ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

負けるが勝ち その7 いじめ (義兄の戦争体験から)

2015年09月03日 00時33分16秒 | その他
六 いじめ  

 三月九日の晩の東京の大空襲で焼け出され、父のふるさとの町にやってきました。東京生まれで小学校二年まで東京で育った自分に対して、土地の子供達は、いやある一部の子供達は、自分のことを「東京っぺ」と言って、仲間はずれにしていじめが始まったのでした。
 今のいじめと違うところは、いじめられっ子の方だと思います。それは登校拒否となる今の子供達と違って、いじめられてもいじめられても、学校に通ったことだと思います。いじめる方はいつの時代でも同じだと思います。だから「いじめられっ子よ、負けないで頑張って学校に行って下さい」と言いたいのです。
 そうだよなぁ、今思うとあの当時は家の中で一人で遊ぶ物がなかったから、どうしても外に出ていって友達と遊ぶしかなかったから、いじめられても頑張って学校に通ったのだなぁとつくづく思います。今の子供達は外に出て行かなくても、友達と遊ばなくても、家の中に遊ぶ物がなんでもある状態だと思います。本来ならば今の子供達の方が数段恵まれているのです。それでもやはり前にも記した通り、何としても登校拒否だけは避けて欲しいと思います。やられても、いじめられても、学校へ通うことです。負けるが勝ちなのです。この事を肝に銘じて忘れないで欲しいのです。
 三月九日の晩の東京大空襲で焼け出されましたが、しかしこの焼け野原に残って、苦しい生活を頑張って全うした人達も数多くいたと思います。自分は丁度小学校二年から三年になる時期であったので、スムーズに学校転校の手続きが出来ました。本籍は千葉のこちらにあったからすみやかに、何のトラブルもなく入学が出来たと思います。そして早くこの田舎の学校に、そして友達になじもうと思い、自分自ら勉強・運動、特に野球に力をいれて頑張ったのです。そうすればすぐに仲間にとけこむであろうと思ったからです。それがさにあらず。ここからいじめが始まったのでした。
 勉強が出来れば出来るほど、そして野球がうまくいけばいくほど、「この東京っぺ」といわれて、仲間はずれにされました。本当にどうすればこの連中と良き仲間になれるのか、いつも事があると悩んだものでした。ある時あるいじめっ子が次の様なことを自分に向かっていいました。
「にしや、あにやってんだ」
 それを聞いていじめられない様にすぐに答えたのです。
 「二四は八だ」と。
 そうしたら、「馬鹿野郎、おれをちゃかすきか」といわれ、そのいじめっ子の子分どもにたたかれ、はり倒されたのでした。いわゆる袋叩きにあってしまったのでした。顔面赤く、はれわたった顔になり、家など帰れる様な状態ではありませんでした。母親が心配するからです。その時、何故自分が袋叩きにあったのか理解できませんでした。いじめの連中がその場から立ち去った後、やはり東京っぺでなくてもいじめられている子が寄ってきて、今ぶんなぐられた原因は次のことだと教えてもらいました。
 それは、「にしや」というのはお前ということで、「あに」とは何をということであって、「お前、何やってんだ」ということだったのです。本当にここいら辺の言葉は、即ち父のふるさとの言葉はむずかしいものだなあと思いました。少しでも早くここの土地の言葉を覚え、いじめられない様、一生懸命努力をはじめました。
 しかし、こういうことがあった後、またいじめられました。それは、いじめの仲間からある友達とけんかしろと命令されたことから起こりました。
 何のうらみもない友達と校庭のまん真ん中で一騎打ちのけんかをし、何とか勝つことが出来ました。しかし、それで終わりではなく何と便所につれて行かれ、何人かにまた袋叩きにあい、またまた顔がぐちゃぐちゃになり、大げさにいえば足腰が立たない位やられたのでした。
 家に帰った時、この様な状態を見た母は一瞬でわかったと思います。母に何があったのかと聞かれたので、正直に今回のいきさつを話しました。すると、何とあの気の強い母から予想もしなかったことを聞かされたのでした。
「負けるが勝ちなんだよ」と。
 自分もちょっと拍子抜けし、おどろいた次第です。自分は、「何で負けて帰ってきたのだ、勝ってくるまで家なんかに居れないから」といわれると思っていました。当時はいじめっ子にあうより、母の前に出てしかられる方がもっとおっかなかったのです。本当にほっとし安堵しました。それでも学校へは休まず通ったのです。
 今度は氏神様の裏で、また一騎打ちのけんかをやらされ、今度も勝ちました。そうしたら何と今度はぶんなぐられないかわりに、その場の崖っぷちから、多分三、四メートル位あり、下は竹林でもありましたが、その竹林に落とされたのでした。運良く自分は一本の竹に向かってその竹に飛びつき、しがみつき、その竹がしないで、ぶんぶらりんとしなり、直接下に落ちずに命びろいしました。まさに九死に一生のことでした。またまた反省しました。母のいったことを忠実に守っていればこんな危ないことをさせられないですんだものをと心底思いました。
 このときから実行しました─その後、けんかさせられてもじっと我慢して負けた振りをし、すぐに泣く様に通したのです。その口惜しさを勉強の方に向けていったのです。それからも何度となくけんかをさせられましたが、母にいわれた言葉を思い出し、すぐに負けもしないが、無理に泣く様にし向けていったのです。
 そうしたら今度は自分のことを「泣いがんびいびい」とあだ名をつけられました。本当に口惜しかった。「一人と一人のけんかであれば絶対に負けないのに」といつも心の中にしまっていたのでした。このときから、自分はけんかは弱いという印象を皆にあたえたのでした。そうしたら、これ以後けんかはさせられなくなりました。
 しかしまた、新たないじめが待っていたのです。特に印象に残っているものを記します。先ず第一には、お祭りの準備等で氏神様に集まる機会が多くなりました。しかし、そこで、恐ろしいことことをさせられました。それは氏神様の集まりの所の裏手の軒下にある電線をさわらせられたのです。ビリビリとして身体全体が凝縮して何にもわからず、そこにぼう然と立ちすくんでしまいました。これはけんかより恐かったです。今思ってもぞっとします。
 何といじめの仕方を色々考え持っているのだなぁと、反面すごいなぁと思いました。それでも、そういう仲間にいじめられても逃げずに中に入っていきました。学校のはしに五、六メートル位のどて山があり、正面が絶壁になっていましたが、そこから飛びおろされたこともありmした。運良く、その下は砂場の様な所であったので何のけがもなく終わりました。
 がしかし、次は違います。これは学校の裏手にある急な段々畑の一番上から、下まで三段飛びをやらされたのでした。距離にしたら、二、三十メートル位あったと思います。ちょっと迷いましたが、しかたなく三段跳びをして下までうまく到着することができました。ところがどっこい、土地の言葉で「こうがえし」、即ち足首の所をひねってしまい、いわゆる「こむらがえし」になってしまい、その場にうずくまって動けなくなってしまったのです。いじめっ子等はそんな自分を見てうそだろうと思い皆解散してしまい、誰もいなくなってしまったのです。その足首の所がみるみるうちに赤黒くなり、はれ上がってきたのでした。歩ける状態ではなかったのです。少し時間がたってから、ここにいつまでもいるわけにいかないと思い、はって上まで登り、どの位かかったか解りませんが、学校の職員室まで何とかたどりついたのでした。このけがをいじめられてやったなんていうと、後でまたいじめられると思い恐ろしくてそんなことはいえませんでした。「自分が馬鹿にも、あの場所で三段跳びやって、こうがえしになってしまったので、病院につれていって」と頼みました。先生達は何にも知らないので、くすくすと笑っている先生もいました。
 こんなことがあっても学校は休みませんでした。登下校の時は必ず、母がリヤカーを引いて自分を乗せてくれたのでした。今思えば登校拒否なんて考えも、また思いつきもしなかったのです。やはりこれは母の偉大な力だと心より感謝しています。
 また、いじめの中でも一番いやなそして卑劣ないやがらせを受けたこともありました。本当にいやがらせを受けるのなら今までの様ないじめの方がまだましです。やられても気持ちがさわやかだからです。
 家から学校まで遠かったので昼食用の弁当を母に作ってもらって学校に持っていったある日の出来事です。昼休みになって、弁当を食べる時間になったので、机の中においてあった弁当を取り出して、弁当のふたをあけてびっくり仰天してしまいました。弁当の中をいつもうまい弁当があるとばっかり思って心うきうきさせて見るものですが、それが何とごはんやおかずは何にもなく、生きた「がったんげーろ」即ち大きな蛙が入っていたのでした。それはそれは、もうびっくりしてさわいだのでした。皆はげらげら笑っていました。知らないのは自分だけかと思い、なさけなくなって、気分も悪くなり早退しようかと思いましたが、ここで帰ったらまた何をされるかわからないので、じっと我慢して、その場をしのぎました。
 何をやられようとも、何としても学校にいくのだと思い、それに協力してくれた母、そして同じいじめられ仲間に今思えば感謝しています。現在こうしていられるものまさにいじめられても、助けてくれた人達がいたからだと深く感謝しております。
 自分と同じいじめにあった子もいました。彼もあれ程いじめられても自分と同じく学校を休まずに卒業したのでした。その彼は、いじめられるのを防ぐために「びっこ」の真似をしはじめたのです。そうすれば同情をかっていじめられないと思って実行したとのことでした。そしてその彼は「びっこ」の真似を一年も続け、何とかいじめにあわなかったそうです。しかし、もとの状態に戻そうと思って正常な姿で歩こうと思ったらもとには戻れなかったようです。足の筋肉か骨かわかりませんが、正常の姿に戻ることは出来なかったです。本当に可哀想で、かつまた頑張った証でもあったと思います。本当に足を引きずるようになってしまいましたが、学校を休まずにちゃんと通ったことは立派なものでした。自分等の時代は、いじめられてもいじめられても、学校だけは絶対に休んではならないと自分にいい聞かせたものでした。そしていじめられても堂々として卒業できたことを「誇り」に思っています。自分達は何故この様に頑張ったのか、今の時代のことを考えると不思議でなりません。でもこんないじめは二度とやられたくないとつくづく思います。
 中学校にはいってからもいじめは続きました。次のいじめは中学二年から三年に進級するときの組替えの時でした。それは高校進学組と就職組に別れて組替えする時でした。五組に編成され、その内一組が進学組でした。当時は進学する人間が少なかったのです。後で聞いた話ですが、進学したくても、家が貧乏で進学できない仲間も相当数いたとのことでした。その編成後のいじめがまたまたすごいものでした。
 はじめに、自分がやられたことを記しておきます。それは二階の階段から下に引きずり落とされる様子です。まず、階段の一番上に足をのばして座らせられ、二人に片方ずつ足首を持たれ、下に引っ張られるのです。階段を尻だけで引きずりおろされたのでした。それは何と表現して良いか、本当に尻が痛く、二、三日歩くこともやっとのことになってしまいます。その状態で、学校へ行く姿を想像してみて下さい。何とおもしろそうな格好で歩く姿─他の人はそんな自分の姿を見てくすくす笑いながら自分の脇を通り過ぎて行ったのです。自分でも想像がつかない位のへんてこりんの姿で歩いていたのだなぁと思いましたが、その当時は笑われたって学校に行かなくてはと心に思い、実行したのです。
 他の進学組の仲間はぶんなぐられたりしたもの達も沢山いたとのことでした。その他、机と机の間に立ち、両手を机の上に立て、足は地につかずして体を支え、自転車をこぐ真似をさせられ、普通にこいでいる時、急に「上り坂だからスピードを出してこげ」と命令され、いじめられている仲間は夢中になって足をぐるぐるまわしていたのです。くたびれてきて腕がもうどうしようもなく、体を支える力がなくなり、「がくっ」と床に落ち腕をおった仲間もいました。また、ある友人は柱にだきつかせられてせみの真似をさせられ、何分もその状態で尻をぶたれました。そんな時は大きい声を出して、「みーん、みーん」と鳴けと云われ、本当に泣きながら、「みーん」「みーん」と鳴いた仲間もいました。この姿は他のいじめと違って楽なように思われますが、何分何時間もこの様な状態がつづくと腕や足などの感覚がなくなり、棒のような状態になり、許されて降りたとしてもちゃんと立てず、しばらくの間はひっくり返って大の字になって、寝ているしかなかった程です。
 大体進学組の仲間は何かしらの形でいじめにあっていたと思います。いじめられない仲間がいたとしたら、これは本当にまれな仲間でした。そこで、こういうひどいいじめから逃れる為に四、五人は進学をあきらめた仲間もいたわけです。しかし私たち進学組の仲間は、その可哀想な脱落組以外は何とか我慢し、度々ある恐ろしいいじめをかいくぐって進学を果たしたのでした。
 こんな時も自分は「負けるが勝ち」を心に思って頑張ったのです。そして高校に進学しました。高校に入って、夏になり浜へ遊びにいったら、何と中学時代のいじめ野郎にあってしまいまいた。自分はもういじめの過去を忘れ、中学の友達だと思い声をかけて近寄っていったら、そのいじめ野郎は何を勘違いをしたのか、吹っ飛んで逃げていってしまったのでした。彼は前に自分をいじめたので、その復讐にきたと思ったのだと思います。何と可哀想な野郎だと思いました。自分の顔をまともに見ることなく逃げた野郎のことで、いじめというものは、一人だけでは何にもできないんだなあとつくづく思いました。一人では何も出来ない野郎等より、いじめられてもいじめられても、最後まで頑張った私たちの仲間の方がよっぽど強いんだなぁと思った次第です。
 また、可哀想ないじめにあって進学をあきらめ脱落した友達は、四、五人はいたと思いますが、その一人に偶然にも出会った時のことです。その友人はつくづく自分にいったものです。「やはりいじめに対して自分等の様に我慢して、進学すれば良かったよ」とまじめ顔で、また泣き出しそうな顔して話をしていました。本当にその友人を可哀想に心から思ったのです。
 母のいったこと─「負けるが勝ち」のことは間違いなかったと心より思ったわけです。いじめられっ子よ、最後は必ず勝つのだと信じて頑張って下さい。

 最後に、もっと色々のいやな皆に公開したくないようないじめ等は、一杯ありました。いじめられた仲間はじっと我慢して、頑張って人生に出ていったのです。いじめられている仲間達頑張ろうぜ!

 今だから
 云えるものでも
 その時は
 いじめのすごさ
 身体で示す


負けるが勝ち その6 弟の死 (義兄の戦争体験から)

2015年09月03日 00時28分59秒 | その他
五 弟の死

 三月九日の晩の大空襲にやられて、焼け出されて、房州の父のふるさとに疎開して、ほっと安堵したのもつかの間、弟が、食べ物がなく栄養失調の様な病気にかかってしまいました。そんなものわかるわけがなかったので、皆、元気だとばっかり思っていました。なにも栄養をとっていないので栄養失調になっている弟が百日咳にかかり、咳をしたくても咳が出ず、のどの奥底から咳をする様子は本当に苦しい様子でした。
 今では少しくらい風邪を引いても色々栄養のある物を食べているから、そんなものみなふっとんでいってしまう位、強くなっています。しかし、その当時では、まともに百日咳にかかると、それに立ち向かう健康な身体がなかった為、弟は快復することなく、あわれにも死んでいったのです。その当時自分は小学校三年でしたが、弟のことなど考えずに、腹のへっている自分しか考えず、本当に弟に対して悪いことをしたなぁと後悔しています。本当にかんべんしてくれよな…。
 母のいいつけでどこへ行くにも、また遊びに行く時でも、必ず弟をおぶわされたものです。他の子供と遊ばない時はゆっくりと弟の面倒を見てこいといわれました。家を出る時はちゃんと母の命令通りおぶって弟と一緒に外へ出たのでした。そして自分等の遊ぶ仲間に出会うと、もう弟なんかそっちのけで、仲間がやっている野球に参加しようとして、その仲間達に自分も一緒に入れてくれと頼んだのでした。そしたら、「子供をおぶったまま野球がやれるのか」と言われたのでおぶっていた弟を下ろしてそこいら辺におき、何も解らない弟に「邪魔にならないようここでじっとしておれよ」ときつい態度で言うと、弟は必ずじっとおとなしくしていました。本当に今考えれば、これは自分が遊びたい一心で弟に言いつけていたことが、当時はわからなかった─悪かったなぁ…と思います。本当に後悔しています。
 この弟は、その半年後に亡くなったのですが、本人にとって近々死ぬということが解っていた様な動作をしていました。これは今だから言えることかもしれません。この弟は愛想が良く、誰にでも心良く笑顔を見せ、寄っていくのです。子供にしてはわりと頭が良く、将来良い男になるだろうと思われていた矢先、当時住んでいた前の子供(弟より二つ三つ上)が遊びに来ました。当時流行った百日咳にその子供はかかっていたのでコンコン咳きばかりして、弟のまわりをかけまわっていたのです。それを自分が弟にうつるといけないから、「あっちへ行け、馬鹿野郎」と言っても、あいその良い弟は自分の言っている言葉など、眼中になく、その咳き込んでいる子供と一緒にかけまわっていたのでした。その子供が帰り、その夕方から、弟の体が変調をきたしていったのです。今まであんな健康であった弟が、この夕方になり、咳が出て出てたまらないような状態になってしまったのでした。今思えば何にも栄養のある物を食っていない弟だから、すぐにうつってしまったのだと思います。その百日咳にかかっても、なおる気配もなく、だんだん悪い方へと進んでいったのでした。
 病院につれていっても何の施しようもなく、そして百日咳にきく薬などもなし、おなじ所へ、何回も何の注射か解らないけれど、うってくれましたが、何ら良くなりませんでした。とうとう栄養失調をともなう百日咳で、あわれにも一歳六ヶ月で死んでしまったのです。弟の死の最後は痰がのどにつまって、それをはき出す力もなく息絶えました。便がおしりから少し出てもいました。本当に切なかったと思います。
 その弟のこと思い出すたびに「だんごろむし」のことを思い出し、心の中でかんべんしてくれよなといつも思います。母の言いつけで弟をおぶって外に行った時のことです。仲間と一緒に遊ぶために、弟をおぶっていては邪魔になるので、そこいら辺に弟を置いて遊びに夢中になったのです。その時弟が泣くので弟のそばに行って、そこいら辺にいる「だんごろむし」をつかまえて、これで遊んでいろと言うと、その「だんごろむし」をうまそうに食べて、にっこりしたのです。自分は遊びにほうけていたのでした。その死んだ弟は自分と違って、頭が良く、あいそが良くて、両親など大いに将来を期待していたと思います。本当にかわいそうな弟だと思います。、ほんのちょっとの間であったけれど、一生分、家族皆にかわいがられたと思っています。

あの鉄が
のどをつまらせ
死に至り
食べ物のなき
時のあわれさ