僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(7/28)もう1人の老人の孤独

2015年07月28日 11時12分15秒 | 思い出を紐解く
現在の私には
 
姑の認知症
実家の両親の老老介護、2人のガン手術の予後、母の脳梗塞等
これらを抱えている。
彼らは皆80代。

そしてもう1人の老人の孤独について
少し触れていかなければならない。

私は
実家の両親の養子である。
6歳のときに縁組をした。
実の母親は、今の母の姉である。
60代の若い年齢で亡くなっている。
実の父親というのは
健在で、彼も80代。

この人がもう1人の老人である。

昨日、旭川の妹からメールが届いた。
「トモロッシちゃんの実の父親から突然電話があった。
 いろいろと整理していたら、トモロッシちゃんの母親(私たち姉妹の母)からの
 年賀状を見つけた。母親のことを聞きたかったんだろうね。
 でも、私は母親の恋話は特に聞きたくなかったので困惑。今は、1人でいるそう。」
と。

実母の最期は、旭川の妹の所で迎えた。その死んだ年(冬)の夏に
私は、生きて会うのは最後だろうと、1人で仙台から旭川に向かい
初めてと言っていい、もう1人の妹(苫小牧)と旭川の妹とその娘たちと
母と私とで写真を撮り、それが今、自分の部屋の本棚に飾ってある。
滞在中も母は、頭が痛いと訴えていた。それでも私が来たことを喜んでいた。
あれが最後。
そして3ヵ月後の初冬、母が亡くなったと訃報。
再び、今度は今の母親(実母の妹)と共に葬儀のため北海道に向かった。

当時
実の父親はマレーシアに単身赴任で出かけるところで
その直前に電話があり、
実母が危篤であることを伝えた。
滅多に連絡し合う(少なくとも、私から父への連絡は一度もなし。その電話も
たまたま向こうから、元気ですか、と電話があった)ことがなく
おそらくその電話も数年ぶりだと思われる。
母の危篤を伝えた。
彼は動揺し、帰国したらすぐに連絡すると強く言って電話を終えた。
だが
それ以降、いつ帰国したのかもわからず
こちらからは絶対に電話をしないと決めていたので
再び
音信不通になる。
そして
たまに
年賀状をよこしたり
電話をかけてきたり
震災後に
「大丈夫か」と電話が来て数年。
断続的な連絡の取り方であった。

今年の2月ごろだったか
葉書が届く。
それの返事を書かねば、と思いつつ
ズルズルと書かず仕舞い。

そして
昨日の妹からのメール。
 
妹にしてみれば
全くの他人である。
母親の昔の恋人である。
若い時代の恋の相手は誰にだっている。
しかしその恋が成就できず、互いに別な方と結婚すれば
たいてい
過去の恋の良き思い出として封印する。

彼がそれができないのは
私という存在がこの世にあるからだ。
自分の娘がこの世にいるからだ。
私という存在が無ければ
当然、彼も母の所に年賀状や電話もしないであろう。
妹にしてみれば
全く会ったことのない母の昔の恋人の電話は困惑するのは当たり前だろう。

そのメールを見て
私は思った。

この人(父)も
まもなく死に逝く年齢に近づいている。
彼の後悔は何だろう。
彼の言い訳は何だろう。
男側の言い分(ぶん)もあるだろう。
私は
彼らの恋の時代について
断片的にしかわからない。
母の言い分。
母の周り(私の今の母含めて)の言い分。
なぜ、母は私を産もうとしたのか。
子どもができて
父にどうせよ、と言ったのか。
あるいは
あなたは関係ない、私1人で育てるとでも言ったのだろうか。

男側の言葉を聞きたい、と思った。
それを残してくれてもいいのでは、と。
父にも残り少ない人生に
ここは一つ
彼の言い分を聞きたいと、昨夜寝ながら思った。

私は
彼に対して
恨みとか、慕う気持ちとか
ないのである。
それほど希薄な関係である。
生涯2回しか会っていない。
1回は
養子縁組をする前だから
富良野にいたときに。
これは記憶が残っている。
一体あのとき、何を話したのだろう。
無邪気な、そして弱弱しい幼い私を見て
自分の血を受け継いだ子だ、と実感したであろうか。

2回目は
仙台である。
高校1年のときだ。
なぜ、仙台に来たのかその辺はわからないが
4、5歳から10数年経ち、16歳の私と、今の母親と3人で会った。
紆余曲折を経て、今の両親の養子になり
今の母親は
「こんなに大きく育てましたよ。」とでも
言いたかったのかもしれない。
何しろ
養子縁組をしたときの私は
小児結核の病気だった細い子どもだったのだから。



先日2週間ほど前に
実家に行ったときに
母の奇異な行動があった。
それは脳梗塞の後遺症かもしれない。

母は普段から
亡くなった自分の母親や姉妹の写真を飾り、お供えをしていた。
そこから
突然
私の母親の写真を持ってきて
母の写真を抱きしめたり、キスをしたりした。
「あんたの母さんね、立派にね、役所に勤めたのね。」
と言ったとたん
今度は写真を殴るようなしぐさ。
「でもね、年下の男とね!」と
豹変して目元がキッときつくなる。

この行動のきっかけは
自分たちが、養子縁組を考えたときに
なぜ
父親側からの親戚の男の子をもらわなかったのか、という
母の嘆きのようなつぶやきであった。

母が子宮の病気で子どもができないとわかり
結局選んだのは
現母親の姉の痩せた私生児だった。

彼らは彼らで
いろいろ悩んで
私を選んだのだ。
その彼らの心を忖度したい、とまだ思っていない。
何しろ
その後の私の人生、彼らに振り回されて
感謝、という言葉を心から発するのができていない。
もちろん
感謝している、とは日ごろ言っているが
その感謝以上に
私は、両親から嫌われていた、という思いの方が強かったのである。



彼らの前では
絶対
実父の話をしてはならない、と子供のころから
ずっと思ってきた。
だから
こちらから連絡するということはしてこなかった。
今の父から
「埼玉の父親(現在は山梨に1人暮らし)から連絡あるのか」と聞かれると
「たまに年賀状があるくらい」とだけ答えている。
私なりに
厄介なこの両親に気を使っている。



さて
実父。
今、孤独な老人ということだ。
家庭を持ち
子どもも2人いる(私とは異母兄弟)。
その子どもたちも私の存在を知っている。

彼は
実家が北海道。
大学は横浜。
学生時代に帰省して役所でアルバイト。
そこで年上の女性と恋に陥った。
真面目な読書好きな女性。
今の母親に言わせれば「自慢の真面目な姉だった。」

大学を卒業せねばならず
横浜に戻った彼。
そして
年上の女性は身ごもる。
そう、私の疑問はここなんだ。
身ごもってどうするつもりだったのか。
その彼と結婚できれば
全く私の人生、変わっていた。
しかし
人生、一度だけ。
仮定はない。

別に不倫じゃない。
今の時代なら何とかなったのか。
いろいろと世間がうるさいのは変わらないが
時代が違っていれば・・・
当時の学生にとって
これから就職しようというときに
子どもができた、というのは
やはり大きな障害だったと思う。
おろすべきだったのでは、とつい当時の母親に助言したくなる。

家庭を築きながら
今、孤独でいるのはなぜだろうか。
もう奥さんとは修復できないのだろうか。
震災辺りの電話でそんなことを聞いた。
離婚したのかどうか、もこちらから聞かなかった。
私という存在があるだけで
奥さんとこじれたようだ。
昔の恋だから、と過去にするわけにいかなかったようだ。
その辺も聞きたい。

私の別な場所で
そんな人生が繰り広げられている。
会うこともないであろう、別な妹、弟。
彼の罪じゃない。
むしろ
母の罪のような気がする。
産むのも産まないのも女側の気持ち。
それを貫けなかった母。
養子に出さなければ、あなたは死んでいた、と言う。
それは今の両親もよく言う。

母は貧乏でいながら
私のあとに
子どもを3人産んだ。
それが旭川の妹たち。
そして、彼女たちより先に
もう1人産んでいる。
私のあとに
富良野で産んだ。
名前もわかる。
が、この子は産まれてまもなく死んだ。
父親は誰なのかわからない。
その子のお骨はどこにあるのだろう。
実母は実母でその後の人生、波乱。
短き人生だったと思う。

コメント
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