四 食糧難
あの恐ろしい空襲で、焼け出されて、父のふるさとへ、つれて行かれ家族皆と無事に再会でき、父の産まれた家に行って皆で住めると思ったら、とんでもない出来事がおきました。一瞬どうしようかと思うほど、本当に恐かったことを思い出します。
家に上がって、便所に行き、ゆっくりと出てきたら、父の母─自分のばあさんが、「今時分のこのこと戻ってきやがって、冗談じゃねぇ!」と、ものすごい剣幕でドロボーキをふりまわし、自分等を外に追い出したのです。その時は、本当の鬼ばばあに見えて恐かった。その時、いの一番に、外へ吹っ飛んで逃げたものです。本当にその時の恐さは今でも忘れません。あの大空襲で、怒り狂って、むこうみずに走り回った馬や牛、そして豚のようでした。
そこを家族皆で後にして、父の「親分」である家に身を寄せたることになりました。「親分」というのは、なにもやましい事はないのです。当時、父の産まれたところのならわしで、数え十三才になるといっぱしの大人とみなされ、赤いふんどしをつけて、親戚等の人達でなく、全然赤の他人で、将来、何かあれば頼れる人、そして何かと相談して解決してもらえる人を選んで、親分・子分の儀式を行ったそうです。自分の家を追い出された父が頼ったのがその「親分」の家でした。本当に心良く受け入れてくれました。自分達の住む家が見つかるまでいさせてもらい、本当に感謝しました。自分もそういう「親分」を決め、赤ふんをつけて、その「親分」の家へ行ったことを思い出しました。そしてこの儀式は自分にとっては四十数年ぶりのなつかしい思い出でもあります。
父の生まれ故郷に来て生活を始めましたが、食べ物がなく、いつも腹を空かし、栄養もとれなく、本当に住生しました。父は家族のために東京方面に出稼ぎに行き、一ヶ月に一回くらいしか帰ってこない状況でした。米はなし、味噌、醤油もなく、その為に家の庭にかぼちゃを植えました。そのかぼちゃは、今でいう牛の肥料となる「ふすま」といったと思います。そのふすまと家で作ったかぼちゃを煮込んで、それを三食食べて生きのびたのです。しかしそれを何とも思わず、毎日必死になって生きる為に頑張って食べたのです。今考えれば、そんなものでよく生きのびられたと思ってしまいます。
自分達の先生の家に遊びに行ったときだと思います。またまた、そこでもかぼちゃが出てきました。いやだなぁと思いましたが、腹がへっているので、仲間と一緒に出されたかぼちゃをたいらげてしまいました。自分の家のかぼちゃより、うまかったので皆たいらげてしまったのでした。「意地がきたねーな」と思いましたが、後の祭りです。そうしたらなんともいえない不思議な事が起こったのでした。自分の身のまわりのものが、皆黄色く見え、「うわーこれは何と世の中が明るくなった」と喜んだのでした。
その先生は、「自分の顔もだんだん黄色くなってきているぞ、皆見て見ろ」と言いました。一緒に行っていた仲間も、「本当だ顔が黄色いや」と叫んで自分の顔を見て喜んでいました。何故自分だけが、黄色い顔になったのかは全然解りませんでした。多分毎日かぼちゃとふすましか食べていなかったからだろうと思いました。
そういう時期にもう一つ思い出すことがあります。それは米が何が何でも欲しいので、地元で取れた魚と少々の金を持って農家に行って米を買いに行った事です。これが米の買い出しなのです。いつもその買い出しに母は自分を連れていきました。
わかりますか。父は漁師でしたが、その当時は沖に出る漁船など何もなく、漁に出られなかったのです。金を稼いで、一家を食わせていかなければならないために、出稼ぎに行っていたのです。父が出稼ぎに行って留守のため、小さくても自分の家には二人男がいたのですが、弟はまだ満一歳ちょっとであり、男として通用するのは、小さくても自分しかいなかったので、買い出しに行くときはいつも一緒だったということです。母と一緒に、二時間以上歩いて、お百姓さんに米を買いに行ったのです。
そんな時の出来事です。一升ますの計り方がちょっと気になりました。それは、その米を売るばあさんが米を一升ますに入れて、それを平らにする時、やったことは本当に許せない行為でした。即ち、一升ますの米を、平らにする時、手の甲でちょっと押し、一升ますの表面の真中辺を少しへこませるのです。それを自分が見て、文句をいいました。
「ちょっと真平らにしてもらわねーと」といったところ、その米を計っていたばあさんが、今でも自分の首をとる様なおっかない顔をしてにらみつけたのです。それを見ていた母はすぐに察知して自分の方へふっとんできて文句をいったのでした。「だまらっしゃい!いいかげんにしなろ」とこづくのです。
しかし、その時、自分は母の心を汲み取ることができず、「ちくしょう!いつもなら、間違ったことを絶対にするなよ」というくせに、本当にがっくりしました。今までのしつけは何だったのだと思いましたが、やはりおっかない母にいわれたので、母の後にさがっていました。
先に外に出て、母が出てくるのをまっていました。出てきた母が自分に向かっていいました。
「あの様な態度をとると、米がもらえなくなるので、かんべんしてくれな」
食糧難の時代には、まともなことがまともでなく、その時は皆が欲しがっている米を持っている人達のどんな行動でも通ったのだなあ…とつくづく思いました。そして、その後は何にも見ぬふりをして、母のあとについていきました。「ああ、なるほどなあ…やはり戦争が悪いのかなあ…」と思いました。「文句をいう野郎はこの大事な米をわけてもらえないよという時代だものなあ…」とがっくりしました。しかし、あのまともで気の短い母があそこでじっと我慢するということは、相当なものだと思います。本当に家族の皆の為に、米が欲しかったのだなぁと思いました。
その米は何に使うのか─普段はその米は食わせてもらえませんでした。月に一回位帰宅する、東京方面に出稼ぎに行っている父の為のものでした。父が帰ってきた時、家族皆で白いごはんが食べられたのです。その時は、「本当にうまいなあ…」と思い、幸せな気分で一杯でした。
自分は今でも、先生の所へ行ってかぼちゃを食べ、世の中が黄色く見え、げっと吐き気をもよおしかぼちゃの臭いが鼻について離れなかったことを思い出すと、かぼちゃだけは絶対に食べたくないとつくづく思います。本当に絶対に、今でも食べたくないのです。見るのもいやです。
その当時、そのかぼちゃの種を、天日に干して、からからにしてそれを焼いて、いつもぽけっとに入れておいて、腹がへると、それを出して食べたものです。今でいうおやつかなぁと思います。それ程あの当時、食べ物がなく、どうして今日まで生きのびられたのかなぁとつくづく思います。それは何といっても食べられる物は牛の肥料しかなく、それを人間が食べてきたからだと思います。
こんな時期には、栄養失調で死んだ人がたくさんいます。自分の弟もその一人でした。本当に弟は良い子でした。ひもじい思いをしても、明るくふるまっていて、そして子供ながら頭が良く、「将来たいしたものになるぞ」と両親も目をかけていましたが、百日咳で死にました。本当にかわいそうな弟と思います。生きていられるような食べ物が当時一杯あったらなあ…そうすれば、今の時代までも生きていられたと思います。
弟の人生は、昭和一九年三月二十五日誕生し、昭和二十年十月二日に死去。本当に短い人生でした。
あの恐ろしい空襲で、焼け出されて、父のふるさとへ、つれて行かれ家族皆と無事に再会でき、父の産まれた家に行って皆で住めると思ったら、とんでもない出来事がおきました。一瞬どうしようかと思うほど、本当に恐かったことを思い出します。
家に上がって、便所に行き、ゆっくりと出てきたら、父の母─自分のばあさんが、「今時分のこのこと戻ってきやがって、冗談じゃねぇ!」と、ものすごい剣幕でドロボーキをふりまわし、自分等を外に追い出したのです。その時は、本当の鬼ばばあに見えて恐かった。その時、いの一番に、外へ吹っ飛んで逃げたものです。本当にその時の恐さは今でも忘れません。あの大空襲で、怒り狂って、むこうみずに走り回った馬や牛、そして豚のようでした。
そこを家族皆で後にして、父の「親分」である家に身を寄せたることになりました。「親分」というのは、なにもやましい事はないのです。当時、父の産まれたところのならわしで、数え十三才になるといっぱしの大人とみなされ、赤いふんどしをつけて、親戚等の人達でなく、全然赤の他人で、将来、何かあれば頼れる人、そして何かと相談して解決してもらえる人を選んで、親分・子分の儀式を行ったそうです。自分の家を追い出された父が頼ったのがその「親分」の家でした。本当に心良く受け入れてくれました。自分達の住む家が見つかるまでいさせてもらい、本当に感謝しました。自分もそういう「親分」を決め、赤ふんをつけて、その「親分」の家へ行ったことを思い出しました。そしてこの儀式は自分にとっては四十数年ぶりのなつかしい思い出でもあります。
父の生まれ故郷に来て生活を始めましたが、食べ物がなく、いつも腹を空かし、栄養もとれなく、本当に住生しました。父は家族のために東京方面に出稼ぎに行き、一ヶ月に一回くらいしか帰ってこない状況でした。米はなし、味噌、醤油もなく、その為に家の庭にかぼちゃを植えました。そのかぼちゃは、今でいう牛の肥料となる「ふすま」といったと思います。そのふすまと家で作ったかぼちゃを煮込んで、それを三食食べて生きのびたのです。しかしそれを何とも思わず、毎日必死になって生きる為に頑張って食べたのです。今考えれば、そんなものでよく生きのびられたと思ってしまいます。
自分達の先生の家に遊びに行ったときだと思います。またまた、そこでもかぼちゃが出てきました。いやだなぁと思いましたが、腹がへっているので、仲間と一緒に出されたかぼちゃをたいらげてしまいました。自分の家のかぼちゃより、うまかったので皆たいらげてしまったのでした。「意地がきたねーな」と思いましたが、後の祭りです。そうしたらなんともいえない不思議な事が起こったのでした。自分の身のまわりのものが、皆黄色く見え、「うわーこれは何と世の中が明るくなった」と喜んだのでした。
その先生は、「自分の顔もだんだん黄色くなってきているぞ、皆見て見ろ」と言いました。一緒に行っていた仲間も、「本当だ顔が黄色いや」と叫んで自分の顔を見て喜んでいました。何故自分だけが、黄色い顔になったのかは全然解りませんでした。多分毎日かぼちゃとふすましか食べていなかったからだろうと思いました。
そういう時期にもう一つ思い出すことがあります。それは米が何が何でも欲しいので、地元で取れた魚と少々の金を持って農家に行って米を買いに行った事です。これが米の買い出しなのです。いつもその買い出しに母は自分を連れていきました。
わかりますか。父は漁師でしたが、その当時は沖に出る漁船など何もなく、漁に出られなかったのです。金を稼いで、一家を食わせていかなければならないために、出稼ぎに行っていたのです。父が出稼ぎに行って留守のため、小さくても自分の家には二人男がいたのですが、弟はまだ満一歳ちょっとであり、男として通用するのは、小さくても自分しかいなかったので、買い出しに行くときはいつも一緒だったということです。母と一緒に、二時間以上歩いて、お百姓さんに米を買いに行ったのです。
そんな時の出来事です。一升ますの計り方がちょっと気になりました。それは、その米を売るばあさんが米を一升ますに入れて、それを平らにする時、やったことは本当に許せない行為でした。即ち、一升ますの米を、平らにする時、手の甲でちょっと押し、一升ますの表面の真中辺を少しへこませるのです。それを自分が見て、文句をいいました。
「ちょっと真平らにしてもらわねーと」といったところ、その米を計っていたばあさんが、今でも自分の首をとる様なおっかない顔をしてにらみつけたのです。それを見ていた母はすぐに察知して自分の方へふっとんできて文句をいったのでした。「だまらっしゃい!いいかげんにしなろ」とこづくのです。
しかし、その時、自分は母の心を汲み取ることができず、「ちくしょう!いつもなら、間違ったことを絶対にするなよ」というくせに、本当にがっくりしました。今までのしつけは何だったのだと思いましたが、やはりおっかない母にいわれたので、母の後にさがっていました。
先に外に出て、母が出てくるのをまっていました。出てきた母が自分に向かっていいました。
「あの様な態度をとると、米がもらえなくなるので、かんべんしてくれな」
食糧難の時代には、まともなことがまともでなく、その時は皆が欲しがっている米を持っている人達のどんな行動でも通ったのだなあ…とつくづく思いました。そして、その後は何にも見ぬふりをして、母のあとについていきました。「ああ、なるほどなあ…やはり戦争が悪いのかなあ…」と思いました。「文句をいう野郎はこの大事な米をわけてもらえないよという時代だものなあ…」とがっくりしました。しかし、あのまともで気の短い母があそこでじっと我慢するということは、相当なものだと思います。本当に家族の皆の為に、米が欲しかったのだなぁと思いました。
その米は何に使うのか─普段はその米は食わせてもらえませんでした。月に一回位帰宅する、東京方面に出稼ぎに行っている父の為のものでした。父が帰ってきた時、家族皆で白いごはんが食べられたのです。その時は、「本当にうまいなあ…」と思い、幸せな気分で一杯でした。
自分は今でも、先生の所へ行ってかぼちゃを食べ、世の中が黄色く見え、げっと吐き気をもよおしかぼちゃの臭いが鼻について離れなかったことを思い出すと、かぼちゃだけは絶対に食べたくないとつくづく思います。本当に絶対に、今でも食べたくないのです。見るのもいやです。
その当時、そのかぼちゃの種を、天日に干して、からからにしてそれを焼いて、いつもぽけっとに入れておいて、腹がへると、それを出して食べたものです。今でいうおやつかなぁと思います。それ程あの当時、食べ物がなく、どうして今日まで生きのびられたのかなぁとつくづく思います。それは何といっても食べられる物は牛の肥料しかなく、それを人間が食べてきたからだと思います。
こんな時期には、栄養失調で死んだ人がたくさんいます。自分の弟もその一人でした。本当に弟は良い子でした。ひもじい思いをしても、明るくふるまっていて、そして子供ながら頭が良く、「将来たいしたものになるぞ」と両親も目をかけていましたが、百日咳で死にました。本当にかわいそうな弟と思います。生きていられるような食べ物が当時一杯あったらなあ…そうすれば、今の時代までも生きていられたと思います。
弟の人生は、昭和一九年三月二十五日誕生し、昭和二十年十月二日に死去。本当に短い人生でした。