ハマスタでの、DeNA戦。
延長に入るも、アライさんとルーキー坂倉くんのタイムリーで勝利。
唯一負け越していたベイスターズとの闘いをタイにしました。
今日の最終戦を勝てば、全球団から勝ち越しの完全優勝になります。
がんばれ!岡田投手
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小学生の頃、将来は、カープの選手になろうと、真面目に考えていました(笑)。
校庭や近くの公園で、紺色のHマークのベースボールキャップをかぶって、
友だちと陽が暮れるまで白球を追いかけていました。
みんな、弱いカープを何とかしたいと思っていたのではないかと思います。
本当に、懐かく、微笑ましい想い出です。
1945年8月6日午前8時15分・・・。
人類史上はじめての原子爆弾が米軍によって投下されました。
そして、14万人の市民、軍人、米軍の捕虜まで虐殺。
広島市は一瞬にして壊滅し、75年間は草木もはえない・・・とまで言われました。
そして、今でも放射能被ばくで苦しむ人たちがいます。
でも、そんな悲惨な状況の中、広島市民は考えました。
どうしたら、広島市民を復興という一つの方向に希望を持って進んでいけるのか?
大虐殺から、わずか4年・・・。
プロ野球界に、親会社を持たない市民球団カープが誕生。
第二次世界大戦前からも、高校野球が盛んだった広島の街。
広商、広陵中、呉港中などが甲子園で活躍していました。
にくきアメリカ合衆国・・・ベースボールを生んだ国、
その国の国技のようなスポーツで街の復興を図る・・・すごい切り口だと思います。
広島市民は、カープ誕生に望みを託したのだと思います。
東日本大震災から早6年。
甚大な被害を受けた福島・・・復興への道は、まだまだ長そうです。
野球でも、サッカーでも、バスケでも、福島県民の心を一つにするスポーツチームがあればと思っています。
カープの転機・・・アレがあったから今のカープがある・・・。
休日の朝、CARPの歴史を振り返ってみました。
カープ愛・・・熱い熱い想いをしたためてみます。
長い長い文章になってしまいますが、お付き合いいただければ幸いです。
カープには、5つの大きな転機がありました。
1949年・・・市民球団カープ設立
これが、第一のカープの転機だと思います。
広島の地に、よくぞプロ野球球団を作っていただいたという感動。
原爆を投下され、広島市は壊滅・・・。
それから、わずか4年。
小さなプロ野球チームが結成されました。
カープの結成式には、2万人の市民が集まりました。
そして、そのチームのネーミングが秀逸でした。
CARP
広島城のお堀には、鯉が泳いでいるため「鯉城(りじょう)」と呼ばれています。
そこから、付けたチーム名。
鯉の滝登りという勢いもありますが、やっぱり鯉では弱いです(笑)。
ジャガーズとか、エレファンツとか、コブラズとか、
もっと強そうな怖そうなチーム名も候補として挙がっていたのだと思います。
だって、相手は、巨人や虎、竜やクジラなんですから。
チーム設立後しばらくは、CARPSでした。
でも、CARPは単複同形なので、
SHEEPやDEERなどいっしょで複数形にはしないということで、CARPに。
そして、カープの第二の転機。
1951年・・・広島市民のたる募金で貧乏球団カープが蘇る・・・
12球団中、唯一親会社を持たないカープ。
カープ結成時、リーグへの加盟金も払えない、選手への給料は遅延、
選手寮の家賃や光熱費が払えない、選手は遠征時には満員の汽車の通路に新聞紙を敷いて寝る・・・。
「セリーグのお荷物球団」と蔑視されていた貧乏球団カープ。
このころは、球団解散、当時山口県下関市にあった大洋ホエールズとの合併という動きになっていました。
それに待ったをかけたのが、広島市のおっちゃんたち。
中國新聞の報道を知ると、球団に押しかけ、解散反対、合併反対を強硬に主張しました。
そして、広島の名物である日本酒を入れる酒樽を球場の入口に設置、広島市民から募金を集めました。
たる募金は、カープを復興させました。
経済的、金銭的な価値だけではなく、広島市民からの熱い想いが大きなムーブメントを起こしたのだと思います。
このたる募金は、その後も広島市民の心を一つにする動きとなりました。
新球場(ズムスタ)を造る際にも、たる募金を実施。
広島を襲った風水害・・・被災者をバックアップするためのたる募金・・・。
大人から子供まで、酒樽に願いをかけて、お金を入れていきます。
そして、1957年・・・念願の専用球場「広島市民球場」が完成します。
当時、最新のナイター照明機器を設置、日本で一番明るい野球場と言われていました。
カープ第三の転機
1967年、東洋工業(現マツダ)が株主となり、根本監督が就任・・・カープ野球の近代化、科学化
なんとか、こうにか存続を続けてきたカープ。
それでも、弱く勝てない弱小カープ・・・経営も厳しくなってきました。
そこに、地場最大のメーカー東洋工業(マツダ)が経営支援に乗り出しました。
いまは、マツダの直接的な経営からは手を引いていますが、カープの正式名称は、「広島東洋カープ」。
カープは、当時の東洋工業への恩を尊重し、「東洋」という言葉を残しています。
当時の松田オーナーは、本当はチーム名に「東洋」というワードを入れたくなかったとのことです。
税法上、連結決算上、会社名を入れざるをえなかったのです。
また、野球界のエリートアスリート・・・根本監督が就任。
気合と根性だけの広島野球の近代化、科学化に乗り出しました。
東洋工業のコンピュータを駆使して産み出したと言われる「王シフト」、
選手の練習へのスポーツサイエンスの導入など、カープは新しいベースボールを取り入れ始めました。
そして、これが、1970年代の躍進に繋がっていくことになります。
カープ第四の転機
1975年・・・ルーツ監督の就任、そしてチームカラーを赤に変更 赤ヘル誕生
ジョー・ルーツ監督は、日本のプロ野球界初のメジャーリーグ出身の監督。
彼は、弱小カープの負け犬根性を払拭するための指導を徹底しました。
監督をつとめたのは、わずか15試合(6勝8敗1分)。
審判の判定に抗議、フロントとももめて退団。
でも、彼が残したカープ変革のDNAは、残り続けました。
そのシンボルでもある赤い帽子と赤いヘルメット・・・。
当初、衣笠選手は「赤い帽子なんて子供ぽくて嫌だ」と赤い帽子をかぶることを避けていたようです(笑)。
でも、その赤ヘルは、その後のカープを大きく変えることになります。
この赤ヘルがなければ、今のカープは随分変わったものになっていると思います。
カープ女子もいなかったかもしれません。
そして、優勝パレード。
平和大通りで、はじめてのパレードが行われました。
20万人以上の人出・・・。
古葉監督の話によると、
おじいちゃんやおばあちゃんの遺影を持って駆け付けた人たちが、たくさんいたそうです。
故人に、カープの優勝を見せてあげたかったんでしょうね。
カーブ第五の転機
2009年 新球場、マツダズームズームスタジアム広島の誕生
当時は、プロ野球人気にかなりの陰りが見えていました。
人気があった巨人戦でさえ、地上波放送から消えつつありました。
このため、2リーグ制の廃止をはじめとした改革策が出てきました。
なんとホリエモンまで乗り出す始末・・・
でも彼の存在がなければ、その後のDeNAや楽天といった新興勢力がチームを持つことはできなかったと思います。
新球場、マツダズームズームスタジアム広島の誕生・・・。
ここでも、広島伝説のたる募金。
広島市民からの一億円以上のキャッシュが集まりました。
行政も動かざるを得なくなり、ついにズムスタが完成・・・。
日本で一番美しい球場、楽しいボールパークと呼ばれています。
マツダズームズームスタジアム広島
正式名称は、今でも「広島市民球場」です。
旧広島市民球場から受け継がれた「市民」という名称が、継承されています。
本当に、広島市民の誇りであり、聖地です。
以降、ズムスタは連日満員。
この球場がなければ、黒田投手のメジャーからの復帰、アライさんの復活というのもなかったかもしれません。
現在のカープ、5つ転機で、強くたくましいチームになっています。
でも、何か一つ間違えると、スワローズやジャイアンツのようになるリスクもあります。
カープはファンとともに、勝ち抜くチーム。
今年の打者、投手ともに、ぶっちぎりトップの記録を持つ選手はいません・・・
打率、打点の丸選手ぐらいですかねえ。
抜けた選手はいなくとも、チーム全員が一丸となって戦う・・・まさにカープの野球です。
まずは、クライマックスシリーズ。
がんばれ!カープ