例年どおり箱根駅伝を観に行く。

2020年01月01日 23時18分42秒 | 日記・断片

取手発5時55分の電車を予定したが、コンビニに寄ってオニギリ、ふんわりコッペのたまごサラダなどを買ったので、約1分違いで電車は出てしまう。
昨年は上野駅構内のコンビニでオニギリを買った。
次の電車は水戸方面からの6時10分発。
寝たりない感じだが、目をつぶっても眠れない。
向かいの席の7人の4人がマスクを装着。
自分の座る席に7人の3人がマスク。
斜め前の席の7人の中の2人もマスク。
また、7人かけの席のほとんどが、スマフォをいじっていた。
東京駅構内のイス席があり、そこでオニギリを食べた。
それにしても、箱根駅伝はどこもここも人垣で凄い。
今年は、内側ではなく、外側(外堀沿い)でスタートした選手を応援した。

友人も来ているはずであるが、何処にいたのか、とても探せない。


仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか

2020年01月01日 23時00分20秒 | 社会・文化・政治・経済

鵜飼秀徳(うかいひでのり)著

2019年2月3日

◆そして国民は易々と従った

[評]高瀬千図(作家)

 昨年は明治維新から百五十年ということで、各地で記念行事が行われた。しかし、明治維新とは何であったのか、明治新政府が発布した神仏分離令、つづいて出された神仏判然令とは具体的にはいかなるものであったのか。

 浄土宗の僧侶でもある著者は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の行われた現場に足を運び、その痕跡を探し、実地検証しつつ、かくも激しい破壊が行われた理由と背景を探り出そうとしている。

 周知のとおり、明治政府は千二百年にわたるこの国の神仏混淆(こんこう)とその習俗を排斥しようとした。古代より引き継がれてきた仏教文化さえも旧態依然とした徳川幕府による宗教体制として嫌悪した。その理由のひとつに、天下は取ったものの明治新政府にはいかなる展望もなかったこと、それゆえにこの国と民を一括(くく)りにするだけの強力な国体論を持つことが何より急がれたという事情がある。

 徳川幕府を否定するための思想的基盤として、水戸学はじめ神道による国体論が脚光を浴びることになった。王政復古、祭政一致を求める天皇制権力構造の下、国家神道を確立させることこそ、明治政府が目指した近代国家像であった。以来、国民には徹底して明治維新を肯定し、美化する教育がなされた。これは太平洋戦争終結まで続いた。

 ◆そして国民は易々と従った

しかし、疑問は残る。仏教的要素の排斥を命じた明治新政府に、なぜこの国の大衆は易々(やすやす)と従ったのか。比叡山延暦寺はじめ興福寺すら例外ではなく、ついに天皇家の菩提寺(ぼだいじ)にまで破壊の手は伸びた。

 明治元(一八六八)年、神祇(じんぎ)事務局から各神社に出された通達には、「僧形の別当、社僧などは復飾(還俗(げんぞく))の上、僧位僧官を返上せよ」と書かれている。僧侶までがこの命令に抵抗しなかった。

 廃仏毀釈により破壊された国宝的文化財の数は、先日他界された梅原猛氏によれば「現在の国宝の約三倍」にのぼるという。しかし、一般の人々がここまでの暴虐を働いたことには、それだけの理由がなくてはならない。本書は我々の信仰のあり方までも問う一冊となっている。

 (文春新書・950円)

 1974年生まれ。ジャーナリスト・僧侶。著書『寺院消滅』『無葬社会』など。

◆もう1冊 

 安丸良夫著『神々の明治維新』(岩波新書)。神仏分離政策の意味を問う。


 




天皇の信仰は神道なのか、仏教なのか

2020年01月01日 22時41分56秒 | 社会・文化・政治・経済

天皇の被災地訪問は"菩薩行"である

PRESIDENT Online

島田 裕巳 宗教学者

これまで天皇が、自らの信仰は仏教であると公言したことはない。しかし明治に入るまで、天皇の信仰の中心にあったのは仏教だった。

代々天皇は仏教に対する強い信仰をもっていた。生前退位を控えたいま、宗教学者の島田裕巳氏は「天皇の象徴としての行為、それは神道ではなく、仏教ではないか」と問う――。(第1回)
※本稿は、島田裕巳『天皇は今でも仏教徒である』(サンガ新書)の「はじめに」を抜粋したものです。

天皇の退位と天皇の信仰
天皇の信仰を問う。それがこの本の課題である。

天皇の信仰を問うと言ったとき、それは不遜(ふそん)な行為ではないのか、不敬にあたるのではないかと考える人もいるかもしれない。

しかし、今やそれを問わなければならない時代になっている。それも、天皇のあり方がさまざまな点で重要な岐路に立たされているからである。


島田裕巳『天皇は今でも仏教徒である』(サンガ新書)
岐路に立っていることは、なによりもNHKのスクープ(2016年7月13日)によって天皇の生前退位の問題が浮上したことで明らかになった。

天皇は祈っているだけでよいのか

この点が今後、どのような方向で議論されるかは定かではないが、退位をめぐる有識者会議に呼ばれて意見を述べた有識者のなかには、退位にすら反対する人間が少なくなく、伝統を変えることがいかに難しいかが明らかになった。

そうした有識者の見解のなかで、もっとも極端なものは、天皇は祈っているだけでよいのであって、それ以外の「公的行為」をする必要などないというものであった。祈ることこそが天皇の本来のあり方であり、いくら高齢になっても、それが果たせる限り退位する必要はないというのである。

国民に対して、間接的な形ではあるものの、退位の意思を表明した2016年8月8日のビデオメッセージで天皇が強調したのは、即位以来、国事行為を果たすとともに、「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来た」ということだった。ところが、高齢になったことで、国事行為や象徴としての行為を十分に果たすことができなくなったというのである。

このビデオメッセージで、政治的な見解を述べることを封じられた天皇が、明確に退位の意思を示すことはできなかった。だが、長年考え続けてきた象徴としてのあり方を実践していくことに、天皇がいかに腐心してきたかが示される形になった。

その点では、退位に反対する有識者の考え方と、天皇自身の考え方が真っ向から対立したことになる。なにより印象的なのは象徴としての行為を否定し、それを天皇の務めから外れていると見なす有識者は、意外なほど多かったことだ。

象徴として実践してきた「慰霊の旅」

天皇が象徴としての行為として実践してきたのは、大規模な災害が起きたときの被災地への訪問であり、第二次世界大戦において多くの犠牲者を出した場所への「慰霊の旅」である。また、前述のビデオメッセージでは、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」と述べられていた。

こうした行為は、国民から圧倒的な支持を得てはいるものの、たしかに、憲法に規定されたものではない。だからこそ、天皇自身、それをいかに実現するかに努力を傾けてきたわけだが、保守的な天皇観を持つ人間からすれば、それは天皇がする必要のない、無用の行為であるということになる。

そこには、天皇をめぐる、あるいは天皇制をめぐる難しい問題がかかわっているわけだが、一つ重要なポイントは、現在の天皇が30年ほどにわたる在位期間に考え、実践してきた象徴としての行為が、実は伝統に根差したものであり、天皇の信仰と密接な関係を持っているのかもしれないということである。だからこそ、今、天皇の信仰を問わなければならないのだ。

 

もっとも、この問題自体は、特例法が成立したことによって解決を見た。特例法の正式な名称は、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」である。これによって、2019年3月末日には現在の天皇の退位が実現され、4月1日に新しい天皇が誕生することとなった。平成は31年で幕を閉じることが有力視されている。

ただ、現在の天皇による退位の表明には、皇位の安定的継承の問題がからんでいるのだが、こちらは解決策が見出されているわけではない。退位の問題をどのように処理するか、その枠組みを決めるために組織された有識者会議でも、その点について具体的な議論は行われなかった。

明治に出てきた「万世一系」の考え方
特例法について議論を行った衆参両院の委員会では、皇位(こうい)の安定継承をはかるためということで、「女性宮家(みやけ)」創設などの検討を盛り込んだ付帯決議も採択された。この決議では、「安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について、先延ばしすることはできない重要な課題」であるとも指摘されている。これは政府に対して、特例法の施行後、つまりは現在の天皇から皇太子への譲位が実現した後に、速やかに皇位の安定的な継承策を検討することを促すものである。ただし、これについては期限が設けられていないため、いつ議論が行われるのか、明確な見通しは立っていない。

そこには、有効な具体策が出てくる見通しが得られないということが深くかかわっている。女性宮家の創設のほかに、女性天皇の容認、さらには女系(じょけい)天皇の容認など、いくつかのアイディアは出されているものの、どれも決定的なものとは言えない。1947(昭和22)年にGHQの圧力により皇籍(こうせき)から離脱せざるを得なくなった旧皇族(旧宮家)の復帰を強く主張する人たちもいるが、離脱からすでに70年の歳月が経っており、その実現は相当に困難なものと思われる。

明治時代には、天皇について「万世一系(ばんせいいっけい)」という考え方が打ち出された。このことばは、明治維新の立役者の一人、岩倉具視(ともみ)が「王政復古議」(国立国会図書館所蔵『岩倉具視関係文書 第一』所収)という文書によって最初示したものであり、これ以降、天皇家は初代の神武(じんむ)天皇(在位紀元前660~前585年)以来、連綿と、しかも男系によって継承されてきたことが強調されるようになった。

ところが、皇位の継承の方法について定めた「皇室典範」が最初に制定された明治中期と現在とでは、日本の社会のあり方は大きく変わっている。皇室典範は、戦後、新しい憲法が制定されるのを機に部分的に改正されたが、そこでは、古い皇室典範では認められていた天皇が「側室」を持つことが否定された。これによって、皇位の継承はより困難なものになっている。


古代史最大のライバル対決

2020年01月01日 21時36分08秒 | 社会・文化・政治・経済

7世紀前半の飛鳥。豪族が支配する世から天皇中心の中央集権国家へと移り変わる歴史の転換期。実質上の政治の権限は蘇我氏の手に握られ、「日本」という国家の出発点・大化の改新が起こる。

それは、波乱に満ちた幕開けでした。645年6月12日。時代の流れを大きく変える事件が起こります。時の天皇、皇極女帝の目の前で、時の権力者、蘇我入鹿が襲われたのです。首謀者は皇極女帝の息子、中大兄皇子。これが、蘇我入鹿暗殺です。

なぜ2人は対決することになったのか。古代史史上最大のライバル対決、蘇我入鹿と中大兄皇子。大化の改新の幕が上がります。

跡継ぎを巡る後継者争い

642年1月。史上2人目の女帝、皇極天皇が誕生した時、2人の男の運命が大きく変わろうとしていました。ひとりは天皇の力をも凌ぎ、都が置かれた奈良の地を拠点にしていた豪族の後継者、蘇我入鹿。もう1人は、天皇家の有力な跡継ぎとして生まれた、中大兄皇子。

一方の中大兄皇子は父、舒明天皇、母、皇極天皇という2人の天皇を両親に持つサラブレッド。片や入鹿は蘇我一族。天皇家との政略結婚でその勢力を拡大し、天皇家を凌ぐ力をつけていました。

そのトップが蘇我入鹿でした。皇極天皇即位にともない、父、蝦夷から、国政の最高位、大臣(おおおみ)を与えられました。

権力を手にした入鹿の非道ぶりに人々は恐れおののいたと言います。一方中大兄皇子は、完璧な血筋ゆえに後継者問題に巻き込まれる運命にありました。皇極天皇が即位した当時、皇位継承候補として名が挙がったのは4人

。山背大兄王(やましろのおおえのおう)、舒明天皇の子で、入鹿のいとこ、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)、皇極天皇の弟、軽皇子、そして中大兄皇子。中でも山背大兄王は諸豪族から厚い信頼を寄せられ、最も有力な皇位継承候補者でした。

しかし、大臣の権力を譲られてまだ1ヶ月にも関わらず入鹿は、妹の息子、古人大兄皇子以外の他の皇位継承候補者の排除に乗り出すのです。

これが入鹿と中大兄皇子の対決の幕開けです。中大兄皇子の祖父・彦人大兄皇子(ひとひこのおおえのみこ)は、次期天皇を約束されていた人物。しかし、入鹿の祖父、蘇我馬子に暗殺されたとの噂や、中大兄皇子の母、皇極天皇の愛人関係にあったとも言われていたのです。

二人の関係を知った中大兄皇子が入鹿に憎しみを抱いたとしてもおかしくありません。蘇我一族によって祖父を殺され母も奪われた中大兄皇子。この時こそライバル誕生の瞬間でした。

 

欠かせない一人の男

横暴な蘇我入鹿に対し中大兄皇子が立ち上がるのは1人の男との運命的な出会いがきっかけでした。飛鳥寺で行われた蹴鞠の席で脱げ落ちた中大兄皇子の靴を拾って渡した男。それは中臣鎌足。この時、鎌足が入鹿の横暴を取り除くよう進言。2人の入鹿暗殺計画はこの出会いから始まったと言われています。この暗殺計画の刺客として鎌足が目をつけたのは網田と子麻呂、そして石川麻呂の3人。この石川麻呂は入鹿と不仲だと言われ、蘇我家の内部崩壊を狙った石川麻呂を味方にするため、中大兄皇子はその娘と結婚しました。娘をたてに、暗殺計画にひきずりこもうとしたのです。そして計画をいつ実行するか考えます。朝鮮三国の使者がくる重要な儀式があれば入鹿も顔をみせると偽物の儀式を考えます。そして、運命の日はついにやって来ます。朝鮮三国から天皇へ貢ぎ物が献上される儀式の日。入鹿も儀式に参加するために姿を現します。そこへ1人の男が剣を渡すよう入鹿に迫ります。これは鎌足の罠。入鹿が常に剣を身につけていることを知っていた鎌足から剣を取り上げるためひと芝居打ったのです。万事鎌足の計画通り進み、入鹿が席につき儀式が始まります。石川麻呂が上奏文を読み上げる。実はこれが2人の刺客が入鹿に襲いかかる合図でした。しかし2人の刺客は恐怖のためか動く事ができません。上奏文の終わりが近づき石川麻呂の手が震える。計画は失敗かと思われたその時、中大兄皇子は自らの手で蘇我入鹿の首をはねます。これが入鹿暗殺の顛末でした。

隠されたストーリー

天皇中心の国家を目指す中大兄皇子らが起こしたクーデター、蘇我入鹿暗殺。その背景には別の首謀者がいた可能性があると言います。その鍵は入鹿が起こした、山背大兄王(やましろのおおえのおう)襲撃事件にありました。

『日本書記』によればこの事件は、権力を手にしたい入鹿が山背大兄王を襲撃、一人で犯行に及んだとあるのです。

藤原氏の伝記・『藤氏家伝』では襲撃は入鹿一人の犯行ではなく、多数の皇族が加わると言う記述も。しかも入鹿の単独犯を否定する史料は他にもあったのです。平安初期に書かれた聖徳太子の伝記でも入鹿は単独犯ではなく実行犯の一人とされています。この事件には6人の首謀者が挙げられ、その中には意外な人物もいました。

皇極天皇の跡を継いだ軽皇子。ここに興味深い事実が明らかになってきます。中大兄皇子以外のクーデターに参加したものたちは、「地縁」でつながっていたのです。中臣氏、石川麻呂は和泉地方に多くの支配地を持ち、刺客の小麻呂と網田は、河内・和泉の出身。そしてその中心に、和泉に宮殿を持つ軽皇子がいたのです。

クーデターの主役は、中大兄皇子ではなく軽皇子だったのではないかと考えられます。入鹿が暗殺された時点で4人いた皇位継承候補者は、中大兄皇子と軽皇子の2人に絞られます。2人の内一番得をしたのはどちらだったのか。

答えは皇極天皇の跡を継ぎ天皇となった軽皇子だと言えるのではないでしょうか。さらに意外な人物が軽皇子に仕えていたこともわかりました。それは中臣鎌足。実は、鎌足は2つのシナリオを持っていました。

1つは、軽皇子の邪魔となる山背大兄皇を取り除き、その罪を蘇我入鹿に押し付けることで、入鹿暗殺の大義を手に入れます。そして、入鹿に不満を持つ中大兄皇子を利用して、あの古代日本史史上最大のクーデターを起こさせたのです。蘇我入鹿と中大兄皇子。2人の対決の裏には、一人の男の陰謀があったのでしょうか。

ここから始まる藤原氏の栄華

中大兄皇子とともに入鹿暗殺を実行し、軽皇子の即位に成功した中臣鎌足。今度は、中大兄皇子の即位を実現します。蘇我入鹿暗殺から実に23年のときが経っていました。即位の翌年、鎌足は天智天皇となった中大兄皇子から、それまで誰にも与えられなかった最高位「大織冠」、そして、「藤原」という姓を授けられます。ここから1000年にも渡る藤原氏の栄華が始まることになるのです。

高橋英樹の軍配は…

この時代の歴史は僕もあまり得意ではないので、非常に難しいですねぇ~! でも、この出来事を機に、日本の歴史が確立されてゆく。 そののちの日本を創りあげる基礎を作った出来事だったので、 それを成し遂げた「中大兄皇子」に、軍配を上げたいと思います。 でも、演じるなら「蘇我入鹿」ですね。さすがに18歳の中大兄皇子は僕には演じられないですし(笑)。 入鹿の持っている先見性、国際性、権力を持とうとする自分勝手さには魅力があります。 俳優としては、演じるなら振幅度合の激しい蘇我入鹿ですね。


加藤シルビアが見た“ライバル対決”

この時代の知識は、学校で教わったことしか知らず…大化の改新が日本にとって大きな転換期であったというイメージしかありませんでした。 なので、この対決についてピンとこないというのが正直な感想でした。 しかし収録を終えてみて、この時代の見方がまた一変しました。 時代の流れの変革期にある中で、中大兄皇子の危機感と蘇我入鹿のこのときの勢い。 どちらも引くに引けない状況だったのだと想像しますが、どちらが政権を握るかでその後の世の中がガラッと変わってしまったのだと考えると、とても重要な対決だったのだと思います。


蘇我 入鹿

2020年01月01日 21時34分21秒 | 社会・文化・政治・経済

蘇我 入鹿(そが の いるか)は、飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなった。
青少年期は僧・旻に学問堂で学んだ秀才だったと言われている。
蝦夷が大臣であった皇極天皇元年(642年)、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。同年7月23日には従者が白色の雀の雛を手に入れた。雀は祖父の蘇我馬子を表された事があるとされている。翌皇極天皇2年(643年)の10月6日には父から独断で大臣を譲られる。
これにより、実質的にも形式的にも蘇我氏の家督を継いだという見方があるが、この頃聖徳太子以来、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まったとされ、入鹿はこのような動きを押さえ古人大兄皇子を天皇につけようと図ったが、そのために邪魔になる山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだ。
大臣を譲られてから1ヶ月も経たない11月上旬の事である。ただし、上宮王家討伐については皇極天皇即位に関して山背大兄王が謀反を起こす恐れがあるため他の皇族とはかって殺害した(つまり犯行は入鹿の独断ではない)と『日本書紀』とは矛盾する記載が「藤氏家伝」にある。
皇極天皇3年(644年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これをそれぞれ「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。
また、畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した。
これらの政策により、入鹿は実質最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬し、道に落ちているものも拾わなくなったと言われた。しかし、そのような入鹿の天下は長くは続かなかった。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変によって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された。
従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。
後日、父・蝦夷も自害し、ここに蘇我本宗家は滅びる。
この後も従兄弟の石川麻呂とその弟の赤兄が大臣を務めるが、石川麻呂はのちに謀反の疑いをかけられ自害し、赤兄も壬申の乱で流罪となり、以降は蘇我氏(石川氏)は納言・参議まで出世するのがやっとな状態となった。
かつての勢いは戻らないまま、平安時代初期には公卿が出るのも途絶え、歴史の表舞台から完全に姿を消す事になる


蘇我入鹿・・・聖徳太子一族を滅亡に追い込み

2020年01月01日 21時20分32秒 | 社会・文化・政治・経済

国政を壟断した最高実力者

「大化改新」の主役が中大兄皇子、そしてこれを補佐した中臣鎌足だとすれば、その敵役は蘇我氏、それも宗本家の蘇我蝦夷・入鹿の父子ということになる。また、もう少し時代をさかのぼると、聖徳太子の子、山背大兄王ら上宮王家一族24人を凄惨な自殺に追い込んで滅ぼし、当時の国政をほしいままにした悪役。それがここに取り上げた蘇我入鹿だ。

 蘇我入鹿は、祖父・蘇我馬子が築いた繁栄をベースに君臨。蘇我氏は大臣(おおおみ)として大和朝廷の実権を馬子、父・蝦夷に次いで三代にわたって掌握した。642年(皇極元年)、父に代わって国政を掌握した入鹿は翌年、父から独断で大臣を譲られ名実ともに大和朝廷の最高実力者となった。644年(皇極3年)、甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅を築き「上の宮門(みかど)」「谷の宮門(みかど)」とし、さらに自分の子女たちを皇子と呼ばせた。

しかし、専横を極めた蘇我氏は善玉の手で征伐されないと物語が成り立たない。入鹿は、彼が皇位に就けようと画策した古人大兄皇子の異母弟で、古人大兄皇子の皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らのいわゆる「乙巳の変」のクーデターによって飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の大極殿で、皇極天皇に無罪を訴えるも、その御前であえなく止めを刺され、暗殺された。後日、父蝦夷も自決し、ここに馬子の時代から天皇家をも凌ぐ絶大な権力を持ち、栄華を誇った蘇我宗本家は滅んだ。

こうした部分だけみると、この入鹿という人物、権勢を背景にわがまま放題に振る舞う野心家で、“悪”の権化の印象を受けるが、果たしてそうなのか?入鹿は青少年期、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の学堂で学ぶ秀才だったと伝えられている。南淵請安は608年、遣隋使として派遣された小野妹子に従い、僧旻ら8名の留学生・留学僧の一人として留学。以来32年間、隋の滅亡から唐の建国の過程を見聞して640年、高向玄理らとともに帰国した。入鹿はその南淵請安から、新知識をかなり受け入れていた存在といえ、その学識レベルはやはり、単なるわがまま放題の悪役像と外れてくるのではないか。

また、この南淵請安の学堂には若き日の中臣連鎌子(後の鎌足)も出入りしていたというから皮肉だ。また、それだけに鎌足も入鹿の学識レベルを熟知。入鹿が権勢をバックにした、単なる野心家ではないとみて、綿密に打倒計画を練っていたのではないか。

「乙巳の変」決行に際して中大兄皇子、鎌足らは、日頃から注意深く慎重な入鹿の性格を知悉していたことから、わざと俳優(わざひと)を配して入鹿の帯びた剣を解かせた。中大兄皇子らは入鹿が入場すると諸門を固め、自らは長槍を持って宮殿の脇に身を隠した。鎌足は海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)に命じて、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かずらきのわかいぬかいのむらじあみた)に剣を渡し、素早く入鹿に斬りかかるよう伝えた。

ところが、子麻呂らはいざとなると怖じ気づき、なかなか斬りかかろうとしなかった。上表文を読み進める蘇我倉山田石川麻呂は、なかなか刺客が登場しないのに、たじろいで大汗を流した。異変に気付いた入鹿が石川麻呂に問いかけるやいなや、中大兄皇子らが躍り出て遂に入鹿に斬り付けた。

 皇極天皇は惨劇を目の当たりにして、中大兄皇子に説明を求めた。そこで、中大兄皇子は、皇位を簒奪しようとする入鹿の悪行を余すところなく糾弾した。この「乙巳の変」を機に、わが国では史上初めて譲位が断行され、皇極天皇から同天皇の弟、軽皇子へバトンタッチされ、孝徳天皇が誕生した。
(参考資料)黒岩重吾「落日の王子 蘇我入鹿」、村松友視「悪役のふるさと」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、海音寺潮五郎「悪人列伝」、安部龍太郎「血の日本史」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化改新の謎」


聖徳太子を「厩戸王」とし、「脱亜入欧」を貶める

2020年01月01日 10時32分13秒 | 社会・文化・政治・経済

「不都合」な史実の抹消狙う左翼に警戒を 東京大学名誉教授・平川祐弘

2017.3.15  産経新聞

昭和の日本で最高額紙幣に選ばれた人は聖徳太子で、百円、千円、五千円、一万円札に登場した。品位ある太子の像と法隆寺の夢殿である。年配の日本人で知らぬ人はいない。それに代わり福沢諭吉が一万円札に登場したのは1984年だが、この二人に対する内外評価の推移の意味を考えてみたい。

 ≪平和共存を優先した聖徳太子≫

 聖徳太子は西暦の574年に「仏法を信じ神道を尊んだ」用明天皇の子として生まれ、622年に亡くなった。厩(うまや)生まれの伝説があり、厩戸皇子(うまやどのみこ)ともいう。推古天皇の摂政として憲法十七条を制定した。漢訳仏典を学び多くの寺院を建てた。今でいえば学校開設だろう。

 仏教を奨励したが、党派的抗争を戒め、憲法第一条に「和ヲ以テ貴シトナス」と諭した。太子は信仰や政治の原理を説くよりも、複数価値の容認と平和共存を優先した。

大陸文化導入を機に力を伸ばそうとした蘇我氏と、それに敵対した物部氏の抗争を目撃したから、仏教を尊びつつも一党の専制支配の危険を懸念したのだろう。

支配原理でなく「寛容」をまず説く、このような国家基本法の第一条は珍しい。今度、日本が自前の憲法を制定する際は、前文に「和ヲ以テ貴シトナス」と宣(の)べるが良くはないか。

わが国最初の成文法の最初の言葉が「以和為貴」だが、和とは平和の和、格差の少ない和諧社会の和、諸国民の和合の和、英語のharmonyとも解釈し得る。日本発の世界に誇り得る憲法理念ではあるまいか。

 ≪独立自尊を主張した福沢諭吉≫

 ところで聖徳太子と福沢諭吉は、日本史上二つの大きなターニング・ポイントに関係する。第一回は日本が目を中国に向けたとき、聖徳太子がその主導者として朝鮮半島から大陸文化をとりいれ、古代日本の文化政策を推進した。第二回は Japan’s turn to the West 、日本が目を西洋に転じたときで、福沢はその主導者として西洋化路線を推進した。

 明治維新を境に日本は第一外国語を漢文から英語に切り替えた。19世紀の世界で影響力のある大国は英国で、文明社会に通用する言葉は英語と認識したからだが、日本の英学の父・福沢は漢籍に通じていたくせに、漢学者を「其功能は飯を喰ふ字引に異ならず。国のためには無用の長物、経済を妨る食客と云ふて可なり」(学問のすゝめ)と笑い物にした。

このように大切な紙幣に日本文化史の二つの転換点を象徴する人物が選ばれた。二人は外国文化を学ぶ重要性を説きつつも日本人として自己本位の立場を貫いた。聖徳太子はチャイナ・スクールとはならず、福沢も独立自尊を主張した。太子の自主独立は大和朝廷が派遣した遣隋使が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」と述べたことからもわかる。日本人はこれを当然の主張と思うが、隋の煬帝(ようだい)は「之(これ)を覧(み)て悦(よろこ)ばず、〈蛮夷の書、無礼なるもの有り、復(ま)た以(もっ)て聞(ぶん)する勿

(なか)れ〉と」いった(隋書倭国伝)。

 中華の人は華夷秩序(かいちつじょ)の上位に自分たちがおり、日本は下だと昔も今も思いたがる。だから対等な国際関係を結ぼうとする倭人(わじん)は無礼なのである。新井白石はそんな隣国の自己中心主義を退けようと、イタリア語のCina(チイナ)の使用を考えた。支那Zh●n★は侮蔑語でなくチイナの音訳だが中国人には気に食わない。

 東夷の日本が、かつては聖人の国として中国をあがめたくせに、脱亜入欧し、逆に強国となり侵略した。許せない。それだから戦後は日本人に支那とは呼ばせず中国と呼ばせた。

 ≪学習指導要領改訂案に潜む意図≫

 アヘン戦争以来、帝国主義列強によって半植民地化されたことが中華の人にとり国恥(こくち)なのはわかるが、華夷秩序の消滅をも屈辱と感じるのは問題だ。

 その中国はいまや経済的・軍事的に日本を抜き、米国に次ぐ覇権国家である。中華ナショナリズムは高揚し、得意げな華人も見かけるが、習近平氏の「中国の夢」とは何か。華夷秩序復興か。だが中国が超大国になろうと、日本の中国への回帰 Japan’s return to China はあり得ない。法治なき政治や貧富の格差、汚染した生活や道徳に魅力はない。そんな一党独裁の大国が日本の若者の尊敬や憧憬(しょうけい)の対象となるはずはないからだ。

 しかし相手は巧妙である。日本のプロ・チャイナの学者と手をつなぎ「脱亜」を唱えた福沢を貶(おとし)めようとした。だがいかに福沢を難じても、日本人が言語的に脱漢入英した現実を覆すことはできない。福沢は慶応義塾を開設し、英書を学ばせアジア的停滞から日本を抜け出させることに成功した。だがそんな福沢を悪者に仕立てるのが戦後日本左翼の流行だった。

 これから先、文科省に入りこんだその種の人たちは不都合な史実の何を消すつもりか。歴史は伝承の中に存するが、2月の学習指導要領改訂案では歴史教科書から聖徳太子の名前をやめ「厩戸王」とする方針を示した由である。(東京大学名誉教授・平川祐弘 ひらかわ・すけひろ)


 

 
 


 
 

 
 
 

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 

 

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「聖徳太子」は虚像だったのか【にっぽん歴史夜話18】

2020年01月01日 10時21分43秒 | 社会・文化・政治・経済

2019/7/28

文/砂原浩太朗(小説家)

日本史上の著名人を10人挙げよと言われれば、聖徳太子(574~622)のランクインはまず間違いない。ある年代以上の人には、高額紙幣の顔としても馴染みぶかいはずだ。一方、その実像には不明な点が多く、関連書籍のタイトルには、しばしば「謎」「真相」、はては「いなかった」などという文言まで付されている。われわれが漠然とイメージしている聖徳太子像は、はたしてどこまでが本当なのか。
「聖徳太子」は後代の呼び名
聖徳太子の実名は厩戸皇子。第31代・用明天皇(?~587)の子である。名は、「うまやど」でなく、「うまやと」と読むのが正しい。また、しばしば誤解されるが、「聖徳太子」は没後100年以上たって確立した呼称であり、生前そう呼ばれたことはない。父母ともに有力豪族たる蘇我稲目(いなめ。馬子の父)の孫にあたるから、厩戸も生まれながらにして蘇我氏とゆかりの深い存在だった。
父・用明が没したときは、まだ数えで14歳。この時代には兄弟間の相続も一般的であり、叔父が即位して崇峻(すしゅん)天皇となった。が、実力者・蘇我馬子(?~626)との関係が悪化、5年後に暗殺されてしまう。このとき、厩戸が反蘇我氏の姿勢を示した形跡はない。江戸時代には、その点へ批判の目を向ける儒学者もいたが、前述のように彼は蘇我氏ときわめて密な関係を持っている。反蘇我氏という発想は、もともとなかったと考えたほうがいいだろう。むしろ生涯、蘇我氏との協調姿勢をくずさなかったところに、政治家としてのバランス感覚を見るべきではなかろうか。
捏造だった「十七条憲法」?
厩戸の生涯を振りかえるとき、正史である「日本書紀」を避けて通ることはできない。とはいえ、同書の成立は西暦720年であるから、没後ほぼ100年が経過している。当時すでに厩戸皇子の神格化は始まっており、彼に関する記述には信憑性を疑われるものが多い。
たとえば、崇峻の死後、推古女帝(554~628)が即位し、甥にあたる厩戸を「皇太子」に定めたというくだり。当時、皇太子という制度は存在せず、これをもって「書紀」の記述を否定する意見が根強い。ほかにも、「和を以て貴しとす」で名高い「十七条憲法」は、厩戸が官人の心得を示したものとされるが、このころ成立していなかった「国司」(地方で行政などをつかさどる官)という語が文中に出てくるなど不自然な点が多々あり、後世の捏造とする見方のほうが合理的とさえいえる。
が、こうした問題は、筆者のように歴史を素材とした文章を書く身には思い当たることが多い。本稿でも用明天皇や推古女帝などと記しているが、天皇という呼称が正式に定められたのは7世紀末、「用明」「推古」のような中国風の諡(おくりな。死後の呼称)が考案されたのは8世紀後半。どちらも厩戸が生きた時代よりはるか後だが、それを承知で便宜上、用いているのである(推古の和名は「豊御食炊屋姫=とよみけかしきやひめ」)。つまり、「後世でいうところの皇太子」待遇という可能性までは否定できず、「十七条憲法」にしても、加筆ないし捏造された部分がふくまれていることは間違いなかろうが、それを以てすべてが創作だとすることにはためらいを覚える。「書紀」には、「一度に十人の訴えを聞くことができた」という、よく知られた話も記されているが、これも単なる伝説と切り捨てるのではなく、きわめて聡明だったことがこうした形で伝わっているとも捉えられるだろう。
ただ、これまで流布してきた「聖徳太子伝説」が鵜呑みにできないのは、たしかである。付け加えておけば、旧1万円札などでおなじみの肖像画も没後100年以上経ってから描かれた絵をもとにしており、彼の風貌を正確に写したものではありえない。
「倭王」とされた厩戸皇子
厩戸は蘇我馬子とともに女帝を支え、遣隋使(複数回あるが、有名な小野妹子の派遣は607年)、冠位十二階の制定(603)といった、われわれもよく知る政策を次々と実現してゆく。後者は豪族などの位を冠の色であらわしたものだが、氏族でなく個人を評価して与えられるという点で、古代としては画期的な制度である。が、ここでも蘇我氏は別格とされ、十二の位には属さず冠を授与する側だった。厩戸の内心は知るべくもないが、蘇我氏を排斥するのではなく、その力をかりて政治を推し進めようとしたのではないだろうか。
彼が推古朝で重きをなしていたあかしとして、中国の史書「隋書」倭国伝の記事が挙げられる。隋からの使節が面会した倭王は男子だと思えるくだりがあるのだ。女帝にかわって倭王と認知されうるのは、甥である厩戸以外にない。中国では原則として女帝が認められていないため、推古でなく厩戸が対面したのかもしれない。
また、厩戸といえば仏教への帰依が知られている。彼みずから執筆したとされる経典の注釈書には、やはり信憑性をめぐって議論が絶えないが、法隆寺を建立(605年ごろ)したことは事実とみていい。このとき仏教は、伝来して50~70年程度しか経っていない、いわば新興宗教だから、青年・厩戸の心をとらえるエネルギーに満ちていたのだろう。仏教にそそいだ彼の情熱が、法隆寺を拠点にして神格化へつながったとも考えられる。じっさい、「日本書紀」以外で彼の生涯を辿りうる史料は、その多くが法隆寺に由来するものである。
厩戸皇子はさまざまな足跡を歴史上に残し、西暦622年、49歳で没した。蘇我馬子に先だつこと4年、推古女帝からは6年である。その後、蘇我氏の専横はしだいに増し、643年には厩戸の子・山背大兄(やましろのおおえ)王が馬子の孫・入鹿に襲撃されて自害。これもまた、厩戸と一族の存在感が無視できないものであった証左だろう。中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我氏を討滅したのは、そのわずか2年後であった。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。


仏教や儒教を取り入れた聖徳太子

2020年01月01日 10時05分16秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

聖徳太子(しょうとくたいし、574年2月7日敏達天皇3年1月1日〉- 622年4月8日推古天皇30年2月22日〉)または厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)は、飛鳥時代皇族政治家。「聖徳太子」は、後世の諡号

用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女

推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階十七条憲法を定めるなど大王天皇)や王族を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教儒教を取り入れ神道とともに信仰し興隆につとめたとされる。

厩戸前にて出生したので厩戸(うまやど・うまやと)と命名されたとの伝説がある。

また母が実母・蘇我小姉君の実家(おじ・蘇我馬子の家)にて出産したので馬子屋敷に因み厩戸と命名されたとする説や、生誕地・近辺の地名・厩戸に因み命名されたなど様々な説がある。

聖徳太子という名称は死没129年後天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる[注釈 2]。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことが伺える。

敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。

橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。

厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている。

幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。

用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御(死去)した。

皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。

厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。

これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。

戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。

しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。

崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。

同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波四天王寺を建立した。四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。

推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった(日本書紀では、同29年2月5日621年))。享年49。

 


聖徳宗の総本山 法隆寺

2020年01月01日 09時54分26秒 | 社会・文化・政治・経済

法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある仏教寺院聖徳宗総本山である。

別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。

法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。

創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古天皇15年(607年)とされる。金堂五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。

境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。

法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥奈良時代仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。

日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古天皇9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。

この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭わず、推古朝に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。

しかし、『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が明治20年(1887年)頃から出されるようになった(菅政友黒川真頼小杉榲邨ら)。

これに対し、『書紀』の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもおり(平子鐸嶺関野貞ら)、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後数十年間続いた(論争の詳細については後述)。

現・西院伽藍の南東に位置する若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡であり、この伽藍が推古朝の建立であったことは、発掘調査の結果や出土の年代等から定説となっている。

また、昭和14年(1939年)、東院の建物修理工事中に地下から掘立柱建物の跡が検出され、これが斑鳩宮の一部であると推定されている。

「日本仏教の祖」としての聖徳太子の実像については、20世紀末頃から再検討がなされており、『書紀』などが伝える聖徳太子の事績はことごとく捏造であるとする主張もある。

ただし、こうした聖徳太子非実在論に対しては根強い反論もある。

また、聖徳太子非実在論説を唱える大山誠一も、厩戸皇子という皇族の存在と、その人物が斑鳩寺(創建法隆寺)を建立したことまでは否定していない[11]

金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。

しかし、正史である『日本書紀』には(前述および後述の670年の落雷による火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。



NHK 法隆寺の至宝「謎を秘めた仏たち」「永遠なる美の宝庫」

2020年01月01日 09時28分55秒 | 社会・文化・政治・経済

奈良県生駒郡斑鳩町に所在するお寺。世界最古の木造建築。
聖徳太子と推古天皇が建てるのを命じた。
607年に完成した。
1993年12月に日本で初めて世界文化遺産に登録される。

世界最古の木造建築として知られる法隆寺。
国宝38をはじめとする膨大な寺宝の中から 今回は、寺を開いた聖徳太子に関わりの深い名宝をご紹介する。
EPG番組内容

国宝保有件数は、寺社の中で群を抜いて日本一。
飛鳥時代、聖徳太子の時代に制作された仏像をはじめ、そのすべてが仏教美術の至宝中の至宝である。
決定版といえる宝物の映像をもとに、斑鳩の美しい四季折々の風景を織り交ぜながら、日本文化の原点・法寺の、美と古代史ロマンを堪能(たんのう)していただきたい。
第3回は、寺を開いた聖徳太子にかかわりの深い名宝を紹介する。

法隆寺の国宝を紹介。後編「守り継がれた奇跡の伽藍(がらん)」では「技」をキーワードに、至宝がいかにして造られ、守られてきたのかを追う。

至宝が生み出され、守り伝えられた背景にあった、聖徳太子への篤 (あつ) い信仰を、法隆寺に伝わる四季折々の古式豊かな行事を交えて伝える。

*後編「守り継がれた奇跡の伽藍」の中で、染司よしおかの法隆寺伝来国宝「四騎獅子狩文錦」復元の様子が紹介されます。

聖徳太子
(社会)
【しょうとくたいし】
(574〜622)飛鳥時代の政治家。
本名は厩戸皇子(うまやどのおうじ)。父・用明天皇

『日本書紀』崇峻天皇紀に、崇仏戦争の際は蘇我氏側に付き物部氏調伏の儀を行ったとある。
仏教を広めたため、日蓮宗など聖徳太子を重んじる仏教宗派もある。

・604年に「冠位十二階」、「十七条憲法」を定める。
・607年に遣隋使・小野妹子を中国に送る。
・法隆寺、四天王寺を建てることを命じた

豊聡耳(とよとみみ)と呼ばれ、ある時、10人の請願者が発した言葉を漏らさず、全て的確に返したことが有名。

最近は、聖徳太子は架空の人物だったという説が有名

 


仏像【ぶつぞう】
仏(仏陀、如来)のかたちをかたどった像。彫刻、または絵画で表される。
本来は、悟りを開いた如来像のことだけを指すのだが、菩薩像、明王像なども含めた呼称として使われている。
伽藍【がらん】
仏教寺院や寺院の主要建物群のこと。元々は仏教の僧侶が集まって修行する清浄な場所を意味する言葉だった。

 

 

NHK-DVD 法隆寺~守り継がれた奇跡の伽藍


地域包括ケア推進へ 高齢化見据え先進事例学ぶ 下田

2020年01月01日 09時11分10秒 | 医科・歯科・介護

 静岡県はこのほど、地域包括ケアに市町や民間事業者、市民団体が共に取り組むための「マッチング会」を下田市民文化会館で開いた。約50人が参加し、先進事例などを学んだ。

 県内4カ所で開かれ、浜松に次いで2回目。東大の秋山弘子名誉教授が「長寿社会に生きる」と題して基調講演した。秋山名誉教授は、高齢化が進む社会では、地域包括ケアの担い手として産官学それぞれをつなげる事業の重要性を指摘。「人生100年時代に対応した社会のつくり直しが必要。その中では、元気なシニアが地域包括ケアの担い手になることが大切」と強調した。

 千葉県柏市の担当者が介護予防などの先進事例を紹介した他、南伊豆町の担当者が高齢化が進む中で、町で必要になっているサービスについて発表した。

 交通弱者を対象にしたオンデマンド交通など、福祉に関わるサービスを展開する5事業者も取り組んでいる事業について説明した。

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逃げ場がない…人生に疲れたアラフォー独身女性の憂鬱

2020年01月01日 08時41分07秒 | 社会・文化・政治・経済
◆41歳、独身。人生に疲れました

就職氷河期世代の、非正規雇用、貧困が社会問題になっている。結婚、仕事、恋愛、友だち、趣味……人生にはさまざまな楽しみと苦悩があるが、「もうすべてから降りました」と言うアラフォー女性たちが少なくない。

◆「正社員」「結婚」を思い描いていたけれど……非正規でしか働けない……ヨウコさん(41歳)の場合

「大学を出て入った会社で、ひどいイジメに遭ったんです」

ヨウコさん(41歳)は、そう言ってため息をついた。彼女が配属されたチームは女性の先輩が4人、男性が2人。トップも女性だった。

「女性の先輩が4人つるんで、トップの女性を突き上げ、男性たちと私にばかり仕事を回す。新人なのに夜11時くらいまで働かされました。トップの女性もかばってはくれなかった」

夏過ぎには心身共に不調となり、秋には退職した。そこから半年、病院に通ってようやく社会復帰しようとしたが、なかなか仕事が見つからなかった。しかたなく非正規で働くようになる。

「いつか正社員になれるかも、いつか結婚するかもと思いながら、あっという間に時間がたってしまいました」

何もしなかったわけではない。非正規で働きながら、他の会社の中途採用にも積極的にアプローチしてきたし、30歳になると結婚相談所にも登録した。

「親がうるさいから結婚相談所に登録したんです。私自身は、どうしても結婚したいというわけではなかったけど」

自分が脱落しているような気がして、学生時代の友だちとの集まりにも顔を出すことができなかった。

「何だか人生、うまくいってないなあと思うようになりました」

◆介護要員となってしまった現在

ヨウコさんには3歳離れた妹がいる。妹は高校を卒業して専門学校に通い、そこで得た技術を生かして就職した。仕事で知り合った同い年の男性と28歳のとき結婚。今では仕事をしながらふたりの子を育てている。

「私から見ると、人生、うまくわたった子ですね。その妹が『おねえちゃんのことは恥ずかしくて人に話せない』とよく言っていました。別に悪いことをしたわけではないのに……。親も妹の結婚式には出なくていいみたいな言い方をして。頭にきたから出なかったんです、本当に」

そこで家族との関係は崩壊したとヨウコさんは思っている。両親とはずっと同居しているが、妹の結婚を機にほとんど会話もなくなった。

だが1年前、定年後も働いていた父が倒れ、入院した。母親も看病疲れで体調を崩し、圧迫骨折が見つかった。そうなると一気に家のことがヨウコさんの肩にかかってきた。

「仕事をしながら父の転院先を探したり、家で療養している母の食事の支度をしたり。妹は以前は母を頼ってよく来ていたんですが、両親が倒れてからはまったく寄りつかなくなりました。私も彼女に頼るのは悔しいので連絡はとっていません」

父の転院先は決まったが、母は相変わらず療養中で心身ともに弱ってきたため、やたらとヨウコさんを頼りにするという。

「今さらと思いますが、誰かがやらないといけないから私がやるしかないんですよね。もう恋愛も結婚もできないし、仕事もこのままだろうし。先に何の希望もありません」

ヨウコさんの表情は暗い。母をなんとか地域の支援センターにつなげたいのだが、母は他人が家にくることを極端に嫌う。

「私の一生、これで終わるのかなと思うと本当に精神的にきついです。逃げ場がない。よく寝たきりの親を殺す人の話を聞きますが、気持ち、わかります」

それでもなんとかしないといけないと思ったのだろう。その後、彼女は母親をなんとか自治体につなげ、要介護3となったと報告してくれた。

ひとつずつ解決していけば、彼女自身にも先の希望が見えてくるかもしれない。それを心から願うしかなかった。どんなに一生懸命がんばっていても、今の世の中は落とし穴だらけなのだ。

亀山 早苗(恋愛ガイド)

 




「国会議員5人に現金」中国企業側が供述 IR汚職巡り

2020年01月01日 07時38分20秒 | 事件・事故

1/1(水) 朝日新聞社

 カジノを含む統合型リゾート(IR)事業をめぐる汚職事件で、衆院議員の秋元司容疑者(48)に現金を渡したとされる中国企業側が東京地検特捜部の調べに対し、自民党などに所属する他の国会議員5人の名前を挙げ、「それぞれに100万円前後の現金を配った」と供述していることが関係者への取材でわかった。特捜部は供述と符合するメモも押収しており、実際に金が渡ったかどうかなどについて慎重に調べている。

IR事業をめぐり、中国企業が日本の政界に幅広く工作しようとしていた疑惑が新たに浮かび上がった。

 関係者によると、5人の内訳は自民党4人、日本維新の会1人。北海道を含むIR誘致を検討していた自治体出身の議員や超党派でつくる「国際観光産業振興議員連盟(IR議連)」の幹部らで、閣僚経験者や現職の政務官も含まれる。

 5人に現金を渡したと供述しているのは、贈賄容疑で逮捕された中国企業「500ドットコム」(本社・広東省深圳)の顧問で、元沖縄県浦添市議の仲里勝憲容疑者(47)。同社側の別の3人が2017年、計約2千万円を無届けで日本に持ち込み、国会議員らへの現金提供を計画。衆院解散当日の同年9月28日に秋元議員へ300万円を渡したほか、同時期に「国会議員5人にそれぞれ100万円前後を渡した」と話しているという。

 特捜部は、同社関係者が無届けで多額の現金を国内に持ち込んだ外国為替及び外国貿易法違反の容疑でも、秋元議員の元秘書宅などを家宅捜索していた。

 仲里容疑者らは電子機器に、秋元議員のほか5人の議員名や金額が類推される内容をメモしていた。このメモと仲里容疑者の供述も一致するという。

朝日新聞社