僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(3/20)西日本の救援隊の皆様ありがとう

2011年03月20日 22時14分26秒 | 東日本大震災




今日はお昼近くに
街に出てみた。
少し暖かい日だったので、緑を見たかった。
うちから自転車で7、8分のところに大きな公園がある。
そこでは
若者がギターを持ってきて
歌っていた。
犬を連れた人が散歩をしていた。
誰もが
街のあちこちで見つけた店の食糧の袋を提げていた。
私も
これから買いに行くんだ。
買ったあとに
皆この公園で、いつもの日常を感じ取りたかったのだろう。

街の中はまだまだ
活気を取り戻していない。
どこも内部が滅茶苦茶になっていて
ガスも通っていないから
商売にも、仕事にもならない。
ガラスを取り替えたくても
ガラス屋もやられている。

全てが循環していない。
機能していない。

官公庁街なので、県庁や市役所前の広場などの駐車場には
災害救援隊の車がたくさんあった。
遠く
神戸から、堺から、神奈川からの車両が
この東北にやってきた。
ありがとう。
頭の下がる思いです。
写真を撮ったあとに
神戸の方に頭を下げた。
その方も頭を下げた。
お互い、
ありがとうの気持ちを込めて
頑張ろうの気持ちを込めての
無言の挨拶だった。

私たちが再生したときには
今度どこかで何かがあったら
丈夫な身体で
丈夫な心で
助けに行かなければ、という気持ちにさせる。
日本国中が
今、東日本のために頑張ってくださっている。

恩返し。
きっとそれができるときが来る。
それはなにか有事のときに限定されるものじゃない。
有事の状態はないほうがいい。
西日本に旅に出ていくだけでも恩返しになるような気がする。

お金があったら
たくさんの支援をしてくださった世界中の国々に
御礼行脚をしてみたい。


さて
今日は魚屋に行ってきた。
初めて入るところだ。
見つけたのでとにかく覗いてみよう、と思った。
野菜ばかり食べていて
魚、肉類は全く口にしていない。
たこの足1本とその他加工したものを手に入れた。
久しぶりの豪勢な食卓になるね。
そこで今日の夜食は
たことたまねぎで、かき揚げにした。
義母はおいしい、と食べていた。
久しぶりの脂っこさだね。
加工したものは日持ちがいいので
少しずつ食べていこう。

外にいると
余震が全くわからない。
こうして自転車に乗っているときにも
余震はあるのだろうか、と思った。
家に帰れば
やはり
余震が続く。
今もあったばかりだ。

髪を洗っていない。
櫛の通りが悪くなった。
夫は
2日置きに、水で洗っている。
私は髪が長いので
水で洗うことに抵抗。
ポットの湯を何回も沸かしてやるしかないか。
洗髪だけをしてくれるところを探すしかないか。

いったん更新。
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(3/20)実家のこと、母のこと。

2011年03月20日 09時45分57秒 | 東日本大震災


今朝起きて
鏡を見ると、目の下のクマがくっきりしていた。
昨夜もソファで寝る。
奥の部屋にいるネコたちのために
ストーブをつけるが、余震のたびに消しているので
なかなか温まらない。
風邪を引き始めたネコが数匹いる。
そしてそれはうつるので、蔓延するかもしれない。

私の体調は昨日よりいい。
おそらく昨日は
余震のたびにドキリとするのでその不安感と
酔ったような感覚に身体が疲れていたのだと思う。

私のそれらと、避難所にいる人たちの不安感とかストレスとか諸々のことに
比したら
申し訳ないものだ。

父に何度も連絡して
ようやく1度だけ携帯につながった。
地震当日の夜中である。

父は
福島にいる、という。
彼らの事情がわからない。
母は一人で家にいるということで
翌朝
私たちは実家に出かけた。

実家周辺の家はほとんど無傷である。
中には、ガラス窓が壊れたりしたのもあったが
宮城県沖地震のときのほうが
こちらの町は被害がひどかった。
田圃を造成して新興住宅地として出発した町だった。
当時はポツポツと家が建っていたばかりだ。

実家には母がいなかった。
近所の家に行ってみると
そこに母がいた。
そこは
宮城県沖地震のときにも私がお世話になった家だ。
私が嫁いでから
その家のかたたちとはほとんど会っていなかったが
おばさんも母と同じ病気になっていた。

母は私たちに驚き
すぐに自宅に帰る。

やはり
私の今の家の中よりもひどい状況だった。
二階に上がろうとしても
階段の照明が落ちていてガラスの破片の散らばる階段になっていた。
夫がその大きな破片だけを片付けてくれ、二階に上がってみた。
父の部屋の
足の踏み場もない散乱の仕方、パソコンはどこかに吹っ飛んでいた。
書類が部屋中ひっくりかえっている。
母の部屋も
テレビは倒れ、ベッドが移動し
鍵のかかっていない窓は全開になっていた。

台所の食器棚は倒れ、中身散乱、粉々。
浄水器吹っ飛び。
などなど
どこもかしこも手をつけるには
今急にできることではないと思った。
とりあえず
少し片付けて
今日は街の中にある私たちの家に行こう、と言った。
都会だから
こっちよりも、電気などの復旧も速いはず、と言い。
宮城県沖地震の教訓である。
とにかく、都会とこの実家の町とでは
何もかもが復旧の遅速が違った。

母を連れて車に乗り
数百メートル先、海方面へ向かってみた。
やはり通行止めになっていた。
この先が
津波の被害があった町々である。

母を私たちの家に連れてくる。

母に
なぜ父は福島にいるのか、聞いてみても
よくわかっていなかった。
「お父さんは、友達とゴルフ旅行に出かけた。」とだけ言った。
友人とはどこの誰か
行き先はどこか
なぜ福島にいるのか
何もわからなかった。

後にわかったのだが
父は北海道の友人たちとまた
旅行にでかけ
静岡、神奈川辺りの友人と合流してゴルフを楽しんでいたのだ。
脳梗塞の母にはきっと
冷蔵庫の作り置きの食料を食べるように言っていたのだろう。
母は地震パニックの人で
それは昔からだった。
本当に地震が怖い人だというのは北海道にいたときからわかっている。
十勝沖地震のときは
母は私を家の中に置いたまま、外に逃げた人である。

母は私の家に来て
ようやく落ち着いた。
義母が相手をしてくれて
日の当たるサンルームで二人で話していた。
笑顔があった。
ホッとした。




うちには
七輪がある。炭もある。
こういうとき、便利だ。
あの雪の前日と違って温かくなったので
私はこれで煮炊きをする。
余っている野菜を煮込んで
卓上コンロでご飯を炊く。
とにかく家にあるもので今は過ごさなければならない。
残っていた乾麺、野菜などそれらが役に立った。
母が喜んで食べる。

母が正常だったとき
ずっとお店をやっていて、料理自慢だったのだが
今は包丁すら持てない。
持つことができても
なにがじゃがいもで、どう切り、どう料理するかわからない。
だから今は父が料理を全部やっている。

私は母に
味の事で文句を言われるかもしれないので
「非常時なんだから、味には文句を言わないことね。」と言ったら
母は
「これは私の口に合う。お父さんのは、いつもしょっぱいの。」と言いながら
煮物の汁を私の分まで飲み干す。
母がようやく落ち着いたことに本当にホッとした。

ネコが多いことにいつも
「ネコを捨てよ。」と言っていた母は
一階にいるダイジローに大変興味を持ち
隙さえあれば、声をかけてちょっかい出していた。
もともと北海道にいたとき
ネコを飼っていた私たちだ。
(そのネコを、仙台に引っ越してきたときに、母が大学病院の実験動物として
献体したことは以前書いた。もちろん私は取り戻しに行ったけれど。それらのことも
きっと母は忘れているだろう。それを口にすることは絶対にしたくない。)

母は
こちらに来て
義母との話に笑顔を見せ
私の料理に舌鼓を打ち
ダイジローに癒されていた。

いったん更新。


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(3/20)あの日のこと

2011年03月20日 00時43分29秒 | 東日本大震災


もう一度、この雪景色の写真を載せよう。
これは
当日の私の不安を表している写真なんだ。
あの日
地震が起きた時刻には雪は降っていなかった。



私は職場にいた。
大事な仕事を仕上げなければならない皆だった。
それでも息抜きに
あと数日でこの職場を去る自分は
持ってきたデジカメで
私の周りの人たちの写真を撮っていた。
そして
再び、職場で地震が起こった。
再び、と書いたのは
前日だったか、その前の日だったか
やはり職場で地震に遭遇し
強かったために建物の外に出たばかりだった。
それで収まったのだけれど
これは大きいものがいつか来る、と思わせた予告のようなものだった。
その前の朝にも小さな地震が起こり、収まったかと思ったらすぐにまた連続して
小さな地震になり、この立て続けの地震は不気味な予告のようだったんだ。
そして
あの日。
私たちは建物の軋むなんとも言えない音に怯え
(NZの地震の恐ろしさもわかっていたから)
とにかくこの建物から逃げなければ、という思いだった。
築40年近くの古い建物である。
外に出て、収まると思いきや
更に更に揺れがひどくなって
目の前にある建物が倒れてくるかもしれないという恐怖心が襲った。
足がすくんで、逃げ場がないあの気持ち。
これは私の住んでいる所だけではなく
東日本の広範囲で感じていた恐怖の気持ちだったんだ。
西側に建つ建物と南に建つ建物、そのつなぎ目が軋んで
交互に揺れるのだ。

崩れるか、と思ったが
何とか持ちこたえた。

それから20分後くらいに
私はいったん自宅に戻った。
近くのコンビニが停電の状態で営業しており、人々がいろいろと買っていたので
私も乾電池だけ買ってきた。

職場から家に戻るまでの辺りの建物を見た。
外壁が崩れたり、瓦屋根が壊れたりしていたが
あれだけ大きく長く揺れたにも拘らず
建物が崩壊した、というのはなかった。
そして
心の中で
日本の建物は凄い、と改めて思っていた。
まだまだ
あの時は、あんな悲惨な状況になっていたとは全く
気づいていなかった。

家に帰って、まず
ネコたちのことが心配で
1匹1匹、存在を確認した。
うちは数が多いから、一体どこに隠れているのか
本などに埋もれていないかと
心配しつつ確認した。
ネコたちもかなりショックだったようで
後に血尿の出すネコもいた。
そして丸一日、椅子の下から出てこないのもいた。
もちろん食餌など、喉に通るはずもない。
トイレにも全く行かない。
身体が固まったまま出てこない。

ともかく全員、無事を確かめた。
停電になっているので
震源地も震度も被害状況もわからない。
でもそれでも、まだ、楽観視していたのかもしれない。
家の中のメチャクチャな様子を見ても
このくらいは当たり前、という感覚の揺れだと思っていた。

職場を後にするころに
雪がちらつき始めていたと思う。
そして家についてから
しきりに降り始めた。
空は暗くなり
その日の天気予報に、雪が降るというのは失念しているが
尋常じゃない降り方に思えた。
地震のあとに、急に
真冬のように降り始めた。
それが怖かった。
いつもなら
雪が好きだ、と書いている私である。
その私が
この雪の降り方が悲しくなってきたのだ。
地震も、雪が降るのも自然である。
自然のあらゆることが、私たちを見放しているように思えた。
しかし、まさかそこに津波が加わるなんて、毛頭考えつかなかった。

近所の人たちが外にいたので
私も出ていった。
家の中がどれほどひどいかを話し合った。
そして
誰かが携帯のラジオを持っていて
「荒浜の方の道路に遺体が2、3百あるようだ。」と放送しているのを聴いた。
津波が起こった、ということだった。

よく、つかめなかった。
ピンと来なかった。
確かに、これまでの地震で
津波警報はあったけれど
どこもうまく対処してきたから
それを想定していたが
2、3百・・・というのがピンと来なかった。
一体
何が起こっているのか。
地元で大きな地震に遭いつつ、地元のことがよくわからない。
私たちは宮城県沖地震を体験しているから
あの大きな揺れのあとは
停電とガスストップと余震の心配、そして辛抱だというふうに
思っていたんだ。
建物が崩れた、というのは見た限りではなかったから
それらさえ我慢できれば再び
元の生活に戻れると思っていたんだ。
荒浜で何が起こっているのか、津波がどんな状況だったのか
全くわかっていなかった。

再び私は職場に戻った。

急に寒くなったところに
皆、まだ怯えて居た。
若い子たちを帰すにも交通手段がないらしい。
電話も携帯も、情報を知る手段がない。
仕事をしていた建物には入れない。
皆、PCも点けっ放し、書類はあちこち飛散しているかと思う。
それでも、中に入れる状況じゃない、とわかった。

結局、電車もストップしていて
利用している人は帰れず仕舞い。
そのときも
ただ電車がストップしているだけだと思っていたのかもしれない。
まさか
仙台駅そのものが閉鎖されるほどダメージを受けていたとは
誰もが思ってもいなかっただろう。

再び家に戻り
何をすべきかを考えた。
まず
義母に言って
かつて入院していたときに買った携帯ラジオを探させた。
全く何が起こっているのかわからないから
ラジオだけが情報源だった。
幸いにも見つけることができ、電池を補給。
ようやく聴けた。
少しずつ状況がつかめてきた。

そして
私の実家に電話をしても
もちろんつながらない。
道路の状況もわからない。
私は昨年の9月以来
両親とは会っていない。
半年も連絡を取っていない。
おそらくは近所の人たちに助けられていると思った。
すぐに駆けつけるには
私と両親の溝が深すぎるのだ。

その日の夜は
仙台の町の灯りは全て消え
皮肉にも
夜空の星がくっきりと輝いて見えた。
そして
余震に怯え、いつでも外に出られるよう
身の回りの整頓をして
寒さの中
ずっとラジオを聴いて
眠れぬ夜を過ごした。

冷静になろう
私は大きな地震を2回体験している。
2回目の地震のときは死ぬかもしれないと思ったじゃないか。
あの一番激しい揺れの中で、脱出したじゃないか。
あの揺れと今回の揺れを頭の中で比較していた。
地盤が違えば、同じ仙台でも
街の中と、当時田圃を造成したばかりの実家での揺れでは
全く違う、だから
今回はこんなに大丈夫だったのだから
大丈夫だ、と言い聞かせていた。

いったん更新。
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