もう一度、この雪景色の写真を載せよう。
これは
当日の私の不安を表している写真なんだ。
あの日
地震が起きた時刻には雪は降っていなかった。
私は職場にいた。
大事な仕事を仕上げなければならない皆だった。
それでも息抜きに
あと数日でこの職場を去る自分は
持ってきたデジカメで
私の周りの人たちの写真を撮っていた。
そして
再び、職場で地震が起こった。
再び、と書いたのは
前日だったか、その前の日だったか
やはり職場で地震に遭遇し
強かったために建物の外に出たばかりだった。
それで収まったのだけれど
これは大きいものがいつか来る、と思わせた予告のようなものだった。
その前の朝にも小さな地震が起こり、収まったかと思ったらすぐにまた連続して
小さな地震になり、この立て続けの地震は不気味な予告のようだったんだ。
そして
あの日。
私たちは建物の軋むなんとも言えない音に怯え
(NZの地震の恐ろしさもわかっていたから)
とにかくこの建物から逃げなければ、という思いだった。
築40年近くの古い建物である。
外に出て、収まると思いきや
更に更に揺れがひどくなって
目の前にある建物が倒れてくるかもしれないという恐怖心が襲った。
足がすくんで、逃げ場がないあの気持ち。
これは私の住んでいる所だけではなく
東日本の広範囲で感じていた恐怖の気持ちだったんだ。
西側に建つ建物と南に建つ建物、そのつなぎ目が軋んで
交互に揺れるのだ。
崩れるか、と思ったが
何とか持ちこたえた。
それから20分後くらいに
私はいったん自宅に戻った。
近くのコンビニが停電の状態で営業しており、人々がいろいろと買っていたので
私も乾電池だけ買ってきた。
職場から家に戻るまでの辺りの建物を見た。
外壁が崩れたり、瓦屋根が壊れたりしていたが
あれだけ大きく長く揺れたにも拘らず
建物が崩壊した、というのはなかった。
そして
心の中で
日本の建物は凄い、と改めて思っていた。
まだまだ
あの時は、あんな悲惨な状況になっていたとは全く
気づいていなかった。
家に帰って、まず
ネコたちのことが心配で
1匹1匹、存在を確認した。
うちは数が多いから、一体どこに隠れているのか
本などに埋もれていないかと
心配しつつ確認した。
ネコたちもかなりショックだったようで
後に血尿の出すネコもいた。
そして丸一日、椅子の下から出てこないのもいた。
もちろん食餌など、喉に通るはずもない。
トイレにも全く行かない。
身体が固まったまま出てこない。
ともかく全員、無事を確かめた。
停電になっているので
震源地も震度も被害状況もわからない。
でもそれでも、まだ、楽観視していたのかもしれない。
家の中のメチャクチャな様子を見ても
このくらいは当たり前、という感覚の揺れだと思っていた。
職場を後にするころに
雪がちらつき始めていたと思う。
そして家についてから
しきりに降り始めた。
空は暗くなり
その日の天気予報に、雪が降るというのは失念しているが
尋常じゃない降り方に思えた。
地震のあとに、急に
真冬のように降り始めた。
それが怖かった。
いつもなら
雪が好きだ、と書いている私である。
その私が
この雪の降り方が悲しくなってきたのだ。
地震も、雪が降るのも自然である。
自然のあらゆることが、私たちを見放しているように思えた。
しかし、まさかそこに津波が加わるなんて、毛頭考えつかなかった。
近所の人たちが外にいたので
私も出ていった。
家の中がどれほどひどいかを話し合った。
そして
誰かが携帯のラジオを持っていて
「荒浜の方の道路に遺体が2、3百あるようだ。」と放送しているのを聴いた。
津波が起こった、ということだった。
よく、つかめなかった。
ピンと来なかった。
確かに、これまでの地震で
津波警報はあったけれど
どこもうまく対処してきたから
それを想定していたが
2、3百・・・というのがピンと来なかった。
一体
何が起こっているのか。
地元で大きな地震に遭いつつ、地元のことがよくわからない。
私たちは宮城県沖地震を体験しているから
あの大きな揺れのあとは
停電とガスストップと余震の心配、そして辛抱だというふうに
思っていたんだ。
建物が崩れた、というのは見た限りではなかったから
それらさえ我慢できれば再び
元の生活に戻れると思っていたんだ。
荒浜で何が起こっているのか、津波がどんな状況だったのか
全くわかっていなかった。
再び私は職場に戻った。
急に寒くなったところに
皆、まだ怯えて居た。
若い子たちを帰すにも交通手段がないらしい。
電話も携帯も、情報を知る手段がない。
仕事をしていた建物には入れない。
皆、PCも点けっ放し、書類はあちこち飛散しているかと思う。
それでも、中に入れる状況じゃない、とわかった。
結局、電車もストップしていて
利用している人は帰れず仕舞い。
そのときも
ただ電車がストップしているだけだと思っていたのかもしれない。
まさか
仙台駅そのものが閉鎖されるほどダメージを受けていたとは
誰もが思ってもいなかっただろう。
再び家に戻り
何をすべきかを考えた。
まず
義母に言って
かつて入院していたときに買った携帯ラジオを探させた。
全く何が起こっているのかわからないから
ラジオだけが情報源だった。
幸いにも見つけることができ、電池を補給。
ようやく聴けた。
少しずつ状況がつかめてきた。
そして
私の実家に電話をしても
もちろんつながらない。
道路の状況もわからない。
私は昨年の9月以来
両親とは会っていない。
半年も連絡を取っていない。
おそらくは近所の人たちに助けられていると思った。
すぐに駆けつけるには
私と両親の溝が深すぎるのだ。
その日の夜は
仙台の町の灯りは全て消え
皮肉にも
夜空の星がくっきりと輝いて見えた。
そして
余震に怯え、いつでも外に出られるよう
身の回りの整頓をして
寒さの中
ずっとラジオを聴いて
眠れぬ夜を過ごした。
冷静になろう
私は大きな地震を2回体験している。
2回目の地震のときは死ぬかもしれないと思ったじゃないか。
あの一番激しい揺れの中で、脱出したじゃないか。
あの揺れと今回の揺れを頭の中で比較していた。
地盤が違えば、同じ仙台でも
街の中と、当時田圃を造成したばかりの実家での揺れでは
全く違う、だから
今回はこんなに大丈夫だったのだから
大丈夫だ、と言い聞かせていた。
いったん更新。