昨日書いた
自転車の件は
私自身にも不思議な感動を覚えたということで
鮮烈に記憶に残っているものである。
あんなに
興奮気味に、泣きそうになるくらいに
彼女が「親切にされた」を繰り返していた姿は
鮮烈に覚えている。
そういう意味では
個人の交流を通して
互いを知っていく、誤解を解いていくということになるのだろう。
だが。
もしも、あの彼女と交流ができて
たまたま
歴史問題が話題になったとしたら、
たちまち
亀裂が生じるのかもしれない。
それが目に見えるような気がする。
「日本人は歴史を知らない」という先制パンチのような言葉を
出して、日本人も「確かに知らない」と思ってしまう構造。
そして畳み掛けるように、相手は「日本人は謝っても、次の行動ですぐに裏切る」と言う。
これの繰り返しを、何度かテレビで観てきた。
その先は進まないのである。
限られた放映時間の中で、何とかまとめたいということで
「文化や経済を通して交流云々・・」とか言われても
私は空しさを覚えるので
あまり観ないようにしていた。
昨日はたまたまチャンネルを換えたらそれをやっていたので
観てしまった。
まず、「日本人は歴史を知らない」という言葉のレトリックの上手さである。
そのように言われれば
知らない、関心がない、苦手だ、と言わざるを得ない。
しかし、歴史について、学校教育では世界史、日本史、近現代史と分けて
十分なほどに教えている。
他の国の人たちよりも世界史などは詳しく教えられ、知識の1つとして身につけて
いるのではないかと思っている。
もちろん、中世のヨーロッパの歴史の史実名を覚えるのは苦手だ、と私のような
人間もいる。
そして、歴史教科書も各出版社が競って出して、それを採択できる自由がある。
だから
「日本人は歴史を知らない」という言葉に、私は「そうかしら?」と言ってしまう。
彼らの言う「歴史を知らない」というのは
日本と韓国の歴史についてだろうから、そのように言い直すべきだ。
じゃ、本当に知らないのだろうか。
史実として教科書に載っているし、教師も教えているであろう。
昨日の社会の教師のはぎれの悪さはどこもいっしょだと思う。
決して教えていないわけではない。
受け止める側の生徒が、一冊の教科書の一部として勉強をし、そこに関心があるか否かの温度差である。
韓国は国定教科書であり、長い長い反日教育という歴史があるから、そこに費やす時間が長い。
そして、その内容が正しいのかどうかも検証しないで、昨日のような討論をしたとしても私は空しい、と思ってしまうのである。
彼らは、歴史を勉強してきたという自負がある。だから、日本の若者があのように言ったとたん、形相が変わる。険しい表情になる。そして出てくる言葉は「ひどいことをした、残虐なことをした」と感情を露にする。
歴史教育を学んで、その未来、どう生かしていくかという展望を持たなければならない。
仮にその展望が、未来も反日である、というのであれば、それはそれでいい。
それが彼らの国の選択なのだから。
でも、なんだか中途半端な気がするのである。
矛盾を抱えているような感じがする。
もっと続きを書くべきだが
PCが重くなってきた。
一回、更新しよう。