芥川の遺書が発見され、複製が展示されるとの報道に接して
文章を書くのを生業とするのは、作家である。さて、先に発表された芥川賞では、「日本語を母国語としない作家」が誕生している。そんな時代が到来しているのだと、実感した。
さてその文学の世界についてのことだ。今朝の新聞に、「芥川の幻の遺書4通」が発見されたとの報道がある。朝日新聞によると(岡山の場合は朝日の夕刊はなく、統合版である)、既に遺書6通が発見されており、今回新たに妻宛の2通と子どもに宛てた1通と友人の菊池寛に宛てたと思われる1通が発見されたとのことだ。これらは、日本近代文学館に寄贈され、その複製が展示されるとのことだ。
私は、「研究」という名目で、こうした遺書などはもちろんのこと私物(私信など)が公開されることを、いささか疑問に思うものである。売買も然りである。芸能人のプライバシーでも同じように思う。私は、松たか子の私生活を知りたいとは思わない。彼女の主演する舞台などを観られるだけで幸せである。
私は私の死後、私に関することは全て灰に帰すことを願う。恥多き人生を探られることなど、まさに恥の上塗りと思う。
文学者ということで、その日記に至るまでが公開されることは、その人の本意であろうか。私は、津軽の地で太宰治の「芥川賞が欲しい」との悲痛な叫びにも似た手紙を読んだ時、実に悲しくなった。こうしたものは、受け取った方が墓に一緒に持って行って欲しいと願った。
作家が書いた作品・文章の背景を知ることで、その作品をより深くできるようになることを否定しない。例えば大江健三郎が、現代文学の名作『個人的な体験』(新潮社刊)について、大江の「しょうがいを持った光くんの誕生」という私生活状の出来事が大きく横たわっていることは明白である。その著書の「バード」と名付けられた主人公が、「しょうがいを持って生まれた子どもを引き受けて生きることを決断するまで」の苦悩が、大江自身の私生活と重ね合わせてとてもよく理解できる。
さりながら、私は大江の手紙を読むことを望まない。その線引きは難しいところではあるが、私信などの売買や展示を制限できないのか、改めて考えて見る時を迎えているのではないかと考えたりもする。
そうは言いながらも、私は芥川龍之介、漱石や志賀直哉を始め、多くの作家の全集を購入しているのだが(いつも書くが、書棚に並んでいることと読んだことは、全く別なのだ)。
「芥川龍之介の新たな遺書が見つかり、その複製が公開される」とのニュースを読んで、そんなことを思った次第だ。