tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

海の仙人 (新潮文庫) 絲山 秋子

2007-11-07 20:06:51 | book

”老人は審(いぶか)しさうな眼つきをしながら、ぢつと杜子春の顔を見つめました。
 「何、贅沢に飽きたのぢやありません。人間といふものに愛想がつきたのです。」”
芥川龍之介の杜子春の一節だ。
杜子春は仙人から2度も金銀財宝のありかを教えてもらったが、この物語の主人公の河野勝男は3億の宝くじを当てて、それを機会にデパート勤めを止めて敦賀の海辺の町へと引っ越しては、仕事に就かず投資もしないでリタイアに近い生活を始める。急に大金持ちになっても、質素に暮らすところが杜子春とは違うところだ。彼には仙人になる素質があったのだろう。そして物語は、河野の所に「ファンタジー」と呼ばれる、何の役にも立たない神様が現れて一緒に生活をはじめるところから幕を開ける。

世俗を超越する河野。雷にうたれても、どんな誘惑が来ても、大きく生活を変えることはない。無常の世の中でつまらない余生を送るくらいなら、いっそ俗世を捨てて仙人にとでも彼は考えているのだろうか。近親相姦という心に大きなトラウマを持つ彼は、癒されることのない傷口とうまく折り合って生きてきたのだろう。そして、彼を取り巻く2人の女性。どちらも大切にしたいけれどそうはいかない関係だが、彼は永遠に関係が進展しないように見える女性を選び、過去に姉との関係から負った心の傷を埋めきれないまま、体を重ねない淡々としたつき合いを続ける。その果てに悲しい別離が訪れ、そして、ふたたび、もう一人の女性との関係が浮上して物語はクライマックスへと向かう。行く先は絶望だろうか。それとも希望なのか。

 ”「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反(かへ)つて嬉しい気がするのです。」
 杜子春はまだ眼に涙を浮べた儘、思はず老人の手を握りました。”
雷に撃たれても耐えてまで仙人になろうとしてなれなかった杜子春は、仙人になれなかったことを素直に喜んだ。人間らしく生きるのが一番なのだ。一方、雷に生涯で2度打たれた河野は失明し、敦賀の海辺の町でたった一人、ことさら仙人のような孤独の暮らしを送る。
鈍い青の日本海。雷をつれてくる黒い雲。河野は砂浜でチェロを弾き続ける。幸せって、確かに”ありのままを満足すること”なのかもしれない。それが孤独な生活であっても。 

「孤独ってえのがそもそも、心の輪郭なんじゃないか?・・・背負っていかなくちゃいけない最低限の荷物だよ。」
何年もの時間の中で、失い続けるかに見える勝男のもとに、一人の女性が会いにくる。会いにくる人がいる・・・・・・。
誰かのことを想い、誰かに想われている。それが、人生なのかもしれない。

この小説で、気に入っている点は、死を前面にして涙を強制するような書き方じゃないことと、性描写がないこと。まさに、ファンタジー仕様。