透析を受け前向きな姿「希望」に

2020年01月19日 18時07分32秒 | 医科・歯科・介護

 本県で初めて透析を受けた山形市の渋谷悦子さん(69)が、治療50年を迎えた。日本透析医学会の統計では透析歴40年以上の人は全体のわずか0.3%。50年は全国で10人程度という。長年の治療で手足が動かしにくくなる人が多い中、渋谷さんは自身の足で歩き、簡単な料理もこなす。病とともに前向きに生き続ける姿は患者だけでなく、医師や看護師らにとっても「希望」となっている。

 「生きることに必死だった」。渋谷さんは高校生で慢性腎炎を発症した日から今までをこう振り返る。学校の健康診断で病が発覚。19歳の冬、県内第1号として透析治療を始めた。赤い血液が巡る長い管を見た時は一瞬ぎょっとしたが、不安よりも「生きたい」の一心だったという。

 当時、透析治療は健康保険の適用になったばかり。それまで金銭的に治療がかなわず、命を落とす人を間近で見てきた。患者会をつくる動きに加わり、1971(昭和46)年、全国腎臓病協議会(全腎協)が結成された。治療費補助や障害者年金給付など権利確立に尽力した。

 半世紀も治療に耐えてこられたのは、痛みや不調など自身の体の“声”をじっくり聞いてきたからだ。透析器具や時間などは病院によって異なり、合わない治療を続ければ命の危険が迫る。「合わないものは合わないと医師に根気よく伝えるしかない」。渋谷さんは自分に合う透析治療を求め、宮城県古川市(現大崎市)に移住していた時期も。8年ほど前からは山形市で1人暮らしをしながら、市内の矢吹病院(矢吹清隆院長)に週3回通い、1回5時間半の血液透析を受けている。

 こうした妥協しない姿勢に周囲も勇気づけられている。「生きたいという執念がすごい」と同病院の政金生人(まさかねいくと)医師(58)。「数値が同じでも患者さんしか分からないことがある。私も渋谷さんから多くを学んだ」と感謝を口にした。透析8年目という県腎友会の玉谷直幸事務局長(58)も「医師任せにせず自ら勉強してきた先輩患者のおかげで、今の発達した医療が受けられている」と話した。

 庭いじりをしたり、友達とのメールや電話をしたりと充実した日々を暮らす渋谷さん。しかし、今冬を前に経験したことのない手足のこわばりや痛みを感じたという。少しずつ体に異変は起きているが、受け入れて生きていくつもりだ。

 治療開始からちょうど50年となる17日を前に、病院スタッフらによる祝賀会が16日に開かれた。渋谷さんは、お祝いのケーキに立つ5本のろうそくの火を勢いよく吹き消し宣言した。「東京五輪が目標だったけど、今度は2025年の大阪万博まで頑張る」

 




沖縄戦遺品、奇跡の帰郷 定規の兵士の娘、判明 

2020年01月19日 12時19分33秒 | 社会・文化・政治・経済

出征後に誕生「命をありがとう」

毎日新聞2019年8月7日 

沖縄県糸満市新垣(あらかき)にある壕(ごう)から第二次世界大戦中の日本兵の名前が入った三角定規が見つかり、今年7月、74年ぶりに遺族の元に戻った。1945年6月に27歳の若さで亡くなった小西幸一さんのもの。幸一さんの長女で、受け取った山口紀子さん(74)=奈良市=は「お父さん、お帰りなさい。にぎやかな家に帰ってきたかったのね」とそっと定規をなでた。【塩路佳子】

「地面にへばりついて活動している人がいることを国はもっと知ってほしい。支援はできないだろうか」

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沖縄で週5洞窟を掘る男 戦没者の遺骨、家族に返したい
私たちの沖縄考
岡田将平
2019年6月15日朝日新聞
 太平洋戦争末期の沖縄戦の激戦地だった沖縄本島南部。地下の洞窟(壕(ごう))の奥深くで土にまみれながら、那覇市の南埜(みなみの)安男さん(54)は日中の多くを過ごす。戦没者の遺骨や遺留品を掘り起こし、家族の元や故郷に返したい。その一心で。
 旧日本陸軍第24師団司令部があった糸満市の壕。今月上旬、南埜さんはロープをつたって入り口の急斜面を下りていった。ごつごつした岩の間は、体がやっと通るほどの狭さの所もある。今年2月以降、ここに入るのは70回を超えた。
 ヘッドライトを頼りに、たまった土砂をピッケルや手でかき分け、遺骨や遺留品がないか目をこらす。「地味な作業よ」。しばらくすると声を上げた。「万年筆が見つかった」。軍手で泥を丁寧にぬぐった。
 堺市出身で、子どもの頃から戦争に関心を持ち、けがを負った元軍人を見かけることもあった。十数年前、初めて沖縄を訪問。観光目的で毎年来るようになり、飲み屋で偶然、名も知れない多くの人たちの遺骨が、今も眠っていることを知った。戦後60年以上が経ち、遺骨の収集はすでに終わったと思っていた。「知っててやらんのはあかんな」。そんな思いが頭から離れなくなった。
 49歳で運送会社を退職し、大阪から沖縄に移住。自宅マンションの売却金などを取り崩しながら、各地の壕での掘り起こしに専念してきた。最初の頃は、壕の中で息苦しさやぞくぞくとした寒気を感じたこともある。それでも「洞窟の中で死にたい人はいない。地元に帰ってお墓に入りたいはず」と、今では週に5日は壕に足を運び、6~8時間ほど作業する。基本的に1人だ。
 遺骨が見つかれば、自治体などに連絡し、戦没者遺骨収集情報センター(糸満市)に引き渡す。名字だけのものも含め、名前が刻まれた遺留品も数十点あり、戦没者名簿など手がかりとなる資料に当たり、遺族らを探す。これまでにボールペンや三角定規など10点ほどを引き渡せた。「これも一つの慰霊の形」

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金持清さん遺族どこ? 日本軍壕跡で万年筆発見 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 

沖縄戦戦没者遺骨収集に参加している浦添市西島恵歴さん(27)=守礼ホーム社長=が4月下旬糸満市米須にある日本軍壕跡で「金持清」と名前が書かれた万年筆発見した。西島さんに遺骨収集手法を教えながら戦没者遺骨収集活動に取り組む「沖縄蟻の会」の南埜安男さん(53)=那覇市=が日本軍関係者資料を調べたところ、同じ名前戦没者存在し、遺族住所は秋田県宮城県地名2カ所が記されていることが分かった。西島さんらは遺族を探し、手元へ返したいと情報提供を呼び掛けている。 万年筆が見つかった現場は、南埜さんが遺骨収集を続けている米須の日本軍陣地壕の内部。祖先戦没者を大切にしたいとの思いから、遺骨収集に参加する西島さんは、昨年9月ごろから南埜さんに遺骨収集手法を学んできた。 壕内から西島さんが見つけた万年筆は全体的に黒く、金色文字で「金持清」と記されている。近くで「ナガイ」と書かれた三角定定規。



六〇年安保闘争の真実―あの闘争は何だったのか

2020年01月19日 08時03分27秒 | 社会・文化・政治・経済
 
0年安保闘争 

 
政治的、思想的解釈とは別に、60年安保の時間的流れを客観的に俯瞰してみた。

執筆の動機は、将来、この闘争が検証されるときのために、事実の経過を正確に書き残しておくのが大切だと思ったのである。
60年安保闘争は、一体どのような意味を持っていたのだろうか。
同時代の見方と、歴史の視点での見方は、当然ながら異なる。
同時代の見方では、安保改定の内容よりも岸首相の強引な論理や議会運営、戦前を想起させる言動などに、国民の怒りや不満が爆発した、というべきであろう。
確かに<1960年5月19日>の国会での強行採決のひどさは、戦後民主主義の精神を根本から否定するものだった。
それから1か月、国会の周辺を、労働組合員、学生、老人、婦人などさまざまな人たちが幾重にも取り囲んだ。
学生たちの心中では、革命の夢想が深化していく。
私は、あの市民デモの広がりの意味が2点に要約できるのではないかと思った。
一つは、岸首相に代表される戦前時下の指導者の体質に国民が不快感を持ち、その政治的な言動を許容しないと明確に意思表示したことである。
私は、あの安保反対デモは、日本が戦争の時代から民主主義の時代へ移行するための儀式だったと理解するようになった。
そしてもう一つ。
この時のデモには、組織に属さない人たち(個人の事業主から主婦ら一般の庶民まで)がするようになった。
意識として個人でデモに参加した。
つまり、市民がデモをする権利を確認し、政治的意思を示すのは当然だという考えが生まれたのであった。
市民的自覚といった表現が日本社会に生まれ、定着していく契機になったといってよいであろう。
日本は、米国の戦略に、より深く組み込まれることにもなった。
そのことは、60年を経てなおのこと実感できる。
政治的にも自立できない弱さが、今の日本には確かに感じられる。

内容紹介
—昭和史のなかで最も多くの人々を突き動かした闘争の発端から終焉までをつぶさに検証する。

内容(「BOOK」データベースより)
「六〇年安保闘争」は、戦後の日本がいちどは通過しなければならない儀式だった。

太平洋戦争の指導者に弾劾を加え、さらに占領後期の内実を確認するために、あの闘争は必要だったのである―昭和史のなかでもっとも多くの人々を突き動かした闘争の発端から終焉までを検証する。最終章「補筆 六〇年安保を想う」を加筆。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
保阪/正康
1939年12月、札幌市生まれ。同志社大学文学部社会学科卒業。評論家、ノンフィクション作家。出版社勤務を経て著述活動に入る。主に近代史(特に昭和史)の事件、事象、人物に題材を求め、延べ四千人の人々に聞き書きを行い、ノンフィクション、評論、評伝などの作品のほか、社会的観点からの医学、医療に関する作品を発表している。現在、個人誌『昭和史講座』主宰。立教大学非常勤講師、朝日カルチャーセンター講師などを務める。2004年、菊池寛賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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事件から26年もたった時期にもかかわらず、この程度の内容しか描けないのは幻滅だ。
安保改定の意義にもまったく触れられておらず、その歴史的意味合いを知る事が出来ないマズイ本。


タイトルからもう少し踏み込んだ内容とか情報があるかと期待したが、ほとんが世に知られた事実であり残念。
また「70年安保」まで続いていくこの問題の根幹を、もっと取り上げてほしかった。