19日(金)。新日本フィルから「第596回定期演奏会ジェイド、特別演奏会:第7回サファイア公演に関するお知らせ」というハガキが届きました 内容は10月27日(土)ジェイド(サントリーホール・シリーズ)と28日(日)の特別演奏会:第7回サファイア(横浜みなとみらいシリーズ)公演では、1曲目のブルックナー「交響曲第9番」と2曲目の同「テ・デウム」の間には休憩がないので、開演時間を過ぎてから来場するとチケット記載の席で聴けない恐れがあるので注意してほしい、というものです 上記の2曲を連続して演奏するのは決して珍しいことではありません オーケストラ公演でよくある「お知らせ」は、指揮者やソリストが変更になったのであらかじめ承知してほしいというものですが、曲の間に休憩が入らないという事前通知は珍しいかも知れません こうした配慮は、予想されるトラブルを事前に防いで定期会員離れを防ぐコンプライアンスの一環だと思います ハガキ代等のコストがかかっても 会員が減るよりはマシだという判断でしょうが、オーケストラ運営は大変ですね
ということで、わが家に来てから今日で1477日目を迎え、財務省は18日、来年3月18日から発行する千円札から、記号と番号の色を褐色から紺色に変えると発表したが、これはアルファベット3文字と数字6ケタを組み合わせた129億6千万通りを全て使ってしまうためである というニュースを見て感想を述べるモコタロです
現在 12,960,000,000 枚の褐色の記号・番号の1000円札が出回ってるわけだね
昨日、夕食に「豚肉と大根の炒め煮」と「湯豆腐」を作りました 「大根~」はかなり煮込んでいるので味が浸み込んで美味しいです
昨日、東銀座の東劇でシネマ歌舞伎「法界坊」を観ました この夏から秋にかけて東劇で上映していた「METライブビューイング アンコール2018」の時に"予告"を観て、面白そうだと思ったので当日券を買ったものです
この公演は2008年(平成20年)11月に浅草寺境内の平成中村座で開かれた公演のライブ録画映像(ライブビューイング)です
東劇のホームページの「作品紹介」によると「法界坊」のストーリーは次の通りです
「金と女が大好きな法界坊(18代目 中村勘三郎)は、どこか憎めない愛嬌溢れる乞食坊主 永楽屋の娘お組(扇雀)に恋い焦がれる法界坊は、盗まれた吉田家お家の重宝「鯉魚の一軸(りぎょのいちじく)」を お組と恋仲である手代の要助(実は、吉田宿位之助松若=よしだとのいのすけまつわか=勘九郎)が探し求めていると知る。いい金づるを見つけた欲深い法界坊に、永楽屋番頭の正八(亀蔵)や山崎屋勘十郎(笹野高史)らも加わり、鯉魚の一軸を巡る悪だくみが繰り広げられる 一度は道具屋甚三郎(実は𠮷田屋の忠臣・芝翫)にやり込められ散々な目に遭った法界坊だったが、お組の父 永楽屋権左衛門(彌十郎)と松若の許婚の野分姫(七之助)らも巻き込み、さらに数々の悪行を行う 幕が変わり、最後に大切所作事「双面水照月(ふたおもてみずにてるつき)」の場面では、法界坊と野分姫の霊が合体したお組そっくりな葱売りの女(勘三郎)が出現し、徐々に本性を現しながら舞踏劇を展開する」
これは本当に楽しいライブビューイングでした まず第一に、アドリブ満載の中村勘三郎の法界坊には笑ってしまいます 彼に負けず劣らず可笑しかったのは山崎屋勘十郎を演じた笹野高史です。顔と身体で演技していました そして、柔らかい身体を生かして柔軟体操のような演技を見せた番頭正八役の片岡亀蔵も大きな笑いを誘っていました
18代目中村勘三郎は2012年12月5日に死去しましたが、その4年前のこの公演では二人の息子(勘九郎と七之助)と共演し、ライブビューイングとして映像が残されているのは良かったと思います それにしても中村七之助が演じた花園息女野分姫の何と美しかったことか
途中休憩15分を含めて165分の上映はあっという間に過ぎました チケット代2,100円は決して高くありません
ところで、「歌舞伎」ということで思い出すのは、初めて歌舞伎を観た時の興奮です 70年代半ば、新聞関係団体に入職して1~2年くらいの時のことでした。アメリカの新聞記者約10人を日本に招いて日本の現況を理解してもらうプロジェクトがあり、講師を招いてのレクチャーから観劇・国内旅行まで私が彼らに同行し お世話することになりました その時、アメリカ側の希望により 東銀座の歌舞伎座での歌舞伎鑑賞がプログラムに組まれたのです 出し物は「児雷也豪傑譚(じらいやごうけつものがたり)」です。これは、主人公の盗賊・忍者「児雷也」が宿敵「大蛇丸(おろちまる)」を相手に戦う物語ですが、児雷也が巨大なガマに跨って出てきたり、大蛇が出てきたり、いろいろな動物に早変わりで変身したりと、実にビジュアル的に楽しい歌舞伎でした 原色による鮮やかな衣装や舞台とも相まって、アメリカの記者たちは大喜びでした 最初に観た歌舞伎が「児雷也~」だったのが幸いし、私も歌舞伎が好きになりました ただ、当時からクラシックを聴いていたので、もしここで趣味の守備範囲を広げると、とことん のめり込むタイプなので泥沼状態になると恐れ、足を踏み入れることはしませんでした そのため、その後 歌舞伎を観たのは一度だけです しかし、歌舞伎は日本最高のエンターテインメントです その魅力には抗しがたいものがあります
17日に続いて『中央公論』11月号の特集「クラシック音楽に未来はあるか」の第2弾をご紹介します 指揮者・大友直人氏と思想史研究家・音楽評論家の片山杜秀氏による対談は、題して「助成金の先細り、観客の高齢化・・・マエストロと考える危機の乗り越え方」です
大友直人氏は1958年東京都生まれ。桐朋学園卒。22歳で楽団推薦によりNHK交響楽団を指揮してデビュー。現在、群馬交響楽団音楽監督、東京交響楽団名誉客員指揮者、京都市交響楽団桂冠指揮者、琉球交響楽団音楽監督
片山杜秀氏は1963年宮城県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。2013年より慶應義塾大学教授。著書に「音盤考現学」「音盤博物誌」(両書で吉田秀和賞・サントリー学芸賞)など
片山氏は日本経済新聞に「クラシックの未来」というテーマのエッセイを寄せていますが(2018年2月12日付の当ブログ参照)、それを踏まえて次のように語ります
「そもそもオーケストラやオペラなどの大人数の出演者を要するクラシックの公演は、満員になって、チケット収入があっても、ペイしない構造になっている 100人のオケが2000人の聴衆を相手に演奏し、独唱と合唱とオケを合わせて200人で1500人の観客を前にオペラを演奏する。ポップスのコンサートなどと比べて効率が悪い だから、公共や民間の助成を受けないと成り立たない。助成が大幅に減額されたら、たちまち存続できなくなってしまう もう一つの危惧は、オーケストラの観客が高齢化していることだ 自分が中高生の時とはそこが全然違う。観客の年齢層に合わせて、オペラも夜だけでなく平日の昼にもやるようになっているが、今クラシックの演奏会に行っている人たちの足腰がたたなくなったら、N響だって都響だって定期演奏会の会場がガラガラになるのは目に見えている」
これは根本的な問題です チケット代だけではオーケストラやオペラは経営が成り立たないという事実は、あまりにも一般の人たちに理解されていません ただ、主催者側はそういうことをアピールする努力をどれほどやっているでしょうか。「是非寄付をしたい」と思わせるようなパフォーマンスをやっているでしょうか
なお、この特集では 日本のオーケストラの収支構造を①大きなスポンサーをもつ東京のオーケストラ(N響、読響)、②大きなスポンサーをもたない東京のオーケストラ(新日フィル、東響)、③大きなスポンサーをもつ地方のオーケストラ(名古屋フィル、大坂フィル)、④大きなスポンサーをもたない地方のオーケストラ(京都市響、オーケストラ・アンサンブル金沢)の別に実額ベースで明らかにしています 非常に興味深い内容になっていますが、詳細をお知りになりたい向きは『中央公論』11月号をご購入下さい
片山氏はさらに、「世代による価値観の変化は確かにある」として、橋本徹氏が大阪府知事になり大阪センチュリー交響楽団の補助金を打ち切ったことを例に挙げます そして、
「昔なら、江戸英雄、佐治敬三、堤清二といった、数字とは別のところで判断する経営者がいたが、今だと楽天の三木谷浩史氏のように理解のある人はいるものの、次の世代に誰がいるのかと考えると、たぶんいない」
と指摘しています
残念ながら、指摘の通り誰もいません。今はやりの経営者は自ら宇宙旅行に行くことには いくらでも大金を使いますが、文化を支えようとはしません
大友氏は「クラシック音楽の地位の低下」について次のように語っています
「いま日本のオーケストラが『弱く』なってきているような気がする 昔に比べて機能性は上がり、柔軟性も出てきているが、確固たる『音』がない サウンドに対する感性が弱い。日本のオケは器用だと思う。難しいリズムでも難しい音型でも、それを短時間で演奏できるプレーヤーがこれだけ揃っている一流のオケがいくつもある国は少ないと思う しかし、世界にはもう一段上の超一流というものがあって、超一流と一流の差は、一流と二流の差より大きい 日本人は優れた感性を持っている。それをもっと磨いていくべきだ。今や日本のアニメは世界を席巻しているが、日本の漫画家たちは世界の読者を相手に描いているかといえば全然逆で、目の前の自分たちの読者を離さないために必死に描いている そういうことが芸術の分野で誰にも見えなくなっているような気がする」
大友氏の「確固たる『音』がない。サウンドに対する感性が弱い」というのは、本当にその通りだと思います 私なりの解釈では「そのオーケストラ独自の音がない、カラーがない、つまり個性がない」ということだと思います。例えば、目隠しテストで、あるオーケストラが演奏して、「どのオーケストラが演奏したか当てよ」という問題が出されたら、自信を持って 私には正解する自信がまったくないと言えます どのオーケストラを聴いてもそれほど違いはなく、同じように聴こえるからです 個人的な経験から言えば、私はかつてドレスデン国立歌劇場管弦楽団(スターツカペレ・ドレスデン)の演奏する曲がラジオから流れてきたら、「これはドレスデンの音だ」と当てることが出来ました 他のオーケストラにない独特の”サウンド”を持っていたからです 今の在京オーケストラにこのような個性を持ったオケは残念ながらありません もし「ある」と言う人が少なくないのなら、私の耳が悪いのだと思います また、「世界にはもう一段上の超一流というものがあって、超一流と一流の差は、一流と二流の差より大きい」という指摘は、超一流と一流と二流の演奏をすべて聴いた人にしか言えないセリフです しかし、クラシック愛好家に限ってみても、これらの差が分かる人、とくに超一流と一流の差が分かる人はどれくらいいるのでしょうか また、オーケストラの皆さんはこういう特集記事を読んでいるのでしょうか 読んでいるとすれば、どう思っておられるのでしょうか
大友氏は「日本人が西洋音楽を演奏することの意味」について次のように語っています
「斎藤秀雄先生はよく『日本人は見方によってはとても有利だ』と言われていた つまり日本人は素地がないだけに、ドイツ人が演奏するフランス音楽よりもフランス的に、フランス人が演奏するドイツ音楽よりもドイツ的に演奏することが出来るかも知れない、そういう柔軟性を持っていると。これは当たっていると思う 日本人は歴史的にも文化的にも、あらゆるものを受け入れ、取り入れ、咀嚼することができる民族かも知れない。その意味で、日本人が西洋音楽をやる上での強みはある」
「柔軟性」とは便利な言葉ですが、別の言葉に置き換えれば「器用貧乏」ということではないかと思います
大友氏は千住明氏や三枝茂彰氏のオペラを積極的に上演していますが、「日本にオペラは根付かないのか」という問題について次のように語ります
「日本の音楽家としての自分にとって最高に価値のある、意味のあることは何かと考えた時、それは日本のオペラの新作ではないか、と思った 本来、ブルックナーやマーラーのシンフォニーをコンサートホールの椅子に座って2時間聴くことより、オペラを観る方がずっと簡単なはずだ オペラは平たく言えばエンターテインメントの歌芝居だ。日本にオペラを根付かせたいのであれば、日本の日本語によるインパクトのある現代作品を上演することだ モーツアルトやワーグナー、プッチーニばかりやっていて、劇場を連日満員にするなんて、未来永劫そんなことは起こらない そんな認識も持てないまま、オペラ劇場を運営する状況が続いていること自体おかしい。今度、新国立劇場のオペラ芸術監督が大野和士君になったので期待したい」
たしかに日本人による日本語のオペラの方がストレートに歌の真意が伝わってきて理解しやすいと思います 新国立オペラでいくつも日本人によるオペラを観てきましたが、團伊玖磨作曲「夕鶴」は言うまでもなく、いまだに瀬戸内寂聴原作、三木稔作曲によるオペラ「愛怨」(2006年)は素晴らしかったと思うし、遠藤周作原作、松村貞三作曲による「沈黙」(2012年)も印象深いものがありました その意味では、新国立オペラの今シーズンの西村朗作曲「紫苑物語」には大いに期待しています
「文化を経営する」ことについて、片山氏は次のように語ります
「クラシック音楽は大事なものだという社会的コンセンサスが弱ってきて、公共にもお金がなくなって、クラシック音楽界に対する補助を減らしても、まあしょうがないんじゃないか、という空気が充満している おそらく残るのは、超一流とセミプロとアマチュアだけになるのではないか、という恐怖がある 歌舞伎のような伝統芸能は残していかなけばならないけど、それ以外は勝手にやってください、となりかねない」
これに対し 大友氏は、
「歌舞伎は凄いと思う。歴史的には山あり谷ありで、興行的にもかなり厳しい時代があったと聞くが、公的助成を受けていない クラシック音楽界はもっと見習わなくてはいけない」
と述べます。これを受けて 片山氏は、
「国立劇場が出来てからは、研修所なんかには公共のお金が入っているが、基本的に歌舞伎座は松竹の興業だ」
と語ります。大友氏は、
「歌舞伎は看板役者はだんだん代わっていくが、いつの時代も、皆ちゃんと看板に育っていくし、仕立てていく それに比べてクラシックはどうなのか。看板がない 看板がどれだけ大事かという認識を持つオーケストラマネージャーや劇場支配人がいなくなってしまったのかもしれない。それを含めて歌舞伎は勉強になるはずだ クラシック音楽界をリードする人、自分の確固たる哲学を持ったオーケストラマネージャーを育てていかなければらない」
と語り、昭和20年代後半から30年代初頭までN響にあった指揮研究員制度で、岩城宏之、外山雄三、若杉弘といった名指揮者が巣立っていったことを紹介しています その上で、
「今の中学生や高校生の中から次代を担う人材が生まれてくるかもしれない。これからも 出来るだけ若い人と接触する機会を持つようにしたい」
と語っています。中高年層を相手にしていてはもう間に合わない、という危機感が垣間見られます
そして、寄付制度について大友氏は、
「いまの日本の社会は、基本的に文化活動に興味がない それはオーケストラや美術館の展覧会がどういう背景によって成り立ち、どういう歴史があるのか、どういう財源によって維持されているのかという認識が、人々の中にないからだ メトロポリタン美術館や大英博物館に行くと、至るところに『寄付をお願いします』と書いてあるので、子供の頃からオペラ劇場や美術館は寄付がないと存続できないことを自然に覚えると思う。日本にはそういう認識が薄い」
と指摘しています。主張は理解できますが、日本はチケット代が高いと思います 1つでも多くのコンサートを聴きたいと思う身からは「寄付を考えるまでの余裕がない」というのが正直なところです 料簡が狭くてごめんなさい
大友氏は最後に、
「あらゆるジャンルの音楽のもととなっているクラシックのエネルギーを絶やしてはいけないし、これからはむしろそれをさらに強いものにしていけるはずだと信じている」
と結んでいます
さて、クラシックに未来はあるのでしょうか 二人の対談で明らかになった問題点を解決した先に 未来は開けるのだと思いますが、さて そうした未来は近いのでしょうか