ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

「おまけ」の漢字で、びっくり!

2024年12月03日 23時23分23秒 | 

お菓子について、この頃考えている!

味がわからなくなったので、一時、食べ物の番組をみるのも嫌になっていた。もう2年もすると、開き直ってきた。それで、お菓子や料理の味はわからないが、それを別の味わい方をしはじめた。お菓子、特に和菓子の由来などを発見して、おもしろく話をするということ。だいたい、奈良にいたときには、饅頭の神様をまつった、近鉄奈良駅近くの「漢國神社」の宮司さんのところに伺って話をきいたこともあった(この方、奈良学芸大学の時代の附属小学校か中学校の国語の先生だった)。身近に「饅頭」のおいしい話が落ちていたことを思い起こしていた。

辻ミチ子『京の和菓子』(中公新書)を読んでいたら、「おまけ」に「お負け」に漢字が充てられていた。調べてみたら次のようなことが書いてあった。

おまけは漢字にすると「御負け」です。由来はこの漢字の文字通り、商人が客との駆け引きに負けて値を下げる行為を指す言葉でした。しかし、のちに商品以外の物品を追加する行為なども言うようにななりました。おまけの言葉がが全国的に使用される様になった時期は明確には分かっていないですが、 大正時代に大阪で上方の商人が宣伝文句に「もうひとつおまけ、トコトンアメ」という言葉が使用されていました。1922年(大正11年)のグリコキャラメル発売のころに絵カードを入れ、それをヒントに1927年(昭2年)の発売のものから紙メンコ、指輪など市販の豆玩具が「おまけ」としてグリコのキャラメルに付いてくるようになりました。こうして上方の商人で使われていた言葉が、グリコのキャラメルの知名度とともに、全国に広がったと言われてもいます。

ううんと、うなった次第!

 


母ちゃん★センセ、笑ってなんぼー発達障害のある子どもと創る希望ある生活

2024年09月10日 14時47分24秒 | 

ステキなカバーで、帯も「カラフル、パワフル、ストレスフル」と韻を踏んでいてなかなかいい。この本は、奈良教育大学にいた最後の15年間くらいのことを書いている。いろいろあったけど、奈良教育大学はとても僕にとってはいい大学だった。そこをはなれて、5年がたとうとしているけど、その現実はどんどん大学が息苦しくなっている。兵庫県の知事が「おれは知事だ!」と叫んでいると報道されているが、張子の虎のようなそんな「長」なんかなんぼのもんじゃい! いばりくさるリーダーなんかいらん。大学でも、以前には校長、学長には学識や見識というものがあった。

この本にこめたものの一つをプロローグのなかにいれた!

「子どもと向き合って、その願いに応える学校をつくっていきたいと実践してきた教師達の笑顔が、文部科学省や管理職から、重箱の底をつつくように学習指導要領の文言に忠実でないと非難され、いろいろ理屈をつけられて出向させられてしまう。そんな理不尽な教育現場では、無理矢理「笑顔」がつくらされている現実が有り、強制されるような「笑顔」の奥には押し殺された感情があるのではないでしょうか。子どもたちにそんな「笑顔」で向き合えないでしょう。教育は希望をともに語ることなのだから、教育の本質に立ち戻って、センセたちの創造性が生きる学校づくりで子どもたちが本当の笑顔になってほしい。母ちゃん・父ちゃん、そしてセンセたちが笑顔を取り戻し、笑いあって、で・あい(出会い)のある世界を創っていくエネルギーを蓄える糧となることを心より願っています」

「理不尽な処遇」にたいして、異議を唱えなければ、学校はもっともっと魅力を喪失していくだろう。教員を養成する大学も学問や科学の面白さ、人間の面白さを探究していくものでなければ、つまらんものになってしまうだろう。上ばっかりみて、忖度したり、饒舌になったりしている姿は見苦しい。筋道が通ったやりたいことができる大学に是非とも再生してほしい。理不尽な処遇を受けた人たちの異議申し立ての勇気をたたえたい。9月10日が笑顔を取り戻すスタートになることを願っている。

 


纐纈厚『戦争と弾圧 3.15事件と特高課長纐纈弥三の軌跡』(新日本出版社、2020年)

2021年02月24日 12時46分39秒 | 

纐纈厚『戦争と弾圧 3.15事件と特高課長纐纈弥三の軌跡』を読んだ。

京大から、内務省へ。特高課長として、三・一五、四.一六を指揮した人。その後、戦時下文部官僚となった。公職追放の後、政界に進出。「建国記念の日」の制定をすすめた。纐纈弥三の戦前と戦後は連続のもの、このような内務官僚が戦後の政治史上には沢山いた。

ひとつだけ、文部省の普通学務局長として、聾唖教育福祉協会が主催する大会での挨拶。p.209 著者は、視覚障害者や聴覚障害者も戦争に動員される史実が存在することを指摘している。

 


小沼通二編『湯川秀樹日記1945 京都で記した戦中戦後』(京都新聞出版センター、2020年9月)

2021年01月25日 16時13分35秒 | 

小沼通二編『湯川秀樹日記1945 京都で記した戦中戦後』は興味深かった。

湯川秀樹の戦中の京都での記録である。京都を中心とした障害児教育史をたどっているが、戦中戦後の京都のあり様を全般として知りたいと思っていた。田村一二関係では、「新型爆弾」という表現ではなく「原子爆弾」という表現がいつくらいから一般化されたのか、大雅堂という出版社の戦中戦後の動向やGHQの出版言論統制のことが気になっていた。解説で「占領軍の言論統制」について詳細に検閲・削除の方法が示されている(p.216-)。湯川の出版物も修正があったこと、敗戦後1年での心境の変化ともども変化を対照していた。京都大学での終戦終結直後の書類焼却についての記録と解明も重要だと思う。

また、京都の馬町空襲のことや京都帝国大学でのF研究(これは、2020年8月15日に放送されたNHK特集ドラマ「太陽の子」のモチーフとなっもの、その一か月ほど前に自死した三浦春馬も出演していた)、そして広島原爆投下後の調査、京都学派と呼ばれた哲学者との交流などについても記述があることでも、貴重なものだと思った。

小沼通二の「解説」がおもしろい。ほかの記録などと対照させて「湯川秀樹日記」に記述された事実を読み解き、その背景を説明して見せている。日記は事実を記述しているが、湯川の心情は和歌になっている。それが解説の終盤におかれている。

末弟の戦死の方をきく:「弟はすでにこの世になき人とふたとせをへて今きかんとは」など8首 P.247

原子雲:「天地のわかれし時になりしとふ原子ふたたび砕けちる今」など3首

核兵器禁止条約が発効したことは先に書いたが、湯川の「今よりは世界一つにとことはに平和を守るほかに道なし」という和歌をそえ、小沼が最後に記した、「個人・家庭・社会・国家・世界系列の中から国家だけを取り出して、これに唯一絶対の権威を認めたこと」が誤りだったとして、国家の絶対性と決別したのだった(p.249)とのことばを結びとしておく。

本に付箋を付けたが、この本は図書館から借りたもの。

小沼の解説は以下の内容

1.はじめに 湯川のあゆみ/日記

2.当時の情勢 広がる世界大戦/枢軸国の敗色/幸福の選択肢がない全滅と自決/日本空襲 被災者の戦後 飢餓/京都の馬町空襲/広島・長崎の報道/戦争終結直後の書類焼却/占領軍の言論統制

3.湯川の行動と思索 京都大学と東京大学で/旅行/原子爆弾開発を目指した海軍のF研究への参加/熱戦吸着爆弾開発と湯川の視察/占領軍の軍事研究調査/吉井勇との交友/哲学者たちとの交流/湯川の思索/ヒューマニスト湯川の形成

京都新聞での報道について、記者の峰政博が経緯を書いている。

 

 


核兵器禁止条約の発効と湯川秀樹日記

2021年01月22日 23時30分42秒 | 

今日、2021年1月22日は、核兵器の開発や保有、使用などを全面的に禁止する核兵器禁止条約が、批准した50カ国・地域で発効した日となった。

『湯川秀樹日記1945』の解説を興味深く読んでいる。広島の原爆が、当時どのように報道されたかを新聞から拾っている。湯川が読んでいたのが朝日新聞で、1945年8月11日、「帝国、米に厳重抗議 原子爆弾は毒ガス以上の残虐」との見出しがあり、それ以後、朝日新聞は「新型爆弾」「新爆弾」「原子爆弾」の表現が混在するという。毎日新聞は、「原子爆弾」の表現は敗戦までは使わず。

興味深いのは京都新聞。1945年8月9日、「原子爆弾 的米英必死で研究」と記事があり、8月13日にも「原子爆弾 既に独ソ戦で応用」との記事ありで、「原子爆弾」の内容と表現があることである。

日本政府と軍部は「原子爆弾」の表現は敗戦まで使わず。だが、8月10日、広島での「陸海軍合同特殊爆弾研究会」にて「原子爆弾たりと認む」と10日中に、大本営に発送されているとのこと。この会議には、広島の調査をおこなった仁科・川勝らの物理学者が参加した。


竹中均『自閉症の時代』講談社現代新書、2020年5月(承前)

2021年01月16日 22時55分50秒 | 

竹中均『自閉症の時代』(講談社現代新書)。この新書は面白かった。イギリスのところ、スウィフトやニュートンなど、アメリのところなども。

とはいえ、学べたのは、第9章のPrimaryとPrimitiveのところ。フロイトの精神分析を論じて、PrimaryとPrimitiveを同一視すべきでないことを説く。Primaryは第一義は「最も重要な」といういいであり、一次的(一次過程)をいい、secondaryが二次的ということである。Primitiveは原始的・原初的なということであり意味は異なるという。その意味からすれば、初等教育はprimaryで最も重要な教育ということになる。これは、自然科学教育を説いた科学者ハックスレイの言にもある。初等教育を甘く見てはならないのだ。ちょっと、教育に脱線したが、このことだけは記しておきたい。

プロローグの「野生児」の「自閉症児」説はもともと「冷蔵庫マザー」の言説を強化した情緒説のブルーノ・ベッテルハイムがいっていたことだと記憶しているが・・・。いま、日本のアニメ界でも、「もののけ姫」から「おおかみこどもの雨と雪」、今年は「ポケットモンスターココ」もまた「ザルード」に育てられた「ココ」は狼に育てられた子どものアナロジーのようだ。いま「野生」が復活しているのも、このプライマリへの回帰ということかもしれない。

構成は次の通り。

プロローグ

第一章 自閉文化とは何か

伊藤若冲の反復/自閉文化という視点/空間と時間/反復/高精細/物との関係/ゲームとパラドクス

第二章 空間

ヘッドフォンと被影響性/キャロルとホームズ/ルドルフ二世の部屋/涼宮ハルヒの部屋/新海誠のセカイ/『コンビニ人間』の同居/時間の空間化

第三章 反復

常同行動/完璧な反復とデジタル/ウォーホルの缶詰/繰り返すサティの音楽/同じものを食べる/職人とリナックス

第四章 機械

機械と「弱い求心性統合」/機械とモノトラック/チューリングと機械/『コンビニ人間』と「世界の部品」 第五章 高精細・パラドクス・ゲーム 高精細/パラドクス/ゲームとパズル

第六章 奇人たちの英国

スウィフトの国々/キャベンディッシュの実験室/ニュートンの争い/W・B・イェイツと妖精/ラスヌジャンと証明/ウィトゲンシュタインの「奇抜な設定」/ヒュームの懐疑/大西洋を越えて

第七章 自閉症のアメリカ

ジェファーソンの二面性/メルビィルと表面/エジソンの失敗/ミニマルミュージックの静寂/ファンタジーとテクノロジーの出会い/村上春樹のゲームと「マシーン」/GAFAの実験

第八章 自閉症と近代

ルーティンと近代/言わんとバーとルビー/受動性と職人/物から人へ/建築と物語

第九章 PrimaryとPrimitive

PrimaryとPrimitiveのあいだ/「直接体験の原則」を生きる人々/一次性としての縄文/暴力性はどこで生じるか/二つの「モード」

エピローグ

「野生児」の野生/「おおかみこども」の二つの道

あとがき


宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』新潮新書、2019年

2021年01月12日 13時30分52秒 | 

一昨年話題になったのが本書、宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』である。いまの3回生の人達が、2回生の終わりに読みたいと言っていたので買っていた。宮口さんには、以前の大学でコグトレの研修でお世話になったことがある。精神科医の中には文学畑の人が多いと思っていたが、このひとは違う。もともと、工学部出身で、その後、医学部にいって、精神科医となった。公立の精神病院から医療少年院の医官へ、それから大学に移ったということだった。もともとの出自が工学部ということもあるのか、わかりやすい文章を書く人だ、ねじれがない。精神科の医者のなかには、おもいっきり文学的な人もおったりするので、そのような人たちとは対照的だ。

要するに、軽度知的障害の逸脱行動、非行・犯罪を中心にその矯正プログラムから出発して、逸脱行動にいたる前に、コグニション(認知の前提)のところから訓練するという提案である。曰く

認知行動療法は「認知機能という能力に問題がないこと」を前提に考えられた手法です。認知機能に問題がある場合、効果ははっきりとは証明されていないのです。では認知機能に問題があるというのはどんな子どもたちか。それが発達障害や知的障害を持った子供たちなのです。つまり発達障害や知的障害を持った子どもたちには、認知行動療法がベースとなったプログラムは効果が期待できない可能性があるのです。でも実際に現場で困っているのは、そういった子どもたちなのです。(p.6)

要するに、軽度知的障害と境界知能の人達に焦点をあてて、教科学習とは異なった別の学習・訓練法の開発こそが課題なのである。端的に、いまの世の中は、IQ100ないと生活していくうえで困難が付きまとうとはっきり言ったりもする。また、「ほめる」ことが強調されていることに対してもはっきりと批判もしている。わかりやすいですね。1年間で、23刷となったのは、カズレーザー絶賛したこともあるかもしれないが、さらりとした語り口、でも問題をはっきりいうことでの読みやすさもあろう。深みや癖のようなものはないけど、学生さんや現場の先生にはちょうどいいかもしれない。

はじめに/第一章 「反省以前」の子どもたち/第二章 「僕はやさしい人間です」と答える殺人少年/第三章 非行少年に共通する特徴/第四章 気づかれない子どもたち/第五章 忘れられた人々/第六章 褒める教育だけでは問題は解決しない/第七章 ではどうすれば? 1日5分で日本を変える/おわりに

なお、宮口のきょうだいは、OTらしく、その教材は多く出されている。公文のプリントによく似ているかもしれないが、その使用の方法は、公文が勝手に一人でやっていくのに対して、人との関係を重視したプログラムになっている点が大きく違っているようだ。これらのプログラムと教材の研究をしてみないといけないが・・・、学生さんだれかやってみないか。ぼくらに商売は、このようなプログラムに付き合うこともその一つなのだが、もうそんな力は残っていない。

 

 


竹中均『「自閉症」の時代』講談社現代新書、2020年5月

2021年01月06日 17時29分42秒 | 

竹中均『「自閉症」の時代』を読んでいる。自閉症の歴史社会学のような感じで、読み物。この本については、読み終わってから、紹介することとして、その中に出てくるアメリカの小説家メルビルの話、その『捕鯨』について記しておきたい。

というのは、以前書いた、首藤瓜於のわけのわからない小説『大幽霊烏賊 名探偵面鏡真澄』の中にでてくるのも、捕鯨の話であり、その生き残りの語りであった。この首藤の小説の基礎をなしているのがメルビル『捕鯨』ではないか。とすると、その不思議な世界は、「自閉」文化の一種なのかもしれない。


首藤瓜於『大幽霊烏賊 名探偵面鏡真澄』講談社、2012年

2021年01月03日 10時55分41秒 | 

昨年読んだ『脳男Ⅱ』は、結局、自宅にあったので、二度読んだということになる。続けて図書館でかりたのが首藤瓜於『大幽霊烏賊 名探偵面鏡真澄』である。図書館でちょっと読みをすると、呉秀三らしき人が、年老いて病院の院長をやっている精神科病院の昔の話。妄想が広がり、そして、何が何だかわからない状況が続いていく。捕鯨の話が長く続いて、「大幽霊烏賊」の妄想が延々と続いたり、最後には、急速に話が展開して、とんでもない結末にいたる。

この小説、出てくる人の名前が読めない。呉秀三らしき人、精神病院がでてくるし、そして、どうもこの作者が「自閉症」やら精神疾患についてテーマとして小説を書いているということだけで、読まされている。だいぶ時間がかかった。全574頁。

字面をおっているだけ・・・。これからの読書はそんなことなんやろなとおもう新年。


加藤典洋『オレの東大物語 1966-1972』集英社、2020年9月

2020年12月31日 22時23分53秒 | 

戦後史を検討する作業をしはじめている。戦後政治史とともに思想史分野では、高等教育や青年、いわゆる若者の戦後史を捉えようとするなかで、書評でであった本、ちょうど、東大ついての本が2冊ほど紹介されていたものの中の1つ。加藤典洋についてはよく知らないが、奈良女子大学の小路田泰直が編者になって、議論した本があったことを思いだして、買ってみた。

加藤が病朱で書き、亡くなって後に出版された本である。いわゆる青春時代の回想もの。1948年生まれ、戦後ベビーブーム世代で、ちょうど1968年の前後に大学にいて、大学闘争・全共闘の世代、中途半端な位置にいたことを思いつつ、引っかかったものをかかえて、戦後の政治や文化に対して批判的視座をもってきた。その原点となるのが「東大はクソだ!」という感覚をえたときのことを書いているもの。

東大闘争の記録や回想は当事者の手によって様々まとめられているかと思う。1968年前後の時代をどう捉えるのかは、『夜明け前の子どもたち』などのドキュメンタリー映画の背景となっている。

共感するところは、中途半端にしていることの価値というか、割り切れないものを抱き続けることが原動力に成ると言うことかもしれないと思った。

解説で、瀬尾育生が、加藤の「ビオス(生活)」と「ゾーエー(生存)」について書いていることに触れて、いくつかを指摘している。「生存」と「生活」、「ただ生きている(剥き出しの生)」と「言葉(意味を)を生きる」というふたつの生、古代ギリシャでは分離されて概念化されていたのが、いつのまにか「生(ライフ)」という一つの言葉となったこと、その歴史を思想として提起していったのが、加藤だと言うことになる。この問題には、いつも悩まされるのだ。

2020年も終わろうとしているのだが、「ただ読んでいる」のと「意味を読み取っている」ということの違いということについても、気づかされた。『オレの東大物語』はだだ読んでいた・・・ただ読んでいるものは多いが、今日、今年図書館で借りて読んで、このブログでも紹介した『脳男Ⅱ』を自宅で発見して、「もう読んでいた」のだなと思って、ただ読んでいたことを思い知らされた。「ただ生きている」とはいえ、そのことの重大性を再度思ってみるが、強がり、へりくつだという自分がいる。

 


逢坂剛『鏡影劇場』新潮社、2020年9月

2020年12月30日 11時41分31秒 | 

新聞の書評かなにかでみて、図書館で予約したら届いたので、読んでみた。

古文書の解読作業と同時に、現代の人間模様が鏡影像のように進展する。それが、入れ子状になっていて、並行していくが、それもまた、作者の包み紙に入れられているという手の込んだ、ビブリオもの。ドイツ浪漫派のホフマン(知らんけど、判事で音楽家で小説家)の身上報告書を素材に、その解説があり、その翻訳と解説をする人とそれを読む人たちの物語。

フィヒテのドイツ国民につぐ、ゲーテ・・・・カスパル・ハウザーの話も出てきた(これはどうでもいいことだけど・・)

フォイエルバッハというドイツの法学者がカスパー・ハウザーのことを書いたようだ。「カスパル・ハウザーはホフマンの死後数年たって、どこからどもなくニュルンベルクに現れた、謎の若者だ。」/ほとんど話せず、出自もはっきりしないため、いかさま師なのか沙詐欺師なのか、それとも精神疾患の患者なのかと、議論が沸騰した。/あるいは、どこか高貴の家に生まれながら、事情があって捨てられた子供ではないか、などとさまざまな説が飛び交った。/その時間に関わったのが、確かフォイエルバッハだった、と記憶する。(p.493)

新潮社のHPでは次のような・・・。図書館から受け取った時には、結末袋綴じは開かれていて、ちょっと舌打ちしてしまった。

マドリードの古本屋で手に入れた古楽譜の裏には、十九世紀の文豪ホフマンの行動が事細かに綴られていた。筆者不明の報告書の解読を進めるうちに、現代の日本にまで繋がる奇妙な因縁が浮かび上がる。二重三重の仕掛けが読者を迷宮に誘う、これは逢坂版『薔薇の名前』か? 渾身の大作一五〇〇枚、結末部分は袋綴じ仕様!


岡田尊司『自閉症スペクトラム症』幻冬舎文庫、2020年

2020年12月03日 22時52分39秒 | 

岡田尊司『自閉症スペクトラム症』をよんだ。

おもしろかったのは、「自閉症の歴史」(pp.33-37)

ASDの診断概念の原型はオーストリアのウィーンでのこと。医師ゲオルク・フランクルと心理学者のアンニ・ヴァイスが検討していったのがこの原型。1938年、ナチスのオーストリア侵攻による政権掌握により、この治療教育診療所が変質。フランクルとヴァイスの二人はユダヤ人であったため、アメリカに逃れる。彼らを支援したのが、オーストリア出身で先にアメリカに渡ったレオ・カナー、その研究が小児自閉症論文として、1943年に発表されたのだった。フランクルとヴァイスがウィーンを去った後、その診療所で頭角を現したのが、ハンス・アスペルガーで、1938年の講演で「自閉的精神病質」の概念を提唱。フランクとヴァイスが心理社会的要因を強調したのに対して、何地本で心理社会的要因に蓋をして遺伝的要因を強調したのがアスペルガーということになる。

もう一点、治療に関しての岡田の見解。主体性を重視するもの(第8章 回復例が教えてくれるもの)。これは、カウフマン夫妻の子どもへの取り組み(ちょっと?もあるけど)。


首藤瓜於『指し手の顔 脳男Ⅱ』(上下)講談社、2007年

2020年11月20日 22時38分13秒 | 

図書館から借りていた首藤瓜於『指し手の顔 脳男Ⅱ』(上下)を読み終えた。これは、江戸川乱歩賞を取った『脳男』の次作目ということだろう。この本読んだことがあったかもしれないと思ったり、いいやブレインバレイとごっちゃになっているのかもと思ったりしながら、読み終わったのだった。精神科医が登場するし、頭が賢くしかも動きがはやい、しかし、感情がないような・・・そんな人たちが出てくる。

「典型的な自閉症だった。その年齢になるまで施設で育ったらしいのだが、そこでは心理学的な治療ばかりで薬物を使った治療はいっさい行われなかったらしい。云々」といった会話がでてくるので、やはり商売柄読まなくてはいけない。しかし、このような描き方でいいのかどうかは、議論が分かれるところだろう。