「ザ・マジックアワー」の監督三谷幸喜について再び
映画の話題をもう一つ、今も「東宝シネマズ岡南」で上映されている「ザ・マジックアワー」と監督の三谷幸喜についてである。
私は、この話題作「ザ・マジックアワー」はとても面白かったが、いささかの違和感を感じると書いた。そしてまた後日、自身が製作した作品を一人でも多くの人らに見てもらうために、「できることは全てする」といった姿勢で、マスコミへ露出した三谷幸喜監督の姿勢を絶賛した。
ここでは、三谷作品への「若干の違和感」について、私の思いを書いてみたい。何故違和感を感じるのか、それは三谷作品が「作られたもの」だからだと思う。彼は映画でどうしたら観客が喜ぶのか、一生懸命に考えてそれを映像化している。時折、その「仕業」にもっともらしさを感じて、興醒めするときがある。「もっともらしさ」への「違和感」ではなく、作品全体に流れる三谷幸喜監督の「企み」と、どうしても向き合わざるを得ないからだと思う。
私が観たいのは、そして観て楽しいのは、人間が真面目にしでかす面白さだ。そんなものに出会うと心から笑えるのだ。「釣りバカ日記」で、以前に見せていた西田敏行の「裸踊り」では決してない。そんなものには笑えない、むしろ白けてしまう。
「人間が真面目にしでかす面白さ」と言うべきものは、山田洋次が大切にしている世界だ。三谷幸喜監督も、山田洋次監督と同様に、根っからの悪人を登場させてないような気がする。三谷作品を多くは、観ていないので「気がする」といった表現になった。その意味では共感をするのだが、「笑わそう」と必死の様が、時折顔を出す。それに興醒めする。
ともあれ、三谷幸喜は映画ではなく、やはり舞台の脚本家という気がしてならない。そんなことを、今日映画「クライマーズ・ハイ」を見ながら思ったので書き留めておく。