ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

今年もお世話になりました。

2010年12月31日 22時05分47秒 | その他
雪の大晦日。寒い年の瀬となりました。
年々、いそがしくなった一年でしたが、それにともなって社会的な責任も大きくなってきたことを実感しています。研究的にも課題が明確になってきたこと、しかし、その課題を前にしてとまどいも多いものがありました。
今年も、いろいろな方々にお世話になりました。躊躇や葛藤、焦りやどうしようもない無力さを感じながらも、なんとか切りぬけてこれたのも、いろいろ教えていただいたことがあったからです。来年もよろしくお願いいたします。

よいお年をお迎え下さい。


身辺整理

2010年12月30日 23時46分41秒 | その他
今年も残すところ1日となった。

一日、身辺整理をする。使っていた鞄をすてたりするも、中に入れていたものの行き場がない…。昨日からの肩こりは治らず、言葉どおりの「首が回らない」状態。

やり残したことばかりが気になる。M先生の『戦後障害児教育運動史』の見通しがたたない。分からないことが多すぎるし、それを気にして学習の課題がふくれあがってしまっている。

寄宿舎のことについては、イギリスの動向について文献をあつめているが、どう扱うかが定まらず、どうにも見通しがたたない。

明日、大学に行って、資料をとって、京都でOさんに会う予定。びわこ学園の創立50周年が間近となっていることもあり、今後についても相談しないといけない。

少し立ち止まる

2010年12月29日 23時06分34秒 | その他
昨日までの集中講義、土日の卒論修論検討、今日、積み残しの卒論の検討を終えた。まだ、検討ができていない学生さん達がいるのだが、持ち越しとなった。機械的に、年賀状を印刷して、投函するが、インクが無くなったりで、買いに行ったりする。夕食を食べるとさすがにこの間の疲れが出て、爆睡してしまった。もう、残すところ2日となっているにも関わらず…。
集中講義では、反省も多い。
・河野勝行さんの『肢体不自由教育の出発』は吟味不足だった。大阪府立養護学校として設立された後の堺養護学校が寄宿舎を設置しなかったこともつっこんでみたい今後の課題である。この段階で、兵庫の市立の肢体不自由養護学校がいくつか設立されていたのではないかと思う。それとの関係で、寄宿舎設置がなかったのかもしれない。堺養護学校に寄宿舎が設置されなかったことによって、大阪、奈良の養護学校にはその後も寄宿舎が設置されることなく今日に至っている。
・与謝の海の『坂の上のタンポポ』の本を行き帰りに読んだり、『わたしだって』の本に再度目を通したりしたが、これまでの自分の理解は浅かったなあと思わざるを得ない。『坂の上のタンポポ』は、開校20周年を記念して寄宿舎の先生方が出版したものだが、良くできた本だと思った。こなれない実践記録のあつめたものではなく、物語となっていることから、実践がよくかみくだかれていると感じた。『わたしだって』では、田中先生の子どもへのアプローチについての弱さの指摘は、胸に突き刺さった。ただ、「可逆操作」の概念を使うことにはいまだ抵抗があるのだが…。
・『夜明け前の子どもたち』のミツイ君について、未使用フィルムをつかっての検討は一つの試みだったが、学生さん達にとって、今から40年以上も前のフィルムをみて子どもの発達を検討することがどのような意味をもつのかととまどいもあったようである。田中先生の三井君に関する後の行ったコメントをききながら(「びわこ学園療育記録」)、回転可逆操作の階層のもつれを指摘しているところが、貴重に思った。だが、ミツイ君の発達は連結可逆操作の階層に入っていると思われるのだが…。そこを統一して説明することが課題だと思った。運動会の場面での、歩行は次元可逆操作の階層への移行の兆しを見せているととりたいのだが…。Oさんと対談という形式を取ったが、ボクの力量不足なのか、なかなか掛け合いが難しかった。
・学生さん達の意識もだいぶ違ってきているかなと思った。「がんばりよ健太」の見方も、「よくつくられたもの」と少しさめた見方をしている学生もいた。生きづらさのある家族も多いし、社会的にも新自由主義的な自己責任論の影響も強いのではないかとおもった。僕たちは、だいぶ単純かなと思ってしまう。

肢体不自由教育論

2010年12月26日 08時42分49秒 | その他
京都の大学で、肢体不自由教育課程論の集中講義(講義計画は以下の通り)。土日は、卒論修論の検討で大学に行く。

24日-ガイダンス・肢体不自由児の発達と療育・教育の展開
 ・肢体不自由教育の基礎概念
 ・河野勝行『肢体不自由教育の出発-大阪府立堺養護学校の草創と開拓者たち』
 ・京都府教育委員会広報映画「人」1968年頃
 ・障害の重い子ども達の学校
  「障害児のとりで-京都府立与謝の海養護学校」(1971年)
  「ぼくらの学校」(1981年)
 ・明日の福祉「きみの歌をうたおう」(奈良県立明日香養護学校・西村圭也)
27日-肢体不自由児の学習と生活
 ・肢体不自由学級と進路、家族の絆と生活、思春期と自立・寄宿舎の生活
  「がんばりよ健太」より
 ・家族の絆-重症心身障害児「海くんが笑った」
 ・肢体不自由のある子ども達の絵本紹介
 ・バリアフリーや生活補助具の紹介
 ※ゲスト講師・Sさんご夫妻(元教師、兵庫県立まちづくり研究所)
 
28日-重症心身障害児の療育と発達-「夜明け前の子ども達」から
 ・「夜明け前の子どもたち」(1968年)
 ・びわこ学園療育記録にみる「ミツイ君」の発達
 ・「夜明け前の子どもたち」未使用フィルムの検討
   -「ミツイ君」の歩行場面の検討
 ※ゲスト・Oさん(「夜明け前の子どもたち」音響担当)

岡田尊司『統合失調症』(PHP新書、2010年)

2010年12月22日 21時40分04秒 | 
卒論、修論草稿の提出日だが、なかなか進んでいない様子。いろいろ、積み残しが多い。

岡田尊司『統合失調症』をようやく読み終わった。「統合失調症」に関する、良きイントロダクションとなっていると思う。これまでの、精神医学の歴史も含めて、理解が進んだと思う。
特に、認知機能の障害(注意障害、情報の負荷の大きさ、過敏性などなど)の説明は納得がいくように思えた。ストレスの問題などの環境要因も考えさせられる。
イギリス人に比してアイルランド人に多いということが古くから指摘されてきたようだが、ガリバー旅行記を書いたアイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトが精神の病をおそれつつ、精神病院を建てたことを思い起こした。
統合失調症と発達障害とが重なるところなども思うところがあった。

統合失調症の発症・経過・回復などの各段階の即して、ライフスタイルや価値観の見直しの必要が提起されている。発症をおこす社会から、受けとめられる社会へ転換させていくことが課題である。

We Love コミュニケーション

2010年12月21日 18時39分55秒 | その他
土曜日参加した会議で、聴覚障害の方に出会った。署名をあつめていたので協力した。そのときに紹介されたパンフレットを入手した。内容は以下のようなもの。

聴覚障害者制度改革推進中央本部編「We Love コミュニケーション-情報・コミュニケーションは生きる権利」(2010年8月)

はじめに
第1部 聞こえない、聞こえにくい人たちとコミュニケーション
 1.聞こえない、聞こえにくい人たちのくらし
 2.手話と手話通訳
 3.文字情報と要約筆記
 4.盲ろう者と盲ろう者向け通訳・介助
第2部 障害者権利条約とコミュニケーション
 1.障害者権利条約
 2.障害と社会の理解・環境
 3.コミュニケーションは権利
第3部 生きる権利を守る法の整備を
 1.制度改革に聴覚障害者の意見反映を
 2.法律の整備と必要な対応事項

障害者権利条約の批准とそのための国内法の整備について
必要な法整備として「情報・コミュニケーション法(仮称)」を提起している。

第3部2の内容
(1)手話を「言語」として定義することをはじめ、障害者基本法や障害者差別禁止法において「言語」、「コミュニケーション」、「情報」についての定義、権利規定を明記し、聴覚障害者の基本的人権として、社会のあらゆる場面で情報、聴覚障害者の基本的人権として、社会のjあらゆる場面で情報とコミュニケーションを保障する法整備をおこなってください。
(2)法整備に当たっては、障害者の情報・コミュニケーション施策の基本となる「情報・コミュニケーション法(仮称)」を創設してください。
(3)障害者自立支援法に代わる新しい「総合福祉法(仮称)」の制定において、障害の程度によらず、すべての聴覚障害者が必要とする福祉サービス、相談支援、当事者支援事業をコミュニケーションのバリアなく受けられる環境を整備してください

田中昌人「みんなで夜明けを」(『夜明け』創刊号、1970年6月)

2010年12月14日 17時37分18秒 | その他
資料の中から、全障研京都支部『障害児・者科学の夜明けをめざして-京都全障研運動10年のあゆみとこれから』をみつけた。その中に、田中昌人先生の創刊号に寄せた文章が再掲されていた。1970年の京都大学に赴任する直前に書いたもので、赴任後に機関誌に掲載されたものである。
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みんなで夜明けを
田中昌人
 1968年、わたくしは重症心身障害児の療育記録映画「夜明け前の子どもたち」の製作に参加しました。生き生きとして力強く明るい人間の発達の力を発見したわたくしたちの中からは、もっと躍動した題名をつけようではないかという声もあがりました。こんなにも力強い人間の発達の力、差別に対するはげしい怒りの感情を全身にみなぎらせる人間の命の叫び、しかしこれにたいしてうけとめる政治には、この子ども達の権利保障の観点がない、その状況を示す表現として、そして、わたくしたちは、夜明けへむかって運動を前進させていこうという決意をこめて、「『夜明け前』の子どもたち」が作りだされました。
 「夜明け前の子どもたち」が石運び作業で展開した人間の連帯の発達を学んでいった夏、全国のなかまの力は、全国障害者問題研究会を結成して、障害種別や地域をこえた自主的・民主的研究運動を生みだしました。全国のなかまに学び、「夜明け前の子どもたち」の職場では、「おたがいが団結し、わたしたちの生活と健康を守り、障害児の療育を守る」ために組合をつくりました。夜明けをめざして、権利保障への杭をうちこんだのです。それから、ひとあし、ひとあしのきびしいあゆみ、しかし子ども達はまた教育行政が責任をもった権利としての教育の保障がなされていません。映画製作の翌年やっと全員に教科書が渡たされ、地域の小学校と交流しました。その間に、「おむつをしてでも学校へ行きたい。友達がほしい」と訴えていたあつのぶくんをはじめ9人の子どもたちがそのねがいを実現しえないまま亡くなりました。わたくしたちは全国のなかまとともに、「すべての子どもに教育権の保障を」をスローガンに運動にとりくみました。「学校へいきたい、ともだちがほしい」というねがいはフィルムから、テープから、活字から解きはなたれ、人びとの心にうつしかえられ、人びとを結びつけました。
 ちょうどこの頃、わたくしたちはまた、「夜明け前」から、「夜明け」へ行くのには直線コースだけ、たとえば自治体請願をくりかえすということだけにあるではないということを戦後の京都のたたかいの歴史の中から学ぶことができました。たんにサークルをつくるだけでなく、日常的な要求活動を結集し、いわばそこを拠点とする民主的な学校や保育所・診療所をつくって運動を強め、それを軸にして連帯への発達を実現し、自治体民主化と結合して進めなければならないことを学んだのです。「夜明け前」の状態ではあかりをつけることによって一部分を軽くすることができます。しかしそれが集まっても「夜明け」にはなりません。「夜明け」はすべてが明るくなることです。
 いま京都では、70年代のたたかいの性格がどういうものなのかを日本中の人たちに明らかにし、日本の夜明けたらんと日夜奮闘しています。日本中があかるくなる本当の「夜明け」を実現するために、各地のたたかいと結合し、複雑な情勢のなかで統一の原則を踏まえていこうという決意が、全障研京都支部の機関誌「夜明け」にはみなぎっています。日本中のなかま夜明けをめざしてたたかいつづけていくとき、機関誌「夜明け」からくめどもつきぬ教訓を引き出すことができるとおもいます。それはまた必ず日本中にいくつもの運動の拠点をつくり、機関誌を出して、運動をひろげることになって連帯していくにちがいありません。

1970年2月10日 日教組19次教育研究全国集会をおえて
全国障害者問題研究会
全国委員会委員長 田中昌人

(全国障害者問題研究会京都支部機関誌『夜明け』創刊号、1970年6月30日)

長崎の手話通訳問題研究会から

2010年12月13日 21時45分25秒 | その他
長崎の手話通訳問題研究会から、貴重な資料をお送りいただきました。
本当にありがとうございます。
聴覚障害は専門ではないのですが、障害者権利条約関係で手話通訳問題研究に動向のような文章を書かせていただきました。一度、その関係で、研究集会のシンポジュームに参加したこともありました。しかし、門外漢でなさけないです。
これから、聴覚障害の教育にとりくもうという若い人たちに期待しています。
いただいたものについて、若い学生さん達と議論して、また、書かせていただきます。

与謝の海養護学校の資料

2010年12月11日 23時31分15秒 | その他
一日、スケジュールが詰められていて、その場その場で対応をしている日々となっています。頭がまわっていないのがよくわかります。
今日は、附属学校の関係で、日帰りで、東京に出張でしたが、集英社や小学館のそばの会館で教育大学協会の研究集会に参加しました。京都駅で、岡田尊司『統合失調症』をかって、のぞみの中で見ながら、爆睡。それでも、往復の3時間程度は、ゆっくりできたのでよかった。

それはさておき、与謝の海養護学校について、いろいろお教えいただき本当にありがとうございます。
与謝の海養護学校にいって、資料の件をすこし相談してきたので、そのことを書き留めておきたい。
1.与謝の海養護学校の資料について、『よさのうみ』などは、pdf化の了解をいただいたので、現在、作業中。紀要と文集のデータ化は今年中にはできると思う。そのほか、活字になっているものはやまとめられて公表されているものも、データ化する。資料室にあるもの、総括研などの資料のデータ化については、資料を見ないと何とも言えないが、ぼろぼろに成りつつあるので、大型のスキャナをもっていって作業をするしかないか?また、与謝の海でいろんな方が訪れて講演などをしているテープやなどもあるはずである(以前、坂爪せきさんのテープを見たことがある)いずれにしても、資料室を見てみる必要があるし、現在の校長が在職中に着手する必要がある。
2.映像関係のデータ化について、以前、「障害児のとりで」というDVDをいただいた件については書いた(現在、声の文字化をしている)。これは、京都テレビの方が撮ったらしいが、最後に、「京都府教育委員会は云々」ということをいっているので、京都府教育委員会がつくったものらしい(この件については、文字おこしが終わってから、再度検討したい)。10年目が「ぼくらの学校」であるが、その未使用フィルムがのこっている(これは、与謝の海養護学校とは別の制作委員会の管轄で、テーマ別にしてあるとのこと。その事務局長がデータ化して良いとおっしゃっている)。しかし、どれだけの長さか?お金がどのくらいかかるのか???お金をどう工面するかが課題。そのほか30周年ビデオもあるとのこと。これも見せてもらいたい。
3.青木先生などの資料の整理。青木先生の家に未整理のままとなっているようだ。以前、立命館大学のA先生がお宅に伺ったようだが、その後、何もできていないようである。なお、青木先生の日教組教研のレポートは、うちの大学のK先生が日教組図書館でコピーして入手しています。松本宏先生は、これまでのご自分の書いたものは、整理して本にしているとのこと(3冊くらいあるようだ)。そのほか、高齢の杉田美代子先生もご健在で、よさのうみ福祉会の方が、4時間ぐらい聞き取りをしたとのこと。保護者の戸田進さんなども含めて担ってきた方々の聞き取りや資料の整理をしないと…。

藤井進さんのことも思い浮かびました。松本先生の本に、藤井先生の教職生活の最後の時のことについて、忸怩たる思いがあると書いていることも聞きました。

京都府広報の「人」については、聞いたことはあるが、そのフィルムの所在は知らないということだった。いろいろ考えて、府立資料館の井口館長にお願いするもの一つの方法かなと思ったりしている。

「障害児のとりで-京都府立与謝の海養護学校」

2010年12月06日 12時19分18秒 | その他
与謝の海養護学校の設立やその後のエピソードなど聞かせていただいています。
本当にありがとうございます。
個人的には、1975年の大学の2回生のとき、ある学生サークルの学習交流集会で、与謝の海養護学校の先生(だれだったかわかりませんが)の講演を聴き、その後、矢川徳光の『教育とはなにか』などをよみました。その年が、国連の障害者権利宣言があり、アメリカの全障害児教育法が成立した年であったことを知るのはずいぶん後になってからのことでした。この年に、教養部の図書館前でハンドマイクでの声からベトナムの解放があったことを聞いたことを記憶しています。

研修旅行で、与謝の海養護学校の先生から、「障害児のとりで-京都府立与謝の海養護学校」のDVDをいただきました。これは、もともとは、16ミリのフィルムだったようです。本格開講後の2年目の様子(1971年)を、第1話と第2話で描いています(全部で28分弱)。
第1話は、運動の経緯を親御さんが語り(戸田進さんか?)、実践の様子を、給食の場面や絵を描く場面、体育館での運動の場面などで集団での学習の意義と障害児の発達を描いている。
第2話は、寄宿舎や訓練場面を映しています。

竹中孝夫さんの作文や学習の姿もあり、青木嗣夫先生や松本宏先生の若々しい姿もありました。
これは、今のKBS京都放送の番組としてつくられたものでしょうか?この当時、このフィルムにウツされている先生達はもう退職されています。当時の様子を映す貴重な映像です。このような映像を残していただいていることはとてもありがたいと思っています。この映像の背景にどんなことがあったのかまだまだ知られていないことも多いと思います。

障害児の砦としての養護学校、権利を守る砦としての学校…。
与謝の海養護学校の分校として開校された京都市内にある京都府立M養護学校は今年で閉校になりますが、この学校と併設している施設の記録や映像も貴重なものではないかとおもいますが…、どうなっているのでしょう?

森博嗣『大学の話をしましょうか』(中公新書)

2010年12月05日 23時59分33秒 | 
森博嗣『大学の話をしましょうか』(中公新書)を、「大学の先生も大変だ」との高校生のひとことがきっかけで読んだ。
著者は、工学系の教員をしながら、『すべてがFになる』などの推理小説を書く。大学の給料の10倍を印税で得ているとのこと…、それだけ国立大学法人の大学教員の給料はは安いのであるが…公務員ではなくなったのに人事院勧告でまた給料の減額がなされ、大学の生き残りなどといって仕事は増える一方…。
でも、率直に大学の現状を語っているところは、正鵠を得ている-「率直に見れば王様は裸です」。
対談形式で書かれたこの本は以下のような構成

まえがきにかえて-『大学の話をしまsyほうか』について話しましょうか
第1章 「学生論」学生について話しましょう
第2章 「大学論」大学って何でしょうね
第3章 「研究者・教育者・作家」ぼくの話もするのですか?
その他

「そもそも、大学とはなにするところなのか?
 小学校、中学校、高等学校、にはいずれも「校」の文字が付く。ところが、大学は大学校とはいわない。これはつまり、大学がスクールではないからだ。すなわち、「教えてもらう」あるいは「教育を受ける」場ではない、という意味である。学ぶための知己式方法を知っている。それが大学生なのだ。大学の教育とは講義室で行われる授業にあるのではな(い)…」
とはいえ、大学の住人は、奇妙なことが…
「会議・会議・会議」
「科研費」にまつわる奇妙な習慣
教授は「書類を書く人」である
「備品」に関する馬鹿みたいな話
などなど
要するに、大学の教員というのは、意味のない会議や書類などの雑事と研究と二足のわらじを強要されている人種。研究している時間があれば、事務をしなさいというのが今の現状。そもそも、研究・教育を、採算がとれる事業ではないことを承知で行う覚悟がいるのである。大学の教員に関する世の人々の勘違いはすさまじい。
「ゆとり世代」の学生をみて、ゆとりのある社会になったことを肯定的に見てみることも…必要かなと思えた。

柚木祐子『最後の証人』宝島社

2010年12月04日 21時39分01秒 | 
推理小説が、この頃、不作だ。というか、松本清張からの社会派の推理小説が好きなので、そのようなものは今時は読まれないのか、出されていない…。最近のミステリーにはピンとこないので、ボクだけ不作だと思っているだけなのかもしれない。

法廷ミステリーの傑作と帯にあったので、つい買ったのが、この本。ミステリー大賞でもあるとのこと…。
ある殺人事件とその法廷が、交互に描かれて、後半に、被害者と加害者が明かされ、法廷において新たな証人が登場し、真実が明かされていく。弁護士佐方は検事真生にいう。
「法を犯すのは人間だ。検察官を続けるなら、法よりも人間を見ろ」

柚木祐子の作品に、『臨床真理』がある。
真実は「白」、嘘は「赤」-声の色で感情がわかる司は、知的障害者施設にいる。そこで自殺した少女を本当は他殺だと主張する。司のカウンセリングをしている臨床心理士の美帆は、治療のためにも事件を調査すると…。知的障害者施設における虐待と心理が描かれた作品だったので、読んだが、いまいちだったと記憶している。その本どこにいったのかな?

与謝の海養護学校

2010年12月03日 22時54分47秒 | その他
2日、3日と学生さんたちの研修旅行。
学生さんたちの計画は、2日は、舞鶴の「ほのぼのや」にいって、フレンチを食べて、天橋立の散策。3日は、与謝の海養護学校を見学、天橋立を見ながら昼食をとり、大学へ帰るというもの。
2日に、1回生の附属幼稚園の見学のおつきあいがあり、おくれて参加する事になったので、この際、懸案でだった与謝の海の寄宿舎の亡くなった先生のお参り、与謝の海関連の資料の整理の件(フィルムも含めて)の着手をということで、調整した。
2日、福祉大学のO先生、向日が丘のY先生、滋賀の八幡養護学校のS先生と京都駅で合流して、車で、与謝の海養護学校へ。校長のK先生に挨拶。寄宿舎指導員の新規採用の方向なども聞きながら、資料整理の件の概要をお話しする。その後、寄宿舎を案内してもらう。
 宮津駅前で食事をとり、舞鶴へ。お宅におじゃまして、お線香をあげさせていただいた。Y先生がとりまとめてくれた遊象さんと仲間達の冊子を前に、いろいろ話をした。何も準備をしていかなかったが、お供えをもっていくべきだったと反省。
 そこから、宮津にもどって、駅の近くのマクドナルドで、9時から、与謝の海のY先生たちと資料整理の話をする。ずいぶん以前から、遊象さんその他の人たちを介して、調整してもらっていたものだが、直接あって話がようやくできた。資料の現状はいろいろわかったので、やる仕事も明確になってきた。お金と人と時間を作らないといけないといろいろ考える。この内容については、また別に書きたい。
へろへろになって、ユースホステルに着いたのが10時。そこから、学生さん達と飲んだり、風呂に入ったり、話したり…。
 3日は、半日、与謝の海養護学校を学生と見学。いろいろ公式的な話をきく。
 来年度、「与謝の海養護学校」から「与謝の海支援学校」に名称変更になるとのこと…。
 食事を取り、4時半くらいに大学に戻る。疲れたので、研究室に戻らずに帰る。近鉄の駅で、メールチェック。たくさんのメールがたまっていたので、変身したりする。早めにかえるつもりが、うろうろして時間を取ってしまった。家で、食事をとってごろごろしていると寝てしまう。

間宮正幸「発達障害のある若者の教育と自立支援-共同のなかでの自己形成」

2010年12月01日 00時09分46秒 | 生活教育
教育2010年12月号
特集1 「生きづらい若者たちを支える」
間宮正幸「発達障害のある若者の教育と自立支援-共同のなかでの自己形成」

中途半端な論考…

以下抜き書き--------------------------
喫緊の課題であるわが国の若者の自立を実際に検討するという場合、発達障害のある人々の困難を省いて論ずることは到底できないことがあきらかになってきた。
これには、わが国では引きこもり者の存在をまったくもって無視できないという現実がかかわっており、わが国独自の課題であると一面がある。

精神保健相精神保健福祉の領域では、ひきこもりと青年期・成人期の発達障害に関する議論が急速に高まりつつある。職業リハビリテーション分野でも、発達障害がある場合の就労支援研究が急増している。

だが、引きこもりは容易に接近しがたく、また現実の雇用情勢は依然著しく厳しい。
本稿で、検討しようとしているものはは、主として「手帳」を持たずに「学校から仕事へ」という移行過程の困難を抱える人々の問題である。軽度発達障害を持つ人たちの生活現実と言い換えてもよい。しかも、未受信・未告知のままに成人になった場合が急浮上してきた。これらの人々には、十分な思春期青年期の教育、すなわち、共同の中での自己の形成ということが望まれるところなのだが、現実はどうだろうか。

通常これらの人々の中期高等教育移行の実態を知ることは難しい。まして、卒業の生活と労働の姿を伺うのは容易なことではない。あるいは彼らが地域でどのように暮らしているか、その情報はもどかしいほど手に入らない。

ひきこもりと再定義の中で、広汎性発達障害が非常に大きな位置を占めることが明らかになった。

引きづらさとは、「社会の矛盾を個人で引き受けなければならないと思いこまされているしんどさ」と乾彰夫はいう。
まさにこれらの若者たちは、自分という存在がどういうものであるのかが理解できないまま、社会的の矛盾を個人で引き受けていたというほかにない。ひたすら「自立」の圧力に答えようと押しつぶされていた。
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発達障害のある若者の問題が指摘されているが、そのリアルな認識は示されておらず、課題提起にとどまっているのが残念。