AKB48 チームBのファンより

鈴木紫帆里さんを中心にAKB48 チームB について語るサイトです。

指原莉乃 化粧品CM(総選挙分析ライター)

2012-10-06 12:00:00 | チームA・チームK・SDN48
指原莉乃 化粧品CM(総選挙分析ライター)


指原が10月5日より化粧品のCMに出ている。あまり聞いたことがない「なめらか本舗」という会社の化粧品を宣伝し始めた。

CMは15秒1本で30秒は作られていない。だが、このCMの出来はなかなかいい。特に出だしで新曲の『意気地なしマスカレード』を5秒間「意気地なしのマスカレード、本当の気持ち仮面つけて」を衣装とバスタオル姿の2カットで歌っていて、この映像がきれいだ。

この会社のホームページを見ると、CMのほかに3分強のメイキング映像も掲載されていて、こちらは指原のバスタオル姿での撮影風景とその感想が載っていて楽しめる。
指原CM メイキング映像(PCのみ)

CMを見ていて気付いたのは、9月29日放送の「メレンゲ」に指原がゲスト出演して、その際指原の自宅の映像シーンがあり、そのなかの1カットに「最近やっと化粧品と乳液を始めました。今までは顔も水でしか洗ったことがないのですが、これからは洗顔にもチャレンジしようと思います」と指原が語って、特に化粧品の洗顔、クリーム、化粧水2本、乳液の5品が数秒映されていたが、実はこの化粧品が今回CMにでていた商品だった。

ちゃっかり、事前に宣伝していた。そういえば、指原が「メレンゲ」で公開した映像を見てみると、自身がCMに出ていた日清食品のカップヌードルもしっかり映していたので、CMのスポンサーになかなかの気の配りようだ。

AKB48メンバーから化粧品のCMに起用されたのは篠田麻里子がこの8月からロート製薬に出ているので、筆者の知る限りでは指原はAKB関連メンバーで2番目になりそうだ。小嶋陽菜は資生堂のTUBAKIに出ているが、TUBAKIはシャンプーなので化粧品ではない。

今年の4月に高橋みなみが外資化粧品のランコムのマスカラ、渡辺麻友と峯岸みなみがDiorのリップスティックのイベントに出たが、これはあくまで一時的なゲスト出演だ。

化粧品会社はCMに起用するタレントのイメージを大事にする。指原は6月にスキャンダルがあったので、その点ではハンディキャップがあったはずだがそれにもかかわらず、AKBの錚々たるメンバーの中で篠田麻里子の次に化粧品のCMに起用されたのだから驚きだ。一方で、今回宣伝する化粧品の名称は「豆乳~」となっている。以前指原はバストを大きくするため「豆乳を飲んでいる」という裏事情を大島優子にブログに書かれて、「豆乳と言えば指原」というイメージになったほど。後者が優先したならば、それはそれで最もなのだが、化粧品を購入するのは女性だから、このような裏事情が優先したとは思えない。そうすると、純然たる理由(好感度、知名度、イメージ、美しさ等)でCMに起用されたと見るのが妥当なので、スキャンダルの影響はかなり薄まってきたと見てよいかもしれない。


以上

コメント (2)
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アイドルの楽しみは、アナロジー(ナッキー)

2012-10-06 00:00:51 | アイドル論
アイドルの楽しみは、アナロジー(ナッキー)

経営者の講話を聞きました。その趣旨は、
物事の本質をつかむため、アナロジー(類推)の発想をよく使う。
アナロジーとは「類似の点をもとにして、他を推しはかること」を意味する。「これは何かに似ていないか」「何かと共通性はないか」と考える。
経営者がマクロな判断を求められる時には、現実の世界で行われている経済活動の情報のシャワーを浴びて、情報同士のアナロジーが浮かび上がらせ、本質をスクリーニングする。
職場でミクロな判断を求められる時には、職場内でのコミュニケーションで先輩・同僚の知見を共有することにより、類似なものが自分の業務に発生した時に、自分がすぐに何をやらなければいけないか類推し、ひとりひとりが即座に理解して行動に移すことが大事。

不埒な私は、講話を聞きながら、チームBのファンよりブログを書いているのは、アイドルという文化をアナロジーで論じているのだなあと、頭の中は、仕事ではなく、アイドルが。

アイドルの歴史を回顧して、昔のアイドルと、今のアイドルの共通性・違いを浮かび上がらせ、アイドルという文化の本質を考える、というアナロジー。

アイドル以外の文化(例えば、スポーツ・政党政治、落語、バロック音楽)を知ることで、(共有することで)、類似なものがアイドル文化に見つかった時に、自分がすぐに何を論じなければならないか類推する。

会社の仕事でも、類推は活用し、共通の理解を得て、相手を説得していきますが、
これって、アイドル鑑賞・アイドルを文化として楽しむことで得た、アナロジーという手法を会社で活用していること。
つまり、会社で仕事ができるのは、アイドルのおかげ。(論理の飛躍と、牽強付会)

世の中のあらゆる事象を、アイドルとのアナロジーで語るのは、他のアイドルブログではあまり例のない、「チームBのファンより」の個性かと。

ナッキー

関連記事をリンク、エッセンスを引用
アイドルを趣味のジャンルとして後世に残すために、落語評論を勉強する
「江戸の昔から、日本には、いろいろな文化があったでしょう。
落語のように、現代に残っている文化もあり、消えてしまった文化もあり。
落語が文化として継承され続けているのは、落語評論の力が大きい。
評論されることで、落語の文化としてのレベルが上がるし、鑑賞者が増えることで収入を得る。
どんなに素晴らしい文化でも、儲からなければ、消えてしまう。
新しいファンを増やし続けたのは、もちろん落語そのものの面白さによるが、落語の面白さを語り続けた評論家の力も大きい。

落語の本から、アイドル鑑賞にも当てはまるロジック 
(置換え引用)
アイドルの評論は、アイドルを愛するがゆえに、やむにやまれぬ情熱をもって、「アイドルのために」書かれるものでなくてはいけない。
(原文)
「落語は文学ではない。話芸だ。」
(なぞらえ)
アイドルは音楽ではない。歌を手段として「見せる(魅せる)芸」だ。

落語の普遍性、アイドルの普遍性
普遍的な落語は存在しない。一方、落語は普遍性を獲得しなくてはならない。
(感想)
落語とアイドルに共通する点として、
マニアにだけしか鑑賞されない落語(とアイドル)は、文化として衰退する
(マニアではない)普通のお客さんが楽しめるという「普遍性」が落語(とアイドル)には必要である。普遍性がないと、文化として継承されていくことは難しい。

日本文化、アイドル文化、落語、相撲、そして・・・ (ナッキー)
71年南沙織のデビューによるアイドル黎明から、長年アイドルの歴史研究をしていて、不当に低く評価されているアイドルと、逆に高く評価されているアイドルがいる。
それは、記憶がうすれてしまうから。
野球と違って、数字が残らないから。
アイドルとして引退した後で、マスコミに登場した印象に左右されるから。(桜田淳子、酒井法子)
野球研究には、oral historyというジャンルがあり、ファンにより語り継がれた野球史をつづっている。私が書くブログ記事は、アイドルにおけるoral historyを目指しているいいのです。

文化として生き残るには、自ら変化しなくてはならない (ナッキー)
皇室とアイドルの共通点は何でしょうか。
私は、皇室もアイドルも、日本文化で、かつ、継承の危機にあるという共通点があると考えます。

皇室とアイドルのアナロジー
「アイドル」そのものが、よく分からないじゃないですか。
「アイドルって何?」って聞かれて、スラスラ答えられる人が、どのくらいいるでしょう。あらためて、考えてみると、アイドルって、現代でもけっして小さくない、それもなかなか明快には解きにくい謎のひとつではありませんか。

マダム・タッソーは美術か、アイドルは文化か(ナッキー)
マダム・タッソーの人形を評した論者は、作家性のある作品は美術・芸術と呼ばれ、写実性の作品は、美術・芸術と呼ばれる必要はない、何故なら、呼ばれなくても作品として成立するから、と語っている。
同じ論理を、アイドルに適用すると、アイドルは文化と呼ばれる必要ななく、それ自体で作品として成立する(言い換えると、アイドルを愛好する者を楽しませることができる)となる。
でも、私は、アイドルが文化を呼ばれることを望み、それにこだわる。

エジンバラでアダム・スミスの像を見て、AKB48を思う(ナッキー)
「AKB48が売れたのも、神の見えざる手」、と言うと、原典の「価格の自動調整」の意味から離れますが、
アイドルの供給が豊富になると、消費者は飽きて、他の音楽・芸能を選択し、
アイドルの供給が希薄になると、日本人に組み込まれたアイドル好きの遺伝子が作用して、その時点で「質の高いアイドル」が人気をつかむ。

1927年の口パク ロンドン観劇でアイドルの歴史を考える(ナッキー)
演技ができないのに、人気女優として多くの映画に主演したのは、美しかったら。
1920年代のアメリカが、現代の日本のアイドルに通じる。
演技ができないのに、人気女優として多くの映画に主演したのは、可愛かったから。
山口百恵がそうだったし、前田敦子もそう。

アイドルグループは、サッカー(KC)
AKBのステージ16人、サッカー11人、いずれも一人一人のパフォーマンスが、チーム全体に影響する。
アイドルグループは、サッカーチームのように。なるほど。
大切なのはチームが勝つこと(Overtake)


党議拘束、恋愛禁止、やめた方がダイナミックになる(ナッキー)
党議拘束と恋愛禁止がなくなったら、
政治:政党ではなく、政治家個人が評価されるので、どの法案に賛成し、どの法案に反対するかを真剣に考えるようになる。
アイドルも、恋愛自由にした方が、
恋愛をしていないふりをするという伝統にのっとり、アイドルとして輝いている恋愛をしていると皆が知っているけど、アイドルとして輝いているアイドルがファンに評価される。
つまり、恋愛の有無にかかわらず、アイドルとして輝いているか否かという観点のみで評価されるようになり、アイドルの質が向上する。

18世紀の音楽家ハッセと、現代のアイドルには共通するものがある。 (ナッキー)
アイドルの歌とは、アイドル性を超絶表現するための芸能であり、音楽より、アイドルが歌うことが優先するため、異様に「可愛らしく」華やかだが、同時に恐ろしく薄っぺらに聞こえる。
アイドルの曲を見ると、クジャクが羽を見せびらかすように、可愛らしさの妙技と衣装と振り付けを見せびらかしている歌手の姿が目に浮かび、ファンでない人にはたまにちょっとしらけたりもする。だがそれがいいと、言い切ってしまおう。ファンである人には、たまらない魅力なのだから。

完全な再現は不可能なオペラのカストラート とアイドルの恋愛禁止 (ナッキー)
恋愛自由になった後のアイドルは、後世において、
「恋愛禁止が当たり前だった頃のアイドルは、本当の意味でアイドルであった。
人道的見地から、恋愛自由になってからのアイドルは、恋愛禁止時代の純粋なアイドルを再現できない。」
と言われるようになる、

平安時代には、シアターがあった。 選抜もあった。 (ナッキー)
あまつかぜ 雲のかよひぢ 吹きとぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ
解説書によると、天女は天上(=内裏)で舞っているのである。
<<ここが、平安時代のシアター。>>
解説書によると、歌われている舞台は、五節は新嘗祭などで舞われた少女楽で、公卿・国司の娘より美しい少女を四、五名選んで舞姫に召した。
<<彼女たちは、平安時代の選抜>>

山口百恵が万葉集、桜田淳子が古今和歌集 その1
山口百恵は、万葉集で、桜田淳子は、古今和歌集である。
山口百恵の「青い果実」と「ひと夏の経験」には、「あなたが望むなら私何をされてもいいわ」「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」とストレートな愛を歌っているから万葉集。
桜田淳子の「気まぐれビーナス」は、
「去年のトマトは青くて硬かったわ、だけどいかがもう今年は赤いでしょう、味もきっと唇とろかすはずよ、こんな言葉突然言われたら、あなたはどうしますか」と、
自分をトマトに喩えていて(つまりストレートではなく)、この阿久悠の歌詞が、映画か小説をベースにしているから、古今和歌集。

山口百恵が万葉集、桜田淳子が古今和歌集 その2
あなたがのぞむなら私なにをされてもいいわと告白した山口百恵は、万葉集で、
私がそよ風ならばあなたは大きな花ねと喩えた桜田淳子は、古今和歌集というアイドル史学の故事をふんでいる。

市川美織のどこが新古今和歌集か 阿部マリアのどこが万葉集か (ナッキー)

「目撃者」ベルリンの壁・天安門事件の解釈についての記事 を一箇所に集約

原発とアイドルのアナロジー まとめ
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