ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

池田太郎の回想(戦前における京都市特別児童教育研究会のこと)

2024年10月21日 15時35分08秒 | 田村一二

池田太郎の回想

「学習発表会のしおり」№4(近江学園 1965年12月5日)

「特別寄稿 舞台装置」

昭和のはじめ頃、ゲシュタルト心理学をとりあげていたわれわれの仲間は、このことを教室経営の問題でよく論じ合ったものだった。たまたま、「普通学級における精神薄弱児をいかにして生かすか」の京都市特別教育研究会の懸賞論文に、〇〇〇(?昭和7年8年から)5年間における教育実践をまとめたものを応募して当選したので、昭和10年の夏、「絵師の苦心」という国語の研究授業(5年男子50名余)を京都市特別教育研究会主催でさせられたことがある。確か、泉州堺に寄宿していた絵師が寺を去るにのぞんでお礼心から、ふすま絵を描いて去り、一か月〇かして再びその寺へきて、「箱根山中にさしかかったら丁度気にかかっていた杉のよい枝ぶりが一本見つかったので描きそえに帰って来た」というのである。ここの「絵師の苦心」としての頂点がしぼられ示されたものであった。云々


糸賀一雄生誕110年記念講演会:「光かがやく」共感の時代を!」

2024年10月16日 10時40分13秒 | 田村一二

社会福祉法人大木会の主催で、標記の講演会が開かれる(10月26日)。

行きたいのだが、残念ながら、校務がありいくことができない(泣)。

講師は、筑波大学名誉教授の津曲裕次氏、鼎談があり、登壇者は、津曲裕次・松矢勝宏・冨永健太郎の3氏

関東の方々が語られるのだなあと思うと情けないかな。滋賀・京都などの関西では「灯台もと暗し」なのか?-「はて?」


京都市における新教育の軌跡ー京都に眠る「児童本位」の教育の世界

2024年09月10日 14時00分04秒 | 田村一二

京都市学校歴史博物館で開催されている「京都市における新教育の軌跡ー京都に眠る「児童本位」の教育の世界」の展示に行ってきた。明治末から大正初期の、田中勝之丞、岩内誠一、田村作太郎など、白川学園の設置の時代からその初期の京都の教育会の重鎮について、解説や写真があった。滋野小学校の特別学級、斎藤千栄治校長と、田村が担任になる前の元山が紹介されていた新聞記事、滋野国民学校の時代の学校新聞に上原昭平校長のことば(上原は二代目の京都市特別児童研究会会長、田村の『忘れられた子等』に「跋」を書いている)。京都市教育会、京都府教育会の発効の雑誌があれば、もっと深められるのだろうが、これらの雑誌は欠落が多すぎて、以後も発見されないだろう。

新教育以後の昭和戦前期あるいは戦中の特別展を期待している!


滋野小学校の赴任の年(昭和8年)

2024年03月14日 17時05分41秒 | 田村一二

田村一二の滋野小学校への赴任の年、1933(昭和8)年4月である。滋野小に着任して「特別学級」を担当するが、昭和8年は不機嫌な毎日を送っていた。

同時期、京都帝国大学では滝川事件が起こる。1933年4月、内務省は瀧川の著書『刑法講義』『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として発売禁止処分を下した。翌5月には、齋藤内閣の鳩山一郎文相が小西重直京大総長に瀧川の罷免を要求。京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶したが、同月25日に文官高等分限委員会に休職に付する件を諮問し、その決定に基づいて翌26日、文部省は文官分限令により瀧川の休職処分を強行。小西重直は、京都帝国大学文学部哲学科で教育学教授法の教授。1933年3月22日に京都帝国大学の総長に就任したところで、この滝川事件に直面することとなる。

田村は、不機嫌な毎日を過ごしながら、滝川事件などをどうみていたのだろうか?


田村美枝子さんの敗戦の回想

2023年03月13日 16時03分23秒 | 田村一二

田村美枝子(語り)『みちの花 共に歩んだ茗荷村への道』大萩茗荷村、2003年

p.51-52

敗戦と伊丹万作さん

あれは昭和19(1944)年かそんなもんやったと思います。そのことの主人は開墾やらしていたのでいい体格でしたが、甲種合格になったのはびっくりしましたね。結局赤紙は来なかったんですが、県から「いつでも出征できるように、後任の人を探しとけ」って言われていたらしいんです。

〝その日〟は、石山小学校の運動場へ集まれってことやったんです。石山学園から主学校まではかなりの距離があるんです。そうですねぇ、歩いて30分くらいはかかったと思います。それでおジィちゃんが行くっていってくれました。そやけど帰ってこられて、

「気をつけ言われてみんな頭を垂れて聴かしてもろうたけど、なんやガーガー、ガーガーいうだけで、石山小学校のラジオはちょっとアカンで」とかなんかそんな言い方をされていましたね。だからそのときは日本が戦争が負けたことがわからなかったんです。

 その日の主人は伊丹万作さんのお見舞いに京都へ出ていたんです。お宅は紫野あたりでした。伊丹万作さんは、主人の本(『手をつなぐ子等』1944)を読んで「映画化したい」と向こうから言われてきてからのおつき合いなんです。それで時々主人に話を聞きたいと言われていたんです。石山学園の園歌も作ってもらいました。だけどもちょうどご自分がその映画の監督をしようと思っておられるときに病気をされたんです。

「京都では野菜やそんなもんで不自由をしてはるやろうから」言うて、石山学園で出来た野菜を持ってお見舞いにうかがったりしていたんです。

それで主人は植物園のあたりでその玉音放送を聞いたらしいんです。主人が夕方に帰ってきて、私らは日本の敗戦をはじめて知ったんです。

「父ちゃん、もう今夜から電灯は暗くせんでもええんですね」というのがいちばんはじめに思ったことでしたね。子どもたちは何がどうなんや見当もつかんかったですが、寝ると時間になっても主人が、

「もう空襲はないのやから…」

と言って各部屋の灯火管制の布をはずしてまわったら、みんなが、

「うわぁ、明るいなぁ」

と喜んだことでした。

伊丹万作さんが亡くなられたのは敗戦直後の昭和21(1946)年でした。自分はこういう具合にしたいと言うことは、「ここはこーして、あーして」という本当に細かい指示を全部書いておられて、「もう映画ができ上がったのもおなじや」と、あとで映画化された監督の稲垣浩さんが言われたんです。


1945年8月15日石山学園日誌

2023年02月26日 17時32分15秒 | 田村一二

石山学園日誌 1945年8月15日

「伊丹氏訪問/途中、上総町にてラジオ重大発表ありと云ふ…遂に無条件降伏/涙流れ、歩く能わず、原野に座し/しばし、俛首(ふしゅ)…原子爆弾の威力、日本の屈服を早めたり/科学の負けなり、教育の負けなり、政治の負けなり/負けるべくして負く/思ひ上がりたる神がかりの思想…」


敗戦前後の田村一二の回想

2023年02月05日 18時56分20秒 | 田村一二

田村一二の敗戦前後の回想 田村一二『ちえおくれと歩く男』柏樹社、1984年10月 pp.75-76

ソ連が参戦してからは情勢が変わって、それまでは「余人をもってかえ難し」とかいうことで、連隊区司令部に召集を免除してもらっていたのが、もういかん、いつ応召してもよいように準備をしておけ、石山学園の方も後任を探しておけという県からの通達が来たときは弱りました。

(散髪、爪切りをし、「遺髪」「遺爪」「遺言」など)全部揃えて奉公袋におさめるまで何の感動も感慨もなく、全く機械的、事務的にやりました。

もう気持ちが一種の戦争心理というようなものになっとったんとちがいますかな。

 

分会で、あと一週間ぐらいやろうといわれたある日、ちょっとした野菜を持って、伊丹万作さんを見舞いに行きました。万作さんは京都市の自宅で静養していました。

烏丸車庫の前のラジオ屋の店頭にたかっているいるたくさんの人と一しょに、天皇陛下の放送を聞きました。

あたりを見回しましたが、誰も泣いている人はいませんでしたなあ。みんなぽかんとした顔で…。僕もそんな顔やったやろと思います」。内心は正直いうて、ほんまに、ほっとしました。これから先どうなるかはわからんけど、やれやれと思いました。

万作さんが臥たまま、

「アメリカが勝ちましたな、しかし、これから、アメリカは苦労しますなあ」

と言ったのが、はっきり耳に残っています。


伊丹万作から託されたもの(「静臥後記」)

2023年02月04日 21時35分49秒 | 田村一二

田村が伊丹を見舞った、昭和21年9月6日、託されたものの一つが、『静臥後記』の出版である。大雅堂の飯田さんに早速手はずしていたが、その2週間後、9月21日午後6時30分、伊丹は息をひきとった。その『静臥後記』が出版されたのが、昭和21年12月25日であった。あとがきを田村はかいている。

あとがき

 

伊丹さんがお亡くなる二週間前、病床に見舞った時、「静臥後記」出版の話が出た。他にもっと適当な人もあったであろうが、その時の何か差し迫った空気に圧されて、つい出版のお世話を引き受けてしまった。幸い大雅堂が快諾して親身に世話をしてくれたことは有難かった。

ところが、はからずも遺言として、故人を偲ぶよすがとなってしまったことは返す返すも残念で堪らない。

立派な内容に比して貧しい想定で恥ずかしいが、せめても伊丹さんを慕う私たちの心からの祈念として、この本を謹んで霊前に捧げたい。

(二十一、十一、十)

伊丹万作『静臥後記』大雅堂、1946年12月25日

 

このあとがきをかいた、5日後には近江学園の開園式(1946年11月15日)である。石山学園の子どもたちをつれて、南郷での生活がはじまっていく。


「手をつなぐ子等」の映画化3 伊丹万作との交流

2023年02月04日 21時32分38秒 | 田村一二

鉛筆でかく映画

田村一二 伊丹万全集月報2 1951年3月

終戦の前の年だったと思う。その頃私は一週間か十日に一回くらいの割で京都の伊丹さんの家へ見舞いに行っていた。

石山寺の南の丘の上で、石山学園という小さな施設で十五名の男の精薄児と一しょに暮らしていた私は、毎日のようにB29が編隊ウオンウオンと唸りながら、上空をとんでいくのを見上げながら、横穴式防空壕を掘ったり、野菜をつんだり、藪を開墾したり、芋をつううったり、それで足りずに京都へ托鉢に出かけたり、夜は末つ子をせえなかにくりくくりつけt、園児くくりつけて、園児に学科を教えたり、在郷軍人の早期訓練に出たり、夜中に起きて園児たちのねごとをきき、屁のにおいをかぎながら原稿を書いたり、異赤ら考えるとようおあれだけ動いたと思うほどの忙しさの中から、なんとかやりくりして伊丹さんを見舞いにいったわけである。

わずかの野菜(そのことは貴重であった)を下げて木炭バスにのって、この野菜をみたら伊丹さんが喜ぶぞと、あのひげがニコッと動く顔をみるのが楽しみであった。

伊丹さんは大抵病床に仰臥したまま、私は枕元に座って話し合う小田が、その頃の伊丹さんの感じは映画人というよりも学者のようであった。それも恐ろしく趣味の広い学者である、話題は多岐にわたったが、映画、文学は勿論、洋画、俳句についても造詣が深く、硯についてもくわしかったのに驚いたことを覚えている。

その伊丹さんがある時いった。

「田村さん、あなたはいつも私の枕元のすぐそばに坐りますね、そして平気で茶をのみますね。しかし、そんな人はめつたにありませんよ、たいてい三尺以内にははいつて来ませんな、正確に」そういついて伊丹さんはわらつた。「お茶なんかまず手はつけませんね」そしてしばらく黙つてからいつた。「人間の幸福は何んといついても健康です、これは絶対です」

長い闘病生活から来た伊丹さんの深い淋しさがまつこうから吹きつけて来たようで私はしばらく顔があげられなかつた。

「手をつなぐ子等」の脚本を書いていた頃、あの中に出てくる氷すべり、草ぞり、土中に埋めこまれる場面などのことをよくきかれた。あれはみな私の子どもの頃の経験なのでくわしく話をすると伊丹さんは肯きながら、メモをとったり略図を書いたりしていた。

それから何日かたって見舞いにいった時、脚本を見せられておどろいた。ある場面場面が精密な鉛筆画になっていた。ちょうどフィルムの一コマ一コマを見る感じであった。こおまま放っておいたら伊丹さんは鉛筆で映画をかいてしまうっではないかと思ったほどである。

「ほんとうはこの映画は自分で監督したいんですが、この体ではとてもだめですから、せめて、まあ、こんなことでえもして慰めているんですな」

といって伊丹さんはあのひげをちょっとあげて自虐的にわらったが、それは単なる慰みごととは受け取れなかった。誰が監督をするにしても、自分のイメージをこわされたくない、こういう映画を作ってほしいという願い、その願いを通すために、文だけでなく絵にもかいておいて、のっぴきならぬものを監督につきつけようという、いわば映画に対する恐ろしいまでの執念が、病床でやせほそった手に鉛筆を握らせたのではないかと私はみている。

石山学園歌については、伊丹さんはひじょうに気持ちよくすらすらとできたといっていた。例の伊丹さんの便せんにきれいな字で書かれた歌が送られてきた時は思わず私はみとれてしまった。作曲が田辺一郎先生の手でできた時、われわれは伊丹さんの家でささやかな完成祝いをやった。

田辺さんは当時貴重なる配給の酒を持参し、伊丹さんの奥さんは加茂川の土手でつんで来た「なずな」をてんぷらにし、私はかつて伊丹さんが白いパンがいっぺん食べてみたいといっていたことを思い出して、小麦粉をもって京都の町の中のパン屋数軒をかけまわり、いありかえる主人を拝み倒してやっと手に入れた白いパンを持っていった。

伊丹さんも珍しく起きて、羽織をひっかけて長火鉢の前に坐り、何かと嘱託のせわなどを楽しげにしていた。

パンとなずなのてんぷらと配給の酒とではじまった宴のなかば、田辺さんが園歌を低い声でうたいはじめた。伊丹さんはじっと目をつぶっていたが、うたが終わると、

「いい曲ですね、ほんとうにいい曲だ、音域が広くないので子どもたちにはうたいやすいでしょうね」

といった。

この歌は石山学園解消と同時に近江学園の園歌となって、今日なお精薄児たちによって、朝夕したしまれ歌われているのである。


『手をつなぐ子等』の映画化 伊丹万作との出会い

2023年02月04日 16時45分03秒 | 田村一二

伊丹万作が結核を養生するために、東京を引き払い、京都市上京区小山北大野町に転居したのが、昭和16年のはじめである。烏丸車庫から北大路を西にいったところで、京都時代に田村の自宅や、田村が学園をつくる構想をもつ紫野にも近接したところだった。とはいえ、その当時は二人の関係はなかった。

田村は、昭和16年1月から2月まで京都日出新聞に「忘れられた子等」「両刃斬撃」を書いていた。日出新聞記者の東辻からの誘いであり、小学校の国民学校への再編といった教育改革の渦のなかでのことだった。教育審議会への知的障害児教育の振興などの働きかけを行う活動もしていたこともうかがえる。なかなか進まぬ理解と施策にいらだちを持ちながら、実践をすすめるとともに、子どもの姿を発信していた。京都日の出新聞に掲載された「忘れられた子等」もふくめて、京都市教育部から『鋏は切れる』も発行された。こういった活動が、教育図書の田村敬男の目にとまって、『忘れられた子等』の出版につながることになる(この点は、『忘れられた子等』の映画化のところで書くことにしよう)。

伊丹は、昭和16年以降、「無法松の一生」を稲垣浩監督の下で作品化するものの、昭和17年「不借身命」、18年には「木綿太平記」のシナリオを書くも、情報局の反対で映画化は中止となることが続いた。昭和19年、伊丹は『手をつなぐ子等』へ着目し、脚色を行うが、その経緯と映画化への実現可能性をどのように考えたか、出版社の大雅堂、つまり田村敬男との関係をどうしたか。自然にかんがえれば、『手をつなぐ子等』の出版元との関係をつけるのであろうから、田村敬男ともなんらかの接点をもったであろう。田村敬男の大雅堂としても、映画化との関係で、その発行や再版をすすめていくことも考えるであろう。そう考えると、『手をつなぐ子等』が、いくども再版されていることも理解できる。戦中戦後初期の大雅堂版の『手をつなぐ子等』の発行は以下のようなものである。

大雅堂版の『手をつなぐ子等』については、初版(1944年1月)、第2版(1944年10月)、第3版(1945年8月)までが、戦中の時期に出されたものである。第4版以降が戦後の版である。第4版(1946年3月)、第5版(1948年2月)があり、第6版(1948年6月)と第7版(1949年3月)は、GHQの占領下においてCCD(民間検閲局)による検閲の中で収集され、メリーランド大学に所蔵されたものである。大雅堂版は、戦中から戦後にかけて、戦中は軍部や戦後直後は民間検閲局(CCD)などの検閲を経て発行されたものである。

田村と伊丹は、昭和19年からはじめは手紙のやりとりから始まり交流を強めていった。伊丹は44歳、田村は35歳、おおよそ10歳の年齢差があったが、伊丹も洋画の研究をし、挿絵家でも名をなしたし、映画や文筆など幅広く芸術全般に活動は渡る。田村も、独立美術の系譜を組む絵画を出品するなど、芸術全般を視野においていたので、相通じるものがあり、その交流は深まるべくして深まっていった。田村は、伊丹万作の追悼号の『映画芸術』(1947年1月号)に「パンの会、天ぷらの会」と題して、亡くなるまでの交流を書いている。

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伊丹さんとは拙著『手をつなぐ子等』の映画化からお近づきになった。はじめは手紙のやりとりであつたが、京都へ引き揚げられてからはお宅へも伺い、昭和十九年の十月十五日は御夫婦で私の学園へもきて頂いた。大胆に山盛りにしたさつま芋のふかしたのや、ゆで栗を懐かしそうにゆっくりと皮を剥きながら食べておられた姿が思い出される。帰られる時に枝つきの栗とざくろを差し上げたが、それは早速油絵に描かれた。次の機会に伺った時には、階下の座敷にかけられてあった。

「どうも、描いている中に、いがが開いてくるので弱りましたよ」

と云って伊丹さんは絵を見上げて微笑された。なるほど、どの栗もみんないがが開いてつややかな褐色の肌を見せていた。画●には「秋果饒舌云々」と書かれていた。

その後、大体一ヶ月に一度か二度くらいお伺いしていたが、大てい映画の話はそっちのけで文学、芸術、社会問題などいろんな方面の話が出た。わたしは伊丹さんと対していると、どうも学者か芸術家と話しているといった感じがして、教授の前に出た学生か師匠の前に出た弟子のようや気持ちで、伊丹さんの口からぽつりぽつりと出てくる珠玉のような言葉を一つ一つ大切に胸にしまいこんだ。大てい伊丹さんは臥たままで、目をつぶったり、眉を寄せたり口もとにかすかに笑いを浮かべたりして、喋るというより練り上げられた言葉を洩らすといった感じで話された。それは普通の雑話とか講演と較べると問題にならぬ程、言葉の数は少ないが、内容に到っては又問題にならぬ程豊かであった。伊丹さんの体を考えて私は惜しいけれどいつもなるべく早く切り上げて失礼するが、それでもお宅を出るときはきまって清められ豊にされた気持ちをしみじみと味わったものだ。

昭和二十年五月に「手をつなぐ子等」の映画制作の意図のコピイを送って貰ったが、その中に書かれていた精神薄弱児に対する考え方などそこいらの教育者や社会事業家に見せてやりたい程しっかりしたものであった。又同じくその中に書かれている「方言について」という小論文もがっちりした根底に立つ明確な考え方で、ある方面この専門家に見せたら「全くのこの通りだ」といって感心していた。

それからできあがった脚本も見せて貰ったが、その中に幾場面かが鉛筆でていねいに描かれてあった。私もこれには驚いた。

「脚本というものは大変ですね。いつもこんない画面まで描くのですか」

ときいてみた。

「いや、普通だとそんなことはしませんがね」

といって伊丹さんは例の笑うでなし笑わんでなしといったような淋しそうな顔を空の方へ向けられた。私は病気のために実際に監督の出来ない伊丹さんの自分の仕事への止むに止まれぬ良心的な労作だと感じた。

それから終戦になったが、終戦当日、私は偶然伊丹さんのお宅にいて、家族の方達と隣家のラジオに耳を傾けた。伊丹さんの家のラジオは故障で駄目だったからだ。皆が集まってまじまじとお互いの顔を眺め合ったあのときの気持ちは忘れられない。

 終戦後、食糧事情はどんどん悪化した。私たちは栄養を撮らなければならない伊丹さんの体を考えてはらはらした。しかし自分たちとても同じようや境遇で何ともする事が出来ず。時たま畑で出来たものを持って行って上げる位が関の山であった。それでも伊丹さんは大変喜んで、奥さんが籠に盛って枕元へ持って行かれると、まるで土のにおいでも嗅ぎ出そうとする様に鼻を近づけられたりした。

二月二十四日に伺った時に、

「これからこの手紙をあなたのところへ出そうと思っていたところでした」

といって手紙を手渡された。それには伊丹さんの最近の作である詩が書かれていたが、その一節に

 一椀のあたたかいミルクと

 一片の真白いバタトースト

 ああ、それを私は夢にまで見る

というのがあった。私は溜息をついた。私は急に何とかして伊丹さんに真白いバタトーストが食べさせたくなった。

伊丹さんのお宅を飛び出した私は、パン屋に知合いのある音楽家の田辺さんを報恩してその事を話した。田辺さんは早速パン屋へ私をつれて行ってくれた。しかし結果は駄目だった。真白いパンをつくるには一貫目二貫目のメリケン粉を持って行っても攪拌機にかからないので、せめて二俵位ないとやれないということであった。二俵のメリケン粉は私には何とも出来なかった。私はパン屋の●場でうなだれてしまった。

「真白やのうてもよかったら、今焼きたてのを差しあげますが、それでどうでっしゃろ。今日のそう悪いパンやおへん、これで白い方ですな。これを御病人にあげはってもええやないやろと思いますがな」

と主人が気毒になったとみえて慰め顔に云った。田辺さんも

「まあ、仕方がないな。それで辛抱しろよ」

というので、とうとう真白くはなかったが、焼き立てのパンを、風呂敷に一ぱい貰った。

その晩、又伊丹さんのお宅へ今度は田辺さんも一緒に舞い戻って、パンの会を開いた。

バタは伊丹さんが出し、紅茶は田辺さんが持参して、奥さんに焼いて貰って三人でぱくついた。

みルックは紅茶に変わりパンは少し黒かったが、それでも三人は楽しかった。

「どうも、田村さんにはうっかり冗談も云えない」

と云って伊丹さんは頭を掻かれた。

その時の話のついでに、私の学園の園歌を一つ作って頂きたい、それが出来たら作曲を田辺さんにお願いする積もりだと云ったら伊丹さんは非常に快く即座に引き受けて下さった。

三月四日に伊丹さんから分厚い手紙が届いた。開けて見ると「石山学園の歌」であった。四節からなって、各節に芭蕉の寸暇周到の句をいれてうたわれた浄らかな美しい詩であった。早速それを田辺さんのところへ送って作曲をして貰った。田辺さんも詩の美しさに感激して心をこめて作曲してくれた。学園では五月五日の「開墾祭」に子供たちはこの新しく出来た「石山学園の歌」を歌った。美しくやさしいメロディは子供たちの手によって開墾された畑の上を流れて裏の森にひびいて行った。

パンの会の時に下相談しておいた「てんぷらの会」を四月六日にやることになった。田辺さんと私とはそれぞれ材料を持って夕方から伊丹さんのお宅を伺った。

奥さんの手によって油が懐かしい音を立てて香ばしいかおりのてんぷらが次々と美しい食器にもられて出された。数々の魚や野菜の中で、奥さんが昨日わざわざ、鴨川で摘んでこられたなづなのてんぷらが格別軽くて風味があった。

次々と音楽や美術の話が賑やかに交わされ、温かい空気が部屋にたちこもった。床の間の壺にはなたねの鼻が黄色く咲いていた。

「正に一刻千金の春宵ですね」

と伊丹さんは楽しそうであった。私たちも本当に心の底からあたたかくみち足りた時間であった。

その後私も病気をやったり、次の著作にかかったり、新しい学園の設立に友人と奔走したりして、五月から八月へかけて心ならずも伊丹さんをおたずねする時がなかった。私たちはただ手紙で新緑の美しさを語ったり、俳句や短歌を書いて、送ったりし合った。その頃の伊丹さんの手紙の中に

「…私の臥ていて見る限りに於ても、まるでレモンイエローのおつゆをぶちまけたようです…」

と新緑の美しさが書かれていた。

九月になって伊丹さんの急に加わったようである。

九月六日にお伺いした時に私は余りにもひどく痩せられていられるのに驚いた。

「近頃、もう食欲がなくなりました」

と低い声でぼつぼつと云われた時は私は背筋が寒くなり、同時に「もう駄目かな」と思ったら残念で残念で頭のしんがかつと燃える様に熱くなった。

「田村さんにお話して置きたいことがあります」

と云って仰向いたままじっと目をとじられたので、私は何ということなしに●頭をそろえて畏まってしまった。

「苦しいから、ぼつぼつ、話します」

それから伊丹さんは「手をつなぐ子等」の映画化がやっと実現に向かったこと、それについて会社側の脚本変更案に対して今修正案を持ち出していること、それから伊丹さんの前著「静臥雑記」の後に続く「静臥後記」の出版が東京で駄目だったので、どこかで出版してくれないだろうかということ、それから、ある本の童話化をやりかけていたがこの調子では出来ないから出版会社の方へ断ろうと思うといことを話された。

それに対して私は、脚本変更に対する修正案は伊丹さんと全く同意見で同一歩調で進もうと云うこと。「静臥後記」の出版はもしよければ私が責任を持ってお引受けしようということ、それから童話は許されるなら私にやらせて頂きたいということを云った。

それを聞いて伊丹さんは

「それでもうすっかり安心しました」

といって淋しい微笑を口のあたりにうかべて心待ち曲った体を伸ばされた。私は暗い気持ちを抱いて辞去した。

それから私は猛烈な勢いで童話の原稿を書いた。大雅堂の飯田君に「静臥後記」の出版を頼んだ。飯田君は快く引き受けてくれた。私は出来るだけ早く印刷にかかってくれと頼んだ。何だかぐずぐずしていられない気持ちであった。

九月二十二日、昼前、私が畠で秋まきの菜の畝づくりをしていたら家内が電報を持って来た。伊丹さんの亡くなったしらせであった。

私は鍬におられたまま呆然として家内と顔を見合わせた。

お通夜にも、追悼法要にも出たが、まだ本当に伊丹さんが亡くなったようには覆えない気持ちである。

大雅堂の飯田君が

「せめて校正刷りでも見て頂きたいと思って随分せいたのですがねえ」

と残念そうに云うのを私は遠いところで云っているように聞いた。童話もあと五六十枚というところで手もつかずで放ってある。

いい人を失った淋しさが、深まっていく秋とともに、折りにふれてしみじみと味はれることであろう。

(二一・十一。三)

 

 

 


『手をつなぐ子等』の映画化(その1):『手をつなぐ子等』の書誌的検討から

2023年02月04日 16時05分05秒 | 田村一二

「田村一二の『手をつなぐ子等』の書誌的検討ー戦中および戦後占領下における出版事情と検閲・修正」(『人間発達研究所紀要』第33号、2022年12月、pp.41-52)を書いた。『手をつなぐ子等』の戦中出版の事情や再版のどうこう、そして戦後の占領下での検閲・修正などを確認し、『手をつなぐ子等』と戦中戦後の社会の変化と同時にその文化的な価値を確認しようとしたものだった。いくつかのことがらについて、明確に出来たと思う。第一に、田村の戦中の作品(『忘れられた子等』昭和17年2月、『石に咲く花』昭和17年3月、『手をつなぐ子等』昭和19年1月)は、田村敬男という出版人の着目と存在に支えられていたこと、第二に、その中でも『手をつなぐ子等』の出版と再版はいくたびかにわたっており、戦中、そして戦後初期もふくめて広く普及されたことが注目されること、第三に、内容上の検閲の痕跡があるものの、しかし、親からの手紙の部分での復活などもあったこと。また、田村の作品は、基本的にはフィクションというより、特別学級などでの自らの経験が基礎となって作品化されており、修正の復活部分も事実に基づいたものであろうと思われた。

「書誌的検討」のおわりにかえて、映画『手をつなぐ子等』との関係について次のように言及した。

田村一二の『手をつなぐ子等』について書誌的な検討を行ってきた。その中で、田村一二の実践を評価し、それを戦中そして敗戦という歴史が急展開する過程において『手をつなぐ子等』をはじめとした田村一二の実践の重要性を、出版を通して支え続けてきた田村敬男という存在が浮かび上がってきた。田村一二と田村敬男の『手をつなぐ子等』は、すでに戦中、伊丹万作とのつながりを経て、稲垣浩監督の『手をつなぐ子等』(1948年3月公開)にもなる。第二次修正の出征した父親の手紙の部分の復活は、この映画の制作のプロセスでなされたものであるが、その手紙自体を復活させることへの田村自身の体験と思いがあると思われる(注1)。

伊丹万作は、1944年、田村一二と親交を深め、聞き取りを行って『手をつなぐ子等』のシナリオを執筆していた。伊丹は、田村の石山学園に思いをはせ「石山学園の歌」(後の近江学園の園歌となる)をつくってもいる。伊丹と共同で映画をつくってきた稲垣浩は、「万作」という文章の中で、それまでの映画の製作について述べた後、『手をつなぐ子等』の制作について次のように述べている(注2)。

「(前略)私は田村一二氏の『忘れられた子等』を書いて、是非やりたいと会社に申し出たところ、同じ著者の『手をつなぐ子等』を万さんが再起作品として計画していると聞いて、断念することとなつた。ところがやはり病状が悪く、これも私が代行することとなった。私はそれより先に、万さんを監督として私が助監督をつとめようと申し出た。しかし、その心使いは無用だと彼は断つた。/この作品は占領下に作ることとなつたが、進駐軍C・I・Eから戦後の話に書き改めなければ検閲を通せないと言ってきた。万さんはそれを聞いて怒り、それなら絶対にこのシナリオを使つてくれるなと言つた。私も彼の意を解し、米軍検閲官と二時間にわたりディスカッションして、原形のままで押し通した。しかし万さんは終にこの作品の出来上がりを見ずに世を去つたのである。」

伊丹万作のこの脚本への思いは強しである。なぜ、時代設定を「昭和12年」とし、それを妥協せずに貫いたのか。そして、稲垣浩は、検閲官とどのようなディスカッションをしたのか。伊丹と稲垣のそれまでの映画づくりと映画批評などの背景にある思想、戦争についての彼等の態度も含めた検討は、いまひとまわり大きく広がる『手をつなぐ子等』の世界を示唆している。他日を期したい。

注1、田村一二は、ある特別学級の担任からの聞いた話として、特別学級の担任へ戦地の父親から長い手紙がきたことを記している(田村一二「覚書帳より」『勿忘草』1943年9月、pp.38-39)

注2、稲垣浩「万作」『伊丹万作全集月報3』筑摩書房、1961年、pp.1-2


知的障害のある子どもの発達の発見と映像の戦後史

2023年02月04日 10時03分44秒 | 田村一二

近江学園やびわこ学園を土台において、知的障害のある子どもたちの発達の発見と教育実践の戦後史を記録しておく作業をしておかないと、その記憶は歴史に定位されずに、なかったものとされてしまう。その危機感がある。単なる思い出でということではなく、そこで生きた子どもたちと大人の生活と発達の記録として受け継いでもらいたい。しかし、それを描くだけの力量があるかどうかは疑問である。多くフィルムには、なにが映っているのかから聞き取りなどをしていかないと分からないし、施設史なども掘り起こしておかないと映像の位置づけもできない。しかも、当時の事情を知るものはすでに鬼籍にはいている。

読み解いていかないといけないものは、1,「夜明け前の子どもたち」(1968年)とその未使用フィルム、2,「「光の中に子供たちがいる」三部作と未使用フィルム、3,「あざみ寮・もみじ寮 今日も元気です」と未使用フィルムである。しかし、それらの、前後に、近江学園の前史となる田村一二の著作と映画、近江学園関係のフィルムや音声、京都の養護学校づくりの広報映画、与謝の海養護学校へとつながっていくものなどなど、どのように全体を構成していくか悩んでいる。書けるかどうかわからないが、一応、次のようなプロットを考えている。

第一部 戦前戦中から戦後への転換と近江学園の創設-田村一二の『忘れられた子等』『手をつなぐ子等』とその映画化

第二部 映像記録の試みとその発達的集約ー近江学園の記録

第三部 重い障害のある子どもたち発達の発見と実践的療育記録ーびわこ学園と『夜明け前の子どもたち』

第四部 就学前への発展と成人施設への発展ー大津の障害児保育と成人期の発達←ここは、『光の中に子供たちがいる』と『あざみ寮・もみじ寮 今日も元気です』とべつにするか。また、その後のびわこ学園の状況(NHK)をいれるか。

補論:生涯にわたる教育の実現と教育運動ー京都府における養護学校づくり運動ー1968年5月3日公開の『人』と1971年『障害児の砦』、いくつかの映像(NHK)、養護学校義務制予告政令をめぐって このときにフィルムも

それとは別に、公表された映画や編集されたものを中心として「フィルムで読み解く戦後障害児教育」をこれまで、いろんな方に書いて頂いたものを中心にまとめたい。

 


『ちえおくれと歩く男』再読

2021年01月05日 18時00分41秒 | 田村一二

田村一二『ちえおくれと歩く男』柏樹社、一九七四年)を再読することとなった。というのは、その本が見当たらずにいたので、また、古本を買って、年末にそれが届いたからだ。再度みてみると、近江学園の初期の頃のエピソードとして「ガンジー自叙伝」についてのの田村の経験が回想されているではないか。

というわけで、昨年、書いたものの修正を新年そうそうすることになった。おおあわてである!

あたらめて読んでみるといくつ発見があったし、触発されて考えることもあった。しかし、それまた、いまはもう忘れている。そんなことだから、目次だけでも書いておこう。

序章 いのちを見つめて

ゴリラの眼/母なるもの/ちえおくれの子どもたち

Ⅰ章 鳴かされた艸虫(くさむし)

「オイ、タム」/赤面恐怖症-五は五なりの人生/アダ名作り-代用教員/絵の勉強

Ⅱ章 福祉の目ざめ

約束の二年間/掃除結婚/香山和尚/両刃漸撃-忘れられた子ら

Ⅲ章 本格的な取り組み

京都から滋賀へ/共に生きる-石山学園/二本立-近江学園Ⅰ/ガンジー自叙伝-近江学園Ⅱ

Ⅳ章 何のためでもない-この子らの教育

社会が施設へ復帰する/待つことの意義/教育と過程

Ⅴ章 人間愛について

福祉ということ/ふれあい/本音/神の恩寵

Ⅵ章 運命と生きがい

母と子の間/何故こういう子どもを授かったか/おばあちゃん/遺伝的記憶

Ⅶ章 福祉の時代をつくる

つながりということ/しあわせな家庭/日本列島の悲願

あとがき