ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

負けるが勝ち その5 食糧難 (義兄の戦争体験から)

2015年08月30日 22時22分44秒 | その他
四 食糧難

 あの恐ろしい空襲で、焼け出されて、父のふるさとへ、つれて行かれ家族皆と無事に再会でき、父の産まれた家に行って皆で住めると思ったら、とんでもない出来事がおきました。一瞬どうしようかと思うほど、本当に恐かったことを思い出します。
 家に上がって、便所に行き、ゆっくりと出てきたら、父の母─自分のばあさんが、「今時分のこのこと戻ってきやがって、冗談じゃねぇ!」と、ものすごい剣幕でドロボーキをふりまわし、自分等を外に追い出したのです。その時は、本当の鬼ばばあに見えて恐かった。その時、いの一番に、外へ吹っ飛んで逃げたものです。本当にその時の恐さは今でも忘れません。あの大空襲で、怒り狂って、むこうみずに走り回った馬や牛、そして豚のようでした。
 そこを家族皆で後にして、父の「親分」である家に身を寄せたることになりました。「親分」というのは、なにもやましい事はないのです。当時、父の産まれたところのならわしで、数え十三才になるといっぱしの大人とみなされ、赤いふんどしをつけて、親戚等の人達でなく、全然赤の他人で、将来、何かあれば頼れる人、そして何かと相談して解決してもらえる人を選んで、親分・子分の儀式を行ったそうです。自分の家を追い出された父が頼ったのがその「親分」の家でした。本当に心良く受け入れてくれました。自分達の住む家が見つかるまでいさせてもらい、本当に感謝しました。自分もそういう「親分」を決め、赤ふんをつけて、その「親分」の家へ行ったことを思い出しました。そしてこの儀式は自分にとっては四十数年ぶりのなつかしい思い出でもあります。
 父の生まれ故郷に来て生活を始めましたが、食べ物がなく、いつも腹を空かし、栄養もとれなく、本当に住生しました。父は家族のために東京方面に出稼ぎに行き、一ヶ月に一回くらいしか帰ってこない状況でした。米はなし、味噌、醤油もなく、その為に家の庭にかぼちゃを植えました。そのかぼちゃは、今でいう牛の肥料となる「ふすま」といったと思います。そのふすまと家で作ったかぼちゃを煮込んで、それを三食食べて生きのびたのです。しかしそれを何とも思わず、毎日必死になって生きる為に頑張って食べたのです。今考えれば、そんなものでよく生きのびられたと思ってしまいます。
 自分達の先生の家に遊びに行ったときだと思います。またまた、そこでもかぼちゃが出てきました。いやだなぁと思いましたが、腹がへっているので、仲間と一緒に出されたかぼちゃをたいらげてしまいました。自分の家のかぼちゃより、うまかったので皆たいらげてしまったのでした。「意地がきたねーな」と思いましたが、後の祭りです。そうしたらなんともいえない不思議な事が起こったのでした。自分の身のまわりのものが、皆黄色く見え、「うわーこれは何と世の中が明るくなった」と喜んだのでした。
 その先生は、「自分の顔もだんだん黄色くなってきているぞ、皆見て見ろ」と言いました。一緒に行っていた仲間も、「本当だ顔が黄色いや」と叫んで自分の顔を見て喜んでいました。何故自分だけが、黄色い顔になったのかは全然解りませんでした。多分毎日かぼちゃとふすましか食べていなかったからだろうと思いました。
 そういう時期にもう一つ思い出すことがあります。それは米が何が何でも欲しいので、地元で取れた魚と少々の金を持って農家に行って米を買いに行った事です。これが米の買い出しなのです。いつもその買い出しに母は自分を連れていきました。
 わかりますか。父は漁師でしたが、その当時は沖に出る漁船など何もなく、漁に出られなかったのです。金を稼いで、一家を食わせていかなければならないために、出稼ぎに行っていたのです。父が出稼ぎに行って留守のため、小さくても自分の家には二人男がいたのですが、弟はまだ満一歳ちょっとであり、男として通用するのは、小さくても自分しかいなかったので、買い出しに行くときはいつも一緒だったということです。母と一緒に、二時間以上歩いて、お百姓さんに米を買いに行ったのです。
 そんな時の出来事です。一升ますの計り方がちょっと気になりました。それは、その米を売るばあさんが米を一升ますに入れて、それを平らにする時、やったことは本当に許せない行為でした。即ち、一升ますの米を、平らにする時、手の甲でちょっと押し、一升ますの表面の真中辺を少しへこませるのです。それを自分が見て、文句をいいました。
「ちょっと真平らにしてもらわねーと」といったところ、その米を計っていたばあさんが、今でも自分の首をとる様なおっかない顔をしてにらみつけたのです。それを見ていた母はすぐに察知して自分の方へふっとんできて文句をいったのでした。「だまらっしゃい!いいかげんにしなろ」とこづくのです。
 しかし、その時、自分は母の心を汲み取ることができず、「ちくしょう!いつもなら、間違ったことを絶対にするなよ」というくせに、本当にがっくりしました。今までのしつけは何だったのだと思いましたが、やはりおっかない母にいわれたので、母の後にさがっていました。
 先に外に出て、母が出てくるのをまっていました。出てきた母が自分に向かっていいました。
「あの様な態度をとると、米がもらえなくなるので、かんべんしてくれな」
 食糧難の時代には、まともなことがまともでなく、その時は皆が欲しがっている米を持っている人達のどんな行動でも通ったのだなあ…とつくづく思いました。そして、その後は何にも見ぬふりをして、母のあとについていきました。「ああ、なるほどなあ…やはり戦争が悪いのかなあ…」と思いました。「文句をいう野郎はこの大事な米をわけてもらえないよという時代だものなあ…」とがっくりしました。しかし、あのまともで気の短い母があそこでじっと我慢するということは、相当なものだと思います。本当に家族の皆の為に、米が欲しかったのだなぁと思いました。
 その米は何に使うのか─普段はその米は食わせてもらえませんでした。月に一回位帰宅する、東京方面に出稼ぎに行っている父の為のものでした。父が帰ってきた時、家族皆で白いごはんが食べられたのです。その時は、「本当にうまいなあ…」と思い、幸せな気分で一杯でした。
 自分は今でも、先生の所へ行ってかぼちゃを食べ、世の中が黄色く見え、げっと吐き気をもよおしかぼちゃの臭いが鼻について離れなかったことを思い出すと、かぼちゃだけは絶対に食べたくないとつくづく思います。本当に絶対に、今でも食べたくないのです。見るのもいやです。
 その当時、そのかぼちゃの種を、天日に干して、からからにしてそれを焼いて、いつもぽけっとに入れておいて、腹がへると、それを出して食べたものです。今でいうおやつかなぁと思います。それ程あの当時、食べ物がなく、どうして今日まで生きのびられたのかなぁとつくづく思います。それは何といっても食べられる物は牛の肥料しかなく、それを人間が食べてきたからだと思います。
 こんな時期には、栄養失調で死んだ人がたくさんいます。自分の弟もその一人でした。本当に弟は良い子でした。ひもじい思いをしても、明るくふるまっていて、そして子供ながら頭が良く、「将来たいしたものになるぞ」と両親も目をかけていましたが、百日咳で死にました。本当にかわいそうな弟と思います。生きていられるような食べ物が当時一杯あったらなあ…そうすれば、今の時代までも生きていられたと思います。
 弟の人生は、昭和一九年三月二十五日誕生し、昭和二十年十月二日に死去。本当に短い人生でした。

負けるが勝ち その4 グラマン機の襲来 (義兄の戦争体験より)

2015年08月30日 22時20分18秒 | その他
三 グラマン機の襲来

 三月九日のあの大空襲で焼け出され、近所の人、自分等の友達にも会わずに逃れ、何か悪いことをしたかの様に父のふるさとの漁師町に来てみれば、またまた違ったアメリカ軍の攻撃に出逢うことになりました。「一難去ってまた一難」とは正にこのことです。それはグラマン機の機銃掃射でした。
 先ずその機銃掃射の難から逃れるために防空壕を掘り、その入り口の前に生竹を切ってきて、それを半分に割ったものをうまく合わせて扉にして置いたものでした。あの生竹であれば機銃掃射の弾なんか当たっても、すべって横にそれるであろうと思い込んだことからでした。当時はそういうことを信じて疑わなかったのです。
 そうこうしている内にグラマンがやってきました。それの難から逃れるために急いで防空壕に向かう途中、そのグラマンが電柱の線すれすれに低空飛行してきて、操縦している人間の顔がありありと見えるのでした。二重にびっくりしました。そんな光景を見ていると、おっかないなんて全然思わなかったのでした。そして手を振ったりしたものです。逃げる途中の母に見つかり、こっぴどくおこられたものでした─「早く防空壕に入れ!」と。
 そういう状況の時、よく耳にしたものは「タッ、タッ、タッ」という音でした。これは、今思うとグラマンの機銃掃射の音であったように思われます。弾は当時何も見えなかったです。当時自分はあまりグラマンなんておっかなくないと思っていました。
 これは後で聞いた話ですが、あのグラマンが来襲してきた時、防空壕に入らずにいたお風呂屋さんの娘さん(自分達と同級生)があのグラマンの機銃掃射にあい、屋根、天井、そしておぜんを貫いて、その娘さんの腿を貫いたのでした。多分「機銃掃射なんか、おっかなくないや」と思って、グラマンがきても防空壕にはいらなかったために、あの様な大事故に出逢ったのだと思います。丁度、昼食時だったために、おぜんをかこんでちゃんとかしこまってごはんを食べていたときだそうです。運が良かったのか、悪かったのか解りませんが、それでも頭や顔に当たらなかったのが不幸中の幸いだと思います。
 その貫かれた腿を治療してくれる病院の先生方も避難していて、どこにいるかわからず、そのままにしておいたその娘さんは片足が不自由になってしまいました。現代であれば、色々薬等も自分の家に準備しているので何とか不自由にならずにいられたと思います。本当に痛かったと思います。聞くところによるとその娘さんは失神してしまったらしいです。ようやく思い直したことは、あの機銃掃射の弾を、生竹で防護出来るなんて本当にお笑い草だということでした。その娘さんの件が町じゅうすぐに知れ渡り、やはりグラマンも非常におっかないものだと解り、その時以来、グラマンがきたとふれがまわると皆ふっとんで防空壕に逃げ込んだ訳でした。今思うと本当に背筋がぞっとします。砂町でのB二九、そしてここでのグラマンと、自分は二回も違った恐ろしいことに出会ったのです。

負けるが勝ち その3 奇跡

2015年08月20日 23時34分30秒 | その他
二 奇跡

 大空襲のあった後、房州へ帰る汽車の中で奇跡中の奇跡が起こりました。本当に、本当なものか、大いに感慨ぶかいものでした。
 それは母と弟のことです。母と弟はこの悲惨な大空襲に遭遇しませんでした。空襲が激しくなり、また三月九日の大空襲の前、即ち三月四日にも空襲があり、自分の家の前の家に焼夷弾が落ち、その家と、右か左か忘れましたが、もう一軒の二軒焼けてしまいました。自分の家は、通りを挟んでいましたので、かろうじて焼けずに済みました。「東京の軍事工場街である砂町は危ない、いや東京全体が危ない」とちまたでうわさが立ち、それでは疎開先を探した方が良いという家族の意見が一致し、母が弟を連れて千葉の三里塚の方へ出掛けて行った丁度その留守に、あの大空襲があったのでした。
 母は風の便りで、大空襲で自分等が住んでいた砂町当たりは全部焼け野原になってしまい、そして相当数の人達が焼死したり、また水の中で死んだりしているそうだと聞かされたそうでした。焼け野原になったこと、焼け死んだ人達のことは解りますが、水の中で死んだ人達のことは、何故だろうと疑問がわくと思います。それはまわりが一面焼け野原になっている所では、身体が暑くて暑くて、たまらない状態になっていた為、少しでも身体を冷やそうと思い、一人が飛び込むと我先にと次々と飛び込み、先に飛び込んだ人達は次から次へと飛び込んでくる人達の下敷きになってしまい、息が出来なくなり、死んだということです。また、焼夷弾が落ちてきて、それから逃げようとして、川の中に次々と飛び込んだのも一因であると思います。
 すぐに母と弟は三里塚より砂町の方へ戻ろうと思い、砂町の方へ向ったのでしたが、全然交通手段はなく、歩いていくのはあまりにも遠く、そして弟をおぶっては、自分まで力つきて死んでしまうと思い、一旦房州の町に帰ってあらためて砂町に行き、私たちを探そうと思い、心を鬼にして泣く泣く房州の町へ戻ったそうです。そしていよいよ家族を探しに房州の町を出発し、汽車に乗って東京に向かったのでした。何とか無事に家族皆元気でいます様にと心から祈って汽車に乗ったとのことです。そして木更津あたりに来ると、何時も汽車の窓、即ちガラス窓はともかく、その外側の木の窓は、外が見えないように網戸を閉めさせられたのです。これは木更津航空隊のある場所で、一般の人達には見せないように閉めさせられたのです。そして、窓を閉めていたのが解除され、窓の外が見えないようになっていた木の窓を開け、ちょっと走ったところで、反対側からきた房州の町方面に向かう汽車─自分等が乗っていた汽車とすれ違ったのです。房州の町方面に向かって走る汽車の窓にうつっていた妹を母が偶然にも見たのです。本当に考えられないことが、起こったのです。妹に気がつき、「ああ、皆今房州の町に向かっているのだなぁ」と思い、「妹が生きているのであれば、取り残された家族は皆無事だ」と思い、次の駅で降り、房州の町に再び戻ったのでした。正にこれは奇跡中の奇跡という他ありません。その様な状況で妹が汽車の窓にて母に見つかるなんて、本当に不思議なことと思います。これは、先祖の人達が、会わせたもの、何と不思議なことだと思います。
 焼け野原になっている砂町に、家族皆を探しに行かなくても良かったのです。これが、妹を見なかったら、何にも解らず母は砂町に行って、自分等を何日もかかって探したかもしれません。それを思うと本当に良かったなぁーと思います。房州の町に帰り、家族皆と、無事に再会したのでした。自分等の様な幸せな家族もいたのですが、しかし、不幸な人達もずいぶんおりました。本当に自分等の家族は幸せな家族でした。ここでその当時に亡くなられた人達に、あらためて、お悔やみを申し上げます。  

なにわとも
生のわかれめ
その場にて
状況の
見極めによる               

負けるが勝ち その2 昭和20年3月9日の大空襲のこと

2015年08月18日 12時52分55秒 | その他
一 昭和二十年三月九日の大空襲のこと

 戦災にあった当時、自分は小学校二年の末でした。住んでいた場所は、東京かどうか覚えがありませんが、たしか城東区南砂町六丁目六の十四番地だと思います。それは多分自分の胸につけていた名札を覚えていたからだと思います。
 学校の登下校の際に、空襲に出合ったら、直ちにどこの家でも入って、そこの人の指示に従って避難することを、言い聞かされていました。この名札は、その時にこの子供はどこの子供か一目瞭然で解るようにつけさせられていたことを記憶しています。その名札は次の通りだと思います。

     鈴木岩央  八才
      血液型  B型    東京府城東区南砂町六丁目十四番地

 当時、戦争がはげしくなり、また空襲もはげしくなってきているので、学童疎開がはやっていた頃でした。自分たちも疎開しなければいけないのでしたが、まだ年がいかないのでダメになりました。疎開にいくことができる年齢は小学校三年生からでした。自分等は何にも世の中のことを知らないで、その集団疎開にあこがれていました。その時、すでに父母に自分達のことを心配しない様にと、疎開したら両親に聞かせてやれと先生に言われ、歌を覚えさせられました。自分は今この年になってもあの当時覚えさせられた歌の一番だけを覚えています。

「疎開してから、今日迄も、丸丸太ったこの身体、自慢じゃないが、見せたいな、白雪つもる、赤湯まち」

 この歌の意味は、疎開していて食べるものがなく腹がへってひもじい思いをしていても、両親にはいつもこの歌を歌って大丈夫だという思いを述べるためのものです。「今じゃ、こっちへきた為、こんなに丸丸太って遊んだり、勉強しているから安心してください」という意味で歌わせられたものだと思います。
 ただその様なことはどうでも良かったのです。本当は実際に皆と疎開したかったのです。今考えれば修学旅行の様なものと思っていたように感じます。だから、小学校三年生に早くなって、集団疎開したいなぁと思い、本当にその当時は子供ながら心がうきうきしていました。あの恐ろしいそして悲しい戦争など、全然眼中になかったのです。
 ところが三年になる直前、思い出したくもないのですが、あの三月九日の晩の大空襲に出合ってしまったのです。自分等が楽しみにして、心待ちしていた思いが一気にふっとんでしまったのです。今、思い出すとあの三月九日の晩の東京大空襲の前触れがあったのです。その前触れは三月四日のちょっとした空襲でした。この日、自分達が住んでいた東京南砂町の家の前、一軒と二軒先の右どなりの家に焼夷弾が落とされたのです。その二軒の人達はどうなったか記憶にありません。その時はたった二軒やられただけだったので、なんだ空襲とはこんなものかと思いました。他の家は焼夷弾も落とされず、家も焼けずに無事でした。
 あの恐ろしい、悲しい大空襲に出合った思い出の前に書いておきたいことがあります。それは防空壕のことです。その当時、お不動様の境内に防空壕を何故作ったかは記憶に残っています。当時の人達の簡単な判断で作られたということです。不思議といえば不思議です。すなわち、お不動様は火の神様であるから、境内に防空壕を作って、そこへ避難すれば絶対に焼夷弾等が落ちず、ましてや、火などで燃えるわけがないということで、ここに居れば安心して逃れられるということだったらしいです。
 が、しかしそんなことはすぐに吹き飛んでしまいました。三月九日の晩がやってきたからです。その夜、けたたましく空襲警報の合図が鳴りひびき、空にはすでにB二九がやってきて、それを探す探照灯が空を照らし、空は明るく昼間の様でした。
 誰ともなく「B二九がきたぞ、危ないから早く防空壕へ逃げろ」とどなっていたので、自分達も着の身着のままで、防空壕のあるお不動様の境内に、父、姉、妹そして自分と四人で早々と逃げ込んだのです。その内B二九がどんどん上空に飛んできて、所せましと焼夷弾をばらまく様に落としていったのです。その落ちた後は一瞬にして火の海となり、探照灯の明かりがなくとも、もうもうと燃え広がり、真っ赤に染まって昼の太陽より赤く燃えあがったのでした。あの寒い三月だというのに本当に暑苦しかった。それから皆が防空壕に避難し終わった直後、お不動様の向かって左側の小さな建物の屋根に焼夷弾が直撃し、その建物はみるみる内に燃え上がっていきました。それを見た父が、防空壕に避難していた人達にどなったのです。
「ここは危険だぞ!外に出て近くの広場に逃げた方が良いぞ」と。

 そんな中、父の意見に反対する人もいたと思います。自分達は父の言う通りに急いで近くの広場へと逃げました。翌朝確認したことですが、父に反対して防空壕から出ずにそのまま残った数人の人達は防空壕に焼夷弾は直撃しなかったけれど、まわりの爆風によって防空壕はぺちゃんこにつぶれてしまい生き埋めになって死んだそうです。本当に運というものは解らないものです。何はともあれ悲しく残念でたまりませんでした。子供心にもそう写ったのです。あの時もっと強く父が説得していたら、防空壕でなくなられた人達の生命は助かったのにと思うと本当に可哀想でたまりませんでした。御冥福を御祈り致します。
 防空壕から出て、広場に向かう途中、父は家に寄ってふとん包みをかつぎ出していました。このふとん包みは空襲の緊急時には、いつでも運び出せる様に、ふとんをくるんでそろえておいたものです。姉が妹をおぶって、自分はふとんをかついでいる父と手をつなぎ、四人一緒に近くの広場に逃げたのです。その広場にはもうすでに多勢の人達が逃げてきて集まっていました。広場で見たのは、上空にきて、焼夷弾を落としているB二九でした。何とそのB二九に向かって、日本の兵隊が高射砲を打っているのです。それがB二九の飛んでいる下あたりで爆発して煙が立ち、一瞬B二九が見えなくなりました。「ああB二九に当たった。バンザイ」と叫び、してやったりと思い喜んだのもつかの間、何とその煙がすっと消えた後、悠々とB二九が飛行しているではありませんか、何がなんだが解らず、「何だこれは」と思い、がっくりしました。後で聞いた話ですが、当時日本の高射砲は高度八千メートルしか届かなかったそうです。その情報をつかみ、それを計算に入れて、日本の高射砲に当たらない様に、高度一万二千メートルに飛行を定め、上空を悠々と飛行していたとのことでした。本当に戦争に勝つには、この位やらないと勝てないのだなぁとつくづく感じられました。さすが勝ったアメリカだなぁと思いましました。
 この大空襲で、恐ろしかったことは、子供心に胸の中ににきちっと刻まれています。それはB二九が落としていった焼夷弾でもなく、またその焼夷弾によって引き起こされた家々の火災でもなかったのです。それは先ず、B二九が落とした焼夷弾によって火の海と化し(あの闇夜の中で、まわりが真っ赤に燃え上がり、昼間よりも明るくそして地獄の様でした)、その火の海によって風が強く吹き始め、瓦、トタン板等が吹き飛んできて、身体にあたることでした。他の人達は着の身着のままで何も防ぐ物を持っていなかったけれど、自分達の方は父がかついで持ってきたふとんを頭の上にかぶせて、それらの難を逃れることができたのでした。まわりにいた人達にも、余ったふとんを貸してやり、後で感謝されました。

いつ迄も
我思い出す
怖いもの
空爆よりも
牛馬の方

 もっと恐ろしい光景を間の当たりにみました。それは、まわりが火の海であったため、今までおとなしかった家畜類の牛、馬そして豚等が、火のあおりを受けて、手当たり次第に吹っ飛んできて、人間に体当たりをして、その体当たりされた人間がまた吹っ飛ばされている光景です。口では言い表せないほどのものでした。正に地獄の中にいる様な思いでした。本当に恐かったです。今では遠い昔になりましたが、その地獄の光景は死ぬまで忘れることはないと思います。多分その様な物や動物にぶつかって死んだ人も数多くいたと思います。本当に地獄の絵図でした。
 その後右住左住していると、真夜中も過ぎ、あのB二九もどこかへ消え去り、「ふっ」といっきに疲れが出てきて、どこか座るところがないかと探し回った所、丁度、白くなって座り心地の良い場所があったので、そこへ座ろうとして近づき、そこに立ったら何とその白い場所は、水たまりでした。何で見間違ったのだろうか─それは多分まわりが焼け野原になって、赤い炎が蔓延していて、空も真っ赤になって、まわりの色が本来の色と違った風に見えたのだと思います。また気も動転していたのかもしれません。そしてその水たまりをコンクリートの様に白く見せたのだと思います。
 まわりはその様に痛々しく、そして赤い炎につつまれた光景でしたが、気候としては本来寒かったのです。今でもその時の事を思い出すと笑ってしまうのですが、ズボン等がびしゃびしゃになってしまって、寒くがたがたしていましたが、着替えなど持っていないのでどうしようかと思っていた矢先に、父がはいていたももしきをぬいで自分に渡し、「これをはけ」と言いい、ふんまらになってガタガタしている自分がそのももしきをはきました。それが何と大きくて、胸から肩くらいにまでなっていました。昔のももしきは父であれば腰の所位に丁度良い様に、ひもがしめられる様になっていたのです。それが小さい自分がはくと、確か肩の所で縛って、手も出ない様なおもしろいかっこうになってしまいました。本当に他人が見れば、「この子は何をやっているのだろうか、こんな時に!」と不思議に思って笑ったことだろうと思います。今思えば本当にはずかしい思いをしました。朝方自分達の家の焼け跡に向かって行くときに、まだ少しぬれていた自分のズボンをはいてとぼとぼと歩いて行きました。その頃になると本当に寒く、あのB二九にやられた焼け野原の火、動物、瓦等から逃れてさまよったのでした。

人知れず
我の心に
おさめられ
寒々とした
真赤な夜空

 後に残されたものは、悲惨な光景─焼け跡に残された灰のみになった惨害だけとなっていました。あれだけ家々が立ち並んでいた所が何もなく、いわゆる焼け野原と化してしまったのです。まわりが明るくなっていき、日が射してくる頃、今度は目が真っ赤になってしまい、目をあけていられないほど痛くて仕様がありませんでした。痛い目を洗おうとしても、洗えるようなきれいな水が無く、住生しました。腹もへってきてどうしようもなく、茫然としながら、自分達が住んでいた家まできました。自分達の家も当然ながら丸焼けになっており、近所まわりの家は全部焼けていました。
 がしかし、またまた助かったことを未だに忘れません。自分の家は習慣的に夜になると、明日朝のごはんをたくのに必ず米をといで準備しておくのです。父が探したところ、真っ黒焦げになったご飯の入っている釜を見つけたのです。その真っ黒焦げになったご飯は、今ではとうてい食べれませんが、その時は何とおいしく食べることができ、腹の足しになったわけです。
 当時としてはちょっと考えられないことですが、遠く離れている佃島は空襲にやられなかったという情報がどこからともなく伝わってきました。それでは伯父の住んでいる佃島に行けば何か良い事があると思って、佃島に行こうと決まり、その様子を見に姉が一人で向かったのですが、途中東陽町にある東陽公園あたりにさしかかると死人の山で、それを整理している人達で一杯となり、先に行ける様な状況でなかったらしいのです。それで先に進むことを断念してやむを得ず私たちの待っているところへ引き返してきたのでした。後で聞いた話ですが、その東陽公園はの死人の山をどの様に処理したかというと、その場でその山に火をつけて燃やしたとのことです。今では到底考えられるものではありません。そうこうしている内に、父のふるさとである房州の町に行こうということになり、早速この南砂町から鉄道の通っている小岩方面に向かって皆で歩き始めることになりました。
 その時、母と弟は私たちと一緒にいませんでした。この様な空襲が激しくなると身の危険が迫るので、千葉県三里塚方面に家族皆の疎開先を探しに行っていたのでした。これもその当時の情報で、探しに行っている三里塚方面は多分空襲にはやられていないだろうから、先ず私たちと同様、母と弟は生きていることに間違いないと思って、私たちも房州町に向かったのです。多分房州の町に行けば必ず二人に会えることを信じて先を急ぎました。小岩方面に行くのには、荒川沿いに歩くことだと思い皆で行きました。それが小岩方面でなく、着いたところはちょっと定かではありませんが、平井あたりだったと思います。その途中、川の縁を通ると、川の中で死んで浮かんでいる人達がごろごろいました。正に地獄の様でした。

川べりを
背負う我が子の
死知りつつも
空爆逃れ
急ぐ母の身

 また、前の方に子供をおぶった女の人が歩いていました。それが何と死んだ子供をおぶって、何やらぶつぶつつぶやきながら歩いていたのです。その女の人はおぶっている子供が死んでいることに、気づいている様にも思えました。皆寒々とした光景にうつりました。


あやしても
声をかけても
背に居る子
動ずことなく
不憫な姿

 腹のへっていることさえ忘れている感じでした。平井駅の周辺だとおもいます。何やら前方で人の群がりがあって、がやがやさわがしいのです。何だろうと思って近くに行くと縁台の上にむすびが山のように並べられており、私たちの様な焼け出された人達にむすびを作ってくれた人達、今で言うボランティアの様で本当にすがすがしく思いました。そのむすびを作ってくれた人達が、私たちに向かって次の様にいってました。
「皆さま、どなたでも結構だから、このむすびを食べて水を飲んでいって下さい。しかしむすびは二つ、水は一杯ですよ」
 その声を聞いた途端、急に腹が減っていたことに気づき、急いでむすび二つをほうばり、のどにつかえる位はやくのみ込んだ後、水一杯飲みほっとしました。本当はどこにどうやって腹の中に入ったのか解りませんがともかく、少しは腹の足しになりました。本当に助かりました。正に仏様の様な人達もいるのだなぁと思い、この寒い中であっても、すごく暖かくなり、気持ちをおだやかにさせてくれました。しかしまだ食べたかったので、「二つだけじゃ、物足りないからもっとほしい」と自分が言ったら、父にこっぴどくしかられました。
「まだまだ後から自分等の様に腹を空かして、生命からがらになって来る人が、どんどん来るんだぞ、そういう人達のためにも、また少しでも多くの人達を助けるために、二つで我慢しろ」と強く言われました。今だから、ああそうか、何と情けないことを言ってしまったのだと思うことが出来るのですが、その時は「何をこの親父」と思ったに違いありません。感謝の念を抱いてその場を立ち去りました。
 少し歩いて、汽車に乗って、房州の町に向かいました。今一番残念と思い、また悔いの残ることがあります。それは、あの大空襲に出合って無我夢中で逃げまわっている時のことです。今まで一緒に学校に通っていた友達のことを思い出すことが出来なかったことです。その後、その友達とは、誰一人として会えなかったのです。本当にどうしているのかなぁ…。

いつまでも
心のすみに
残る傷
友の行方
いずこにあるか


つづく

負けるが勝ち その1 はじめに

2015年08月18日 12時40分12秒 | その他
はじめに

 これから書こうとすることは、私たちの時代に育った子供達が経験した事です。それは、あの戦争がいかに何もかも破壊し、そして人は、人との縁を遠くされ、音信不通となり、悲しい世間を渡り歩いてきたか、現代の子供達に解ってもらいたいと思ったからです。
 本当は思い出したくもないことですが、あえてここに記述することにしました。ただ単にB二九やグラマンがおっかないということでなく、それらの出来事により、いろんな不幸を招き、私たちをどんなにか苦しめたかを書き記しておきたかったのです。あの昭和二十年三月九日の晩の大空襲に出会ったのが事の始まりだと自分は信じています。この大空襲がなかったら、あの奇跡、弟の死、そして、あの怖ろしい二度と思い出したくない、いじめ等に出合うことなく平和に暮らしていたと思います。
 いじめられても、いじめられても自分に負けず頑張って、くじけず、家に閉じこもらず外に出て良い仲間と遊び学校に行くことを心から望んでいます。必ず勝ちます。当時自分に対して、母の言ったあの強烈な言葉を今でも忘れません。それは「負けるが勝ち」だという言葉です。この言葉があったからこそ今日の自分があり、これまでの人生を頑張れたと思います。
 あえて、いま一度強調しておきたいと思います。「負けるが勝ち!」」本当に二度とあの悲惨な大空襲がおきない様にと心から思う次第です。

今の日も
夢に迄見る
爆弾を
投下されし後
あの焼け野原

暑い夜
わき振りむかず
逃げまわり
思いもかけず
遊んだ仲間

寒い中
焼夷弾で
真夜中を
昼間の様に
赤々燃えて


戦後70年 きょうだいたちの体験

2015年08月18日 12時29分19秒 | その他
僕は、4人きょうだいの末っ子にうまれた。
もはや戦後ではないと経済白書が書いた、1956年生まれである。
一番上の兄は、僕とは12歳離れており、1944年生まれである。兄は、一昨年冬、70歳の古希を楽しみにしながらも、69歳の冬に亡くなった。突然のことだった。
姉が2人。今年で上の姉が70歳、その下の姉が68歳である。
今年は、戦後70年。亡くなった兄のことをおもい、義兄も含めて、その戦後をおってみたい。

以前に、一番上の姉の夫、義兄にあたるが、その手記をまとめたことがあったので、それを掲載していくこととしたい。
表題は、「負けるが勝ち」とあった。