26日(水)。佐村河内守著「交響曲第一番~闇の中の小さな光」(幻冬舎文庫)を読み終わりました
佐村河内守は1963年、被曝二世として広島に生まれました。4歳から母にピアノを師事し、音楽大学へは進まず独学で作曲を学びました 35歳で全聾になりながらも、絶対音感だけで「交響曲第一番”HIROSHIMA”」を完成、NHKスペシャルでその壮絶な半生が紹介されて話題を呼び、そのCDはクラシック音楽としては空前の売り上げを記録しました
音楽大学に進学しなかった理由を次のように書いています
「いまの音大の作曲科で学ばされるのは『現代音楽(不協和音を駆使して構築する無調音楽)』だけであり、いったん作曲科に入ったなら、その学校の教師(現代音楽作曲家)に師事しないわけにはいかず、師事した教師の作風からはずれた音楽をかくことは許されず、卒業して『クラシック音楽作曲家(いわゆる調性音楽)』として身を立てることなど認められない時代になってしまったことを悟ったからでした 当時の私は、マーラーのような、壮大でロマンチックな曲を書くことを夢見ていました」
そんな彼が、最終的には不協和音を使わなければ自分の音楽は書けないことに直面します
偏頭痛、耳鳴り、全聾、頭鳴症、左薬指機能不全、抑うつ神経症・・・・・と様々な病気に遭遇し、その間、愛すべき弟を交通事故で亡くし、絶望のあまり2度の自殺未遂を起こし、それでもなお、自分の音楽を書きたいという止むに止まれぬ想いを遂げるため血の出るような努力を積み重ねるのでした しかし彼は自分で作った曲を音として聴けないのです。これほど残酷なことがあるでしょうか
ある日、彼は障害児の施設で「しお」という少女と出会います。彼女は母親から虐待を受け、浴槽に沈められ、そのとき脳に長時間酸素がいかなかったことが原因で無酸素脳障害となり、知恵遅れ、手足の麻痺、弱視という障害を背負わされていたのです
彼があらゆる病魔と闘いながら「交響曲第一番」を作曲していた時に「しお」から何通もの励ましの手紙が届き、挫折しそうな心を何度も立て直したといいます。そのことを彼は次のように書いています
「逆説的ではありますが、私が地獄の闇で闘い抜くことができたのは、その闇があまりに暗すぎたからだと思えるのです 闇が深ければ深いほど、しおが灯した小さな小さな祈りの灯火は強く輝き、私に大きな希望を与えてくれたのです 私は、小さな光の尊さを教えてくれた大いなる闇の存在を認め、そこに生まれた『交響曲第一番』に、心からの満足を得ることができました」
耳鳴りが消えたと錯覚した時、彼は神の啓示を聞きます。「苦しみ闘う人々の支えになる音楽・・・・それは、誰よりも苦しみ闘った者の手からしか決して生まれないのだ!そんな音楽を成しえたいと望むのなら『闇』に満足し、そこにとどまれ」
そして、ついに彼はある境地に達します
「自分を闇に突き落とした憎むべき相手と、真理への感謝を捧げる相手と、苦痛から救われるために祈る相手・・・・・・。その3者は『同一の存在』だったのです また、闇の中で私に真理を与えた、しおの祈りが向かう先も、結局のところ私の信じる神と同一の存在だったのです それに気づいたとき、私が”神”と呼んできたものの、その存在の大きさを嫌というほど思い知りました。最終的に私が得たものとは、その大きな存在(神=運命)に身を委ね、ただ祈るほかないということでした」
ベートーヴェンの交響曲第5番は、その冒頭の打撃から「運命交響曲」と呼ばれていますが、佐村河内守にとっては「交響曲第一番」が「運命交響曲」だと言えるでしょう
「交響曲第一番」は3楽章から成りますが、全体を通して暗い闇の世界が延々と続きます 最終楽章の後半に至ってやっと希望の光が見えてきます。音楽は読むものではありません。聴いてみましょう
交響曲第一番の全国コンサートツアーが28日(金)大阪フェスティバルホールから始まります このうち東京地方の公演は7月6日(土)昼の部・夜の部、7月21日(日)横浜みなとみらいホール、10月26日(月)サントリーホール、12月1日(日)横浜みなとみらいホール、12月14日(土)東京芸術劇場、2014年4月27日(日)サントリーホールです 私は7月21日の神奈川フィルの公演を聴きに行きます
また、彼のピアノ・ソナタの演奏会も開かれます。東京公演は10月13日(日)です。私は当日別のコンサートの予定が入っているので聴きに行けません。追加公演を望みます