ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

それぞれのライフヒストリー

2015年06月24日 12時50分41秒 | 生活教育
 今年は戦後70年-今年のNHKの「シリーズ戦後70年」の第1回は「障害者はどう生きてきたか」だった。その後、高齢者、戦争孤児、精神障害やハンセン病のあゆみを放映している。1945年を起点とした戦後を担ってきた人たちの声や姿を集約するようなライフヒストリーは、わたしたちの生活や仕事と地続きとなっている実感がある。
 それとは別に、この春いろいろ思うところがあって五木寛之の「親鸞」「蓮如」を読んだ。朝廷と寺院、新興勢力の武士などのうごめき、飢饉・天災が人びとの上にふりかかってくる中世の社会、だれしも「救い」を求めるその時代を受けとめて生き抜いた姿が小説や戯曲・評伝として描かれている。仏教などとは無縁と思っていたが、おもしろく読めたことは自分自身意外なことであった。「救済」「自我」「煩悩」…「他力」や「悪人正機」などいつもとはちがった方向から光が当てられるような気がした。「本願寺」と「浄土真宗」はとてつもなく大きな寺院になり、教団になってしまったが、しかし、仏教用語の「本願」の由来は別にして、その言葉は、私たち世俗のものにとって「本当の願い」を体現した言葉であり、よくつかう「ねがい」なのである。障害や差別、貧困などの人びとの姿を正視しつつも、その願いを実現しようとして、一人ではどうにも出来ない自分を自覚し、それを正当に悩み抜く姿を、「本願」という言葉の中にみたい。「ぶれない」ことは悩まないことではない。現実との違和感、保身や煩悩、諦念を含めてオロオロしながらの右往左往、堂々巡りの考えと議論-その中で、そのような情けない姿を認めあいながら、本当の願いにたちかえることが大切なのかもしれない。五木寛之の「親鸞」「蓮如」を読みながらそんなことを思った。
 五木寛之は、現在83歳。50歳に入るところでいったん作家としての筆をおき、京都に居を構え、仏教史を学んだという。同じく、51歳で仏門に帰依した瀬戸内寂聴は、90歳を越えているが、最近の発言にははっとさせられるものがある。歴史のなかの様々な生活と人生、そして願いと望みを、もともと作家だったこの人達は、現代のことばとして作りかえている。このような人達のライフヒストリーも興味深い。病気、障害、貧困、差別、戦争は人間の誕生と社会発展の中で人間がその克服を願いつつ、それを背負ってきたものである。それらを乗りこえる生活と仕事の営みを、過去を振り返り、現在をみつめなおし、未来への願いと希望を紡ぐ作業に位置づけていきたいものである。