tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

取引と贈与、再論:合理性と人の心

2022年03月26日 22時24分57秒 | 経済
随分昔ですが「おカネの役割と限界」という事で「取引と贈与」について書きました。

このブログでも主要なテーマの一つの「経済」は取引が中心の世界です。勘定はいい加減の事では済まない訳で、キッチリと最後まで詰めてルールに合うようにしなければいけません。

ルールというのは、本来合理性の塊で、合理的でないルールは必ず問題を起こしますから、そうした場合は改められて徹底して合理的になることで作られています。

ビジネスの取引というのは、そうしたルールに基づいて行われなければならないというのが基本原則でしょう。

取引が合理的に行われて初めて「公正な取引」として認められ、当事者も第三者もみんな納得して、世の中は正常に動き、誰もが安心してビジネスができるのでしょう。

貨幣はその中で、価値の基準として重要な役割を果たしています。貨幣の御蔭で価格が決まり、マーケットメカニズムの働きを全て明確な数字で表すことが可能になります。

こうしてビジネスは、世界共通に、何処でも公正な活動ができることになり、世界経済は大きく発展してきているわけです。

ところがこうした合理性の世界と別に、人間の社会には「贈与」という行動があります。
贈与というのは一体何なのでしょうか。

取引は合理的ですから、世界で普遍的なものですが、贈与は、必ずしも合理性はなく、従って普遍性もありません。

しかし、人間は時によって、取引より贈与を好むほど「贈与」が好きです。
キッチリ計算して、お互いに多少の不満はあるけれども、最終的には納得して「ではこれでお願いします」と取引が成立したあとで、「いろいろ有難うございました。それで気は心ですが、こんなものを付けさせて頂きます」「これは、これは。ご丁寧に済みません」などという事で、その場の空気は「ホッ」と和むといったこともあります。

勿論それもビジネスの内と言ってしまえばそれまでですが、それでも、その部分はもともと勘定に入っていたのか、それとも「持ち出し」なのか「はっきりしない」というところに、そうした効果が生まれるのでしょう。

そんな時に使われる「気は心」とか「ほんの気持ちですが」という言葉もそうですが、まさにこうした「贈与」に類する部分というのは、合理性や金銭では測れない「人の気持ち」を表す部分なのでしょう。

もともと人間には合理性を追求する部分と、非合理的でも人の心を満たそうという部分があるのでしょう。
この合理性では測れない心と心の授受を具体的な形で表すのが「贈与」の世界で、人間同士の緩衝地帯のような役割を果たしているのでしょう。

ビジネスの中に贈与を持ち込めというつもりは全くありませんが、人間にはそうした面、損得とは別に、貨幣の価値観では測れない「人の心」の曖昧なバランスを大事にするという面もある事が、世の中を優しくソフトに、居心地のいいものにしているという事も、現代人は、時に思い出すのも良いような気がしています。 
(これは仏教での慈悲の心にも、どこかで繋がるものだという人もいるようです。)

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