伊丹万作が結核を養生するために、東京を引き払い、京都市上京区小山北大野町に転居したのが、昭和16年のはじめである。烏丸車庫から北大路を西にいったところで、京都時代に田村の自宅や、田村が学園をつくる構想をもつ紫野にも近接したところだった。とはいえ、その当時は二人の関係はなかった。
田村は、昭和16年1月から2月まで京都日出新聞に「忘れられた子等」「両刃斬撃」を書いていた。日出新聞記者の東辻からの誘いであり、小学校の国民学校への再編といった教育改革の渦のなかでのことだった。教育審議会への知的障害児教育の振興などの働きかけを行う活動もしていたこともうかがえる。なかなか進まぬ理解と施策にいらだちを持ちながら、実践をすすめるとともに、子どもの姿を発信していた。京都日の出新聞に掲載された「忘れられた子等」もふくめて、京都市教育部から『鋏は切れる』も発行された。こういった活動が、教育図書の田村敬男の目にとまって、『忘れられた子等』の出版につながることになる(この点は、『忘れられた子等』の映画化のところで書くことにしよう)。
伊丹は、昭和16年以降、「無法松の一生」を稲垣浩監督の下で作品化するものの、昭和17年「不借身命」、18年には「木綿太平記」のシナリオを書くも、情報局の反対で映画化は中止となることが続いた。昭和19年、伊丹は『手をつなぐ子等』へ着目し、脚色を行うが、その経緯と映画化への実現可能性をどのように考えたか、出版社の大雅堂、つまり田村敬男との関係をどうしたか。自然にかんがえれば、『手をつなぐ子等』の出版元との関係をつけるのであろうから、田村敬男ともなんらかの接点をもったであろう。田村敬男の大雅堂としても、映画化との関係で、その発行や再版をすすめていくことも考えるであろう。そう考えると、『手をつなぐ子等』が、いくども再版されていることも理解できる。戦中戦後初期の大雅堂版の『手をつなぐ子等』の発行は以下のようなものである。
大雅堂版の『手をつなぐ子等』については、初版(1944年1月)、第2版(1944年10月)、第3版(1945年8月)までが、戦中の時期に出されたものである。第4版以降が戦後の版である。第4版(1946年3月)、第5版(1948年2月)があり、第6版(1948年6月)と第7版(1949年3月)は、GHQの占領下においてCCD(民間検閲局)による検閲の中で収集され、メリーランド大学に所蔵されたものである。大雅堂版は、戦中から戦後にかけて、戦中は軍部や戦後直後は民間検閲局(CCD)などの検閲を経て発行されたものである。
田村と伊丹は、昭和19年からはじめは手紙のやりとりから始まり交流を強めていった。伊丹は44歳、田村は35歳、おおよそ10歳の年齢差があったが、伊丹も洋画の研究をし、挿絵家でも名をなしたし、映画や文筆など幅広く芸術全般に活動は渡る。田村も、独立美術の系譜を組む絵画を出品するなど、芸術全般を視野においていたので、相通じるものがあり、その交流は深まるべくして深まっていった。田村は、伊丹万作の追悼号の『映画芸術』(1947年1月号)に「パンの会、天ぷらの会」と題して、亡くなるまでの交流を書いている。
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伊丹さんとは拙著『手をつなぐ子等』の映画化からお近づきになった。はじめは手紙のやりとりであつたが、京都へ引き揚げられてからはお宅へも伺い、昭和十九年の十月十五日は御夫婦で私の学園へもきて頂いた。大胆に山盛りにしたさつま芋のふかしたのや、ゆで栗を懐かしそうにゆっくりと皮を剥きながら食べておられた姿が思い出される。帰られる時に枝つきの栗とざくろを差し上げたが、それは早速油絵に描かれた。次の機会に伺った時には、階下の座敷にかけられてあった。
「どうも、描いている中に、いがが開いてくるので弱りましたよ」
と云って伊丹さんは絵を見上げて微笑された。なるほど、どの栗もみんないがが開いてつややかな褐色の肌を見せていた。画●には「秋果饒舌云々」と書かれていた。
その後、大体一ヶ月に一度か二度くらいお伺いしていたが、大てい映画の話はそっちのけで文学、芸術、社会問題などいろんな方面の話が出た。わたしは伊丹さんと対していると、どうも学者か芸術家と話しているといった感じがして、教授の前に出た学生か師匠の前に出た弟子のようや気持ちで、伊丹さんの口からぽつりぽつりと出てくる珠玉のような言葉を一つ一つ大切に胸にしまいこんだ。大てい伊丹さんは臥たままで、目をつぶったり、眉を寄せたり口もとにかすかに笑いを浮かべたりして、喋るというより練り上げられた言葉を洩らすといった感じで話された。それは普通の雑話とか講演と較べると問題にならぬ程、言葉の数は少ないが、内容に到っては又問題にならぬ程豊かであった。伊丹さんの体を考えて私は惜しいけれどいつもなるべく早く切り上げて失礼するが、それでもお宅を出るときはきまって清められ豊にされた気持ちをしみじみと味わったものだ。
昭和二十年五月に「手をつなぐ子等」の映画制作の意図のコピイを送って貰ったが、その中に書かれていた精神薄弱児に対する考え方などそこいらの教育者や社会事業家に見せてやりたい程しっかりしたものであった。又同じくその中に書かれている「方言について」という小論文もがっちりした根底に立つ明確な考え方で、ある方面この専門家に見せたら「全くのこの通りだ」といって感心していた。
それからできあがった脚本も見せて貰ったが、その中に幾場面かが鉛筆でていねいに描かれてあった。私もこれには驚いた。
「脚本というものは大変ですね。いつもこんない画面まで描くのですか」
ときいてみた。
「いや、普通だとそんなことはしませんがね」
といって伊丹さんは例の笑うでなし笑わんでなしといったような淋しそうな顔を空の方へ向けられた。私は病気のために実際に監督の出来ない伊丹さんの自分の仕事への止むに止まれぬ良心的な労作だと感じた。
それから終戦になったが、終戦当日、私は偶然伊丹さんのお宅にいて、家族の方達と隣家のラジオに耳を傾けた。伊丹さんの家のラジオは故障で駄目だったからだ。皆が集まってまじまじとお互いの顔を眺め合ったあのときの気持ちは忘れられない。
終戦後、食糧事情はどんどん悪化した。私たちは栄養を撮らなければならない伊丹さんの体を考えてはらはらした。しかし自分たちとても同じようや境遇で何ともする事が出来ず。時たま畑で出来たものを持って行って上げる位が関の山であった。それでも伊丹さんは大変喜んで、奥さんが籠に盛って枕元へ持って行かれると、まるで土のにおいでも嗅ぎ出そうとする様に鼻を近づけられたりした。
二月二十四日に伺った時に、
「これからこの手紙をあなたのところへ出そうと思っていたところでした」
といって手紙を手渡された。それには伊丹さんの最近の作である詩が書かれていたが、その一節に
一椀のあたたかいミルクと
一片の真白いバタトースト
ああ、それを私は夢にまで見る
というのがあった。私は溜息をついた。私は急に何とかして伊丹さんに真白いバタトーストが食べさせたくなった。
伊丹さんのお宅を飛び出した私は、パン屋に知合いのある音楽家の田辺さんを報恩してその事を話した。田辺さんは早速パン屋へ私をつれて行ってくれた。しかし結果は駄目だった。真白いパンをつくるには一貫目二貫目のメリケン粉を持って行っても攪拌機にかからないので、せめて二俵位ないとやれないということであった。二俵のメリケン粉は私には何とも出来なかった。私はパン屋の●場でうなだれてしまった。
「真白やのうてもよかったら、今焼きたてのを差しあげますが、それでどうでっしゃろ。今日のそう悪いパンやおへん、これで白い方ですな。これを御病人にあげはってもええやないやろと思いますがな」
と主人が気毒になったとみえて慰め顔に云った。田辺さんも
「まあ、仕方がないな。それで辛抱しろよ」
というので、とうとう真白くはなかったが、焼き立てのパンを、風呂敷に一ぱい貰った。
その晩、又伊丹さんのお宅へ今度は田辺さんも一緒に舞い戻って、パンの会を開いた。
バタは伊丹さんが出し、紅茶は田辺さんが持参して、奥さんに焼いて貰って三人でぱくついた。
みルックは紅茶に変わりパンは少し黒かったが、それでも三人は楽しかった。
「どうも、田村さんにはうっかり冗談も云えない」
と云って伊丹さんは頭を掻かれた。
その時の話のついでに、私の学園の園歌を一つ作って頂きたい、それが出来たら作曲を田辺さんにお願いする積もりだと云ったら伊丹さんは非常に快く即座に引き受けて下さった。
三月四日に伊丹さんから分厚い手紙が届いた。開けて見ると「石山学園の歌」であった。四節からなって、各節に芭蕉の寸暇周到の句をいれてうたわれた浄らかな美しい詩であった。早速それを田辺さんのところへ送って作曲をして貰った。田辺さんも詩の美しさに感激して心をこめて作曲してくれた。学園では五月五日の「開墾祭」に子供たちはこの新しく出来た「石山学園の歌」を歌った。美しくやさしいメロディは子供たちの手によって開墾された畑の上を流れて裏の森にひびいて行った。
パンの会の時に下相談しておいた「てんぷらの会」を四月六日にやることになった。田辺さんと私とはそれぞれ材料を持って夕方から伊丹さんのお宅を伺った。
奥さんの手によって油が懐かしい音を立てて香ばしいかおりのてんぷらが次々と美しい食器にもられて出された。数々の魚や野菜の中で、奥さんが昨日わざわざ、鴨川で摘んでこられたなづなのてんぷらが格別軽くて風味があった。
次々と音楽や美術の話が賑やかに交わされ、温かい空気が部屋にたちこもった。床の間の壺にはなたねの鼻が黄色く咲いていた。
「正に一刻千金の春宵ですね」
と伊丹さんは楽しそうであった。私たちも本当に心の底からあたたかくみち足りた時間であった。
その後私も病気をやったり、次の著作にかかったり、新しい学園の設立に友人と奔走したりして、五月から八月へかけて心ならずも伊丹さんをおたずねする時がなかった。私たちはただ手紙で新緑の美しさを語ったり、俳句や短歌を書いて、送ったりし合った。その頃の伊丹さんの手紙の中に
「…私の臥ていて見る限りに於ても、まるでレモンイエローのおつゆをぶちまけたようです…」
と新緑の美しさが書かれていた。
九月になって伊丹さんの急に加わったようである。
九月六日にお伺いした時に私は余りにもひどく痩せられていられるのに驚いた。
「近頃、もう食欲がなくなりました」
と低い声でぼつぼつと云われた時は私は背筋が寒くなり、同時に「もう駄目かな」と思ったら残念で残念で頭のしんがかつと燃える様に熱くなった。
「田村さんにお話して置きたいことがあります」
と云って仰向いたままじっと目をとじられたので、私は何ということなしに●頭をそろえて畏まってしまった。
「苦しいから、ぼつぼつ、話します」
それから伊丹さんは「手をつなぐ子等」の映画化がやっと実現に向かったこと、それについて会社側の脚本変更案に対して今修正案を持ち出していること、それから伊丹さんの前著「静臥雑記」の後に続く「静臥後記」の出版が東京で駄目だったので、どこかで出版してくれないだろうかということ、それから、ある本の童話化をやりかけていたがこの調子では出来ないから出版会社の方へ断ろうと思うといことを話された。
それに対して私は、脚本変更に対する修正案は伊丹さんと全く同意見で同一歩調で進もうと云うこと。「静臥後記」の出版はもしよければ私が責任を持ってお引受けしようということ、それから童話は許されるなら私にやらせて頂きたいということを云った。
それを聞いて伊丹さんは
「それでもうすっかり安心しました」
といって淋しい微笑を口のあたりにうかべて心待ち曲った体を伸ばされた。私は暗い気持ちを抱いて辞去した。
それから私は猛烈な勢いで童話の原稿を書いた。大雅堂の飯田君に「静臥後記」の出版を頼んだ。飯田君は快く引き受けてくれた。私は出来るだけ早く印刷にかかってくれと頼んだ。何だかぐずぐずしていられない気持ちであった。
九月二十二日、昼前、私が畠で秋まきの菜の畝づくりをしていたら家内が電報を持って来た。伊丹さんの亡くなったしらせであった。
私は鍬におられたまま呆然として家内と顔を見合わせた。
お通夜にも、追悼法要にも出たが、まだ本当に伊丹さんが亡くなったようには覆えない気持ちである。
大雅堂の飯田君が
「せめて校正刷りでも見て頂きたいと思って随分せいたのですがねえ」
と残念そうに云うのを私は遠いところで云っているように聞いた。童話もあと五六十枚というところで手もつかずで放ってある。
いい人を失った淋しさが、深まっていく秋とともに、折りにふれてしみじみと味はれることであろう。
(二一・十一。三)