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法秩序の正統性の根拠はどこからくるのか。
「主権とは何か」
主権は<無>にして<有>である、なのもかである。
主権が天皇という全能の主権者の形象とわかち難く結び付けられ、「君民一体の国体論」によって国家の一体性が創出された。
中世末期以降、国家とは内実や権力の担い手を問わず、ひとつの法秩序のみを存立の根拠とするようになった。
そして、この法秩序を支える言説の核心、つまり国家と法を成立させる要諦となったのが、“主権”という概念である。近代ヨーロッパが重ねてきた議論の歴史、日本における二つの憲法制定過程、そしてその間にあった国体をめぐる論争…膨大な資料を読み解きながら、主権論という未踏の領域へ挑む。俊英による新たなる思想史。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
嘉戸/一将
1970年大阪府生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程中退。相愛大学准教授を経て、龍谷大学准教授。専攻は法思想史、政治思想史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
本書の特色は、近代日本の天皇制国家論を西洋近代の主権者論ではなく、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」の概念から読み解くことにある。
西洋近代の主権概念はキリスト教的主権概念である。王権神授説における絶対君主の主権概念と社会契約説における主権概念は共に神聖不可侵なものと位置付けられる。
要するに、主権と人権は神があたえた主権概念と天賦人権論に帰着する。これを日本の天皇制国家の主権概念にそのまま適用するには無理がある。吉野作造の民本主義概念のように、主権の所在は問わず、主権の運用を国民中心的に考えることを説くしかない。
あるいは、美濃部達吉の天皇機関説のように、天皇を内閣や帝国議会のような一国家機関と位置付けることである。これは、国家有機体説に由来する概念だ。いずれにせよ、西洋由来の近代的主権概念をそのまま近代日本に適用するのは不都合がある。そこで西田哲学の絶対矛盾的自己同一の概念から主権を定義し直す試みを著者は考える。
西田哲学における国家論は、「一」を本質とする国家と「多」を本質とする個人がそれ自体絶対矛盾的関係にありながら「同一」であることを主張する。なぜなら、一である国家は多である個人を含まなければ、存立し得ない。一方、多である個人が自己実現される場が一である国家である。
国家と個人は互いに他を必要とし、他なくしては成立し得ない。一と多という絶対矛盾の関係にありながら、両者は「同一」なのである。西田哲学にとっての歴史的現実は明治から昭和前期(終戦)までの近代天皇制国家であり、国家と個人を結びつける関係が「国体」を意味する。
このように西田哲学の絶対矛盾的自己同一の概念と国体を結びつけることで、近代天皇制国家の本質を説明できるのである。これは、国体護持とか、近代天皇制国家擁護といった戦前への回帰ではない。あくまでも著者の主権論史の説明概念である。
なかなか面白く、参考になる本である。
少々高価であるが、お勧めの論著である。