ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

岡本康『革新京都の先駆者たち-治安維持法犠牲者の群像』

2008年04月22日 23時18分23秒 | 
 岡本康『革新京都の先駆者たち-治安維持法犠牲者の群像』(つむぎ出版、2008年3月15日)を読み終わる。この出版、今年の3.15ということで治安維持法での大弾圧のあった日に出されている。著者の執念であろう。
 戦前京都で、労働者などの解放に立ち上がった人たちの受難の歴史を丹念にあつめたもの。学問の自由、思想信条の自由を奪う治安維持法をかいくぐっての活動と抵抗の群像が記されている。
 京都の解放運動の蓄積に学ぶことが多いが、もうすでにお亡くなりになった方々が多く(もちろん、獄死した人たちや殺された人たちも多いのだが…)、その歴史を語り継ぐためにまとめられたものである。著書の活動の関係で、医者が多いように思う。田中診療所をひたいた医師・太田典礼、新興教育の先駆者・倉岡愛穂などの記述は興味深い。
 韓国・朝鮮の人たちの記述もあるのは貴重である。

山本譲司『続獄窓記』を読む

2008年04月21日 22時40分15秒 | 
山本譲司『続獄窓記』(ポプラ社、2008年)を読む。
『獄窓記』から4年を経て、出獄から『獄窓記』の執筆、その後、福祉施設での活動、刑務所改革・刑務所運営に取り組むまでを記したもの。知的障害者が出獄し、そしてまた、刑を犯し、刑務所に戻っていくところを、父母の側から心情を聞き取ったところは涙する。民間の刑務所運営を、批判的に見ていたが、『続獄窓記』ではそれは、社会の側の取り組みとして、刑務所の改革として肯定的に描かれている。「民間に」という民営化ではないかと思いながらも、しかし、従来の人権無視の刑務所では何も変わらないということもあるなと思う。
目次は以下。

序章
第1章 囚人コンプレックス
第2章 『獄窓記』という一冊の本
第3章 触法障害者と呼ばれる人々
第4章 本当の福祉を探して
第5章 PFI刑務所
終章

「治安維持法と山本宣治」特別展にいく

2008年04月13日 21時43分08秒 | 映画
「治安維持法と山本宣治」特別展(4月12日~13日)に行った。
13日は、1時から4時半まで講演と映画があった。
講演:「山宣の時代をともに闘った人々」(岡本康:治安維持法国賠同盟京都・会長)
映画:「武器なき戦い」(山本薩夫監督)
講演では、関西の治安維持法によって弾圧され、検束された人々のことをスライドも使いながらお話しされた。医者の方々も多く、なかなか戦前のことを語らなかった人たちも多かったとのこと。
映画は、以前見たことがあったが、新鮮に見れた。っこの原作は、西口克己の『山宣』。山本宣治の大学や労働学校、産児制限の講義がおもしろかった。科学を民衆のものにするということはどんなことかなどなど考えた。花屋敷も一度行ってみたい。

岡本康『革新京都の先駆者たち-治安維持法犠牲者の群像』(つむぎ出版、2008年3月)を買う。

「ヘレンケラーを知っていますか」を見る

2008年04月12日 23時15分16秒 | 映画
「ヘレンケラーを知っていますか」を見る。盲ろうを取り扱ったものだが、若干、盲ろうのおばあちゃんの役の小林綾子が若すぎて、若干違和感があった。ストーリーもちょっと作った感じが残る。しかし、盲ろうを取り扱った日本の映画としては初めてのものではないか。

あらすじは、次の通り。
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目が見えず、耳が聞こえない、という障害がある北嶋絹子(78歳)の小さな家が山口県のある地方の雑木林の中に、ぽつんと建っていた。
  ヘルパーの協力を得ながらも、一人で自立して生活している絹子の家に、リストカットを繰り返し、若い人生に終止符を打とうとしている山口祐介(15歳)がやってくる。
  盲聾者ではあるが、一人で何でも手際よくこなす絹子の生活ぶりや、前向きに生きる魂にふれ、祐介は自分を見つめ直し始める。
  祐介に語った絹子の人生は、実に壮絶であった。あこがれの彼と結ばれたものの、夫が出征して、帰還したときには失明の身となっていた。さらに悲運ともいうべきか、失聴も加わり、光と音を失ってしまったのである。
  「コミュニケーションはどうするの?」「どうやって生活しているの?」。祐介は問いかける。
  「みんなちがって、みんないい。」と金子みすゞの詩を明るく口ずさむ絹子のたくましい生きざまに、強く惹かれていく祐介は、ある決心をする・・・・。

山本譲司『獄窓記』を読む

2008年04月12日 23時06分44秒 | 
元衆議院議員で、秘書給与流用で実刑判決を受けた山本譲司の『獄窓記』(ポプラ社、2003年)を読み終わった。電車の中で、ぼつぼつと読んできたものである。

この後、出された『累犯障害者』はすでに読んで衝撃を受けたが、それを書く契機となったのが本書である。この中で、第3章の「堀の中の掃き溜め」がその原型となった。
この「堀の中の掃き溜め」は、寮内工場の仕事/障害を抱えた同囚たち/出所への第一歩/看守達の生態/形影相弔う年越し/恩人の死によって構成されている。

本書の続編も出されているので、それも読んでみたい。

ブログのやり過ぎに注意

2008年04月11日 00時08分39秒 | その他
ニュースにブログのやり過ぎで過労死というのがあった…

■「寝られない日が続き、医者にブログをやめろと言われて」

 そうした中で、J-CASTニュースでは、日本の著名ブロガーに「ブログ運営が健康に悪影響を及ぼしてないか」聞いてみたところ、「健康に害を及ぼしていると感じたことはありません」(ネタフル)「特に悪影響はありません」(百式)との答えが返ってきた。その一方、「極東ブログ」を運営するfinalventさんは「直接的には健康面での悪影響はない」としながらも、ブログを運営する上での重圧を次のように説明する。

  「異なる意見は受け入れたいのですが、かなりひどい嫌がらせをうけます」「多方面で誹謗中傷を受けました。そこまでブログを書くことはないな、やめようと思ったことは何度もありました」

 その一方で、「ブログが出版や報道を補うような新しいビジネスの分野になるかなという期待」などから、ブログに社会的意義を感じてブログ運営をしているという。

 「ドクターストップ」がかかった著名ブロガーが国内にもいた。自身のブログのページビューが年間950万ほどにまで成長した経済学者の池田信夫さんは、

  「プレッシャーはありますよ。月間100万アクセスを超えた辺りから、寝られない日が続き、医者にブログをやめろと言われて…。もう、どうしようもないコメントやスパムとかノイズが凄く飛んでくるんですよ。私はこういったものについて気にしない方なんですが、さすがにストレスになってきています」

 と明かす。池田さんは、ストレスを抱えながらも、雑誌に掲載されるよりも社会的に影響力のある情報をいち早く掲載できるメリットがあるとして、ブログの運営は続けていく意向だ。ただ、米国のブロガーがストレスを抱える現象について、次のようにも指摘する。

  「日本と米国ではカルチャーが違います。米国ではブログに対して『言論』としての意識が高い。日本ではカットペーストしてページランクを上げようとする変てこなブログばっかりですが、米国では、例えばSNSの『Facebook』の様に実名で写真まで載せています。匿名でスパムブログをやってもストレスにならないでしょうが、米国では緊張感が高いんです」

京都市学校歴史博物館

2008年04月05日 15時46分05秒 | その他
京都市学校歴史博物館で開催されている「『京都盲唖院』発!障害のある子どもたちの教育の源流」を見る。

以下はこの企画展の内容(京都市学校歴史博物館のホームページより)

『京都盲唖院』発!障害のある子どもたちの教育の源流
 平成20年1月18日(金)~4月14日(月)

 障害のある人にも等しく教育の機会を準備し、発達を保障しようとする盲聾教育の創始者古河太四郎氏の願いは、今から約130年前の明治11年に、京都市中京区東洞院御池通上ルに日本初の「盲唖院」を開設させました。この志は現在、国内の各盲・聾学校など障害のある子どもたちの教育の源流となって受け継がれています。
 学校歴史博物館の今回の企画展は、64校の番組小学校を明治2年に開校させた京都の町の特性とヒューマニズムを踏まえて、障害のある子どもへの教育に対する熱意と工夫を、主に明治期に盲唖院で使用された教具や資料をもとに伝えるものです。
 なお、この企画展は、京都府立盲学校、聾学校の協力を得て、両校に遺されている明治初期からの盲唖院の資料を中心に展示するもので、「日本最古のオルガン」や「最初の凸型地球儀」、古河太四郎氏の情熱により作成された手勢座図など、展示品の多く(約130点)が京都府指定文化財に指定されている貴重なものです。

主な展示品
木刻凸字 明治時代 京都府立盲学校蔵
「発音起源図」 有馬考山 明治11(1878)年 京都府立聾学校蔵
「音唖手勢五十音字形手勢図」 有馬考山 明治12(1879)年 京都府立聾学校蔵
風琴(オルガン) 明治16(1883)年 文部省下賜 京都府立盲学校蔵
凸形京町図 明治12(1879)年頃 京都府立盲学校蔵
「京都市立盲唖院之図」 児玉兌三郎 明治30年代 京都府立盲学校蔵
「手算法略図」 有馬考山 明治11(1878)年 京都府立聾学校蔵
人体模型 明治時代 京都府立盲学校蔵
展示品総数 約150点(展示替も含む)

盲人総取締所當道職屋敷跡

2008年04月05日 15時28分53秒 | その他
當道職屋敷跡。明石検校の屋敷からはじまったといわれる。今は、京都市立洛央小学校に石碑がある。

この當道職屋敷について調べていたら、京都の銘菓「八つ橋」との関係が分かった。八つ橋本店のホームページをみると、「八つ橋」の由来が、視覚障害者で検校職にあった八橋検校に由来するとのことである。以下は、その引用。

『聖護院八ツ橋総本店』(屋号は「玄鶴堂」)。
 「玄」は、黒谷(京都東山の地名あるいは金戒光明寺の通称)の「黒」を、「鶴」は、鶴の鳴き声が琴の音色の似ていることから名付けられました。また「聖護院」は、地名(もしくは聖護院門跡の通称)で、「八ツ橋」は、人名の「八橋検校」に由来しております。
 近世箏曲の開祖といわれる八橋検校が、慕う数多くの高弟・門弟たちに見守られて、貞享2年6月12日(1685年)亡くなり、黒谷金戒光明寺に葬られました。享年72才であったといわれております。その後、亡き師のご遺徳を偲び門弟たちが、続々絶え間なく墓参におとづれ続けましたが、歿後4年の元禄2年(1689年)黒谷参道の聖護院の森の茶店で、琴の形に似せた干菓子を、「八ツ橋」と名付けて発売するようになりました。これが「八ツ橋」の始まりといわれており、その場所が当社創業の地(現在の本店の場所)であります。

重松清『ツバメ記念日』を読む

2008年04月01日 22時51分39秒 | 
重松清『ツバメ記念日』(文藝春秋、2008年3月)を読んだ。

春の季節の物語-短編集。多様な別れと旅立ちの春が描かれている。

めぐりびな/球春/拝復、ポンカンにて/島小僧/よもぎ苦いか、しょっぱいか/ジーコロ/さくら地蔵/せいくらべ/霧を往け/お兄ちゃんの帰郷/目には青葉/ツバメ記念日

この春、様々な別れと旅立ちがあったし、新しい出会いもある。ある研究会の代表を終えたO先生からのメールに、代表を降りたことを告げたときに奥様の表情が急になごんだということが書かれていました。先生のこれまでとこれからの春であり、それに重なったこれまでの研究会でのこれまでがある。ある意味では、先生の研究会であった。重松の春の短編を読みながら、そんなことを思った。