僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(2020/5/6)義母の死、そのメモ。

2020年05月06日 19時32分54秒 | 日常、仕事、認知症
明日から夫、仕事開始である。
4月29日からずっと休みで、その間に起きたことをこの正規の休みの間に
解決できて
休み明けの明日、普通に職場に戻る。

29日。
私の実家に。義母と夫の手術の見舞金のお返しを持って
正月以来の訪問。夫は正月は寝込んでいたので数カ月ぶりの訪問である。
父に頼まれて、庭木の剪定などをしていた夫。

30日。
夫、眼の手術。2回目。私はその付き添い。
眼科に出かける前に、義母の病院から電話がある。芳しくないとのこと。


5月1日。
眼科にて、手術後の眼帯を取り、保護眼鏡を掛けて帰宅。その後、義母の病院へ。
酸素マスクをしていた義母。前日の熱は下がっていたが、もう、意識は混濁していた。
ちょうど、私の母が自力呼吸できなくなって酸素マスクを装着した姿を思い出す。

2日。土曜日。
午前中に、義母の病院へ。眼はうっすらと開けていたが、問いかけには反応なし。
これが、生きている義母との最期の対面となった。
まだ、大丈夫かもしれない、否、時間の問題だ、と、心の中。
その日、仙台は暑い暑い、31℃の真夏日。
帰宅して、隣の家に訪問し、これまでの経過を話し、いよいよかもしれないと告げる。

午後、3時近く、横になっていた夫の携帯に電話。
2時33分に亡くなった、と知らせ。
葬儀社を決めて、私たちは4時頃病院に到着。
医師と看護師の説明。
葬儀社の車が到着し、院長、看護師の皆さんに見送られる。
この光景は、感激、感謝だった。
私の母の時とは全く違っていた。
自宅にて、葬儀社の方との打ち合わせ。
夜、納棺師の方々がいらして、綺麗に整い棺に納められ、美しい義母が甦った。
隣の奥さんが、私たちが食事の準備などできないであろう、とおにぎりなど食事を持ってきてくれた。
ありがたい。

3日。
義母の居間の清掃、簡易な焼香台を準備したりと
2人だけで汗だくになって仕上げていく。
前日選んでおいた写真が葬儀用に拡大されて届く。
うちの庭に咲いた白い牡丹を切り、飾る。義母が好きだった花がちょうど咲いてくれ
牡丹にも感謝だ。
隣の奥さん夫婦が喪服で、お花を持って焼香に来訪。
近所の方々にどのように知らせればいいか、と問われ、
こういう時期なので、本当に簡素にしたい、告別式などを省略したい、集まることを避けたい、
出棺の時に合掌していただけたら、と伝える。
その時点で私はまだ自分の父に伝えていない、タイミングがある、と言った。
そう、父に知らせると
父は自分の実家の親戚にバーッと連絡し、自分が取り仕切ってあれこれと指示する人である。
実際に、夫の父親が亡くなったときがそうだった。
ほとんど無縁な方も呼び出される始末だ。
だから、そうならないように、以前から、義母の葬儀は簡略化、全部私達2人でやる、と宣言しておいた。
特にこの時期、皆、緊急事態宣言が出ていて、外出自粛している時にそれをやられたら
別な問題が発生してしまうので、父に知らせるのはタイミングを見計らってのこと。
夜、向かいの奥さんに、伝えに行った。
棺の中の義母を見ていただいた。
やはり、急の出棺合掌では失礼な気がしたので。
隣や向かいの奥さんには、それこそ、私がここに嫁ぐ前からお世話になっていたから。

4日。
火葬の日。
朝、9時半出発予定。
喪服に着替え、予定よりも早めに出棺。
路地のご近所の方々が一斉に並ぶ。
義母が入院していたことは公には知らない。しかし、皆、それとなく知っている。
夫、私が挨拶をして車に乗る。
路地を出る前に、誰か喪服を着て慌てて自転車に乗ってくる人がいた。
会話をしたことのない方だ。しかし、生前、義母と挨拶を交わしていた人。
知らせを受けて飛んできたのだ。
こういうこともありがたい。

10時半火葬。
親族待機部屋に、私達夫婦2人。
まさに考えていた通りのことを実行できた。
3年前の、私の母の時とは全く違う。
大勢の親類(特に父の実家関係。母の実家、北海道の親類は3人のみ)が待機時間に、食べる、飲む、しゃべる。
その空気とは違う、静けさ。
耳の聞こえない私をフォローしてくれる夫。
火葬場という厳粛な空気の中、従業員の声は低く、ましてや皆、マスクをしているので、私の耳は役立たない。最悪。
大きな窓の外の眺めは、新緑の山の風景。
濃い緑ではなく、若芽の淡い緑が埋め尽くす山。
「私はこういう眺めのところで生活したいのよね。」
人生の中で、叶えたい夢の1つだったが、ダメそうだ。
いや、まだわからない。

骨を拾う。
2月に大腿骨骨折の手術の痕の金属棒がしっかりあった。
お義母さん、頑張った証だ。

お骨を抱え、帰宅する。
お昼ごろだった。

父にはメールを。
火葬まで。
「了解」と返信あり。

5日。
昨日。この怒涛の日々の中で、私の心が落ち着いた日が昨日だった。
朝、夫に
義母の兄弟、親戚にどう連絡するのか、特に親しくしていた東京の、夫の従姉に連絡しなくてはいいのか、と尋ねる。
前日から渋っていた。
私が連絡するのはやぶさかではないが、やはり、けじめとして、夫がすべきだと言った。
じゃ、私がまず電話するから、その後はあなたが話すのよ、と言って
私の携帯から、東京に電話をした。
この方、義母の親類として、唯一、年賀状を交わしたり、中元歳暮のやりとりをしていた。
電話をして、夫と話が弾み、40分ほど話していた。
結局、義母の姉妹の1人については、こちら同様、全く連絡を取っていない、どこにいるのかもわからないとのことだった。
義母の姉妹のうち、よく生前、美人三姉妹と言われた2人の妹と3人でよくつるんでいた。
私もよく知っていた。
1人は数年前に亡くなり、焼香にも行った。
1人は末妹で、もう10年単位で音信普通。あんなに仲の良かったのに、何かがこじれて、それ以来、音信は途絶えた。
せめて、その方に連絡を取れたら、と思ったのだが、娘さんの夫の転勤先に行ったのかもしれない、という同じ情報しか得られなかった。
夫が話し終わったあとに
私に替わってお話。
夫の従姉とは言っても、かなり年上である。
しかし、年を取っても、バレーボールのチームで活躍している、仕事は息子夫婦に任せて(会社経営)、自分は事務を担当している、
などなど、精力的に生活していることを聞いて、俄然元気が出てきた私である。
この方、夫を早くに亡くし、長男を不慮の事故で亡くしている。
その時の胸の内を思うと、言葉がない。
それらを乗り越えて、強く生きている、と思うと、私はまだまだ人生の序の口に居るというのを痛感する。
次男は学生時代、友人と共に、試合を仙台でやるのでうちに泊めたことがある。
更にその下の弟も、あんなにちっこかったのが今じゃ、幾つだ、オヤジになっているそうだ。
私達も、若いときに東京に遊びに行ったときに泊まってお世話になった。
2回ほど、行ったことがある。

そんな会話を終えて
夫と思い出話になった。
義母の兄弟の末弟のことになった。
私は会ったことがない。
優秀な学校を出て、そのあと放浪の旅?
何年も前に、東京で亡くなって、身寄りがなく、お骨になって、役所(?)の方が新幹線で仙台の親類に運ばれたとのこと。
それを義母から聞いていた。

そして
夫から初めて聞く話をされる。
「モテたんだよなあ。子供が居たんだ(夫の従弟にあたる)。小さい時にうちに来たことがある(夫も小さかったころ)。
りー坊、りー坊って言っていた。」
「あ、お墓参りにも来ていたらしいぞ。いつだったか、(義母の実家のお墓)参りしたときに、おふくろ、リー坊が墓参りに来た跡がある、と
言っていた。」
お花に名前でも記入されていたのかもしれない。
自分の父親がこの墓に入っているかもしれない、と思って訪れたのかもしれない、と。
私はその話を聞いて
「夫、お墓参りに行こう!」と急に思って言った。
今では置き去りにされている義母の実家のお墓。
ここは、夫の父親の墓のすぐ傍の区画にあるので、義父の墓参りの時に、必ず義母の為に、立ち寄って掃除をして焼香する所である。
私が嫁いできたころは、お盆やお彼岸の時は、誰か彼か、墓参りした痕跡を残してきたが、今では誰も立ち寄らない。
私たちが通えるまで通うことに決めていた。
そして最近、私達自身が墓参りをしていなかった。

ほうきやお供え物などを持って
途中お花を買って、久しぶりにお墓に行った。
いや、前日に火葬しているから、同じ場所だった。
綺麗に掃除をして、ペットボトルの水を掛けて、気持ちをすっきりさせた。
そして義父の墓にも同じように。
ここにいずれ、義母のお骨も入る。

納骨までまだ時間があるので、こうしてお墓に来たことが気分を替えてくれた。
お墓は拠り所、と私の持論じゃない。
が、やはり気持ちがすっきりした。

帰り、老舗のケーキ屋のケーキを隣の家の分も買ってくる。
近所の方々が、チラホラと焼香に来訪。

夜、静けさ。
夫は久しぶりにオーディオルームに閉じこもって音楽を聴いていた。
私は
ここ数カ月、毎日、「明日の予定はこれとこれ。忘れないように。」と自分に言い聞かせ、自転車やタクシーで
あちこちに出かけていた。何かに追われるようにして。
夜中に目が覚めれば、メモをして、あと数時間まだ寝られる、いや、また眠ったら、定刻に起きられないかもしれないからずっと起きていよう、
などと毎日心の中で、自分の失態と戦っていた。
そして昨日の夜、
本当に静かだと思った、自分の心が。
明日のことを考えなくてよい、それだけで安楽だと思った。
その静けさの中でブログを書こうか、と思ったが、それも止めた。

今日はこうして
明日から始まる夫の仕事
役所関係3件の私の役割を、明日の目標に入れている。
自分の仕事のことも明日明後日に、連絡しなければ。

長文失礼しました。
これは自分用のメモでもあります。
流れを把握しておかないと。







コメント (2)
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