日本のコロナ死亡者数はなぜ少ない? BCGに続く「ファクターX」もう一つの有力候補

2020年07月27日 21時39分04秒 | 社会・文化・政治・経済

7/27(月) 6:01配信
文春オンライン

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 世界を恐怖に陥れた新型コロナウイルスだが、その被害の大きさは国や地域によって差がある。

【画像】「ファクターX」に注目する山中伸弥教授

 感染者数が400万人を超えてなお拡大を続けるアメリカや、170万人を超える感染者を出しながらも「経済優先」を宣言した末に大統領自身が感染してしまったブラジルのように、深刻な被害を受けている国がある(ブラジルの7月25日時点での感染者数は228万7000人)。

 しかしその一方で、日本や韓国、タイ、台湾、ベトナムのように、今のところ比較的軽微な影響で推移できている国や地域もあるのも事実だ。

 京都大学iPS細胞研究所の山中伸弥所長は「文藝春秋」6月号で、日本人に感染者数や死亡者数が少ない背景には、まだ解明できていない要因「ファクターX」があるはずだ、と述べて話題になった。

 この意見に賛同する東北大学大学院医学系研究科の大隅典子教授は、同僚で厚労省クラスター対策班の押谷仁教授の話や世界中で日々発表される論文や報告、さらには信憑性のあるブログなど、あらゆる最新の情報を元に、「ファクターX」は何なのか――を検証した。

「国によってこれほど違うのは、公衆衛生的な努力だけではなく別の要因があるはず」

 と考える大隅教授が、まず興味を持ったのが「BCG」だった。

BCG推奨国では死亡者数が少ない
 結核予防のために接種するこのワクチンは、日本では1951年に施行された結核予防法により、いまでは生後1歳未満での接種が推奨されている。

 大隅教授が最初にこの説を目にしたのは、あるブログだった。そのブログ開設者・JSato氏は「BCGの接種が行われている国では感染の広がりが遅い」と指摘する。

 これを見た時点では半信半疑だった大隅教授だが、独自に調べてみると、新型コロナウイルス感染症による死亡例が多いスペイン、イタリア、フランス、アメリカは確かにBCG接種に積極的ではなく、逆に死亡者数の少ない中国、韓国、日本はBCG推奨国だという事実に行きあたった。

 しかも、たとえば同じヨーロッパで隣接する国同士でも、BCGへの対応の違いで死亡者数に大きな差が出ていることも見えてきたのだ。BCG接種プログラムを持たないドイツでは人口100万人当たり107人の死亡者が出ているのに対して、東隣のポーランドの死者数では同じ条件で37人と圧倒的に少なかった(人数は6月25日時点、以下同)。

「BCGワクチンで免疫が強化される」という報告
 同様のことはスペインとポルトガルの間でも見られる。100万人あたりの死亡者数は、BCG接種プログラムを持たないスペインの606人に対して、国境を接する隣国ポルトガルは151人と顕著な差が見られたのだ。

 BCGと新型コロナウイルス感染症とのあいだに相関関係が見られることは分かった。しかし、なぜ結核菌という「細菌」を対象としたワクチンが、新型コロナという「ウイルス」に効果を示すのか。

 さらに調査を続けた大隅教授は、オランダの研究チームが見つけたある事象に辿り着く。BCGワクチンを受けた人の血液を調べたところ、免疫細胞にある「増強」を指示するスイッチがONになったままだった、という報告だ。子どもの頃にBCG接種で強化された免疫が、その後も高い状態で維持する仕組みが働いている可能性を示唆するもので、発見したオランダの研究チームはこの仕組みを「訓練免疫」と名付けている。これが正しければ、日本をはじめとするBCG推奨国での新型コロナによる重症化率が低いことの説明が付く、と大隅教授は指摘するのだ。

もう一つの有力候補「ワルファリン感受性」
 もう一つ、大隅教授が興味を持つファクターXの有力候補に、「ワルファリン感受性」がある。ワルファリンとは血液を固まりにくくする作用を持つ薬で、世界的に使用されている。

 しかしこのワルファリン、国や地域によって効果の出方に差があることが以前から指摘されてきた。大雑把に言えば、アジア系の人には効きやすく、アフリカ系の人は効きにくい。同じアジアでも日本を含む東アジア系は最も効きやすく、南・中央アジアの人には効きにくい。ヨーロッパの人の効き方は、東アジアとアフリカの中間くらい――とされている。

 この傾向が、新型コロナの重症化率の傾向と重なるのだ。

 ワルファリンの効き方は、遺伝子によって左右される。つまり、ワルファリンが効く遺伝子と効きにくい遺伝子があり、これが新型コロナの重症化に何らかの関与をしている可能性が浮上してくるのだ。

 大隅教授は「大胆な推測」としてこう述べる。

「ワルファリンが効きやすい遺伝子のタイプの人は、ワルファリン服用の有無にかかわらず、血栓ができにくい体質を持っており、このことが新型コロナウイルス感染症の重症化を防ぐことに繋がっているのかもしれない」

「ファクターX探し」は世界中の研究者が取り組んでいるが、現状では「相関関係」であって「因果関係」までは到達していない。最近では「結局のところ、最大のファクターXはマスク着用率の差なのでは?」という意見も増えてきた。しかし、大隅教授は「生物学的要因」の追及をあきらめない。生物学的なファクターXが明らかになれば、予防法や治療法の開発に役立つことは明らかだからだ。
ファクターXの存在が免罪符にはならない
 しかし大隅教授はこうも言う。

「BCGやワルファリン感受性がファクターXだったとしても、それは免罪符にはならない」

 国や地域、人種などという大きな括りでの特徴はあるにせよ、感染するか、重症化するかは人それぞれ。最終的には、一人ひとりが感染しないように注意することに勝る取り組みはないのだ。

 公衆衛生の学者は「木を見ずに森を見る」ことが仕事だが、森を構成する木、つまり、社会を構成する人間は、たとえ周囲の人たちは元気でも、自分が感染してしまったのでは意味がない。その意識を確かに持った上での知的好奇心として、ファクターX探しに注目すべきだろう。

 なお、「文藝春秋」8月号および「文藝春秋digital」掲載の「 ファクターXを追え! 日本のコロナ死亡率はなぜ低い 」では、BCGワクチンの“株”による効果の違いや、かつて東北大学が行った介護施設におけるBCG接種と肺炎発症率の関係など、大隅教授が論拠とする調査や研究の詳細も紹介されている。

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長田 昭二/文藝春秋 2020年8月号

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「なぜ生きなければ」ALS女性、ブログにつづった苦しみ

2020年07月27日 21時31分45秒 | 事件・事故

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ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者に薬物を投与し殺害したとして、2人の医師が嘱託殺人容疑で逮捕された事件。事件で亡くなった女性は開設したブログに「なぜこんなにしんどい思いをしてまで生きていないといけないのか、私には分からない」などとつづり、ALS患者として生きることの苦しさを1年以上にわたってつづっていた。
事件で死亡した女性=当時(51)は建築を学ぶため米国留学し、帰国後は東京の設計事務所で働いたが平成23年にALSを発症。実家のある京都に戻り、ヘルパーによる24時間介護を受けながらマンションで1人で暮らしていた。  
身動きや会話はできないため、眼球の動きで操作できるパソコンを使用。30年5月3日、開設したブログの最初の記事のタイトルは、「早く楽になりたい」。唾液がうまくのみ込めず、一日中むせてせき込む様子を書き記し、「助からないと分かっているなら、(中略)本人の意識がはっきりしていて意思を明確に示せるなら、安楽死を認めるべきだ」と訴えていた。
 事件後、取材に応じた父親は、女性から「死にたい」などと打ち明けられたことはなかったという。活発ではっきり物を言う性格で、海外旅行や留学に飛び回っていた女性。だが、ブログには安楽死を切望する言葉がつづられていた。  
同月27日の投稿のタイトルは、「安楽死が救う命」。「先に待っている『恐怖』に毎日怯えて過ごす日々から解放されて、今日1日、今この瞬間を頑張って生きることに集中できる。『生きる』ための『安楽死』なのだ」と安楽死を肯定し、「確実に患者の精神的な意味でのQOLは上がるだろう」と強調している。  
約1週間後のブログでは、「病状が進行して窒息するのを待つ生活がまともな人権を得られているとは思えない」と主張。スイスなど安楽死が認められている欧米と、認められていない日本との違いに疑問を呈していた。  
だが、心は揺れ動いていたようだ。ブログを通じて出会ったある患者に向けて、「病の恐怖に怯えながらも、心の別の部分で今出来ることを考えて欲しい、私みたいな身体になる前に」とアドバイスする書き込みも。同年8月25日にはALSの新たな治療法や新薬のニュースに言及、「『スイスで安楽死を受ける』と言う挑戦をしばらくお休みさせてください」とつづるなど、病を克服して生きたいという思いがうかがえる。  
だが容体が悪化すると、安楽死への思いを募らせるような記述が目立つように。外出したいと思っても、他人と自分を比較してしまうと打ち明け、「自分はあんな普通のことさえできない身体なんだな、、、と身にしみて感じる」「どんな楽しいことを計画しても、こんな身体で生きるこの世に未練はないな、、、と思ってしまう」と吐露。昨年6月13日には鏡に映る自分の姿に、「操り人形のように介助者に動かされる手足。惨めだ。こんな姿で生きたくないよ」とつづっていた。
 

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黒い雨、被害置き去り 米「残留放射線なし」

2020年07月27日 21時29分06秒 | 社会・文化・政治・経済

毎日新聞2020年7月26日 東京朝刊

広島と長崎に設置されていた米原爆傷害調査委員会(ABCC)の医師が1950年代半ば、米政府の公式見解に異を唱え、原爆投下直後に降った「黒い雨」が住民たちの病気の原因になった可能性があると指摘していた。しかし、被爆75年を迎える今も、黒い雨の健康への影響を巡って論争が続く。なぜ、医師の訴えは届かず、黒い雨による「被ばく」は置き去りにされたのか。【小山美砂】

大野陸軍病院で東京帝国大学の都築正男博士の説明を聞くマンハッタン管区調査団のスタフォード・ウォレン軍医大佐(後列右)=広島県佐伯郡大野村(現廿日市市)で1945年9月10日、新見達郎撮影
 「広島の残留放射線及び放射線による兆候と症状」と題した9ページの報告書。添付された広島市の地図には、48個の小さな丸印が書かれている。原爆の爆心地からの距離は2~6・5キロ。いずれも爆発時に放出された直接放射線の影響がほとんどないとされた場所だ。だが、そこにいた人たちも脱毛や紫斑などの急性症状に見舞われた。「現在入手できる客観的証拠では、原爆投下後の残留放射線は無視できるとされている。なのに放射線を浴びた時の兆候や症状が表れている」。報告書は矛盾を指摘する。

 報告書を作ったのはABCCの生物統計部長、ローウェル・ウッドベリー医師(故人)。原爆放射線による人体への影響を調査する研究の中枢にいた。

 広島では原爆投下直後、原子雲や火災に伴ってできた積乱雲から、核分裂で飛び散った放射性物質を含む黒い雨が降った。爆風で巻き上げられたほこりやちりも放射性物質とともに広範囲に落ちた。多くの人が浴び、空気や水、食物と一緒に体内に取り込んで被ばくしたと考えられる。

 だが、米政府は一貫して直接放射線以外の放射線の影響を否定した。被爆1カ月後の45年9月12日、広島・長崎を視察した原爆製造計画「マンハッタン計画」の副責任者だった米軍准将が「広島の廃虚に残留する放射線はない」と発表し、翌日の米紙ニューヨーク・タイムズが報じた。

 54年3月には米国のビキニ水爆実験で、静岡・焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員らが放射性降下物の「死の灰」を浴びて被ばくした。それでも米原子力委員会は55年2月、上空500~600メートルで爆発した広島と長崎の原爆は水爆と異なり「危険な核物質は消散した」と発表した。

 ウッドベリー氏が、米本国のスタッフォード・ウォーレン医師(故人)らに異論を伝えたのはこの頃だ。だが、壁は厚かった。ウォーレン氏はマンハッタン計画の安全対策責任者。放射能を洗い流したといわれる45年9月中旬の枕崎台風の前後に広島と長崎に入り「患者の障害は危険な量の放射能が地上に残った結果ではない」と報告して政府見解を支えた。核開発にその後も関わった放射線研究の権威にウッドベリー氏ははね返され、政府を動かすことはできなかった。

 ABCC内部で黒い雨はどう見られていたのか。「組織として『調査をしよう』という動きはなかった」。当時、ABCCの印刷課にいた宮川寅二さん(93)=広島市南区=は証言する。ABCCは広島と長崎の被爆者ら約12万人を対象に55年ごろに始めた寿命調査で「黒い雨に遭ったか」との質問を設けた。質問票の書式を任された宮川さんは「余白ができたから盛り込んだだけだった」と言う。

 宮川さんの質問票が使われた61年までの調査に対し、約1万3000人が黒い雨に遭ったと回答した。しかし、75年にABCCが日米共同運営の放射線影響研究所(放影研)に改組された後も、長崎の医師らが回答の存在を2011年に指摘するまで「黒い雨に遭った場所や時間の情報が不十分だった」との理由で解析しなかった。

 ウッドベリー氏と同時期にABCCで被爆者らを診察した医師の玉垣秀也さん(97)=広島市佐伯区=も、黒い雨の影響を感じていた一人だ。「でも、ケロイドなどで苦しむ人が多い中、目に見えない問題に時間を割く余裕はなかった」と振り返って続けた。「もし、あの頃に詳細な調査を始め、黒い雨と症状の関連性が究明されていれば、国の援護政策は変わっていたかもしれない」

援護区域、国変えず 内部被ばくの影響無視


 国による被爆者援護は、原爆投下から12年後の1957年に原爆医療法(現被爆者援護法)が施行されて始まった。対象地域の拡大や手当の創設などが進められ、黒い雨を巡っては76年、広島の爆心地から北西側に広がる長さ約19キロ、幅約11キロの楕円(だえん)状の地域が援護対象区域に指定された。この区域にいた人は無料で健康診断を受けられ、国が「放射線の影響を否定できない」と定める11障害を伴う病気になれば、医療費が免除になる被爆者健康手帳を受け取れる。

 区域指定の根拠となったのは、終戦直後の45年8~12月、広島管区気象台(当時)の技師らが百数十人に聞き取りをし、53年に発表した大雨の雨域図だ。集落を内外に分断するような線引きに住民らは反発した。爆心地から約18キロの自宅で雨を浴びた本毛稔さん(80)は一緒にいた弟を翌月に肝硬変で亡くし自身も60歳を過ぎて白内障などを患った。自宅前を流れる川の対岸にいた同級生らと違って援護を受けられず「不公平だ」と憤る。

 しかし、国は80年に厚相(当時)の諮問機関が出した「被爆地域の指定は科学的・合理的根拠のある場合に限定して行うべきだ」との意見書を盾に、区域の見直しをしなかった。黒い雨に遭った人の高齢化も進み、広島市や県は2008年、3万人超を対象にアンケートを実施。援護区域の6倍の広さで黒い雨が降ったとして国に区域拡大を求めたが「60年前の記憶によっていて、正確性が明らかにできない」と退けられた。

 黒い雨の健康被害を認めない国がよりどころにするのが、45年8~11月の現地調査などのデータから放影研が作り、被ばく推定線量の計算に使われる評価システムだ。放影研は87年に出したシステムに関する報告書で「残留放射線の影響は無視できる程度に少ない」との見解を示している。

 「直接放射線による外部被ばくだけでは、被爆者にもたらされた健康被害の説明がつかない」。19年10月、広島地裁。援護区域外で黒い雨に遭った住民ら84人が被爆者健康手帳の交付を求めた「黒い雨訴訟」で、住民側の証人として出廷した広島大の大瀧慈(めぐ)名誉教授(69)は訴えた。

 75年から広島大原爆放射線医科学研究所に勤め、統計学の観点から原爆の影響を見続けてきた。広島市などのアンケートにも携わった研究者に気付きをもたらしたのは、11年3月の東京電力福島第1原発事故だった。

 低線量被ばくや内部被ばくが議論される中、広島大が約1万8000人の被爆者を対象に10年までの40年間に実施した健康調査のデータを改めて分析し、黒い雨が降った爆心地の西側では被爆した場所が遠いほど、がんで死亡する割合が高いとの結果が出た。
原爆の放射線による健康被害のリスクは爆心地に近いほど高いという「定説」と矛盾する。「放射性物質を空気や水、野菜とともに体内に取り込んだことによる内部被ばくの影響が否定できない」と結論づけた。

 放射性物質が体内に入ると、排出されない限り局所的な被ばくが続く。だが、放射線量の測定方法は確立されておらず、がんの発生など健康への影響も解明されていない。被爆者援護法は「他の戦争被害とは異なる特殊の被害」を受けた人々を救済するために制定された。その趣旨を踏まえ、大瀧名誉教授は主張する。
「黒い雨の影響で健康被害が生じたと断定できなくても、疑われるなら国は救済すべきだ」。29日に言い渡される判決が、国が内部被ばくと向き合う契機となることを期待している。


自宅アパートで大麻栽培 容疑で女子高校生逮捕 新潟県警

2020年07月27日 19時37分15秒 | 事件・事故

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自宅のあるアパートの共用階段の踊り場で大麻を栽培していたとして、19歳の女子高校生が逮捕されました。栽培用の種はインターネットで入手したということです。
大麻取締法違反の疑いで逮捕されたのは、新潟県の中越地方に住む19歳の女子高校生です
。警察によりますと3月下旬ころから7月7日までの間、大麻を栽培していた疑いが持たれています。警察の調べに対し、容疑を認めているということです。
女子高校生が栽培していた場所は、自宅のあるアパートの共用階段の踊り場で、3つの植木鉢で栽培していたということです。
種はインターネットで入手していて、自分用に育てていたとみられています。警察が入手ルートなどを詳しく調べています。

BSN新潟放送

 

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最年少タイトル保持者誕生! なぜこんなに勝てるのか…神話となった「藤井に悪手なし」

2020年07月27日 19時37分15秒 | 社会・文化・政治・経済

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藤井新棋聖に対しては、プロ棋士でさえも応援団になっている

 【勝負師たちの系譜】  

先週、藤井聡太新棋聖誕生を速報的に取り上げたが、今回は特に奪取の一局をジックリ振り返ってみたい。  

第91期ヒューリック杯棋聖戦五番勝負」(産経新聞社主催)で藤井が2勝してからというもの、マスコミの報道は連日で、コロナ禍に大雨被害という暗いニュースばかりの中、久々に明るい話題を振りまいてくれた。

 第3局で、渡辺明棋聖(当時)は藤井相手に初勝利を挙げ、藤井との距離感を掴んだかに見えた。

 第4局の戦型は矢倉戦。渡辺が先手番で誘ったのだが、藤井が第2局と同じ戦いに応じたことが最初の驚きだった。  

渡辺が散々研究してきたはずの戦いに、平然と応じるあたり、藤井の図太さを感じるのだ。  ただ、渡辺も用意してきただけあって、将棋はやや渡辺ペースで終盤の入り口を迎えた。  

この将棋、他のプロは藤井の終盤での妙手を称える人が多かったが、私は渡辺が勝負を急いで敗れたと思ってみていた。

 少し優勢な終盤で、受けずに攻めて勝とうか、まず玉の安全を図ってから攻めるべきかは、常に迷うもの。渡辺は直線で攻め合ったのだが、藤井の妙手を呼び込んだのと、封鎖される手段に何か勘違いがあったのか、両側から封鎖され、逃げ道がない形で捕まってしまった。  

大勝負を重ねてきた渡辺が、焦って判断を誤ったとは思えないが、それでも藤井相手では早く勝ちを決めたいという心境が働いたなら、もはや藤井の相手に対するプレッシャーは、トップクラスと言える。  

藤井がなぜこんなに勝てるのかを考えてみると、まず藤井の指し手に悪手はないという神話的なものを他のプロが持っていることが挙げられる。  

これまで散々、プロも気が付かない妙手で勝ってくると、たとえ藤井が悪手を指しても、気が付かないのではと思えるのだ。

 そしてもう一つ極論だが、他のプロが応援団となっていること。彼の活躍が、将棋界を盛り上げてくれると、本来ライバルであるべき棋士が思っては勝てる訳がない。  

ともあれ屋敷伸之九段の持つ18歳6カ月の記録を、30年ぶりに破った17歳11カ月でのタイトル奪取は見事。

 毎年棋聖戦を誘致しながら、今年はコロナで実現しなかった地方都市にとっては、来年の防衛戦が楽しみであろう。  

■青野照市(あおの・てるいち) 1953年1月31日、静岡県焼津市生まれ。68年に4級で故廣津久雄九段門下に入る。74年に四段に昇段し、プロ棋士となる。94年に九段。A級通算11期。これまでに勝率第一位賞や連勝賞、升田幸三賞を獲得。将棋の国際普及にも努め、2011年に外務大臣表彰を受けた。13年から17年2月まで、日本将棋連盟専務理事を務めた。

 

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取手のうなぎ「浦島」へ行く

2020年07月27日 17時31分42秒 | 事件・事故

何年ぶりだろうか?
友人の家がこの店の先にある。
時には、散歩でも店の前を通っている。
また、「かたらいの郷」も近い。
家人はバイクで、当方は歩く。
自宅から約2㌔の距離だ。
幸い今日は雨ではなかった。

2階座敷へ通された。

感想:「何時ものイベントで食べる1000円の鰻とやはり、違う」のだろう。

どこが、どう違うのか? イベント会場での大量に急いで焼く鰻と当然、焼き方が違うはず。

100人の宴会場もある。
「コロナで、取手1高の歓送迎会が休止になって・・・」と女将さんが言っていた。
生ビールを飲み、鰻の肝も食べる。
「浦島の鰻のたれだよい」と家人が言う。
家人は度々、友人と守谷店へ行っているのだ。

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守谷の浦島店の鰻

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守谷店


戦争 観念論、精神論に傾く

2020年07月27日 17時28分19秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽視点が変われば、物事の見え方も大きく変わる。
厚みや深み、広がりのある視点を持つことができる。

▽読書する人だけがたどり着ける場所。

▽歴史学者は、戦争の実態を検証しているのか?

▽戦争体験や記憶、記録をどのように継承すべきか。

▽「国体護持」に固守したこともあって戦争終結の意思決定が遅れ、死者が増えていった。

▽極端な精神主義や、敵軍を過小評価する楽観主義など、現実をかけ離れた作戦や戦略が目立つ。
なぜ科学的、合理的な判断ができなかったのか。

▽そもそも学歴エリートの軍事官僚は、戦場で将兵を指揮した経験が乏しく、現場の窮状を実感していなかった。

▽観念論、精神論に傾く。
声の大きな強硬論が、「積極的で進取の気性に富んでいる」として評価され、重要なポストを占めた。
このため合理的判断が排除された。

▽第二次世界大戦の日本人戦没者310万人の約9割が敗戦に近い1944年以降の犠牲者だった。
民間人の戦没者80万人の大部分も1944年1月以降に亡くなった。

▽戦闘だけでなく餓死が異常に多い。
「処置」と言う名の殺害も多かった。
日本軍兵士の多数が日本軍によって命を奪われていた。


弘田三枝子さんが死去 73歳「ヴァケーション」「夢みるシャンソン人形」など

2020年07月27日 16時45分41秒 | 社会・文化・政治・経済

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歌手の弘田三枝子さん(本名・竹永三枝子)が21日に亡くなったことが27日、分かった。73歳。心不全だった。
【写真】ダイエットブームの先駆者 2006年…ウエスト細すぎの弘田三枝子さん  所属事務所によると、弘田さんは20日に千葉県内の自宅で倒れ、病院に搬送。21日に亡くなったという。
 
倒れる前日まで変わりなく元気だったといい、すでに親族で密葬を執り行った。  弘田さんは61年11月に「子供ぢゃないの/悲しき片思い」でレコードデビュー。その後「ヴァケーション」「想い出の冬休み」「悲しきハート」などカバーポップスでヒット曲を連発した。
 62年に「第13回NHK紅白歌合戦」に出場し、9年連続で出場。その後も「夢みるシャンソン人形」、アニメ「ジャングル大帝」の「レオのうた」、「人形の家」など大ヒットを連発する。  
今年はデビュー60周年で、記念曲やコンサートなどを予定していたが、新型コロナウイルスの影響で延期されていた。
 

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「安楽死」要望、周囲に知らせず 支援者ら、今も受け止めかね ALS患者嘱託殺人事件

2020年07月27日 11時20分10秒 | 事件・事故

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神経難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性に対する嘱託殺人事件で、亡くなった女性の在宅ケアチームは、安楽死する計画を女性から知らされていないことが、26日分かった。暮らしを支えてきた訪問医療のスタッフやヘルパーらにとって、突然の死は驚きだった。
「前向きに希望を持ってもらうよう、日々の暮らしを支えてきたのに」と、訪問医療関係スタッフらは「安楽死」を要望していたとの報道を受け止めかねている。家族も周囲の支援者にとっても、寝耳に水の出来事だった。
殺害されたALS患者林優里(ゆり)さん=当時(51)=は声を発することはできなくなっていたものの、事件当時も意識はクリアで、透明文字盤を介してヘルパーに介助の指示を出したり、ケアスタッフと会話をしていた。視線入力装置でパソコンを操作しSNSに頻繁に投稿していたが、ヘルパーらに内容は教えず入力時も画面を見ないよう伝えていた、と複数の介護スタッフは話す。    

家族や親しい支援者にも、アカウント名を教えていなかった。林さんの介助に当たっていた別の福祉関係者も、逮捕後、初めて林さんがSNSで安楽死に関する投稿をしていたことを知った、という。  

 ケアチームのある訪問医療関係者は「呼吸機能を維持するためのリハビリをやめたい、胃ろうからの栄養量を減らしたいなどの要望は確かにあったが、わたしたちは日々の暮らしと命をサポートするのが仕事。前向きに生きる希望を持ってもらおうと取り組んでいた」と、言葉少なに語った。医療と地域福祉関係者が一緒に課題を話し合うカンファレンス(会議)を何度も開いたが、林さんが薬物を投与するなどの「積極的安楽死」を望んでいることへの対処が、議題になったことはなかった、と振り返った。  

 これまで終末期医療を巡って医師が殺人罪で逮捕・送検された「安楽死」事件は、病院内で起きた事件だった。京都の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者が医師に薬物を投与され死亡したとされる嘱託殺人事件は、在宅患者が対象とされた前例のない事件だ。在宅の医療福祉のネットワークは、どう患者を支えてきたのか。    

ALS患者嘱託殺人容疑で逮捕された医師の大久保愉一容疑者(42)とみられる人物が、亡くなったALS患者の林さんにSNSで「自然な最期に導きますが」と持ちかけた昨年8月。同時期に林さんは、匿名でSNSに経皮的血中酸素飽和度が96、二酸化炭素飽和度の12時間計測値で「平均44」とのデータを投稿している。    

ALSに詳しい神経内科医によると、いずれも正常値で「診察していないので正確なことは言えないが、この数値では、まだ人工呼吸器の装着を急ぐ段階ではないし、呼吸苦を取るための緩和医療を濃厚に行うべき段階でもない。二酸化炭素の滞留は少しあるかもしれないが」と話す。  

 林さんのケアチームへの取材で、呼吸状態が急速に悪化し対応に追われた、との話は出てこない。京都府警によると、事件当時に死が切迫したような状況になかった、という。  

 林さんの在宅生活は、訪問看護、訪問リハビリ、医師、障害福祉のヘルパー、訪問入浴など、地域医療と在宅福祉が連携して支えてきた。たん吸引が必要で、誰かが常時見守りをしないと死に直結する。体を自分では動かせず、体位調整も頻繁に必要だった。    

別の訪問医療関係者も、在宅独居を支えた約7年を「献身的にヘルパーも行政も支えてきた。みんなで優里さんを献身的に支えてきたんです」と話す。「ミント」と名付けた猫を林さんが飼おうとしたものの療養の都合であきらめざるを得なかった時も、あるヘルパーが家でミントを引き取り、林さん宅にミントを連れて通った。医療スタッフが楽器演奏を披露したり、花火大会に一緒に行こうと提案したり、専門職の枠も勤務時間も超えて、支援を続けてきた。    

1人暮らしの当初から関わってきた支援者の女性は「事件の数カ月前に会った時も、いつものように優里さんと大笑いをしながら雑談をした。過去に死にたいと漏らすことや、海外の安楽死に関心を持っていることを聞かされたことはあるが、ケアの質向上を求めての言葉で、生きる意欲だと感じてきた」といい、嘱託殺人事件が報道されて初めて知った林さんのSNS投稿の意味を、今も受け止めかねている。

 

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女性助けようと滝つぼに…男性死亡

2020年07月27日 11時20分10秒 | 事件・事故

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有馬温泉近くの滝つぼで、溺れそうになった女性を助けようとした男性が深みにはまり、死亡した。死亡したのは、大阪市にあるランニング専門店の店長、三浦誠司さん・48歳。

三浦さんは26日午前、女性3人と山道を走る「トレイルランニング」で現場を訪れていた。沢で水浴びをしていたところ、女性が滝つぼで溺れそうになったのを助けようとして、深さ2メートルほどの深みにはまったとみられている。

三浦さんはおよそ1時間半後に救出されたが、すでに死亡していた。女性にケガなどはなかった。当時、川は、雨の影響で水かさが増していた。

 

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"公園"女子トイレ連れ込み下半身触る…10歳未満女児ケガ 父親通報 マスクとキャップ着用若い男逃走中

2020年07月27日 11時10分18秒 | 事件・事故

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UHB 北海道文化放送

 北海道札幌市厚別区の公園のトイレで、7月26日女の子が男に下半身を触られケガをする事件がありました。  警察は強制わいせつ致傷事件として、男の行方を追っています。

 26日午後3時ごろ、札幌市厚別区厚別の公園で10歳未満の女の子が男に女子トイレの個室に連れ込まれて下着を脱がされ、下半身を触られました。  

男は事件後、公園を立ち去りました。  

女の子は下半身にケガをしていて、帰宅後事情を聴いた父親が110番通報しました。  

逃げた男は若い男で、上下ともに黒色の服装で白のマスク、キャップを被っていたということです。  

警察は強制わいせつ致傷事件として男の行方を追っています。

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日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実

2020年07月27日 11時02分13秒 | 社会・文化・政治・経済

[吉田裕]の日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 (中公新書)

吉田裕 (著)

310万人に及ぶ日本人犠牲者を出した先の大戦。実はその9割が1944年以降と推算される。本書は「兵士の目線・立ち位置」から、特に敗色濃厚になった時期以降のアジア・太平洋戦争の実態を追う。異常に高い餓死率、30万人を超えた海没死、戦場での自殺と「処置」、特攻、体力が劣悪化した補充兵、靴に鮫皮まで使用した物資欠乏……。

勇猛と語られる日本兵たちが、特異な軍事思想の下、凄惨な体験を強いられた現実を描く。アジア・太平洋賞特別賞、新書大賞受賞

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

吉田/裕
1954(昭和29)年生まれ。77年東京教育大学文学部卒。83年一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。83年一橋大学社会学部助手、助教授を経て、96年より一橋大学社会学部教授。2000年より一橋大学院社会学研究科教授。専攻・日本近現代軍事史。日本近現代政治史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、paperback_shinsho版に関連付けられています。

メディア掲載レビューほか

日本軍兵士の過酷すぎる実態 語り継がれていないアジア・太平洋戦争

アジア・太平洋戦争による日本人死者は、民間人が80万人、軍人・軍属が230万人の計310万人。日露戦争の戦没者が9万人であることを踏まえると、とてつもない数字だ。さらに驚くべきことに、その9割が戦争末期、1944年以降のわずか1年ほどのあいだに亡くなったと推算されるという。短期間に甚大な死を引き起こす要因となった、日本軍兵士たちのおかれた苛酷な肉体的・精神的状況の実態を、豊富な資料に基づき緻密に描き出した新書が売れている。

 

「被爆や空襲、沖縄戦のような体験は、いまなおよく語り継がれています。しかし戦場の話は、多くの人が従軍したにもかかわらず、あまり語り継がれていない。関連した本も最近の作品は漠然とした内容が多い。そこを具体的に、詳細に書いたことが、驚きをもって多くの読者に受け止められたのではないでしょうか」(担当編集者)

 

昨今、日本軍の勇猛さをとかく賞賛するような本も多いが、本書は異を唱える。立論に説得力があるのは、情緒に流れていないからだ。

 

「著者は兵士の目線、地を這うような目線での具体的な体験談を紡ぎ出すと同時に、鳥瞰的に戦争を捉えることも忘れません。他国と比べて異常に高い餓死率など客観的な数字を記することで、極端な例だけを取り上げた恣意的な内容ではないとわかり、兵士たちの『声』がより真に迫るものに感じられるんです」(担当編集者)

評者:前田 久

(週刊文春 2018年05月24日号掲載)
 
 
私の母型の祖父は、太平洋戦争末期、学生だったが、兵隊として戦地へ赴いた。
戦争とは外交の延長線上のモノと言えるが、最終で最悪の手段であり、かつ、終結させるのに大変難しい外交手段でもある、とは故人となった祖父の言葉である。

この本を読み、徴兵された一般人の兵士が、目的の戦地へ行く事すら非常に大変だったという事を知った。
兵站と言う軍事上、ある意味優先順位上位の軍事行動が、全く軍上層部の意識下に無かったという非常識さ。
その下で短い訓練とみすぼらしい装備で戦地へ送り込むという、上層部の無謀さと無知と根拠の無い「精神論」のお馬鹿さ。
戦争を美化しがちな方々、「if」を基に輝かしい戦果を挙げる戦記物を書く方々に是非読んで頂きたい。
この本の著者も、この本の中で「ifモノ」の危険さや昨今の日本人を持ち上げるテレビ番組に警鐘を鳴らし、同じ事を仰っている。

私事を。
母方の祖父は、大学生で機械工学を学んでいた。その為、徴兵後は、わずか3か月余りの訓練を受け、台湾を経由してビルマへ「通信士」として派遣された。
ビルマに着いたのは戦争終結2年前の話である。もはや日本軍にとっては末期である。
この著書にも書かれているが、海上輸送時の環境は劣悪で、中型漁船を改造した様なモノに100人は乗っていたという。明らかに過積載で、護衛も、駆逐艦1隻、外洋用漁船に機銃を乗っけただけの船が2隻だけだったと言う。出発時は20隻はいたらしいが、台湾、更にビルマに着いた時は5隻程度しか残っていなかったらしい。駆逐艦は逃走し、外洋船は沈没したらしい。

祖父が命拾いしたのは4つの偶然が重なったから、と言う。
①ビルマへ配属後南下し、マレー半島へ転属された事。ここで通常の兵士としてよりも「通信士」として働けた事。
※著者も書かれているが、通信士と言っても、日本軍には無線が無く、長い電話線の様なモノを繋げていた状態。
「伝令係」と言った方が良い体たらくだった。
②マレー半島時、補給が無くなり、また連絡が取れなくなった中隊との連絡確保の為、そこへ向かった事。
※通常徒歩で1日半で行けるが、敵を避け、約2日半で中隊陣地へ着いたが、既に、そこの日本軍部隊が全滅していた事。
この為、所属していた元の山岳地帯へ戻る際、その山岳地帯に攻撃が集中しているのを見て、帰還を断念し、北上した事。
この時、一緒にいた徴兵歩兵2名とビルマへ向かう。
③途中、米国に包囲され、祖父は手りゅう弾で自決しようとしたが左肩を撃たれ気絶してしまった事。
これにより捕虜となる。
④怪我が癒えた頃、脱走し、北上(この時既に終戦していた)、中国経由で日本へ戻ろうと中国領国内へ入るも各地で中国人の襲撃に遭遇し、北上を断念、台湾へ渡る。
台湾では、日本人への暴行等が無かった事。翌年の春に、地元の台湾人の尽力で、帰国が叶う。
終戦から1年半が経過していた。

その後、祖父は工業とは真逆の「菓子・パン職人」になった。戦場と通信士を思い出すからと言う。
あの戦争は米国との戦いでもあったが、それ以上に、空腹や、シラミ、疫病との戦いでもあったと言っていた。
「安くて上手いパンや菓子を作りたい」、戦場の経験から、そう思い至ったらしい。
祖父は、帰国後「焼肉」が食べられなくなった。火炎放射等で焼かれた人間の臭いを思い出すからだと。
助けて頂いた台湾人一家とも、亡くなる1年以上前まで交流があった。

「人間とは、本来、優しい生き物だと思っているよ。が、時には、平然と他人の命を奪ってしまう闇もある」
「戦争は非人道的で、人間性を失わせ、人が人為らざるモノにする場所」だと。
人は、全て分かり合えるとは思えない。ただ、その為の努力は惜しんではならない。
感情に任せ拳を振り上げる事は簡単だが、下げ時を間違えない様に。

晩年の祖父は、私を含め、男の孫が15人、女の孫が5人と言う状態だった。
盆休みや年始には、皆が集まり、我々がガチャガチャするのを、何も言わず、ニコニコして見守ってくれていた。
あの柔和な笑顔の下に、壮絶な青春時代があった事を知らされたのは、亡くなる3年前位からだった。

よく語ってくれたと、今、私は思う。
でも、当時小学校高学年だった私に、何故そんな話をしたのか?
「○○君の孫が、戦火に巻き込まれない様に、また戦火を起さない様に。これは祈りだよ。」
ぜひ、独りでも多くの方に熟読して頂きたい。
こう書くと「左派だ、何だかんだ」と言われるかもしれないが、祖父の言葉を借りれば「正義の戦争より、不正義の平和の方がマシだ」と言う事である。
戦争が「格好いいモノ、美談や勇ましさだけのモノ」では無いのだ。

家族を持った者として、祖父の残した言葉=祈りと言う意味が少しわかった気がした。
祖父はよく語ってくれたと、今、感謝している。
 
 
数多の文献を元にして、異常な日本軍幹部の考え方と、末端兵士が置かれた余りにも悲惨な現実をこれでもかと描き出した快著・名著だと思います。
戦争を企画する資格が我が国にはないですね。

序章 アジア・太平洋戦争の長期化
(行き詰まる日中戦争;長期戦への対応の不備―歯科治療の場合 ほか)
第1章 死にゆく兵士たち―絶望的抗戦期の実態1
(膨大な戦病死と餓死;戦局悪化のなかの海没死と特攻 ほか)
第2章 身体から見た戦争―絶望的抗戦期の実態2
(兵士の体格・体力の低下;遅れる軍の対応―栄養不良と排除 ほか)
第3章 無残な死、その歴史的背景
(異質な軍事思想;日本軍の根本的欠陥 ほか)
終章 深く刻まれた「戦争の傷跡」
(再発マラリア―三〇年以上続いた元兵士;半世紀にわたった水虫との闘い ほか)
 
 
なるほど!と得心することが多い。例えば、会田雄次にしても山本七平にしても、おそらく身体的に恵まれ体力があり、精神的にも頑健であったのだろう。絶望的な状況でも彼らは冷静に状況を把握し、時に要領よく立ち回り、生き延びている。この著作で注目すべきは戦地に送る日本男子が欠乏し、心身に欠陥・脆弱性をもつ兵隊が前線に送られ、そこで心身の不調から戦うこと無く消耗して行ってしまう絶望的状況の指摘である。絶望的な装備、兵站の欠如、戦争指導者の無策などから精神的に追い詰められるのは当然であろう。山本七平はこのような状況を皮肉を込めて繰り返し述べているが、それは彼が頑健な身体・精神の持ち主だからできたことだろう。私を含め今時のパワハラとか言って精神科に逃げ込む若者には戦争という極限的状況に身を置くことさえできないはずである。世間一般は「弱い人」も多いのである。そのような人材を無謀極まる戦闘状況に放り込めば、すぐに精神に変調を来すであろう。歯科衛生に関する考察もこれまで余り読んだことが無かった。時代が異なれば優れた仕事を成し遂げたであろう若い日本人をこんなにもたやすく死地に追いやった日本と日本人の精神構造を反省すると、背筋が寒くなるし、基本は変わっていないのではないか? という恐怖を覚える。
 
 
一気に読了する。
 「歴史学の立場から『戦史』を主題化(p.iii)」すること、「『兵士の目線』を重視し、『兵士の立ち位置』から……『死の現場』を再構成(pp.iii-iv)」すること、「兵士たちの置かれた苛酷な状況と『帝国陸海軍』の軍事的特性との関連を明らかにする(p.v)」ことの「三つの問題意識を重視しながら、凄惨な戦場の現実(p.i)」を描き出そうとする。
 もっとも「戦場」と言っても「戦闘」にはまったく触れられない。登場するのは、戦病死・餓死、海没死、特攻死、自殺、「処置」という名の殺害による死であり、そこに至る要因となる、兵士の体力・体格の低下、栄養不良、戦争神経症など精神的な病、被服・装備の劣悪化である。
 兵士への歯科治療体制の欠如・不足や、鮫皮の軍靴や孟宗竹による代用水筒など装備の劣化については本書で初めて知った。
 日本は、負けるべくして負けたのだなという思いを新たにする。
 著者は、大日本帝国陸海軍の軍事思想として「『短期決戦』、『速戦即決』を重視する(p.138)」「作戦、戦闘をすべてに優先させる……補給、情報、衛生、防御、海上護衛などが軽視された(p.139)」「極端な精神主義(p.140)」を挙げる。
 「なるほど」と思いつつ、これらの思想って、現代日本のいろいろな組織にまだ根強く巣くっているのではないかと感じる。
 
 
兵士の立場、目線から、太平洋戦争を見た作品は珍しいと思います。友人に貸した所、やはり強烈な印象を持ったようです。私は2回読みました。結論として、日本は、どうあがいても勝てなかった戦争に突き進んでしまったのでしょう。官僚的な保身、誘導、思考停止。また、日本人のもつ、陰湿な「いじめ」の民族性が、現代でも健在ではないかと考えさせられる良い作品です。
 
 
整理されてよく書けています。戦記物とかで部分的に知っていたこともありましたが日本軍の実態が良く分かりました。ひどいものですね。銃もないは弾薬もない軍服もない軍歌もない。飯盒もない背嚢もない。木綿の軍服は洗うたびに劣化し、兵隊の家族に見せたくなかったという日本軍。情けなく、そして恐ろしい実態です。
 
 
太平洋戦争を今までとは違った視点から捉え、詳述した著作でした。なぜ多くの人間が死ななければならなかったのか、なぜもっと早く戦争を止めれなかったのか。私は国のために無駄死にはしたくありません。本書を読み、日本という国家に対する個人の在り方を考えさせられました。
 
 
今までにあまり語られなかった戦場の現実と、何よりも終戦前の1年半で全体の死者310万人の9割が亡くなっている、というよりは、実質は為政者により国民が殺されている、という事実に愕然としました。その他の人肉食などの記述も自分が考えていた以上でショックはありましたが、何よりも政府当局者がなすすべを失って、終戦を先送りにして結果的に300万人近い人を余計に殺していたという事実は今後に強く語られるべきだと考えます。特に先の戦争を知らない、現在の政治家の皆さんによく読んでほしい本だと思いました。

オリビア・デ・ハビランドさん死去 「風と共に去りぬ」メラニー役

2020年07月27日 10時02分32秒 | 社会・文化・政治・経済

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【ロサンゼルス時事】米メディアによると、大ヒットした映画「風と共に去りぬ」(1939年)のメラニー役で知られる女優オリビア・デ・ハビランドさんが26日、パリの自宅で死去した。
自然死という。
 
「ハリウッド黄金期」を支えた大物俳優で存命していた最後の一人とされる。  
16年、英国人の両親の下に東京で生まれ、2歳でカリフォルニア州に移り住んだ。10代から舞台で活動し、「真夏の夜の夢」(35年)で映画デビュー。
ロビンフッドの冒険」(38年)など多くの作品でオーストラリア出身の俳優、故エロール・フリン氏と共演した。
 南北戦争時代の白人上流社会を舞台にした「風と共に去りぬ」では、故ビビアン・リーさん演じる気性の激しい主人公スカーレット・オハラに寄り添うメラニーを好演し、アカデミー助演女優賞にノミネートされた。初期は清純な役柄が多かったが、演技派へと脱皮。「遥かなる我が子」(46年)と「女相続人」(49年)でアカデミー主演女優賞に輝いた。
 2008年に米国芸術勲章を受章。映画会社に対する俳優の権利拡大を後押ししたことでも知られる。
13年に死去した実妹ジョーン・フォンテインさんもアカデミー主演女優賞を獲得した女優。 
 

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葛飾北斎の肉筆の肖像画見つかる 描かれた男性は誰?

2020年07月27日 08時39分37秒 | 事件・事故

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葛飾北斎が描いたとみられる肖像画の顔の部分=東京都港区、諫山卓弥撮影

 江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎(1760~1849)が描いたとみられる肉筆の肖像画が、見つかった。描かれているのは両替商の男性とみられるが、人物は特定されていない。所蔵する長野県小布施町の北斎館で、この男性が誰なのか、探っている。

【写真】葛飾北斎が描いたとみられる肖像画に記された狂歌らしき文章=東京都港区、諫山卓弥撮影  

肖像画は、昨年末に群馬県の所有者から同館に寄贈された。同館館長の美術史家・安村敏信さんは、輪郭線の強さや手足の描き方、陰影の付け方といった画風に加え、落款や印から北斎の作品と判断した。画中に「享和三亥(い)年」(1803年)の文字があり、北斎40代前半の作とみられている。汚れやしわが目立っていたが、修復した。  

奈良市の美術館・大和文華館館長で浮世絵に詳しい浅野秀剛さんによれば、北斎の肉筆の肖像画は数点しか伝わっていない。写真でこの作品を見た浅野さんは「他の北斎の肖像画に比べ、素直に描かれている。比較的早い時期に描かれ、まだ個性が際だっていないのだろうが、そこも含め興味深い」と話す。

朝日新聞社

 

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毒カレー食べた娘、今も当時語らず 和歌山の事件22年

2020年07月27日 08時34分58秒 | 事件・事故

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事件現場で花を手向け、手を合わせる杉谷安生さん=2020年7月25日、和歌山市園部、西岡矩毅撮影

 和歌山市で4人が死亡し、63人が急性ヒ素中毒になったカレー毒物混入事件から25日で22年を迎え、地元の住民が事件現場で手を合わせた。

【写真】事件現場に花を手向け、手を合わせる杉谷安生さん=2020年7月25日、和歌山市園部、西岡矩毅撮影  午前8時ごろ、空き地となった事件現場にカレー事件被害者の会副会長の杉谷安生さん(73)が「亡くなった方や遺族に私は何もすることができない。せめてお花だけでも」と花を手向けた。  

1998年7月25日、同市園部の夏祭りでヒ素が混入されたカレーを食べ、高校1年生の女子生徒ら4人が亡くなった。当時、高校2年生だった杉谷さんの長女もカレーを食べ、激しい嘔吐(おうと)などに襲われ、数日間入院した。杉谷さんは「同年代の人も亡くなった。なんとか助かってくれと願った」と当時を振り返る。  

事件から数カ月はカレーを食べさせなかったというが、「大好きだったカレーをこの先ずっと食べられないなんて」と徐々に食卓に出すようにしたという。現在、長女は結婚し、小学生の子どもが2人いる。  

杉谷さんは「毎日のように孫の顔を見に行く。それが楽しみ」と話す。一方で「亡くなっていたのが自分の娘だったかもしれない。そうしたら、いまの日常は無い」と事件の悲惨さを感じる。毎年この時期になると事件のことが話題になるが、長女は、当時の話をしたがらないという。  

2009年に殺人の罪などで林真須美死刑囚(59)の死刑判決が確定。弁護側は、再審を求め、最高裁に特別抗告を申し立てている。  

事件後に自治会が開いていた慰霊祭は、遺族の気持ちを考慮して09年を最後に開かれていない。杉谷さんは「もう終わったことにしたい遺族や被害者もいる。それでも風化はさせたくない」と慰霊を続けている。(西岡矩毅)

朝日新聞社

 

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