ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

作業所研修

2011年01月31日 19時01分38秒 | 生活教育
午前中、事務で予算の件で協議。その後、企画や総括などについて、話をする。
11時40分に解放。
卒業生と食事を取りながら、ケアホームの話を聞く。
「やるぞ!」とのりきみが取れることが大事とのこと。生活の流れなのだから…。
そうやな…とおもう。生活なのだから…。

大学から宇治東福祉会の職員研修にいく。場所と時間に悩む。
黄檗の駅の手前を山にあがると、事業所が…。昔の宇治作業所と比べると格段の違い。
障害者権利条約の話を3時から5時までする。

宇治東福祉会ではいろいろな事業をやっているという。児童ディもやっているし、ショートステイなどもやっている。すこしみせてもらった。
昔の知り合いもいっているとのこと…。

黄檗ホームという、市営住宅の中に設けられたケアホームにもいかせていただいた。
そこで、「てっちゃん糞戦記」の主人公T君がいて(と思って)、びっくり。ビデオのリモコンなどを沢山操作して、楽しんでいた。もしかして、「向日が丘のY先生知っている」ときくと、足をピットあげて、「はい」という。昨日、寄宿舎のプロジェクトでY先生にはお世話になったところ。奇遇やなぁ…と思う。「うんこがでにくいんやな」というと、また、足をピットあげて反応。メールして元気にしてるよといっとくよというと、喜んでいた。
そのほか、向日が丘の卒業生で、地域生活を切り開いたという人の部屋にもいった。

こういった、ホームやレスパイトも意外とと小回りがきいていいのかもと思ったりしました。地域生活の内容をもう少し、障害のある人の生活を豊かにしていく方向でいろいろ考えてみたい。

家に帰って、さっそくY先生にメールを書いた。返事が来た。「そのてっちゃんとはちがいます」とのこと…。はやとちりやな…。

そのほか、かぜがはやっている。すこし寒気がしているのも気にかかる。明日は「人間ドッグ」…。

生活教育メモ

2011年01月30日 22時42分56秒 | 生活教育
 寄宿舎教育研究会のプロジェクト会議(11時半からであるが、おくれて参集、4時頃まで)。この中で、京都教育センター編『風雨強けれど光り輝く-検証!京都の民主教育1978-2010』(つむぎ出版、2010年)が紹介された。第7章が障害児教育となっていて、桃山養護学校まで寄宿舎のある学校となっているなど、ご都合主義の記述があって、それだけでもこの本の価値が落ちてしまうと感じる。そうならないようにしたい。
 その後、Oさんとの待ち合わせが6時半だったので、5時頃まで皆さんにお付き合い願う。
 Oさんとあって、うえだくん・べっきくんの場合の未編集版をわたされる。2月、しばらく、あざみ・もみじ寮へいくとのこと。音声から声、そして言葉へという発達と直立二足歩行の発達連関をどう捉えるかなど、いろいろ考える。

※プロジェクトでの寄宿舎教育入門の構想を持ち寄り検討-「生活教育として捉える意味」の章のためのメモ。この中の教育学の部分は書くことはないだろう。
もういちど、「障害児の生活教育」にもどって、このことばを確かめないといけない。

生活教育をめぐって(メモ)
Ⅰ.「生活教育」の諸相
 1.生活と教育-ペスタロッチ・デューイから
 2.戦前における「生活教育論争-生活綴り方と生産教育(留岡清男)
 3.戦後における「生活教育」の展開の相克
  ・戦後民主教育の試みの中で
   社会科、綴り方、生活指導などなど
  ・カリキュラム論としての発展(日本生活教育連盟)
  ・生活指導と教科指導の2領域論
   →生活指導論として理論化(集団づくり、自治と自立)
  ・文部行政における「生活指導」の否定と能力主義的教育の徹底
   -管理主義的生徒指導論やカウンセリング(非行対策、不登校対策などなど)
   -「生活科」
   -「生きる力」
 4.障害児教育における「生活教育」
  ・施設教育の中での生活即教育の思想(糸賀一雄など)
  ・適応主義的教育論の中で
   →「生活単元学習」「作業学習」から「生活中心教育」へ(小出進など)
  ・権利の総合保障の一環として「障害・発達・生活実態を考慮して…」
   →「発達保障」論-田中昌人の発達論と「生活の教育的組織化」
  ・「生活の質」(QOL)

Ⅱ.子ども・生活・学校
 結局この問題の複雑さは…
 1.生活
 ・「生活」をどうつかむか?「生活」というだけで茫漠としてしまうこと、「生活」の急激な変容、「生活科学」の未成熟-社会科学の問題
 ・「家庭」「家族」、生命の再生産の場としての「地域」の衰退-岡田知弘「地域づくりの経済学入門」(おもしろくないが…)
 2.生活と学習、生活と労働
 ・教育学における「生活と教育の結合」論
 ・子ども論-子どもをどう捉え、そしてどう受けとめ、支えていくのか、そして生活 主体者として力をつけていくか
 ・学校教育という文脈で言うと「教授学校」か「生活学校」かという学校論の構築に関わる問題
 ・教育における今日的な生活の問題-貧困の問題など(あらためて「生活と教育の結合」の提起を

 3.障害のある子どもの生活の質-障害のある子ども達の「あたりまえの生活」を支える
 ・「あたりまえの生活」
 ・障害児教育の中での固有の課題(障害、生きづらさなどなど)
 ・障害児学校論の貧困

Ⅲ.寄宿舎としてこの問題をどのように引き取るか
 1.歴史的な展開
 2.寄宿舎教育における「生活教育」「生活実践」
  ・寄宿舎教育
  ・生活指導
  ・生活教育-子ども達の生活史と生活の質と価値を問う立場(か?)
 3.生活実践と生活教育-実践の展開とその価値
  研究の方法論:
   ケース研究/エピソードを大切にすること/質的研究としての実践研究
 4.実践の内への深まりと外への展開-実践論の構築を→現状分析と運動論へとつなぐ

Ⅳ.現状分析と政策-障害児の未来をひらく運動論

感じることと、考えること…

2011年01月29日 21時13分04秒 | その他
 12時から、京都教育大学へ
 京都教育大学の附属特別支援教育臨床研究センターのシンポジューム「特別支援教育と教科教育の融合」での、国語教育の授業づくりの場合のシンポに指定討論者として参加。
何を喋ったらよいのか、その場で判断しないといけないので疲れ果てる。
4時まで。うまく喋れなかったので、後悔…。

 6時過ぎから、テレビで、盲ろう二重障害の人たちのことが取り上げられていた。指文字で、コミュニケーションをする先天性の盲ろうの青年の大学進学試験へのチャレンジも取り上げられていた。
 このような聴覚・視覚の感覚の障害のある場合、接触などによって、周囲の状況を伝えていく必要があるが、その場合の言葉というのはどう構築されるのだろうか。しかし、いったん、概念が形成された場合、それを駆使していけるように、それに刺激をあたえていくような外部からのインプットの支援の内容は、本質的な事柄や援助される人の概念が発展していけるような内容を示していかないといけない。それには、支援者の言葉の力がとてももとめられる。すべてを言葉で表せるような力が。
 昨日まで、大野さんの世界を音で表す試みを考えていたので、言葉ではない音の感覚の広がりで、世界を感じることを考えていた…と言うより、感じていたのだから、全くその逆ということになる。今日の「国語教育」のことも含めて、どう考えて良いのか、音、音声言語、視覚言語、話し言葉と書き言葉、日本語・国語…。そして、わたしたちのコミュニケーション、表現と人格ということ…。

 1週間の疲れも重なって、感じることにも、考えることにも本当に疲れた。休みたい。

授業の破綻…

2011年01月28日 21時40分02秒 | その他
避難訓練での対応に悩む…。

10時半から、知的障害教育方法論の講義。「アトムの足音が聞こえる」を見せる。知的障害との関係では、無理矢理、あざみ・もみじ寮の取り組みということになるが、それよりも、音の世界で表現するものについて興味深い。

大野松雄さんのこれまでと現在-音響による表現から知的障害・発達の世界に

ぼくの頭はぐるぐる回るのだが-学生さんには無関係なのかもしれない…、その意味では大学の講義としていいのかとの問いもある(学生さんからは「ノープラン」との評価もあり)。

1時から、HPの件で、相談。情報館に行って、いすに座るとイスがこわれてショック。「だいじょうぶですか?イス」といわれて、またショック。

2時30分から3回生のゼミ。今日の講義の意図を話すが…。学生さんに「疲れた顔」とのこと。
4時半から実践センター長との相談。
5時から、今度4回生になる人たちとの卒論の相談。テーマはまだ決まっていないが、いろいろ試行錯誤をしてほしい。絵本、ナラティブアプローチ、聴覚障害などなどが課題や方法となるようだが…。いろいろ話をする。7時まで。
7時から研究室に帰ると、事業所へはいった卒業生が…。

たんなるいい人

2011年01月27日 23時33分31秒 | その他
11時にようやく帰ってきた。
朝、幼稚園の子どもの所にいく。だいぶ間合いをとって、子どものまねをしてみる。そうすると、ちょっとだけみて、視線をさけるけれど、足をあげてみると、その子も足をすこしだけあげる。そのうち、エビぞりのようなこともやっている。みていてくれるんやなと思ったり…。「ここにいるよ」とメッセージを受けとめてくれているかなぁ。

1時過ぎに、事業所のなかまが来て、ブタのあみものをくれる。それと引き替えなのか、チョコレートをいっぱい注文させられた。
1時半から、奈良市の会議。5時まで。
5時に、印刷物があがってくるので、受け取る。
教室会議。運営委員会。

その後、夜間の大学院の授業。
「アトムの足音が聞こえる」をみて、すこし解説。
田中先生といっしょにしごとをした人の人生が描かれている。この人も「突き抜けている人」
「研究者は突き抜けた人」という評価基準があるので、自分はなんといわれても「研究者ではない」という。「たんなるいい人」として開き直りたい。

意外と単純なことが

2011年01月26日 22時29分25秒 | その他
午前中、教職大学院の講義
ヴィゴツキーの「危機的年齢」をどうとらえるか?「希望の14歳」という言葉を思い起こしながら…。
午後から、附属小学校の公開授業にいく。授業検討会にはでられず、会議に、でたりはいったり。7時すぎにようやくおわる。4つの別々の会議や仕事。さすがにつかれるが、宿題もある。

授業を見ながら、子どものおもいがひろえているかどうか、子どもがかわいいと思えるかどうか…。
子どものことが好きになれないと言っていた卒業生のことが思い浮かぶ。

忙しい一日を振り返って、いがいと単純なことが、心のささえになるのかもしれないとおもう。


「不立文字」

2011年01月24日 21時31分50秒 | その他
 朝、昨日つくった子ども用シートをもって出た(はず)。幼稚園に行ってみると、それがない。年中さんの所に行き、それから年長さんの所に行ったが、年長さんはお兄さんらしくなってきた。年中さんもなれてきた…。
 4時半から、3回生のゼミをする。一人で喋ってしまう。3回生と来年度の日程を検討すると、忙しいことを改めて再確認した。絵本の整理などをしようということに…。
 ちょっとぼやき…「『教えてくえださい』といわないでほしい」-そのまえにすることがあるだろう。「やりたいことをやりたい」
 10時から、プロフェッショナルで院内学級のことが放映されるのでビデオにとる。

松本宏「権利と差別について-京都府作成映画「人」の合評会を契機として(1968年5月)」『不立文字』(私家版所収)をPDFでアップする。

柴田昭二・山田温子・豊嶋咲子『子どものすがたとねがいをみんなで-排除しない学校づくり』(湯浅恭正・越野和之・大阪教育文化センター編、クリエイツかもがわ、2011年、全150頁)をよむ。山田さんと豊嶋さんは、新採の教師であり、心の揺れがすなおにかかれていて、とてもよかった。「排除しない」という副題はとってつけたような気がする。あきら君-そういう子どもと出会ったことも…。6年間の成長がわかるが、その一方、それまでのあきら君はどんな育ちや様子だったのかが気になる。

第1章 「困った子」ではなく、「困っている子」として受けとめる(障害児学級担任)
第2章 子どもの居場所9-保健室から見えたこと(養護教諭)
第3章 「先生、ボクの思いを受けとめて-一人の児童を通して見えてきた全体の輪」(学級担任)
第4章 「子ども理解」の多数派をめざして(特別支援教育コーディネーター)
第5章 排除しない学校と共同の輪(実践を読み解く)

どこからどこまでが仕事というのだろうか?

2011年01月22日 22時59分50秒 | その他
朝、集中講義の先生と挨拶。プロジェクターなどの準備。大阪教育大学のT先生を紹介してから、別の用事。12時半に終わり、その後、食事を取って、近鉄奈良駅へ。車は、奈良女子大学にいてみた。南門の所に、附属小学校跡が示されていた。
奈良駅で、卒業生とあう。20年前に卒業した、台湾からの留学。大阪に来ていて、少しあって話をする。兄さんが、視覚障害があり、台湾の盲学校を卒業後、大阪府立盲学校に進学、1984年の頃である。寄宿舎に入りながら、日本語の習得も課題となり、ライトハウスにもお世話になったようだ。兄が日本に来たことによって、妹の彼女も高等教育への道が開ける(彼女の両親は「女は大学に行かなくても…」という考え方の持ち主だったとのこと)。彼女も、兄のそばにいながら日本語学校に行き、大学に進学することになったのである。その後、兄さんは、筑波大学の附属に入学したかったがかなわず、その後、いろいろあったようである。今回は、その兄さんが、ライトハウスでお世話になった方にあいに、大阪に(奈良の老人ホームに入所しているとのことで、奈良に)。また、大阪府立盲学校の寄宿舎の寮母さんにもあったとのこと…。日本と台湾の盲教育の交流史などの一こまが見えてくる。兄さんの聞き取りをして、その体験を聞かせてもらいたいとお願いする。

車で、大久保まで、そこから電車で光華女子大へ。
臨床発達心理士会の地方支部の打ち合わせ。4時から6時過ぎまで。
終わってから、京都駅で、Oさんとあう。
夜明け前の子どもたちのナベちゃんの未編集記録の作業があがった。Oさん自身の映画「アトムの足音」のDVDもいただく。そのごの課題を確認して、お願いしてくる。来年度の資金計画を考えないといけない。

かえったら、8時過ぎ。食事をとって、風呂に入って、いろいろしていると12時過ぎ。ごろごろしているとリビングで寝てしまう。

グループホーム・ケアホーム

2011年01月18日 21時37分11秒 | 生活教育
 学生さんの卒論をみせてもらったり、印刷やテレシネの関係で会計に行ったりした。
 その後、事業所へ。グループホーム・ケアホームの世話人の研修会の講師を、やむを得ずすることになった。そのうち合わせだった。なかなか、グループホーム・ケアホームが広がらないということだった。「すまい」「くらし」の場の確保は、本当に大事だが、それをつくっていくためにも「世話人」の確保と障害の理解の向上が大切だとのこと。
 寄宿舎教育との関係で、常々、「世話及び生活指導」の「世話」の部分を改めて考えてみる必要があると考えている。暮らしを下支えすること(衣食住)、生活の介助や支援、楽しい活動の組織化、そしておしゃべりで「世間の話」をしたり、世間との交流を創っていったりと…。それにしては、寄宿舎、寮、グループホーム、ケアホームなどでのその役割を果たす人たちの置かれた地位は、とてもそんな状況ではないようだ。
 事業所の理事長に、そこの運営するグループホームにつれていってもらった。一つは、男性が5人で住んでいる民家、もう一つはもと短大の寮だったところで、女性が7人で住んでいるところ。夕方だったので、夕食をつくってくれているパートさんがいて、世話人さんも1名いた。男性のグループホームでは、一人が発作をおこしたといっていたが、一人ひとり個室でテレビを見たり、ゲームをしたりしていた。お風呂に入っている人もいた。昔の姿を知っている女の子もいたりした。

そういえば思い出したのが、日本経済新聞(1月16日付)の共同住宅の記事。
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共同住宅 自ら築く
市民やNPO、望みの形で

障害者もいる家族のマンション
近所付き合いが盛ん

健常者が、障害者や、高齢者と一緒に住むマンションを作り、近所付き合いの延長で助け合うという3事例を紹介。

1.ぱれっとの家 いこっと
これは恵比寿駅近くにある、外見は普通の民家。
ここに、公募で集まった、知的障害がある4名、健常者3名が暮らす。
NPO法人が中心になり、計画、運営。家賃は7万円程度。
NPOだけでなく、理解のある会社や、助成金、寄付金などで建設した

2.みんなの家
横浜市都筑区のマンション。
これは障害者を家族に持つ主婦の将来の不安が、きっかけとなり、
同じような思いを持つ家族の輪ができ、ボランティアなども参加、
「みんなの家をつくる会」が発足したという。
NPO法人を作り、資金調達をして建設したという。

3.シャロームつきみ野
高齢者向け賃貸タイプ

自立した高齢者の入居者同士の支えあいを重視した賃貸。
運営は、NPO法人シニアネットワークさがみ。
同法人の理事長の思案から、始まった計画らしい。
しかしこれも資金調達が難しく、結局、入居を希望していた家族と
付き合いのあった、農協からの融資で実現にこぎつけた。


大学入試センター試験をふり返る

2011年01月17日 23時22分11秒 | その他
フォーラムの呼びかけ人会議、障がい者制度改革推進会議資料の整理、センター紀要の手直しなどなどがあり、寒く疲れた。

寒い土日の大学入試センター試験のことを少し記しておきたい。

1日目の現代社会には、「ミレニアム開発目標」が登場、国語の読解は「高齢者のグループホーム」に関する文章。

伊丹万作の脚本・演技指導論-田村一二の回想

2011年01月16日 20時52分41秒 | 映画
 『教育』の2月号に、「映画をつくる-人の育ちを支える教育の仕事との重なり」として、山田洋次と田中孝彦の対談が掲載されている。はなしは、1.「寅さん」や「おとうと」などの「不届き者」のこと、不届き者のそばから見えてくるもの、そしてそれを包み込む家族と社会(みとりの家のような施設)、2.「京都太秦物語」の製作にかかわって、若者の本当の願い(本格的な学習・研究を、なぜ今まであまり経験できないできたのかという悔しさ」の気づき)、そして3.伊丹万作の「演技指導論草案」について(演技指導論)の3点。
 いろいろ思うところがあって、面白かったが、最近行っているフィルム関係のしごとや歴史の掘り起こしとも関係していて、不思議な縁を感じた。
京都関係の障害児教育史のなかで、戦前の特別学級の歴史、そしてそれが滋賀の近江学園などに受け継がれていくのだが、その担い手となった一人が田村一二である。田村の「忘れられた子ら」「手をつなぐ子ら」の映画化にいては、「戦後民主教育の開始と知的障害児へ取り組む教師」(『障害児の発達理解と教育指導』)として書いたことがある。また、このブログにも「斉藤千栄治と田村一二-奈良・京都・滋賀の障害児教育の歴史の中で」(「たちあがる」)として書いたことがある。
 最近、与謝の海養護学校などの資料をみているのだが、松本宏先生の記録の中に田村一二の文章が採録されているのをみつけた(松本宏『不立文字』第二集、2001年12月、私家版)。それは伊丹万作の思い出をはじめとして、映画のことについていろいろ書かれたものであった。まだ、掲載誌のうらをとっていないが、次のようなもの。羽仁進監督の「手をつなぐ子ら」はみていない…。

映画「手をつなぐ子ら」と「忘れた子ら」の思い出
滋賀・一麦寮長 田村一二 1868年6月、愛護127号

 終戦の年だったと思う。その頃、私は1週間か10日に一回ぐらい、京都の伊丹万作さんの見舞いに行っていた。わずかの野菜をぶら下げて、木炭バスに乗って出かけるわけだが、この野菜を見たら伊丹さんが喜ぶぞと、あのひげがニコッと動くことを見るのが楽しみであった。
 伊丹さんはたいてい病床に病臥したまま、私は枕元に座って話し合うのだが、そのころの伊丹さんは映画人というよりも学者の感じであった。それも恐ろしく趣味の広い学者である。話題は多岐にわたったが、映画、文学は勿論、絵画、俳句などについても、造詣が深く、硯についても実にくわしかったことを覚えている。
 その頃「手をつなぐ子ら」の脚本を伊丹さんは書いていたが、あのなかにでてくる。氷すべり、草ぞり、土の中に埋められる場面などのことをよくきかれた。これらはみな私の子どもの頃の経験なので、詳しく話しをすると、伊丹さんはうんうんとうなずきながら、メモをとったり略図をかいたりしていた。それから何日かたってまた見舞いにいったとき、脚本をみせられて驚いた。場面場面が精密な鉛筆画になっていた。ちょうど、フィルムの一コマ一コマを見る感じであった。このまま放っておいたら、伊丹さんは、鉛筆で映画をかいてしまうではないかと思ったほどである。
 「本当はこの映画は自分で監督したいんですがね、この体ではとても駄目ですから、せめて、まあ、こんあことっでもして慰めているんです」といって、伊丹さんはのびた無精ひげをちょっとまげてわらったが、それは、単なる慰みごとどころのものではなかった。誰が監督をするにしても、自分のイメージはこわされたくない、こういう映画をつくってほしいという願い、そその願いを通すために、文だけでなく絵にもかいておいて、のっぴきならぬものを監督に突きつけようという、いわば映画に対する恐ろしいまでの執念、執着が、病気でやせ細った手に鉛筆を握らせたのではないかと私は思っている。
 この「手をつなぐ子ら」は、昭和24年、稲垣浩さんの監督で映画化された。カメラマンは、宮沢一夫さんであった。これは文部大臣大臣賞をもらい、その賞状が大映撮影所の応接室にかかっているのを見たことがある。配役は、担任の先生が笠智衆さん、校長先生が徳川無声さん、母親が杉村春子さんといった顔ぶれであった。子役は選ぶのがなかなか難しかったようで、私も一度稲垣監督やスタッフの人達といっしょに、京都新聞社で、たくさん集まった子どもたちのなかから、主役の寛ちゃんやいたずら児の山金、級長の奥村君などを選ぶ仕事を手伝ったことがある。このときの子役たちが、10年後に、笠さんのお宅に集まって旧交をあたためたくことがあるが、いまはもうりっぱなおやじさんになっている年頃である。
 「忘れられた子ら」は、昭和25年、稲垣監督によって映画化された。このときは、稲垣さんは脚本もかき、独立の稲垣プロをつくって制作するという力の入れようであった。配給は新東宝。カメラマンは手をつなふ子らの時と同じ宮川一夫さんだったと思う。配役は校長先生が笠智衆さん、担任の先生が堀雄二さん、同僚の先生に泉田行夫さんなどがいた。撮影は京都の嵯峨小学校を中心に行われたが、教室ひとつ専用に使わせてもらい、その教室の天井板をぶちぬいてライトを入れるなど、学校側の協力ぶりはたいしたものであった。
 「手をつなぐ子ら」の第2回目の映画化は羽仁進さんによってなされた。脚本は伊丹万作さんのものであった。配給は大映。昭和37年、私は羽仁進さんと2回会って話し合った。話し合いの中心はこの映画の目標をどこに置くかということであった。一方に現代っ子がいる。これは小学生で既に退職金の多少を論ずる連中である。退職金を多くもらうためには大会社に入らねばならぬ。そのためには優秀大学を卒業せねばならぬ。そのためには有名高校に入らねばならぬ。そのためにはカンニングも止むを得ないという徹底した論を吐く。他方おとなどもがいる。これがまた、現代っ子を見て、嘆き憤り、どうでもこうでも道徳教育を徹底させて、これを昔にひっぱり戻そうとする。現代っ子のガメツさと、おとなどもの古い固さの中間に精薄の子寛ちゃんを置く。左のガメツさと右の固さの間にたたされた寛ちゃんは、左にやっつけられれ、右にやっつけられながら、しかも、その左も右もが底抜けの善意にみちた寛ちゃんの方にいつの間にか引き寄せられていく。そこに、現代への批判と、その進むべき方向への示唆とを、寛ちゃんを通じて描こうということに話がきまった。
 ロケ地は大阪府泉南の高石小学校になった。羽仁さんが高石小学校を訪ねたときには、偶然に、羽仁さんのお母さんと青木校長先生とは旧知の間柄であることがわかり、校長先生のあっせんで、学校はもちろん、町ぐるみ撮影に協力しようということになった。俳優は佐藤英夫さんと北条由紀子さんともう一人の女のひとと、とにかく二、三人しかいなかった。あとは全部素人で、撮影のスタッフや町のひとが出た。町のひとはみな、撮影にでたがって、校長さんが「あんたはもうこの間でたやないか、今度はあかん」とか「今度の役は誰と誰に頼む」とか、まるで配役係を一手に引き受けたような形で「目をまわしましたわ」といって笑っていた。私も何かの役に振当てられていたらしく、それをスタッフから聞いたので、おじ気づいてしまって、それからは撮影には一切近づかず、撮影が終わったときいてほっとしたものである。
 子役は九州をも含めて、かなり広範囲から募集したらしいが、選抜された子どもたちは、全員高石小学校に転校して正規の教育を受け、そのひまを縫って、撮影は続けられた。生活の方は区内の民家を借りて、そこにスタッフと一緒に寝起きをした。スタッフの連中が宿題のお手伝いをやらされたり、佐藤英夫さんなどは洋服のボタンつけまでしてやって、まるで親父か兄貴のような間柄になっていた。
 羽仁さん独特のやり方で、台本をもっているのおとなだけ。子どもたちは全然せりふなんか知らされていない。場面設定がなされると、子どもたちはさっそくがやがやわやわやとやりだす。それにおとなたちは合わさなければならない。台本にない、とっぴょうしもないしりふがとびだしてくる。先生役の佐藤英夫さんが目を白黒させてせりふに詰まってしまう。「子どもたちがね、先生、まあ、そうしょげるなよ、監督さんにぼくらであやまってやるからな、といってなぐさめてくれるんですよ。こんな難しい撮影ははじめてですよ」といって苦笑いしていた。おとなの俳優さんたちは困っただろうけれども、羽仁さんの子どもの使い方のうまさは「絶品」といっていい。
 映画でみてもわかるが、そこには「子役」はいなくて「子ども」がいる。画面の「子ども」の発散する迫力に、われわれおとなはたじたじとなる。せりふの扱い方にも感心した。はじめはよくわからなかったが、だんだん画面を見ていくうちに気がついたことは、子どもたちのおしゃべりが、ぶつぶつとつぶやきのように流れていて、その中に、主になる子どものせりふがチカッチカッときこえてくる。ある声は低く弱く、ある声は中音に、ある声は高く強く、その強い声がすーと弱くなっていくと、つぶやきの中の声がぐーっと高まってきたりする。これらはまさに「せりふのオーケストラ」である。
 カメラは有名な写真家の長野重一さん。いわゆる普通の映画のカメラマンではないが、さすがに画面がびっくりするくらいに美しい。私は試写を見ながら、その逆光の使い方、画面の構成のすばらしさに、しばしば唸った。嵐の襲来を予想させるような、風車の羽のあわただしい回転の間から見下ろした、子どもたちの喧嘩の場面の迫力は今でも忘れられない。この映画は昭和39年に完成した。



元炭坑マンのヘルパー

2011年01月16日 15時21分37秒 | 
木曜日、金曜日はつかれた。とくに、金曜日は、1ヶ月の内もっともストレスのかかる会議の日、その会議の後、全障研の運営委員会にいって、いろいろ話をきいた。「最近の若者の意識がわからない…」ということが議論されていた。土曜日は、その疲れを引きずって、午前中、仕事で、午後から京都駅周辺で、フィルムのことでOさんと、修論のことでKさんと、寄宿舎の件でYさんとあう。途中で、頭がまわらなくなった…。
どうも、この間、歴史と今後の課題の重なりと違い(これまでとこれからの連続性と非連続性について)がどこでも論点になっているように思う。

新しい市民運動を提唱する日置さんの本もそんな観点から読んだ-日置真世『日置真世のおいしい地域づくりのためのレシピ50』(全国コミュニティライフサポートセンター、2009年)の続き

○実践の新たな担い手の登場…?
職人ヘルパーの元炭坑マンの畠山さんのこと(p.184)
働いていた太平洋炭鉱が1年前に閉山し、再就職にあたっては「これからは福祉だよ」と家族のアドバイスをもらいヘルパー資格をとっていたのです。…福祉と全く畑違い経歴の持ち主でしたが、すぐにヘルパーとしての類稀な才能を発揮し、「カリスマヘルパー」と評されるようになりました。
畠山さんは、重い自閉症の子どもたちの動きを理解したり、うまくコミュニケーションをとったり、言葉にできる理論ではなく、まさ職員技で人の行動を分析的に見ています。(若年性痴呆症の人や強い行動書0卯が員のある自閉症の人への優れた対応)…畠山さんいわく、炭坑の仕事は非常に危険な現場。そこで働く人の心の動きや性格を細かく把握するなどの人に対する配慮欠かせないから、そんなところでも鍛錬されたのではないかということでした。その話を聞いて対人援助の専門性は人間性と密着して、非常に普遍的なものであると確信したのです。
釧路は、水産業の不振、炭鉱閉山などで就職が厳しい地域です。こうした就職難は、事業者としては非常にありがたいことでした。求人を出すと多様な人材が多く応募してくれるからです。

○今の時代に見合った取り組み…批評家を排し、自分にひきつけて、一人称で語る(当事者として)
今は、今の時代の社会に合った取り組みがあるし、その地域にはその地域の事情があり、資源があり、そして、その地域に合ったやり方があるのです。それには見本がないから自分たちで、試行して検証して、構築しなければなりません。地域の課題を至らない部分やダメなところなど、課題を指摘することは意外に簡単です。…でも、私はそんなことにはちっとも意味がないと思います。大事なのは、「じゃどうしたらいいのか?」「そういう自分は、何をするのか?」ということではないでしょうか。(p.274)

たくさんの「あきらめ」…

2011年01月15日 22時45分27秒 | 生活教育
北海道からの帰りの際のアクシデントの疲れが引かない。飛行機の中で読んだのが、北海道寄宿舎研究会の研究集会で講演をしてくれた日置さんの本、日置真世『日置真世のおいしい地域づくりのためのレシピ50』(全国コミュニティライフサポートセンター、2009年)は、できちゃった事業-「入り口は軽いノリ・結果は大仕事」のことを書いている。

この本では、いろいろ考えさせられることが多いが、その前提として、たくさんのあきらめ(当たり前でない暮らしで折り合いをつけている家族や当事者たちのたくさんのあきらめ)を受け止めることからはじめることがあると感じた。

僕らは多くのあきらめを強いてきた、強いている。時として、それを「ぶれない」「一貫性がある」「筋が通っている」などといって、賛美したりする。そんな現実に対して、常々、違和感を持ってきたことも事実だ。規則だとか、ルールだといったところで、結局は、たとえば教師にとって都合のいいいいわけのことが多いのだ。

それに関連した部分を摘記しておこう。

「無理をしてでも、必要とされることをリアルタイムで実現することは、みんなの意識を何よりも変えているということがわかっていたからです。これまで、弱い立場にいる人たちは「障がいがあるから仕方がない」「障がい児を育てているのだから仕方ない」「こんな自分だから悪いのだ」「誰に何を言っても無駄だ」とたくさんの我慢やあきらめをしてきました。言い換えると、あきらめや我慢がもはや当たり前の状態になっているのです。しかし、「こんなものがほしい」「こんなことで困っている」「自分らしく生きたい」と表現すること、解決の道が開ける、自分の声が社会を変える原動力jに成る、我慢する必要はない、自分が目指す自分らしい制かgつを語っていいのだ、夢を抱いてもいいのだという気持ちになってきたのです。(中略)これまでいろんな意味でチャンスの無かった人たちが「使おう」「相談してみよう」という気持ちをせっかくもったのに、「いっぱいです。使えません」とはどうしてmこ言えなかったのです。だって、また「やっぱりね」って、それまでよりももっと強くあきらめてしまうからです。
…だからこそ、中途半端になることは承知しつつも走り続けていたのです。(p.224-225)。

「一人の力は小さくても、たくさんの人が力を出し合うことでおもしろいことができる」ことを実感を持って知ることが大事。
何をやりたいのか(実施主体の動機)よりも、何が地域に求まられているのか(必要性)と自分たちができることは何か(独自性)がもっとも大事。大事なのはなによりも「必要性」
「どんなことがあっても、みんなが必要としていることをしている限りは誰かがたすけてくれる。なんとかなるんだ」という経験。

障害の当事者でなくてもl、みんな地域の「生活の当事者」であるということ

飛行機の欠航…

2011年01月13日 23時52分40秒 | その他
昨日は大変だった。
北大から札幌駅に行き、電車に乗った。電車の中から雪景色をみていた。雪が降ると言うより、けぶっているという感じ。感慨にふけりながらも、千歳空港に定刻にいくことができ、たくさんお土産をかった。北海道にいくことで迷惑をおかけした方々に、沢山。
飛行機にのった。なかなか動かなかったが、ようやく動き出した。発着で混んでいたので、すこしくらいはと思いながら、本を読んでいた。アナウンスがあり、翼に雪が積もったのでおろしに帰るといいはじめた…。結局、飛行機は欠航となり、とぼとぼと空港カウンターへ。長い列にならんで、「今日はだめか」とおもっていると、「関空にとぶ飛行機がありますがのりますか」とのこと、関空から公共交通をつかって帰れるかと聞くと、「京都へは、朝の5時です」とのこと。最終のバスや電車は、飛行機が着く前に出ているのだ。しかし、次の日の飛行機でといっても、帰れる可能性はわからない。とにかく行ってみようということで、とぶかわからない飛行機に乗ることにした。
かわりの飛行機は狭かったが、うまく千歳空港を飛び立つことができた。この間、最初の飛行機の所から読み始めた本を読み終わっていた。11時40分過ぎに、関空へおろされた。公共交通はもうない。航空会社がバスを手配してくれ、難波まで行き、そこからタクシーで帰った。帰ったら1時半過ぎで、ヘロヘロ。

今日、朝起きて、昨日の疲れを残しながら、携帯をもたずに大学に行ってしまう。いろいろあったが、夜間の講義もしてヘロヘロになってかえってきた。大学でもひんしゅくなことは多くあった。皆様、ご迷惑をおかけしました。