1960年代から70年代の京都の障害児教育について聞き取りをしている。
その中で、興味深い話や資料を着させていただいたり、見せていただいている。
その一つ、全国障害者問題研究会京都支部『地方自治と障害者のくらし』(1971年)をみせていただいた。その中にある親御さんの一連のエピソードが出てくる。以下の部分である(9-12頁)。よく知られている「あの子がだいじにされんかったら、ぼくかてだいじにされんのやで!」という一言は実に多くの歴史的前提を背景として出されたものであり、また、それを起点に障害児教育の歴史を作っていったものであったことにようやく気づき始めてきた。
〈みんなが発達と変革を〉
さいごに、ある障害者と母親の対話の中から、発達と変革の道筋をくみとりながら結んでいきたいと思います。
○ Mさんは、知恵おくれのS君の将来の道すじを求めて、いろんな集会にさんかしてきました。数年まえ、ある集会に参加したMさんは、助言者である某先生の「過保護・溺愛」ということばに、思わず発言しました。「私は、こんなおおぜいの人の前で、何もよう言いませんが、このことだけは言わしてください。先生は『過保護・過保護』と岩張りますけど、私は好きで過保護しているとちがいます。『獅子は千尋の谷に我が子を落とす』といいます。私かて、あの子をそうして鍛えたいと思います。そやけど、あの子を突き落としたら死んでしまいますがな。今の日本では、だれも、政府も、それを受けてとめてくれません。下に網でも張って受けとめてくれる世の中やったら、私かてあの子を突き落としても心配はしません。」このMさんの発言を会場はじっとかみしめました。
○ S君はまもなく18才。今まで学校へも入れてもらえず、W学園もまもなく退所しなければならなくなりました。Mさんも養護学校づくりや授産所づくりの運得応に参加してきましたが、いよいよ与謝の海養護学校の開設も近づき、S君が初めてはいれる学校になりそうだと、息子さんに話しました。「学校へ入ったら、字、書けるようになるんけ?学校出たら、仕事して働けるようになるんけ?」と希望に燃えたS君は、“学校にはいれる”ときいたことから、字の練習に一生懸命になりました。そしてまた、「働いて、お金ためて、大好きなH先生にプレゼントをしたいんや」と、かあさんに相談をもちかけました。「ステレオあげるんやったらそんなお金貯めるまでに、先生は70すぎになってしまうで」「そうか、そんなら先生死んでしもてるかもしらんな、そしたら先生のお花kにかざって、それから学園へ寄附するわ」S君はH先生に同じ話をもちかけました。「かあちゃん、先生なア、ぼくがステレオお墓にかざったら、『先生のお墓、ガタガタゆれて喜ぶわ』言わはった。」と。このS君の豊かな発達を、いっそう保障するためにと、Mさんの確信と決意は強まっていきました。
○ ちょうどそのころ大好きなH先生が転勤されることになりました。お別れ式の前日、先生はS君に「あしたあのお別れ式には泣いたらあかんで」と。翌日、お別れ期にがすんでからS君はH先生に「ぼく泣かんと頑張ってたんやで。」そして家に帰って、かあさんに言いました。「ぼく、がまんして泣かんかったのに、先生にそういうたら返事だけしてこっち向いてくれへんかった。先生きっと泣いてたんやで、ぼくに泣いたらあかん言うてはったのに。あんな気の弱いことで、こんど行くと子でつとまるやろか。」この豊かな心情に、Mさんはまた絶句しました。
「うちの子は太陽の子です!!」
○ ある時、行政との話し合いにMさんも出席しました。衛生行政を担当している係の人が、「発生予防」について発言し、「ふしあわせな子ではなくて、健康な子を産み育てるために」と言い及んだとき、Mさんはきびしく講義しました。「うちの子は、知恵おくれで、18にもなるのにまだ学校へも入れてもらえません。そやけど、うちの子は決してふしあわせではありません。太陽の子です!この子をふしあわせにしているのは政治です。その政治を変えてもらわんならんのです!」と。Mさんが運動に加わりながら、みんなで障害児の発達の道すじを追求する中で得た、Mさんの確信に満ちた抗議でした。
○ S君はことし与謝の海養護学校中学部2年生です。5月のある日、Mさんは学校まで出かけていきました。そしてS君達が耕した青々とした水田に、「きれいやなあ。きもちがいいなあ」ともらしました。S君は、すかさずかあさんに言いました。「イッケンやさしそうみ見えるけど、田んぼの中はヌルヌルして、気持ちわるうて、足のうらがすべって、たいへんなんやで。」労働の厳しさと喜びを身をもって体験したS君の言葉は、Mさんにしっかりと焼きつきました。
「あの子がだいじにされんかったら、ぼくかてだいじにされんのやで!」
○ 学校の寄宿舎には、10才の重度重症の子どもたちから19才になったS君まで、同じ部屋で生活しています。Mさんは、こうした学校生活の中で、S君の発達がもっと遅れた子どものために頭打ちになりはしないかという不安がありました。夏休みに帰ってきたS君に、それとなくたずねてみました。S君は「おかあちゃん、なに言うているのや、あの子がだいじにされんかったら、ぼくらかてだいじにされんのやで。あの子がだいじにさららた、ぼくらかてだいじにされるのや。」
このように、障害者運動や民主運動に参加し、障害者(児)を中心員親と教師が固く地域と連帯していくなかで、子どもたちはすばらしい発達をとげていき、親や教師や知己の人々も変革していくのです。このおうな事例から、貴重な教訓を学びとるたびに、民主府市政をいっそう前進させることが、障害者の発達と権利の角とにに、そして、すべての人々の権利保障にかたく結びつくことを痛感するのです。
その中で、興味深い話や資料を着させていただいたり、見せていただいている。
その一つ、全国障害者問題研究会京都支部『地方自治と障害者のくらし』(1971年)をみせていただいた。その中にある親御さんの一連のエピソードが出てくる。以下の部分である(9-12頁)。よく知られている「あの子がだいじにされんかったら、ぼくかてだいじにされんのやで!」という一言は実に多くの歴史的前提を背景として出されたものであり、また、それを起点に障害児教育の歴史を作っていったものであったことにようやく気づき始めてきた。
〈みんなが発達と変革を〉
さいごに、ある障害者と母親の対話の中から、発達と変革の道筋をくみとりながら結んでいきたいと思います。
○ Mさんは、知恵おくれのS君の将来の道すじを求めて、いろんな集会にさんかしてきました。数年まえ、ある集会に参加したMさんは、助言者である某先生の「過保護・溺愛」ということばに、思わず発言しました。「私は、こんなおおぜいの人の前で、何もよう言いませんが、このことだけは言わしてください。先生は『過保護・過保護』と岩張りますけど、私は好きで過保護しているとちがいます。『獅子は千尋の谷に我が子を落とす』といいます。私かて、あの子をそうして鍛えたいと思います。そやけど、あの子を突き落としたら死んでしまいますがな。今の日本では、だれも、政府も、それを受けてとめてくれません。下に網でも張って受けとめてくれる世の中やったら、私かてあの子を突き落としても心配はしません。」このMさんの発言を会場はじっとかみしめました。
○ S君はまもなく18才。今まで学校へも入れてもらえず、W学園もまもなく退所しなければならなくなりました。Mさんも養護学校づくりや授産所づくりの運得応に参加してきましたが、いよいよ与謝の海養護学校の開設も近づき、S君が初めてはいれる学校になりそうだと、息子さんに話しました。「学校へ入ったら、字、書けるようになるんけ?学校出たら、仕事して働けるようになるんけ?」と希望に燃えたS君は、“学校にはいれる”ときいたことから、字の練習に一生懸命になりました。そしてまた、「働いて、お金ためて、大好きなH先生にプレゼントをしたいんや」と、かあさんに相談をもちかけました。「ステレオあげるんやったらそんなお金貯めるまでに、先生は70すぎになってしまうで」「そうか、そんなら先生死んでしもてるかもしらんな、そしたら先生のお花kにかざって、それから学園へ寄附するわ」S君はH先生に同じ話をもちかけました。「かあちゃん、先生なア、ぼくがステレオお墓にかざったら、『先生のお墓、ガタガタゆれて喜ぶわ』言わはった。」と。このS君の豊かな発達を、いっそう保障するためにと、Mさんの確信と決意は強まっていきました。
○ ちょうどそのころ大好きなH先生が転勤されることになりました。お別れ式の前日、先生はS君に「あしたあのお別れ式には泣いたらあかんで」と。翌日、お別れ期にがすんでからS君はH先生に「ぼく泣かんと頑張ってたんやで。」そして家に帰って、かあさんに言いました。「ぼく、がまんして泣かんかったのに、先生にそういうたら返事だけしてこっち向いてくれへんかった。先生きっと泣いてたんやで、ぼくに泣いたらあかん言うてはったのに。あんな気の弱いことで、こんど行くと子でつとまるやろか。」この豊かな心情に、Mさんはまた絶句しました。
「うちの子は太陽の子です!!」
○ ある時、行政との話し合いにMさんも出席しました。衛生行政を担当している係の人が、「発生予防」について発言し、「ふしあわせな子ではなくて、健康な子を産み育てるために」と言い及んだとき、Mさんはきびしく講義しました。「うちの子は、知恵おくれで、18にもなるのにまだ学校へも入れてもらえません。そやけど、うちの子は決してふしあわせではありません。太陽の子です!この子をふしあわせにしているのは政治です。その政治を変えてもらわんならんのです!」と。Mさんが運動に加わりながら、みんなで障害児の発達の道すじを追求する中で得た、Mさんの確信に満ちた抗議でした。
○ S君はことし与謝の海養護学校中学部2年生です。5月のある日、Mさんは学校まで出かけていきました。そしてS君達が耕した青々とした水田に、「きれいやなあ。きもちがいいなあ」ともらしました。S君は、すかさずかあさんに言いました。「イッケンやさしそうみ見えるけど、田んぼの中はヌルヌルして、気持ちわるうて、足のうらがすべって、たいへんなんやで。」労働の厳しさと喜びを身をもって体験したS君の言葉は、Mさんにしっかりと焼きつきました。
「あの子がだいじにされんかったら、ぼくかてだいじにされんのやで!」
○ 学校の寄宿舎には、10才の重度重症の子どもたちから19才になったS君まで、同じ部屋で生活しています。Mさんは、こうした学校生活の中で、S君の発達がもっと遅れた子どものために頭打ちになりはしないかという不安がありました。夏休みに帰ってきたS君に、それとなくたずねてみました。S君は「おかあちゃん、なに言うているのや、あの子がだいじにされんかったら、ぼくらかてだいじにされんのやで。あの子がだいじにさららた、ぼくらかてだいじにされるのや。」
このように、障害者運動や民主運動に参加し、障害者(児)を中心員親と教師が固く地域と連帯していくなかで、子どもたちはすばらしい発達をとげていき、親や教師や知己の人々も変革していくのです。このおうな事例から、貴重な教訓を学びとるたびに、民主府市政をいっそう前進させることが、障害者の発達と権利の角とにに、そして、すべての人々の権利保障にかたく結びつくことを痛感するのです。
太陽の子のハナシ
その場に居ただけに みんな泣きながら そうや そうや と言った。
あの頃 苦しくて 哀しいことばかり でも みんなで励まして 笑えて帰った。
与謝の海養護学校は針の山をみんなで歩きながら 笑いを広げて運動した。障害者のよろこびもすごかった。
おばちゃん おばちゃん言ってたけど、必死の中に人間の暖かさが溢れてた。
何度 読んでも 泣ける。涙がとまらない。涙の向こうにあった学校が開校した。
本当の与謝の話しを知って、涙して、笑顔になろう。
まなさん ご意見ください。