寄宿舎の位置づけをめぐって、再度、「生活教育」を掲げた時代の「反問」を繰り返さざるを得ません。このことが、今回の研究集会の「現代寄宿舎論 -今、大切にする生活教育とは?」というテーマの設定に直結するものです。

2.災害と生活・暮らしの危機-生活の復旧と復興と地域・街づくり
 「なによりも子どもたちの生活を大切に」という寄宿舎教育研究会規約に掲げた目的の観点から、ますはじめに、この間の東日本大震災での被災をはじめとする生活や暮らしの危機に触れなければなりません。2011年6月5日の研究会運営委員会において、がれき撤去のボランティアとしての報告にあたって、荒涼とした光景を思い浮かべ、ことばを出せずにおられた寄宿舎指導員のことを思い出します。東日本大震災と福島原発事故に際して、再度、地域での居住権(安心して住み続ける権利)が問われています。
 東日本大震災から、半年が早くも過ぎています。3月11日に起こった三陸沖の地震によって、建物は揺さぶられ、倒壊し、その直後に起こった大津波の巨大なエネルギーは、何十もの街を飲み込み、破壊していきました。福島では、地震と津波によって最悪の原子力発電所の事故が引き起こされ、放射能汚染の広がりのなか広大な地域で避難を迫られました。東日本大震災と原発事故のすさまじさは、生活・暮らしを根こそぎ奪っていったことでしたが、その事態の前に、ただただ、わたしたちは呆然としながら東北の人々の無事を祈るしかありませんでした。震災に直面した直後、東北・関東の特別支援学校と寄宿舎の状況は、たとえば、壊滅的な状況になった宮城の沿岸では、卒業生など連絡がとれず、安否確認、福島のろう学校寄宿舎は原発事故の避難所となり、東京や神奈川では寄宿舎は帰宅困難者の対応センターとなり、帰宅困難な舎生の安全を確保する努力がなされました。津波被災地は、がれきの移動や道路の修復はようやく見通しがついてきたようですが、原発事故はまだ収束せず、影響は長期間にわたることは確実です。
寄宿舎のみならず、生活の基盤を失って仮設住宅に移動したり、転居せざるを得なかったり、また、移動すらできないという事態も無いわけではありません。震災被害からの避難や安否の確認の段階から、避難所での生活と支援、避難所へ行けない障害児者の状況、被災者支援の組織、放射能被害からの避難生活、そして生活の復旧や復興への努力、希望としての学校や寄宿舎の持つ役割・無事や安全をともに確認しあうこと、自分たちだけで生きているわけではないことの再確認などの意味を、この間の取り組みは私たちに教えています。小・中・高等学校にも寄宿舎のある学校の構想の必要という声も報道のなかではなされていました。
震災に続いて、本年7月、9月には大型台風が襲来しました。和歌山、奈良などの被害は大きく、地盤の不安定や大雨での増水、土砂ダムの決壊などが心配されています。奈良県には盲学校とろう学校に寄宿舎がありますが、それ以外に、高等学校の寄宿舎として、十津川高等学校に寄宿舎があり、奈良県立高等学校総合寄宿舎(畝傍寮・かぐやま寮)が存在しています。前者は、今日では十津川高等学校がひろく発達障害のある生徒も含めてその受け皿となっているという実態もあります。十津川高校は土砂崩れの危険があり、避難をしている状況があり、その後、10月に入って2日間、登校が可能な生徒に対してスクーリングを行い、登校することが困難な生徒に対しては、郵送による課題提出の措置がなされています。台風に毎年襲われる沖縄では、特別支援学校の寄宿舎設置などどのような安全と安心の確保がなされているのでしょうか?
自然災害による生活の危機と見なされているものであっても、実は、高度成長によってもたらされた国土開発、産業やエネルギー開発の結果としてもたらされているものでもあるのではないでしょうか。さらに、この30年間、顕著になった地域のつながりや地域の力量の低下、都市と地方の格差、新自由主義的な人間関係が多様な形で生活問題を形成しているのではないでしょうか。「気になることは、仙台市若林区や石巻市門脇町のような比較的新しい住宅地のことだ。浜辺近く、明るくオシャレな暮らしが営まれていた街は、今行くと、復興の兆しすらなく、死んだように静まりかえっている」と指摘されていることは、ある意味で象徴的なものかもしれません。生活の復旧・復興に直面して、生活の不安、生活の漂流から、希望と生活の根を張るエネルギーへと転換させる社会的な支えが必要です。その際、なによりも大切にしたいものが、家族・仲間・地域を再生していくこと、ねる・たべる・だす・つながる・育む、生命の再生産としての生活とその場としての地域を見直すことではないでしょうか。障害のある子ども・青年、そして家族を含めた大切な〈時間〉〈空間〉〈仲間〉を取り戻す社会的な支援の拠点とネットワークづくりが重要な課題となっていると思います。

3.「健康で文化的な生活」を求めた「生活教育」の原点を見つめて-「すべての子ども・青年にひとしくゆたかな教育を保障する学校づくり」
 先に養護学校教育の義務制実施が、「生活教育」への発展を必然的に求めるものとなったのではないかということを示唆しました。戦後の障害児教育は障害種別ごとに制度を整えてきたといえますが、養護学校は、知的障害、肢体不自由、病弱をカバーするものとして制度設計されたものの、その設置は立ち遅れたことは周知のところです。就学猶予・免除を許さず、すべての子どもにひとしく教育を保障することをめざして、権利としての障害児教育の主張と運動によって、ようやく1979年養護学校教育の義務制は実施されました。
 振り返ってみると、障害のある子どもと親にとって生活と結びついた教育への要求の声を聞くのは1960年代でした。どんな障害の重い子どもにも生活を保障しようと福祉施設の努力の中で、重症心身障害児の問題が社会問題化し、社会がそれを受けとめる試みとして、重症心身障害児施設がつくられました。島田療育園、びわこ学園などがそれにあたります。そこでは、治療と教育の内容を込めて「療育」の試みがはじめられていきます。びわこ学園の療育の試みを記録した記録映画「夜明け前の子どもたち」(1968年公開)には、1967年当時の子どもたちの声と訴えがエンディングに位置づけられています。その中心になったのが、第2びわこ学園東病棟ハトAグループの吉田厚信君でした。厚信君を中心に、新聞‘はなたれ’が刊行され、他の施設との交流、友だちづくり、学校への要望があつめられました。1967年当時、厚信君は次のように語っていました。

「ぼくは、学校へいきたいのだけれど、ここでは、その夢はかなえられそうにもありません。ぼくはずっとがまんしてきたけれど、これ以上もうがまんできません。このさい、ぼくの考えている最終手段は、兄さんと相談のうえ、ここをでていって、オムツをしてでも、兄さんの車で学校に送り迎えをしてもらうか、ここで一生くらすかどっちか一つの道を選ぶ結果になりました。だから兄さんと相談のうえ、オムツをしてでも、学校へ行くつもりです。」

この吉田厚信君の夢は実現されることなく、1969年1月に16歳でこの世を去ることになりました。「教育への権利」を問題にし始めました。そして1969年4月22日ハトAグループの野洲東小学校への一日入学が実現し、1969年に滋賀県立養護学校(後の滋賀県立八幡養護学校)が設立されると、1970年代には県立養護学校との交流や合同学習へ、そして分校の設置に発展していくことになりました。滋賀県で初めて設置された滋賀県立養護学校は、当初、全寮制として出発したが、その後、通学する児童も含めて肢体不自由児の生活教育の蓄積がなされました。八幡養護学校は、その後、野洲養護学校に継承されることになりますが、八日市養護学校の寄宿舎での生活教育も含めてその歴史的総括が求められるところです。
 「オムツをしてでも、学校へ」という吉田厚信君の思いは、「夜明け前の子どもたちの」映画と共に、京都北部の「すべての子どもにひとしく教育を保障する」学校づくりの運動に重ね合わされて、実現されていきます。1970年4月京都府立与謝の海養護学校の入学式のようすを、この運動をになった青木嗣夫は「“おむつ”をしての入学式」と見出しをつけ表題にしています(「ねたままの子どもにも教育を-障害児の権利を守るとりでづくりの運動」『未来をきりひらく障害児教育』鳩の森書房、1970年12月)。すでに、与謝の海養護学校づくりの運動の中で、寄宿舎について次のような構想の要望が出されていました。

「寄宿舎を教育的に位置づけ、入舎児の発達に適合し、発達を保障するために、社会生活と密接な関連を持ちつつ生活ができるよう、学校と分離し、少なくとも岩滝町内と、旧宮津町内に設置されたい。なお、入舎児の属する集団の均一化からくる発達保障上の弱点を克服するため、地域に設置された寄宿舎には地域におけるチビッコ広場的施設を併設し、その広場を通して、発達に必要な複数集団措定の地域の子どもとの交流を保障されたい、また、寄宿舎を中心として、卒業生の青年の家、障害児センターの役割をもたせ、障害者の結集の場としての役割を果たせるようにされたい。さらに、養護学校が府下の障害児教育センターの役割を果たすため、府下各地の特別学級の児童・生徒・教師・父母の合宿訓練ができるようなスペースを確保されたい。」

 京都府立与謝の海養護学校の寄宿舎の設置は、実際は、学校と一体して設置されることになりましたし、はじめは「通学のための下宿屋」との評価もありましたが、しかし、障害の重い子たちを受け入れつつ集団づくりを発展させ、地域にねざしながら仲間づくりを進めていくものとして寄宿舎教育を発展させていくことになりました。与謝の海養護学校のその後の実践やその後設置されていく学校と地域との関係の整理も課題となっています。
権利の総合保障として、教育のみならず、労働や医療・福祉にも及ぶものとして人間の発達の権利を求める普遍的な国民の権利思想に支えられた養護学校教育は、憲法のいう自由権とともに社会権をひとしく実現することを求め、養護学校教育の内実にも反映されていったといえます。とくに教育権・労働権・生存権に対応させて、教育内容、集団や日課の編成も考えられていたとも言えます。こうして権利の総合保障を掲げる学校づくりという観点から具体化したものが、広い意味での教科教育、労働教育、そして生活教育であり、そして子どもを大切にし、実生活での生活の力量をつけ、社会の主人公としていく教育を求めたものであったといえるのではないかと思います。集団についても、教育集団、労働集団、生活集団などの質の異なった複数の集団の保障とともに、障害と発達に視点を当てつつ、1日、1週間、そして学期や1年間といった単位での時間・空間・仲間を織り込んだ生活の教育的組織化の必要も提起されたといえると思います。その意味では、「生活教育」は、「健康で文化的な人間らしい生活」を保障し、将来の幸福追求につなげるという意味をもっているということを再確認したいと思います。

4.障害者制度改革の中の寄宿舎-「通学困難」の制約を越えて、寄宿舎教育の実践を
 今日、国際的な障害者の権利の実現を求める動きが、障害者権利条約の採択という形で結実しています。障害のある子ども・青年の同年代の人たちと同等の権利の実現が国際的にも求められておいり、障害のある子ども・青年の権利の実現が、いっそう同年代の人たちの権利を確実なものとしていくような先導的積極的なものとなる必要があります。現在、障がい者制度改革推進会議の審議が進められ、障害者基本法の改正があり、障害者自立支援法の廃止に伴う総合福祉法の骨格が示されてきました。
障がい者制度改革推進会議において、特別支援学校と寄宿舎についても議論の遡上にあがっています。すなわち、第5回障がい者制度改革推進会議(2010年3月19日)に向けて、次のような教育に関する論点設定がなされました。

「学校教育法80条は、普通学校の場合と異なり、都道府県が「特別支援学校を設置しなければならない」と設置を義務づけており、さらに、同法78条は、特別支援学校には「寄宿舎を設けなければならない」と規定している。
1、これらの規定は、居住する市町村から離れて就学せざるえない事態を予定するものであるが、障害者の権利条約第24条第2項(b)「障害者が、他の者との平等として、自己の生活する地域社会において、障害者を包容し、質が高く、かつ、無償の初等教育を享受することができること及び中等教育を享受することができること(政府仮訳)」という規定に違反すると考えるか、否か。
2、また、親からの分離を禁止する障害者の権利条約第23条4項「締約国は、児童がその父母の意思に反してその父母から分離されないことを確保する。」に違反すると考えるか、否か。」

 これらに対して障害のある子どもたちの現状を踏まえずに、機械的な議論がある一方、「とくに寄宿舎教育については、その教育的機能と福祉的機能を十分に配慮すべきである」との意見も出されています。障害者権利条約との関係での特別支援教育のあり方の検討は、中央教育審議会内に組織された「特別支援教育の在り方に関する特別委員会」において議論されていますが、特別支援学校の寄宿舎についての議論は十分ではありません。
 一方、障がい者制度改革推進会議総合福祉部会「障害者総合福祉法の骨格に関する総合福祉部会の提言-新法の制定を目指して-」(2011年8月30日)では、障害児の項目に学校教育法関係として「寄宿舎」について次のような提言がなされています。

Ⅲ-2 障害児
2.学校教育法関係
【表題】寄宿舎
【結論】
○特別支援学校の寄宿舎の本来の目的は通学を保障することにあり、自宅のある地域社会から分離されないよう運用されるべきである。寄宿舎の実態を調査し、地域社会への移行に向けた方策を検討する必要がある。
【説明】
 寄宿舎は本来広域学区である特別支援学校への通学保障のために設置されたものであるため、学校が休みになる土・日や長期休暇は家庭に戻るように、運用されるべきである。寄宿舎については、小舎制に再編することや、ファミリーホーム等から通学できるようにすることも含め、今後の在り方を検討すべきである。手話等の習得には一定の集団形成が必要であるという指摘があることから、寄宿舎の在り方を検討する際にはこの点を考慮する必要がある。

 総合福祉部会の骨格案は、そもそも総合福祉法のたたき台としての役割を果たすものであり、その意味では、寄宿舎の役割については「通学保障」限定論として消極的な印象を免れません。今日、教育行政は通学困難を理由として寄宿舎への入舎を限定する傾向をつよめています。しかし、今日、家庭や学校の環境など人間関係・社会的関係に根ざしつつ、意欲や感情など人格形成と深く結びつき、発達の質的転換期にそのもつれやきしみが、多くの子ども・青年に生じています。リストラ、単身赴任など家庭の養育基盤や生活の基盤が揺らぐ事態も少なくありません。また、機械的な学校での対応、学級崩壊などへの対応での多忙化と管理主義の横行、つまずきの日常的発生や学力形成の困難、思春期における将来的な進路の見通しの困難なども指摘することができます。発達障害の子どもたちも含め、病因論や心理学的な検討のみならず、家庭と学校の生活を整え、さらにそこでの手応えのある能力と人格の発達をなしとげていけるよう、学童期、思春期青年期の発達と教育という角度から総合的な検討と実践が求められています。発達障害をも含み込んだ特別支援教育は、本来そういった生活の基盤を持った学校を父母や子ども・青年から期待されていたにもかかわらず、行財政改革の中でその拠点をなくす方向を強めています。
都道府県や文部科学省は、これまで寄宿舎の役割を通学機能のみに限定して解釈してきましたが、それを改め、自己の生活する地域社会において、特別支援学校も含めた質の高い教育の場を保障し、その中で学習と自立を育む土台をととのえる役割を担うものとして寄宿舎を位置づける必要があると考えます。そして、同時に、障害のある人たちの生活に即した人格形成と自己権利擁護の力量を育むものとして寄宿舎をより積極的に位置づける必要があると考えます(なお、聴覚障害、視覚障害の特別支援学校については別途検討が必要でとなっているかもしれません)。地域の社会資源としての寄宿舎は、障害のある子どもたちや青年社会参加の拠点となるとともに、地域の子どもや青年との共同学習の場となりつつ、すべての子どもと青年にとっての「健康で文化的な生活」を保障するモデルとしての機能を果たすものとなるよう寄宿舎教育の実践すすめるとともに、その条件整備を求める必要があるのではないでしょうか。
 この生活教育研究集会では、寄宿舎のある学校が、問題が重層化する子どもたちの学校教育の砦として、その手探りの実践を行い、そのモデルを示してきたことを評価し、その遺産の上に、新たな寄宿舎教育論と生活教育論の発展を期するものとしたいと考えます。これまでの寄宿舎教育実践の歴史を踏まえ、寄宿舎をめぐる厳しい情勢に抗して、苦しい中でも自分たちの頭で考えていこう、身の丈にあった研究会としていこう、そのことによって、自らを鍛えるものとしていこうではありませんか。

1冊のノート

2011年09月08日 22時57分06秒 | 生活教育
おかだみちと志「子どもの目 おとなの胸-子どもの詩は告発する」(『未来をきりひらく障害児教育』)

おかだは、この原稿を書き終わった時のことを、この文章の最後に付け加えている。

 私がこの原稿「子どもの目 おとなの胸」のペンをおいたあとで、青木先生から一冊のノートを見せてもらいました。エンジ色をした、そのうすっぺらなノートには、息子であり、兄であるひとりの障害児をめぐって、あつい祈りを込める母親と人間の愛を知り尽くした少年の対話が、すみとおった文字で書きつけられていました。私がどうしても、もう一節だけ書きたささずにはいられないほど、それは感動的な記録だったのです。
 おかあさんの名前は山本民子さん、少年のそれを山本篤くんといいます。
 私は読み終わった深夜の書斎で、改めて「盲・ちえおくれ」のこどもたちといっしょに、これからの人生を歩きつづけよう、と心に決めました。私はまた、日本のすばらしいおかあさんたちと障害児や、そうでないすべての子どもたちに学び、連帯し、私たちの日本を、みんなのために「ほんとうに生まれてきてよかった国」にしなければいけないのだとも、つよくいいきかせてみました。
…(後略)…

このノートをいま探している。

全国障害者問題研究会京都支部『地方自治と障害者のくらし』(1971年)より

2011年06月03日 11時33分39秒 | 生活教育
1960年代から70年代の京都の障害児教育について聞き取りをしている。
その中で、興味深い話や資料を着させていただいたり、見せていただいている。
その一つ、全国障害者問題研究会京都支部『地方自治と障害者のくらし』(1971年)をみせていただいた。その中にある親御さんの一連のエピソードが出てくる。以下の部分である(9-12頁)。よく知られている「あの子がだいじにされんかったら、ぼくかてだいじにされんのやで!」という一言は実に多くの歴史的前提を背景として出されたものであり、また、それを起点に障害児教育の歴史を作っていったものであったことにようやく気づき始めてきた。



〈みんなが発達と変革を〉
さいごに、ある障害者と母親の対話の中から、発達と変革の道筋をくみとりながら結んでいきたいと思います。
○ Mさんは、知恵おくれのS君の将来の道すじを求めて、いろんな集会にさんかしてきました。数年まえ、ある集会に参加したMさんは、助言者である某先生の「過保護・溺愛」ということばに、思わず発言しました。「私は、こんなおおぜいの人の前で、何もよう言いませんが、このことだけは言わしてください。先生は『過保護・過保護』と岩張りますけど、私は好きで過保護しているとちがいます。『獅子は千尋の谷に我が子を落とす』といいます。私かて、あの子をそうして鍛えたいと思います。そやけど、あの子を突き落としたら死んでしまいますがな。今の日本では、だれも、政府も、それを受けてとめてくれません。下に網でも張って受けとめてくれる世の中やったら、私かてあの子を突き落としても心配はしません。」このMさんの発言を会場はじっとかみしめました。
○ S君はまもなく18才。今まで学校へも入れてもらえず、W学園もまもなく退所しなければならなくなりました。Mさんも養護学校づくりや授産所づくりの運得応に参加してきましたが、いよいよ与謝の海養護学校の開設も近づき、S君が初めてはいれる学校になりそうだと、息子さんに話しました。「学校へ入ったら、字、書けるようになるんけ?学校出たら、仕事して働けるようになるんけ?」と希望に燃えたS君は、“学校にはいれる”ときいたことから、字の練習に一生懸命になりました。そしてまた、「働いて、お金ためて、大好きなH先生にプレゼントをしたいんや」と、かあさんに相談をもちかけました。「ステレオあげるんやったらそんなお金貯めるまでに、先生は70すぎになってしまうで」「そうか、そんなら先生死んでしもてるかもしらんな、そしたら先生のお花kにかざって、それから学園へ寄附するわ」S君はH先生に同じ話をもちかけました。「かあちゃん、先生なア、ぼくがステレオお墓にかざったら、『先生のお墓、ガタガタゆれて喜ぶわ』言わはった。」と。このS君の豊かな発達を、いっそう保障するためにと、Mさんの確信と決意は強まっていきました。
○ ちょうどそのころ大好きなH先生が転勤されることになりました。お別れ式の前日、先生はS君に「あしたあのお別れ式には泣いたらあかんで」と。翌日、お別れ期にがすんでからS君はH先生に「ぼく泣かんと頑張ってたんやで。」そして家に帰って、かあさんに言いました。「ぼく、がまんして泣かんかったのに、先生にそういうたら返事だけしてこっち向いてくれへんかった。先生きっと泣いてたんやで、ぼくに泣いたらあかん言うてはったのに。あんな気の弱いことで、こんど行くと子でつとまるやろか。」この豊かな心情に、Mさんはまた絶句しました。

「うちの子は太陽の子です!!」
○ ある時、行政との話し合いにMさんも出席しました。衛生行政を担当している係の人が、「発生予防」について発言し、「ふしあわせな子ではなくて、健康な子を産み育てるために」と言い及んだとき、Mさんはきびしく講義しました。「うちの子は、知恵おくれで、18にもなるのにまだ学校へも入れてもらえません。そやけど、うちの子は決してふしあわせではありません。太陽の子です!この子をふしあわせにしているのは政治です。その政治を変えてもらわんならんのです!」と。Mさんが運動に加わりながら、みんなで障害児の発達の道すじを追求する中で得た、Mさんの確信に満ちた抗議でした。
○ S君はことし与謝の海養護学校中学部2年生です。5月のある日、Mさんは学校まで出かけていきました。そしてS君達が耕した青々とした水田に、「きれいやなあ。きもちがいいなあ」ともらしました。S君は、すかさずかあさんに言いました。「イッケンやさしそうみ見えるけど、田んぼの中はヌルヌルして、気持ちわるうて、足のうらがすべって、たいへんなんやで。」労働の厳しさと喜びを身をもって体験したS君の言葉は、Mさんにしっかりと焼きつきました。

「あの子がだいじにされんかったら、ぼくかてだいじにされんのやで!」
○ 学校の寄宿舎には、10才の重度重症の子どもたちから19才になったS君まで、同じ部屋で生活しています。Mさんは、こうした学校生活の中で、S君の発達がもっと遅れた子どものために頭打ちになりはしないかという不安がありました。夏休みに帰ってきたS君に、それとなくたずねてみました。S君は「おかあちゃん、なに言うているのや、あの子がだいじにされんかったら、ぼくらかてだいじにされんのやで。あの子がだいじにさららた、ぼくらかてだいじにされるのや。」

このように、障害者運動や民主運動に参加し、障害者(児)を中心員親と教師が固く地域と連帯していくなかで、子どもたちはすばらしい発達をとげていき、親や教師や知己の人々も変革していくのです。このおうな事例から、貴重な教訓を学びとるたびに、民主府市政をいっそう前進させることが、障害者の発達と権利の角とにに、そして、すべての人々の権利保障にかたく結びつくことを痛感するのです。

障害のある子どもたちと家族の生活基盤の復旧・復興に向けた支援を

2011年04月24日 20時50分29秒 | 生活教育
 東日本大地震、それに伴う津波や福島原子力発電所の破損という未曾有の事態に直面している宮城、福島をはじめとする東日本のみなさんに心よりお見舞い申し上げます。
 2006年12月に国連で採択された障害者権利条約は、その第11条で、「危険な状況及び人道上の緊急事態」として、国は「障害者の保護及び安全を確保するためのすべての必要な措置をとる」と明文化しています。この条項が成立した背景には、スマトラ沖大地震と津波の被害をうけたタイの政府代表(タイ盲人協会副会長)は、障害者が集中的な被害を受けことを報告し、つよく条項化することをもとめたという経過がありました。いままさに、大震災によって生活の場が重大な被害を受け、身体的にも心理的にも認知的にも、その他多方面にわたって大きな障壁がつくられ、特に、障害のある人たち、障害のある子どもたちの生活上の困難が増大し、深刻な事態となっています。
 私たちは、3月5日、6日と寄宿舎教育研究会の春合宿をもちました。そこでは、斎藤貴男さんから「私を変える、職場がかわる、社会が変わる」のテーマで、今日の政治や経済の状況の分析、そして、楠凡之さんからは「『対立』から『共同』へ-難しい保護者との関係づくり」として人間のつながりのあり方を学びました。さらに、「現場にある貧困」として、子どもの貧困の状況を検討し合いました。そこで確認し合ったことは、生活基盤の大切さと人間のつながりの重要性であり、さらに、障害のある子どもたち、青年たちにとって、重要な生活の拠点の役割、その一翼をになう寄宿舎の役割でした。
 宮城や福島において、障害のある子どもたちとご家族が、いま、不安のもとにいることを思いながら、生活のよりどころとなっている特別支援学校や寄宿舎を支える指導員のみなさんに心よりエールを送るとともに、復旧・復興へ向けた努力への支援をできるところで作り出すよう、いっそう手をつなぎあっていくことを確認し合いたいと思います。
(とまりあけ)


寄宿舎研・春合宿2日目

2011年03月06日 21時01分02秒 | 生活教育
寄宿舎教育研究会の春期総括研究集会2日目。
9時半から、「対立」から「共同」への楠さんの講演。講師の紹介は長岡顧問。
資料は、事例報告も含めてずいぶん大部なレジュメとなっていたので、大丈夫かと思ったが、しかし、みごとに100分で終わるのは、優れているなぁと感心。
集会のまとめを、大泉顧問がする。ずいぶん自然体になったとのこと。これは、斉藤さんも楠さんも春合宿2回目ということとも関係するのかもしれない。

春合宿のあと、寄宿舎研の総会が行われる。
事務局からは、会計のMさんが離れることに。

みなさんといっしょに昼食をとる。

JRで、京都まで帰る途中、三好さんの追悼文集を読んでいるとついつい入ってしまって、京都駅で乗り過ごすところ。あわてて、飛び降りる…。

家に帰って、飲んでいなかった血圧の薬をのんで、ちょっと安心。食事をとって、寝てしまった。疲れている。

寄宿舎研・春の総括研究集会

2011年03月05日 22時17分17秒 | 生活教育
寄宿舎教育研究会の春合宿(大阪・ホテルサンルート梅田)
あいさつ
斉藤貴男氏の講演
この人は政治記者ではなく、経済記者なのだと改めて思う。
『消費増税で日本崩壊』(KKベストセラーズ)を買って、サインをもらう。
パネルディスカッション

その後、夕食交流会
大泉先生などと、コーヒーを飲む。
びっくりしたのは、副代表のYさんのこと。この間、携帯電話を3回なくしているが、この人ただ者じゃないと思っていたら、血液型がBだった(決して、血液型による性格類型を信じているわけではありません)。

「生活教育」「生活指導」という言葉

2011年02月10日 08時39分54秒 | 生活教育
 「生活教育」「生活指導」という言葉を調べているが、なかなか難しいことが多い。
 大学院にいた頃の研究室・講座の名前は、今はないが「教育指導講座」「教育指導研究室」で、研究には、「発達指導」と「生活指導」二つの柱があったように思う。指導教官だった方は、発達を中心にして研究をしていたが、亡くなった近藤郁夫先生などの先輩の院生達は、生活指導を研究していた。両者は対立するものでもなかった。僕は、どちらかというと、後者の方にぼんやりといたようにおもう。このことは、また書こうと思うが、そんなわけだから、「生活指導」という言葉に思い入れがある。
 とはいえ、この「生活指導」ということば、いろいろ変遷があって、今日に至る。昨日この言葉に偶然また出会った。人間ドックの総合健診成績書の中である。

 総合判定のあとに、「生活指導」の項目があって…
「体重を減らしましょう。塩分を減らしましょう。食事量を少し減らしましょう…」などと記載されている。

 医療や福祉の中で「生活指導」という用語が使われているが、こうして「指導」がなされるとちょっと辛いなと思う。

今日の一日
朝、ゆっくり目で、電車で大学へ。駅でコーヒーも飲めたし、本屋にもいけた。これだけでも、気持ちが変わる。
紀要の訂正を検討して、再度、修正し、提出。午後から、退職の先生の最終講義へいく。その人がよくわかる…。
研究室で、院生と話をするが、どうもすれ違う。まだ、頭が疲れているのか?4時過ぎに、19日の講演の件で、連絡があったので、いそいで、パワーポイントと資料をつくる。いろいろやっていて、結局、2時間くらいかかって、送信。
作業所の物品販売の配達があり、その他ろいろ相談することもあったので、別の先生の所に行って用件をすます。講座の弁当代、新入生歓迎の研修会の講師の件、実習ハンドブックの件、話の中でテープ起こしの原稿の直しがあることに気づく。
帰りに、体育の先生と一緒になり、いろいろ話をする…。
家で、メールいろいろ。