鴎外への鎮魂歌6 北里柴三郎との確執

2025年01月12日 11時59分57秒 | その気になる言葉

 森鴎外と北里柴三郎。一人は文学者として、一人は医学者として異なる分野で超一流の業績を挙げた。

その二人が同じ写真に写っており、さまざまな交流があったことは、驚くべきことである。そして、石黒を含めた下の3人はもめにもめていく。

北里は、鴎外に2年遅れて明治16年に東大医学部を卒業し、内務省衛生局に入る。しかし、年齢は鴎外より上だ。鴎外に1年2か月遅れてドイツに留学し、コッホの元で細菌学の研究を始めた。北里は極めて熱心に研究を進め、コッホの信頼も厚かったようだ。研究に向いていて、面白かったのだろう。

 人生には大事な局面がある。そこでどうふるまうかが将来を決める。明治20年に赤十字の会議に出るために石黒忠悳がベルリンに来て、北里を呼び出した。官命であるといって、コッホの元を離れ、別の衛生学の権威のところで学べと言う。

 北里の口利きで、鴎外は明治20年コッホの元で研究を始めている。いろいろの制約もありおそらく鴎外は北里ほど熱心になれなかったようだ。

 石黒の命に対して、北里は反論した

もっとコッホの元で学びたいということだ。石黒は激怒する

この時、鴎外も同席し、隣室に北里を招き、官命に反抗してはためにならないぞと言う

北里の留学には石黒の強い推薦があった。つまり恩師に対する反抗ということになる。

北里の後の世界的な業績を石黒はどう思ったのだろうか? そういうことがわからなかったのだ。天才があやうく葬り去られるところだった

 このあと、石黒はコッホにコレラへの対応を聞くために会ったが、その時、コッホは北里に対する信頼と期待を語ったらしい。そこで、石黒は北里の人事をすすめることができず、幸いなことに官命が撤回されることになった。天才は天才のことがわかるのかもしれない。凡人にはわかりはしない

 このことが無ければ、北里の輝かしい将来はなかっただろう。さて一方鴎外は、プロシア兵の隊付事務研修をせよとの命令を受け、いやいやながらコッホの元を離れることになった。勝手に師を探していた鴎外に対する軍の懲罰の意味もあったらしい。鴎外はこういうお叱りを受けることが多い

  また、明治18年に東大教授の緒方正規が脚気細菌説を提示したが、これに北里は反論している。

ところが、緒方は北里と熊本医学校で同期であり、細菌学を学んだ師でもあった。

東大学派から子弟の道を知らないと非難される。明治22年には鴎外も「北里は識を重んぜんとする余り果ては情を忘れしのみ」と書き、これに対して北里は東京医事新誌に「生(北里)は、情を忘れたる者にあらず。私情を制したるものなり」と反論している。

 鴎外は科学という分野に於いてもどうしても情に左右され、真理に徹することができなかったのかもしれない。科学的真理や道理よりある種の情や人間関係優先の選択をするようにみえる。

 北里は、破傷風菌が嫌気性菌であることをつきとめ、純粋培養に成功し、明治22年に発表した。さらに、抗毒素、今でいえば抗体を発見し、明治22年にベーリングと共著論文を出す。明治25年に北里は帰国。ベーリングは明治34年第1回ノーベル医学生理学賞を受賞する。一方、北里は15人の候補に上がったが、受賞することはなかった。第1回ののノーベル医学生理学賞を東洋人が受賞することは、いろいろな意味でありえない。そういうことだろう。

 帰国した北里は、東大派との確執から職を得ることができなかったが、福沢諭吉が芝公園に土地を提供し、明治25年に伝染病研究所ができた。そして所長に就任した。しかし、東大派とはその後もねじれた問題を抱えた。下の写真を見ると、鴎外と諭吉にも関係があったことが分かる。複雑だ。


中央が諭吉、右が鴎明治27年、香港でペストが大流行した際に、北里は日本調査隊の一員として現地に赴いて、早々とペスト菌を発見し、英国雑誌に発表した。
一方、同時に派遣された東大教授の青山胤通(鴎外の親友)は、ペストに罹患し、無念の帰国であった。鴎外は北里の発見したペスト菌がニセモノであると「鴎外全集~北里と中浜と~」(第三十三巻)の中で批判しているという。
なんてこったいくら青山が親友だとしても、そういうものじゃないだろう。

 明治41年、コッホ夫妻が来日した。北里は15年ぶりに再会し、歓待した。また、その時、鴎外も観劇に案内するなどした。こんなに険悪なのにここでも鴎外と北里はつながりがあるから面白い。コッホ夫人は、鴎外の秀逸なドイツ語の説明文書に感嘆したらしい。

 問題は、大正3年1914年、内務省の所管だった伝染病研究所を文部省に移管することに国が決めたことだ。そうすると、東大が管理するということになる。東大医学部長は、例の青山である。この時、青山は北里後の伝研の人材確保を鴎外に相談鴎外のもう一人の親友賀古鶴所も絡んでいる。怒った北里は辞任白金に私立北里研究所を作った。研究者全員がここに移ったという。北里は、やがて諭吉の願いで慶応に医学部ができたときに初代科長となっている。その後、貴族院議員にもなり、日本医師会の初代会長にもなっている。従二位、勲一等、男爵である。

 鴎外は、その都度、北里を批判してきたが、鴎外が欲しかったもの、世界的な研究成果、爵位、貴族院議員、日本医師会長を手に入れた。北里に負けたという気持ちはどうしてもぬぐいきれなかったのではないか。

2022年12月19日

文献 

山崎光夫:明治21年6月3日 鴎外「ベルリン写真の謎を解く」

写真の中の鴎外 鴎外記念館

 


  日本では、約30万人の方々が精神科病院に入院されています。また、統合失調症は、どの時代、どの国でも、人口の約1%の人が発病し、ハンディキャップを背負います。誰がかかってもおかしくない病気をこれらの患者さんが背負ってくれています。

 ですから、治療する側に立つ者は、その役割をしっかりと果たさなければならないと考えます。一方、精神疾患は、理解することが難しく、一般の人はもちろんのこと、医療従事者でさえ認識はなお不十分であり、一生涯掛けて認識を深めていくという姿勢で立ち向かわなければならない病気だと考えています。また、精神疾患は労働能力を低下させることがあり、ご本人やご家族に経済的な問題を引き起こします。そのため、当院では差額ベッドは1床もありません。(部屋割りは病院サイドで病状に基づき決めさせていただいています)

 このような考えをもとに、当院では、患者様への尊重や共感の姿勢が重要と考え、スタッフ間で繰り返し共有しております。

  当院は、うつ病、統合失調症、アルコール依存症、認知症などの患者様の入院・外来治療を行っております。入院治療では、医師を中心とする多職種チームが協力しつつ、病状に応じた治療を行います。外来治療では、医師の診察のほか、訪問看護デイケアや職場復帰のためのリワークがあります。

 どうぞ、当院の外来、入院、デイケア、リワークをご利用ください。より良い精神科医療を目指しております。                                                     

   理事長・院長  菊 池 章

〇 略歴
1984年 筑波大学医学専門学群卒業
1988年 同大学大学院医学研究科修了(医学博士)
1999年 浦和神経サナトリウム 院長
2009年 浦和神経サナトリウム 理事長兼院長

〇 資格
精神保健指定医 精神科専門医・指導医 産業医 感染制御医(ICD)

〇 所属学会
日本精神神経学会 日本生物学的精神医学会 日本精神病理学会
日本社会精神医学会 日本感染症学会

〇 役職
さいたま市精神医療審査会委員 さいたま市障害支援区分委員会委員 さいたま市自殺対策医療連携事業連絡調整会議委員 
さいたま市精神保健福祉審議会委員 浦和医師会救急対策部委員 浦和医師会精神科医会会長
埼玉いのちの電話評議員 埼玉県立浦和特別支援学校校医 
埼玉県公安委員会指定医師

〇賞
埼玉県医師会医学奨励賞(平成29年11月16日)    

基本理念

一. 誠意と共感をもって心身の健康回復を粘り強く援助します。

二. 個を尊重し、透明性と信頼性のある医療を目指します。

三. 新しい知見に基づいて、きめ細かい良質な医療を行います。

四. やすらぎのある医療環境づくりを進めます。

五. 自然治癒力を高め、社会復帰の道のりを共に歩みます。


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