小沢浩『愛することからはじめよう-小林堤樹と島田療育園の歩み』(大月書店、2011年)は、島田療育センター(島田療育園)の創立50周年記念出版である。
1961年5月1日に島田療育園が開園した。この開園にから、、退任に至るまでの園長の小林堤樹の歩みを記したものである。小林は後に、開園のときのことを次のように述べている。
「島田療育園という、わが国で初めての、生きる屍のような重症心身障害児だけを収容し、治療する施設ができたのである。これからが私の本当の苦闘が始まるのである。」
刊行によせて
はじめに
一章 芽生え
1.信仰
2.はじまり
3.戦争
二章 蕾
1.日赤産院
2.戦い
3.道程
三章 結実
1.協力
2.光と影
3.そして
あとがき
参考文献
信仰のこと、島田伊三郎と息子良夫のこと、伊藤貞子のこと、「心身障害児」の言葉の誕生、エンゼルベイビー(このことは、西村京太郎『天使の傷痕』のモチーフとなったものではないか)、皇室との関係のことなどいろいろ思う。
社会福祉法人日本心身障害児協会島田療育センター『愛はすべてをおおう-小林堤樹と島田療育園の誕生』(中央法規、2003年)を元にして成立している。著者は、小児科医。
1961年5月1日に島田療育園が開園した。この開園にから、、退任に至るまでの園長の小林堤樹の歩みを記したものである。小林は後に、開園のときのことを次のように述べている。
「島田療育園という、わが国で初めての、生きる屍のような重症心身障害児だけを収容し、治療する施設ができたのである。これからが私の本当の苦闘が始まるのである。」
刊行によせて
はじめに
一章 芽生え
1.信仰
2.はじまり
3.戦争
二章 蕾
1.日赤産院
2.戦い
3.道程
三章 結実
1.協力
2.光と影
3.そして
あとがき
参考文献
信仰のこと、島田伊三郎と息子良夫のこと、伊藤貞子のこと、「心身障害児」の言葉の誕生、エンゼルベイビー(このことは、西村京太郎『天使の傷痕』のモチーフとなったものではないか)、皇室との関係のことなどいろいろ思う。
社会福祉法人日本心身障害児協会島田療育センター『愛はすべてをおおう-小林堤樹と島田療育園の誕生』(中央法規、2003年)を元にして成立している。著者は、小児科医。
19日、仏教大学の丸山美和子先生がお亡くなりになられた。
58歳だった。あまりに若い…。
保育と障害児教育・療育に関する実践、発達相談、そして研究に携わり、障害や困難を持つ保育や教育の実践を支えてきた方だった。
東大阪市教育研究所時代は(大阪の障害児教育史上、この研究所は重要な位置と役割を持っていると思う)、多くの発達相談をおこない、障害児学級の先生方とも実践研究をすすめた。東大阪教育研究所では、丸山さんに何度か呼ばれて話をしたし、東大阪の障害児教育の白書作りなどでもいっしょにアドバイスをした。大阪のこども関係の講座でもご一緒することもあった。仏教大学に移られてから、個人的に電話をいただいたことを記憶している。
また、うちの大学の公開講座でも登壇していただき(ちょうど、幼稚園の遊戯室で開催された)、附属幼稚園の前副園長から「こんな話をききたかったんや」という声をいただいた。
仏教大学のホームページを見ると、ふっくらとしたお顔があり、研究分野として「発達保障論」と書いている。転載させていただき、丸山先生を偲びたい。
------------------------------------
私の研究テーマは、すべての子どもたちの発達保障のため、その道すじを明らかにすること、そして育児や保育の方法及び相談のあり方を明らかにすることです。
研究分野:教育・社会系心理学、発達保障論
研究課題:LD及びその周辺乳幼児の理解と保育実践の課題、保育における「発達診断・相談」の今日的意義と今後の課題
主な著書・論文:「家庭・子育て支援と指導員の専門性~発達研究の立場から~」
(かもがわ出版, 学童保育専門性研究会『学童保育研究』第4号, 2003年11月)
『子どもの発達と子育て・子育て支援』(かもがわ出版, 2003年1月)
『LD・ADHD、気になる子どもの理解と援助』(かもがわ出版, 2002年10月)
『発達のみちすじと保育の課題』(子ども総合研究所(IUP)発行、萌文社発売, 2001年9月)
「最近の子どもに見られる発達上の歪みに関する一考察-問題分析と克服を考える視点について-」(保育研究所, 『保育の研究』, 17号, 2000年6月)
「障害児の「特別なニーズ」に対するケアと統合保育-統合保育の成果と障害児保育の今後の課題-」(佛教大学社会学部, 『社会学部論集』, 33号, 2000年3月)
58歳だった。あまりに若い…。
保育と障害児教育・療育に関する実践、発達相談、そして研究に携わり、障害や困難を持つ保育や教育の実践を支えてきた方だった。
東大阪市教育研究所時代は(大阪の障害児教育史上、この研究所は重要な位置と役割を持っていると思う)、多くの発達相談をおこない、障害児学級の先生方とも実践研究をすすめた。東大阪教育研究所では、丸山さんに何度か呼ばれて話をしたし、東大阪の障害児教育の白書作りなどでもいっしょにアドバイスをした。大阪のこども関係の講座でもご一緒することもあった。仏教大学に移られてから、個人的に電話をいただいたことを記憶している。
また、うちの大学の公開講座でも登壇していただき(ちょうど、幼稚園の遊戯室で開催された)、附属幼稚園の前副園長から「こんな話をききたかったんや」という声をいただいた。
仏教大学のホームページを見ると、ふっくらとしたお顔があり、研究分野として「発達保障論」と書いている。転載させていただき、丸山先生を偲びたい。
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私の研究テーマは、すべての子どもたちの発達保障のため、その道すじを明らかにすること、そして育児や保育の方法及び相談のあり方を明らかにすることです。
研究分野:教育・社会系心理学、発達保障論
研究課題:LD及びその周辺乳幼児の理解と保育実践の課題、保育における「発達診断・相談」の今日的意義と今後の課題
主な著書・論文:「家庭・子育て支援と指導員の専門性~発達研究の立場から~」
(かもがわ出版, 学童保育専門性研究会『学童保育研究』第4号, 2003年11月)
『子どもの発達と子育て・子育て支援』(かもがわ出版, 2003年1月)
『LD・ADHD、気になる子どもの理解と援助』(かもがわ出版, 2002年10月)
『発達のみちすじと保育の課題』(子ども総合研究所(IUP)発行、萌文社発売, 2001年9月)
「最近の子どもに見られる発達上の歪みに関する一考察-問題分析と克服を考える視点について-」(保育研究所, 『保育の研究』, 17号, 2000年6月)
「障害児の「特別なニーズ」に対するケアと統合保育-統合保育の成果と障害児保育の今後の課題-」(佛教大学社会学部, 『社会学部論集』, 33号, 2000年3月)
国吉栄『幼稚園誕生の物語-「謀者」関信三とその時代』(平凡社、2011年)を読んだ。
非常に興味深い歴史書だった。明治維新の頃の、真宗大谷派、キリスト教と政府の関係などなど。「邪教」とりしまりのために内通するものとして、偽って洗礼を受け、東本願寺洋行団に随行してイギリスに渡る。その後、東京女子師範学校に幼稚園開設に伴って、明治10年監事(園長)に就任。草創期の幼稚園の教育、保育に関する訳書や著述を行い、その創設をリードした。
人生の不思議を感じる。
この元となった本(国吉栄『日本幼稚園史序説-関信三と近代日本の黎明』(新読書社、2005年)も読む予定。
非常に興味深い歴史書だった。明治維新の頃の、真宗大谷派、キリスト教と政府の関係などなど。「邪教」とりしまりのために内通するものとして、偽って洗礼を受け、東本願寺洋行団に随行してイギリスに渡る。その後、東京女子師範学校に幼稚園開設に伴って、明治10年監事(園長)に就任。草創期の幼稚園の教育、保育に関する訳書や著述を行い、その創設をリードした。
人生の不思議を感じる。
この元となった本(国吉栄『日本幼稚園史序説-関信三と近代日本の黎明』(新読書社、2005年)も読む予定。
1960年代から70年代の京都の障害児教育について聞き取りをしている。
その中で、興味深い話や資料を着させていただいたり、見せていただいている。
その一つ、全国障害者問題研究会京都支部『地方自治と障害者のくらし』(1971年)をみせていただいた。その中にある親御さんの一連のエピソードが出てくる。以下の部分である(9-12頁)。よく知られている「あの子がだいじにされんかったら、ぼくかてだいじにされんのやで!」という一言は実に多くの歴史的前提を背景として出されたものであり、また、それを起点に障害児教育の歴史を作っていったものであったことにようやく気づき始めてきた。
〈みんなが発達と変革を〉
さいごに、ある障害者と母親の対話の中から、発達と変革の道筋をくみとりながら結んでいきたいと思います。
○ Mさんは、知恵おくれのS君の将来の道すじを求めて、いろんな集会にさんかしてきました。数年まえ、ある集会に参加したMさんは、助言者である某先生の「過保護・溺愛」ということばに、思わず発言しました。「私は、こんなおおぜいの人の前で、何もよう言いませんが、このことだけは言わしてください。先生は『過保護・過保護』と岩張りますけど、私は好きで過保護しているとちがいます。『獅子は千尋の谷に我が子を落とす』といいます。私かて、あの子をそうして鍛えたいと思います。そやけど、あの子を突き落としたら死んでしまいますがな。今の日本では、だれも、政府も、それを受けてとめてくれません。下に網でも張って受けとめてくれる世の中やったら、私かてあの子を突き落としても心配はしません。」このMさんの発言を会場はじっとかみしめました。
○ S君はまもなく18才。今まで学校へも入れてもらえず、W学園もまもなく退所しなければならなくなりました。Mさんも養護学校づくりや授産所づくりの運得応に参加してきましたが、いよいよ与謝の海養護学校の開設も近づき、S君が初めてはいれる学校になりそうだと、息子さんに話しました。「学校へ入ったら、字、書けるようになるんけ?学校出たら、仕事して働けるようになるんけ?」と希望に燃えたS君は、“学校にはいれる”ときいたことから、字の練習に一生懸命になりました。そしてまた、「働いて、お金ためて、大好きなH先生にプレゼントをしたいんや」と、かあさんに相談をもちかけました。「ステレオあげるんやったらそんなお金貯めるまでに、先生は70すぎになってしまうで」「そうか、そんなら先生死んでしもてるかもしらんな、そしたら先生のお花kにかざって、それから学園へ寄附するわ」S君はH先生に同じ話をもちかけました。「かあちゃん、先生なア、ぼくがステレオお墓にかざったら、『先生のお墓、ガタガタゆれて喜ぶわ』言わはった。」と。このS君の豊かな発達を、いっそう保障するためにと、Mさんの確信と決意は強まっていきました。
○ ちょうどそのころ大好きなH先生が転勤されることになりました。お別れ式の前日、先生はS君に「あしたあのお別れ式には泣いたらあかんで」と。翌日、お別れ期にがすんでからS君はH先生に「ぼく泣かんと頑張ってたんやで。」そして家に帰って、かあさんに言いました。「ぼく、がまんして泣かんかったのに、先生にそういうたら返事だけしてこっち向いてくれへんかった。先生きっと泣いてたんやで、ぼくに泣いたらあかん言うてはったのに。あんな気の弱いことで、こんど行くと子でつとまるやろか。」この豊かな心情に、Mさんはまた絶句しました。
「うちの子は太陽の子です!!」
○ ある時、行政との話し合いにMさんも出席しました。衛生行政を担当している係の人が、「発生予防」について発言し、「ふしあわせな子ではなくて、健康な子を産み育てるために」と言い及んだとき、Mさんはきびしく講義しました。「うちの子は、知恵おくれで、18にもなるのにまだ学校へも入れてもらえません。そやけど、うちの子は決してふしあわせではありません。太陽の子です!この子をふしあわせにしているのは政治です。その政治を変えてもらわんならんのです!」と。Mさんが運動に加わりながら、みんなで障害児の発達の道すじを追求する中で得た、Mさんの確信に満ちた抗議でした。
○ S君はことし与謝の海養護学校中学部2年生です。5月のある日、Mさんは学校まで出かけていきました。そしてS君達が耕した青々とした水田に、「きれいやなあ。きもちがいいなあ」ともらしました。S君は、すかさずかあさんに言いました。「イッケンやさしそうみ見えるけど、田んぼの中はヌルヌルして、気持ちわるうて、足のうらがすべって、たいへんなんやで。」労働の厳しさと喜びを身をもって体験したS君の言葉は、Mさんにしっかりと焼きつきました。
「あの子がだいじにされんかったら、ぼくかてだいじにされんのやで!」
○ 学校の寄宿舎には、10才の重度重症の子どもたちから19才になったS君まで、同じ部屋で生活しています。Mさんは、こうした学校生活の中で、S君の発達がもっと遅れた子どものために頭打ちになりはしないかという不安がありました。夏休みに帰ってきたS君に、それとなくたずねてみました。S君は「おかあちゃん、なに言うているのや、あの子がだいじにされんかったら、ぼくらかてだいじにされんのやで。あの子がだいじにさららた、ぼくらかてだいじにされるのや。」
このように、障害者運動や民主運動に参加し、障害者(児)を中心員親と教師が固く地域と連帯していくなかで、子どもたちはすばらしい発達をとげていき、親や教師や知己の人々も変革していくのです。このおうな事例から、貴重な教訓を学びとるたびに、民主府市政をいっそう前進させることが、障害者の発達と権利の角とにに、そして、すべての人々の権利保障にかたく結びつくことを痛感するのです。
その中で、興味深い話や資料を着させていただいたり、見せていただいている。
その一つ、全国障害者問題研究会京都支部『地方自治と障害者のくらし』(1971年)をみせていただいた。その中にある親御さんの一連のエピソードが出てくる。以下の部分である(9-12頁)。よく知られている「あの子がだいじにされんかったら、ぼくかてだいじにされんのやで!」という一言は実に多くの歴史的前提を背景として出されたものであり、また、それを起点に障害児教育の歴史を作っていったものであったことにようやく気づき始めてきた。
〈みんなが発達と変革を〉
さいごに、ある障害者と母親の対話の中から、発達と変革の道筋をくみとりながら結んでいきたいと思います。
○ Mさんは、知恵おくれのS君の将来の道すじを求めて、いろんな集会にさんかしてきました。数年まえ、ある集会に参加したMさんは、助言者である某先生の「過保護・溺愛」ということばに、思わず発言しました。「私は、こんなおおぜいの人の前で、何もよう言いませんが、このことだけは言わしてください。先生は『過保護・過保護』と岩張りますけど、私は好きで過保護しているとちがいます。『獅子は千尋の谷に我が子を落とす』といいます。私かて、あの子をそうして鍛えたいと思います。そやけど、あの子を突き落としたら死んでしまいますがな。今の日本では、だれも、政府も、それを受けてとめてくれません。下に網でも張って受けとめてくれる世の中やったら、私かてあの子を突き落としても心配はしません。」このMさんの発言を会場はじっとかみしめました。
○ S君はまもなく18才。今まで学校へも入れてもらえず、W学園もまもなく退所しなければならなくなりました。Mさんも養護学校づくりや授産所づくりの運得応に参加してきましたが、いよいよ与謝の海養護学校の開設も近づき、S君が初めてはいれる学校になりそうだと、息子さんに話しました。「学校へ入ったら、字、書けるようになるんけ?学校出たら、仕事して働けるようになるんけ?」と希望に燃えたS君は、“学校にはいれる”ときいたことから、字の練習に一生懸命になりました。そしてまた、「働いて、お金ためて、大好きなH先生にプレゼントをしたいんや」と、かあさんに相談をもちかけました。「ステレオあげるんやったらそんなお金貯めるまでに、先生は70すぎになってしまうで」「そうか、そんなら先生死んでしもてるかもしらんな、そしたら先生のお花kにかざって、それから学園へ寄附するわ」S君はH先生に同じ話をもちかけました。「かあちゃん、先生なア、ぼくがステレオお墓にかざったら、『先生のお墓、ガタガタゆれて喜ぶわ』言わはった。」と。このS君の豊かな発達を、いっそう保障するためにと、Mさんの確信と決意は強まっていきました。
○ ちょうどそのころ大好きなH先生が転勤されることになりました。お別れ式の前日、先生はS君に「あしたあのお別れ式には泣いたらあかんで」と。翌日、お別れ期にがすんでからS君はH先生に「ぼく泣かんと頑張ってたんやで。」そして家に帰って、かあさんに言いました。「ぼく、がまんして泣かんかったのに、先生にそういうたら返事だけしてこっち向いてくれへんかった。先生きっと泣いてたんやで、ぼくに泣いたらあかん言うてはったのに。あんな気の弱いことで、こんど行くと子でつとまるやろか。」この豊かな心情に、Mさんはまた絶句しました。
「うちの子は太陽の子です!!」
○ ある時、行政との話し合いにMさんも出席しました。衛生行政を担当している係の人が、「発生予防」について発言し、「ふしあわせな子ではなくて、健康な子を産み育てるために」と言い及んだとき、Mさんはきびしく講義しました。「うちの子は、知恵おくれで、18にもなるのにまだ学校へも入れてもらえません。そやけど、うちの子は決してふしあわせではありません。太陽の子です!この子をふしあわせにしているのは政治です。その政治を変えてもらわんならんのです!」と。Mさんが運動に加わりながら、みんなで障害児の発達の道すじを追求する中で得た、Mさんの確信に満ちた抗議でした。
○ S君はことし与謝の海養護学校中学部2年生です。5月のある日、Mさんは学校まで出かけていきました。そしてS君達が耕した青々とした水田に、「きれいやなあ。きもちがいいなあ」ともらしました。S君は、すかさずかあさんに言いました。「イッケンやさしそうみ見えるけど、田んぼの中はヌルヌルして、気持ちわるうて、足のうらがすべって、たいへんなんやで。」労働の厳しさと喜びを身をもって体験したS君の言葉は、Mさんにしっかりと焼きつきました。
「あの子がだいじにされんかったら、ぼくかてだいじにされんのやで!」
○ 学校の寄宿舎には、10才の重度重症の子どもたちから19才になったS君まで、同じ部屋で生活しています。Mさんは、こうした学校生活の中で、S君の発達がもっと遅れた子どものために頭打ちになりはしないかという不安がありました。夏休みに帰ってきたS君に、それとなくたずねてみました。S君は「おかあちゃん、なに言うているのや、あの子がだいじにされんかったら、ぼくらかてだいじにされんのやで。あの子がだいじにさららた、ぼくらかてだいじにされるのや。」
このように、障害者運動や民主運動に参加し、障害者(児)を中心員親と教師が固く地域と連帯していくなかで、子どもたちはすばらしい発達をとげていき、親や教師や知己の人々も変革していくのです。このおうな事例から、貴重な教訓を学びとるたびに、民主府市政をいっそう前進させることが、障害者の発達と権利の角とにに、そして、すべての人々の権利保障にかたく結びつくことを痛感するのです。